※ご注意
お隣さん→同居設定のアル菊パラレル連作です。
仏英仏要素有り。
夕暮れの風を受けて風船がチリンと鳴った。
「幸せって、なんだろうな……」
庭の方に目をやったまま、アーサーが呟く。
おなかがすいているとき、人は得てして世迷い言を呟くものだ。
「美味しいもの食べて、お風呂入って汗を流して、ぐっすり眠ることじゃないかな」
夕食一時間前からのおやつは厳禁されているので、かわりにコップのジャスミンティーをこくりと飲む。ああ、おなかすいた。いつもだったら自分のためにも手伝いに行くんだけど、今はここにいるしかない。
「いいですか、アーサーさんは紳士なんです」
「紳士はこんな頻々と友人宅に入り浸ってご飯たかったりしないと思うけどね」
「家族と遠く離れた異国で心寂しくていらっしゃるんですよ」
そんなタマじゃない。「一匹狼」だった頃のアーサーの前に立ったら「心寂しい」という言葉が裸足で逃げ出す。
「コンビニ弁当やファーストフードは流浪感をかき立てられて、味気なくお感じなのですよ」
だから、そんなタマじゃないって。味気ないっていったって、そもそも味を分かる舌じゃないんだから全く平気だろう。それに、時間の余裕があればアーサーは自分で料理をするのだ。亀が腹筋しようとするようなものだとは思うけど。
「ですから、自慢の従兄弟に会いにいらっしゃる。そこで友人が食事の支度をしている。となると、紳士たるアーサーさんは手伝わなければとお思いになるじゃないですか」
「…そうなんだよね」
昆虫・コードネームGが人々に愛されようと努力するようなものだ、と、この比喩を言ったらその名を出すなと怒られるに決まってるから俺はそれを飲み込んだ。
おとなしく、何もしないことが一番だというシチュエーションは、ある。
よって、アーサーが遊びに来た日、俺の仕事は、ここに静かに座っていることでアーサーを台所に行かせないこと、になる。
「……ああ……」
俺の単純明快な幸福の定義に感心したような顔をしてアーサーは顔を戻した。が、続く言葉を聞けば感動のポイントはまるで違っていたらしい。
「お前みたいなのも『タタミゼ』って言うんだろうか」
「は?」
「そこで『お風呂入って汗流して』が入るのが、日本っぽいなと思ってな」
タタミゼとは、簡単に言うと「日本人の生活文化を血肉化すること」だという。血肉化もなにも、俺はほぼ日本育ちなんだけど。
「汗を流したらさっぱりする、は世界共通じゃないのかい?」
「それで幸福を感じるほどじゃないだろ。西海岸だと夏でも日陰に入れば汗は引くしな。あと、俺は四十度の湯に何分もつかって気持ちいいと思うほどは日本化されてないな」
「ああ、フランシスも言ってたな、それ」
彼が日本に来たのは高校を卒業した後だから、「生活文化」は向こうのものが身についていたんだろう。そう思って何気なく相づちをうったのに、アーサーはぎょっとしたような声を上げた。
「ななななんであいつが出てくるんだ、『幸福』の話に」
「いや、風呂の話に出てきたんだよ」
「紛らわしいこと言うな、ばかぁ!」
そして、コップのお茶をぐいと飲んで庭に顔を向ける。理不尽だ。
フランシスとアーサーが因縁浅からぬ仲だと分かったのは今年の春。偶然この家で行き会わせて、絶叫大会になった。それ以来旧交を温めているらしく、数日おきというペースで入り浸っていたこの家への訪問も、月に数回に変わった。ありがたいことだ。
「…ていうか、お前こそどうなんだ」
「あのさ、さっきから話の接続がまるっきり見えないんだけど」
「お前、それで満足なのか?」
聞いちゃいない。変なところでアーサーは王様ライク・傍若無人だ。
「それで、って?」
「食って寝て、それでお前は幸せなのかって」
「………そうなんじゃない?」
仕方なくそう答えたところで、第一の幸福の呼び声がかかった。
「ご飯、できましたよー」
可能ならエアコンはつけたくない、という家主の意向に従って、扇風機だけをまわしてパスタを食べる。そろそろ素麺が恋しい季節だけど、「タタミゼ」度が低いアーサーは啜るタイプの麺がまだ苦手だ。
西向きの窓にはよしずがおろされ、今年はさらに朝顔の棚を作ったから、日差しは随分遮られているが、それでもエネルギーを摂取すれば少しは体温が上昇する。用意してくれていた冷たいおしぼりで時々汗を拭う。
何の話をしてらしたんですか、と聞かれたので、幸福の定義について、と答えたら、菊は小首を傾げた。
「なんだってまたそんな哲学的な話題を?」
「暑いからじゃない?」
脳が溶けたんだよ、という意味を込めて言ったのに、アーサーは反論もせず少し顔を赤らめた。意味が分からない。
「……うろ覚えなんですが……」
菊が朝顔のある方を見ながらぽつんと呟いた。
「幸福は徳に反しない、という言葉を読んだ覚えがあります」
「え」
「確か、昔の人の言葉なので、その時の『徳』というのは時代に制約される言葉ではないかと思いましたが―――『むしろ幸福そのものが徳である』、と」
アーサーは目を宙に浮かせた。
「………三木清か」
「ああ、そうだったかも」
「『我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか』」
「流石ですね」
いや、確かに「流石」なんだけれども。知ってることがあるんだったら変な呟きなんかせずに自己解決すればいいじゃないか。そうぶすくされて、直後、反省する。これは間違いなく、中学時代からのコンプレックスだ。
知識と実行力は比例関係じゃない。経済学者が金持ちとは限らない。幸福について知っているからといって幸福になれるとは限らない。アーサーも菊も、いろんなことを知っている。年の差のリーチ分を縮めさせてくれないいけずな先輩達は、だからといって知っていることをできているわけではない。
そうは言っても、知識は力に転化しうる。思い出した言葉に何かをもらったらしいアーサーは、「そうだな」と言って食事に戻った。
年上で、社会人で、エリートで。そんなアーサーの「幸福」を心配してやる気はない。話の接続も読もうと思えば読めるけど、敢えてそんなことはしない。自己解決力のある大人どうし、好きにすればいいのだ。俺は俺で手一杯なんだから。
アーサーの訪問の、これだけは嬉しい副産物は、彼を駅まで送るという名目で菊と夜の散歩ができることだ。夜のコンビニは誘蛾灯のように魅力的に光る。
「アイス買おうよ」
「だめですよ、ご飯食べた後なのに」
「ベツバラだよ。ね、おごるから!」
日本の大学は授業料が馬鹿高い代わりに、他国のそれに比べれば学業に余裕がある。大学にも慣れてきたので、今年の春から塾講師のアルバイトを始めた。もうちょっと稼げるようになったら、菊へ渡す生活費分はともかく、小遣い分は仕送りを断れるかもしれない。
早く大人になりたい。
「おごりですか…。なら、たっかいのにしますかね!」
「いいよ、何でも好きなもの言って」
そんなことを言ったくせに結局100円のバーアイスなんかを指定した菊と、並んで帰りながら行儀悪くアイスを食べた。
街灯が二人の影を長く作る。
「アルフレッドさんこそ、何がいいですか?」
「なんのことだい?」
「もうすぐ誕生日でしょう。何がほしいですか?」
君が。
ベタな台詞がほんとに飛び出そうになって、慌ててアイスでふたをする。
菊の作ってくれる美味しいご飯を食べて、温帯湿潤気候では無上の快楽であるお風呂に入って、菊を抱いて、そして抱きしめて眠れたら。幸福とはこれですと指し示すことができるに違いない。
「……『自立』、とか」
誤魔化さなければという気持ちと、長く身のうちにとぐろを巻く焦りが不用意な言葉を言わせた。
菊は口を小さくあけたまま立ち止まった。ややあって口を閉じ、しばらくしてまた開けた菊は、小さな声で尋ねた。
「……うちを、出たいですか?」
「違うよ!………そういうことじゃない」
まるっきり違う。「俺が守ってあげるよ」、そんな言葉で始まったこの同居は、客観的に見れば、本田宅の「居候」であり、ジョーンズ家の「扶養家族」だ。焦ってもどうしようもない、今は自分を高める雌伏の時だから。そう思っているのに、それが時々たまらない。
早く、大人になりたいだけなんだ。
「ごめん、オセワになっているのに変なこと言った。今のはほんと忘れて」
菊は踵を返してアイスをしゃり、と噛んだ。
「変なこと、を、私も言ってもいいですか」
額の汗を二の腕で拭っていた菊が、こちらを見ないままぽつりと言う。
「……なに?」
「税金の関係で断念したんですけど。誕生日プレゼントに、私の家をあげようかなあ、なんて思っていたんです」
「はあ?」
「生前贈与で、あの家はもう私の名義なんです。ところが、最近お仕事が立て込んできて、どうにも手伝いをお願いしないと回らなくなってきて……それでアシスタントさんに来てもらえるようなマンションを探しているんです」
「え?…え?」
初めて聞く話ばかりで目は開きっぱなしだ。
「………菊が、家を出るってこと?」
「違いますよ。仕事場を別に設けるということです。人に毎日来てもらうと、貴方の生活空間が騒がしくなってしまうじゃないですか」
「ちょっと待って」
それって、まさに俺が出て行けばいいって話じゃないだろうか。
俺がいるせいで、菊に不要な負担をかけている?
「違います」
まるで考えを読み取ったかのように、菊は断言した。
「そうじゃ、ないんです。……私と貴方の家を、穏やかに保ちたいだけなんです。でもこんなことを言うと貴方は家を出ると言いそうだったから……だったらいっそ名義を譲ってしまおうかと」
話の接続が見えない。こちらは、本当に分からない。
菊は立ち止まり、俺の目を見上げて言った。
「仕事場から帰ってきて、多分疲労困憊状態でしょうけど、その時に『貴方がいる家』に帰れるなら、それが私の幸せだと、思ったんです」
「……菊……」
菊はそっと俺の頬に手を伸ばした。
「貴方は、初めて会った時からずっと――――私を一番近くで守ってくれる、天使です」
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