※ご注意
 	     お隣さん→同居設定のアル菊パラレル連作です。
 	     アーサー襲来。
 	       
 	       
 	      今時、だ。
 	      今時、両手に余るほどのバラの花束を人に贈る男なんてフランシスしかいないと思っていた――それも嫌みを込めた冗談で、確かにそんなことを軽くやってのけそうだけど、母親の結婚に伴って高校生の頃来日したというフランシスは日本でそういうことをすればどれほど人の目を集めるかよく知っている。で、知っててそれを快感に感じるのがフランスの血だ。アメリカ人の俺は、視線を気にはしないが、そんなことをする気にもならない。
 	      「そして君は、気にするくせにやっちゃうんだね…」
            「うるさい、ばか!」
 	      チャイムに「はーい」と出てみれば、顔を真っ赤にさせたアーサーがいた。相当に注目を浴びながら駅から歩いてきたらしい。思わず額をドア枠についた手にのせ、ため息をつく。
 	      「悪かったね、出迎えたのが俺で」
            明らかに、手に提げられた花束は俺のために購入されたものではない。
 	      「べ、別に、そんなことは思ってないぞ!…写真で見てはいたけど、ほんとに大きくなったな、アルフレッド」
            こちらを見上げて、にこり、と笑って。
            「…多少むかつくくらいにな」
            アーサーは軽く腹にパンチをくれた。がら空きだったそこにそれは鋭く入り、冗談と流していいのか迷うほどの衝撃をくれた。
            「ぐ…」
 	      呻いていたら、菊がぱたぱたとスリッパをならしてやってきた。
 	      「アル、お客様なんですよね?―――アーサーさん!」
            「久しぶりだ、菊」
            「本当に…お元気そうで。ああ、もうすぐ来日されるとは聞いていたのですが、今日とは思わず、こんな格好で」
            ジャージじゃないだけいいじゃないか。アルフレッドは「近所のスーパーまでレベル」(といっていた)の服を手であちこち押さえる菊に、心の中で毒づく。
            「突然すまない。予定より早くあれこれが片付いて、一日あいたので思わずここにきてしまった。――これを」
            真っ白なバラだけの花束を差し出したその背中に蹴りをくれてやりたくて仕方がない。
            今時いない、そんな気障なやつは。
            菊だって花束をもらって喜ぶ女の子じゃない。
 	      「ありがとうございます…」
            ――うれしそうに頬を染めているのは、菊の思いやりだ。そうに違いない。
 	       
 	      勤める会社の日本支社に短期赴任するのだと連絡が来たのは一ヶ月ほど前、会社が用意するマンションに住むということで、電車で15分ほどしか離れていない本田家にも挨拶に来るとは言っていた。
 	        アーサーからのメールがくるたびに菊は嬉しそうに手を合わせ、お迎えの準備と称してあちこちを念入りに掃除した。いくら片付いていたって電子錠のついている部屋があればぎょっとするだろうと言うと、二階にお通しすることはないでしょうと流された。この機会にあの部屋にまた入れないかな、という希望は潰えた。
 	        まあ、確かに。住む訳じゃないし二階にはいかないだろう。俺は、住んでいる。そんなことを、一人で確認する。
 	      住まわせて貰っているだけだということは重々わかっている。
 	       
 	      大きめの花瓶にざばっとバラを移してリビングに向かうと、ちょうどお茶セットを用意し終えた菊が「またそんな雑な…」とかけよって、向きをあれこれ触り始めた。確かに数が少ないなら見栄えのする角度を考える意味もあるだろうが、これだけ多ければ向きなど関係ない。一本いくらなのか知らないが、張り込んだものだ。
 	      「菊は、今新進気鋭の若手漫画家として認められているんだってな」
 	        「い、いえいえ…趣味が高じただけで」
 	        菊は本当に恥ずかしそうに手を振った。
 	        そうだよねえ、鍵かけてまで隠すシュミなんだもんね。隠されている恨みでちょっと意地悪な考えをしてしまう。
 	        「海外出版の話もあるらしいじゃないか」
 	      え。
 	      「まだお話の段階です。売れているからではなくて、内容が、ということでしょうね」
 	      知らない。…それは、もちろん、菊が仕事の話を俺にしなければいけない理由はないけど。
            アーサーはメディアの世界にいるから耳が早いのだろうが、ちょっとショックだ。
 	      「ああ、近代文学を翻案したものを描いているんだってな」
            「はい。それは全くの頼まれ仕事だったのですが…」
            「いや、その出版社は目が高い。菊の文学的見識を見抜くなんてな」
            「かなりの部分、アーサーさんに教えていただいたことです。欧米の方の視点は新鮮でした」
 	      そうしてコーヨーがどうのロハンがどうのと語り出した。アーサーの主専攻はマーケティング、副専攻が日本文学だった。全くもって高尚なお話を隣の我が家でくりひろげいていたものだ。
 	      「――あれ?」
 	      「どうしました」
            「なんだアル」
 	      「もしかして、留学の頃二人で話していた時、日本語だった?」
 	      菊は頭をかいた。
            「できるだけ英語を話すよう心がけていたのですが、話が込み入ってくると、専門用語は日本語になってしまうこともよくありました。そのあたりになるとアーサーさんのボキャブラリーに頼りがちで」
 	      わからないわけだ。英語だと思って聞いていた単語が日本語だったなら。
 	      「…だったら最初から日本語文法で話せばよかったじゃないか」
            文法構造や基本語彙が英語だったのだから紛らわしい。
            「あー、まあ、そうなんですけど」
            菊は曖昧に笑い、アーサーは紅茶のカップを傾けた。
 	       
 	      今日は腕をふるいます!と菊は台所にこもった。二人して申し出た助力はやんわりと、しかし強固に退けられ、仕方なく二人リビングで二杯目の紅茶を飲む。
 	        紅茶ねえ。別に嫌いじゃないけど。
 	        顔に出たのか、アーサーが、ふ、と笑った。
 	        「コーラがよかったか」
 	        「いや、コーヒーが」
 	        「へえ、苦いって言ってたじゃないか」
 	        また、と軽くむっとした。
 	        「どれだけ昔のことを言い出すんだよ」
 	        「たった5年前だ。菊は全然変わらないのに、お前はずいぶん大人になったな」
 	        「子供みたいに言わないでくれるかい」
 	        「…そうだな、悪かった」
 	        …くっ、そ。その余裕の微笑み。子供の文句を受け流す時の大人の笑みだ。
 	      「菊は、変わらないなあ…」
 	        台所の方を見やりながら、しまりのない笑顔でアーサーが小さくつぶやく。
 	        「そうかな」
 	        顔は会ったときのままだけど。
 	        初めてあった頃、菊の外郭は彼の皮膚になかった。あの部屋が溶けていきそうな菊のパーツをこの世にとどめる器だった。そこに俺が飛び込んだので、免疫機能が働いて菊は自分の輪郭を自分に取り戻し始めた、のかもしれない。
 	        真実はどうあれ、アーサーが日本にいた頃、菊が一人で出かける先は隣の俺の家だけだった。それより遠くへ出かけるときはいつも俺が一緒、そもそもどこに行きたいということもなかったらしい菊をただむちゃくちゃに連れ回した。子供だったからできた。嫌われることが怖くなかったから、――嫌われることなんて想像もしないくらい子供だったからできた。
 	        「いつもさりげなく気遣ってくれる。――さっきの話、俺が日本語話すのヤだったんだよな。へたくそで」
 	        「そうだった?」
 	        「留学生用日本語の授業ってさ、敬体優先なんだよな。そっちが使えないとマズい場面が多いからってことなんだと思うけど、お前が菊と話す言葉と全然違うわけ。そういう意味でもなーんか恥ずかしくてさ。多分それを悟って英語にしてくれたんだ。あ、でも」
 	        アーサーは小さく笑った。
 	        「菊の英語、so cuteだったよな。一生懸命で、ちょっと舌っ足らずで」
            「…そう?」
            小難しいことを話していたからか、そういう印象はなかった。
            「それにしても、自分のそういうのが恥ずかしくて人のをそんな風に言うのはどうかな」
            「いや、お互い様だって。ていうか、言われた」
            「は?」
            「いや……要するに、お前に、恥ずかしかった訳だから、お前が飽きて寝ちゃった後とか、いないときとかは、日本語練習会してくれたんだ。どんな間違いしても噛んでもにこにこしてて、『so cuteです』って言い返された」
            「…へえ…」
            アーサーはうっすら頬を染めて回想している。言い返された、ってことは言ったわけだ。菊に。cuteって。
            アーサーのことは…そりゃあ嫌いじゃなかったけど、でも何より自分より菊に近いところにいるように見えるのが悔しくて、一生懸命「ふたりきり」にさせないよう画策していたつもりだったんだけど。思った以上に作り上げられていた二人の時間に胸がもやもやする。
          「お前まだ軽かっただろ?その辺でこてんと寝てるから菊がソファに移してやって、俺が掛けるもの持ってきて。向かいのソファに二人で並んで……『天使のように可愛い』という比喩を習った」
 	      ご。ついていた頬杖から顎が外れた。いつの間にcuteの矛先が変わった?しかも、
 	        「…それ結構びみょ…」
 	        超子供扱い。
            「そうか?」
            アーサーは微笑んだ。
 	      「さすがに、今のお前にそうは言わないけどさ、でも……目が変わらずきれいで、安心した」
            そして、腕を伸ばして、子供にするみたいに髪をくしゃっとした。
            「やめてくれよ」
            「悪い。大人なんだもんな。でも、俺にとっては、いつまでも、…ちょっと見栄を張りたいくらいには、自慢の弟だから」
 	      は……ずかしいこと言うなあ!
 	      口に出すこともできず、ただぱくぱくと口を動かした。
            そこに「アル!運ぶの手伝ってください!」と声がかかったので、これ幸いにと台所に駆け込んだら、「真っ赤ですよ?」と首をかしげられた。
 	       
 	      湯豆腐の繊細な味がわかる奴らじゃないと見切られたわけではないと思うが――この前フランシスが来た時には上等の牛肉でしゃぶしゃぶなんてやったものだからちょっと疑ってしまう――、とにかく寄せ鍋はごまだれやら味噌だれやら強めの味付けが用意されていて、具材も豊かだった。肉や魚介類もたくさん用意してくれているけど、時々野菜を強制的に取り皿に入れられる。「取り皿に入った分は食べないといけないんですよ」とすました顔をする菊の皿に肉を入れて仕返しすると「おなかいっぱいです…」と眉をハの字にする。アーサーはメタボがどうのと菊の味方していたくせに、今は俺と一緒になって「食べなきゃいけないんだよな?」とによによしている。
 	      「用意も片付けも楽ですから」と言うけれども、菊が鍋料理が好きなのは、この取り分ける雰囲気にあるような気がする。
 	       
 	      後片付けを引き受けたら、カウンターキッチンの向こうで成年二人はワインなど飲み始めた。しゃぶしゃぶの際の手土産が残っていたらしい。日本ルールで大学進学以来飲酒は黙認されているが、そう好きでもないので滅多に飲まない。そんなもので箍を外したくない、何をするかわからないという怖さもある。菊は風呂上がりでもだらしない格好をしない方だが、それでも、一緒に暮らしていれば、こみ上げるものを感じる瞬間は多々あるのだ。
 	       
 	      アーサーは、菊のことが本気で好きなんだろうか。
 	        何せバラの花束抱えてくるくらいだし。とスポンジをばふばふさせて泡を立てていると、「――菊」というアーサーの声が耳に入った。
 	        「はい?」
 	        「あの、さ」
 	        そのしっとりした空気に思わず洗う手を止めてしまう。
 	      「――友達は、できたか?」
 	      予想外ながらに衝撃的なその言葉に、思わず振り返るところだった。何せ荒れていた時代のアーサーといえば一匹狼もいいところ、誰も信じようとはしなかった、らしい。友達?要らねぇ。そんな風に言い切ったのよ、と持てあまし気味だった伯母さんがうちの母親に愚痴っていたという。
            うちに来た時にはもうすかした大学生になっていたからそんな空気を感じなかったが、やっぱり友達はいなかったんじゃないだろうか。本国の友達が遊びに来るだの、大学の友達と遊びに行くだのの会話を聞いたことがない。
            そのアーサーが、何を言い出す。
 	      しかも。
            菊に。
 	      しかし、菊は笑顔が想像できるような声で答えた。
            「――はい。」
            そうだった。オタク友達が――シュミを共有できる、オトナの親友がいるんだった。
            「そうか。よかったな」
            「はい」
            そっと振り返ったら、二人はバラの花瓶を間において、幸せそうに笑っていた。
 	       
 	      これ以上飲むとやばいから、とアーサーは早い時間に帰っていった。
 	        駅まで送ったその帰り、菊はとつとつと語った。言葉と共に白い息が菊の口から出てくる。
 	        「詳しくは知らないのですが、とても心寂しくていらっしゃった時に、ふとした偶然からお知り合いができたのだそうで。口げんかもずいぶんなさったそうなのですがさりげなく助けられることもあって、その方の出会いと別れが人生を変えたのだそうです」
 	        「へえ…」
 	        詳しくは語られなかった、その部分に随分剣呑なシチュエーションが隠されていそうなんだけど。
 	      「そういうこともある、とだけ仰って」
            お前も、とは仰らずに、だけど背中を押してくださった。
 	      菊は星を見上げながらはにかんだ。
 	      「プチオフ会なのです」。緊張で鳥肌をたてながらジョーンズ家の玄関に立ったのはその一年後。
 	      「もしだめでも、俺がいるから、と」
            だけどその頃私はまだそういうお話がつらくて。
            ――そのお友達とは、今は別れ別れなのでしょう。貴方もいつかここを去るじゃないですか。
            腹立ちをぶつければ、アーサーさんは――ごめんなさい、お宅の庭に咲いていた白バラを一本切って、くださったのです。約束だ、と。
 	      「『たとえ離れていても、お前がどんなに変わっても、世界中がお前の敵でも、俺は永遠に友達であり続ける』」
          「…」
 	      「大仰だと思いました。それを顔に出したつもりはなかったのですが、直後に、受け売りだけどな、と仰って」
            「ああ、その友達の」
            「ええ、そういう言葉をさらりと言う方だったのだそうで」
            「へえ」
            「……バトンを受け取った気がしたんです」
 	      白いバラの花言葉の一つは「約束を守る」。
			その証としてあのバラの花束だったのか。それを思い出してあの笑顔だったのか。
			――そうだったんだ。
 	      アーサーはやっぱり菊のことが好きなんだな。俺とは違う形でだけど。多分あのくそ高尚な文学論も、人と「お友達会話」を続けるのが難しかった菊が気詰まりでないように振った話題だったんだろう。
 	      アーサーも、フランシスも、みんな君を大切に思っている。まだ繭の中にいたいというなら破らない、けれども、違う世界もあるのだ、とそっと未来を指し示す。二人とも、大人だから。
 	      俺は、そうじゃなかった。傘をかけるように少し離れたところから守ってあげるなんてできない。
          飛び込んで、手をとって、外に連れて出て。子供の勢いのまま抱きついて、ねえ、でも、菊、もう離せないよ。
 	      
 	      足をとめた俺に、菊も一歩遅れて立ち止まる。
            「どうかしました?」
            「俺は?」
            「は?」
            「『世界中が敵でも』なんてあり得ない。なんで俺は友達の数から外れてんの?」
            「…」
            菊はぱち、と瞬きをした。
            「貴方は――」
 	      酔っているときの菊は笑顔率が高い。こちらが飲んでいないことなんて無意味じゃないかと思わせられるほどに。
 	       
 	      「私のヒーローでしょう?」
 	      
 	      
          
 	      
 	      【18歳・秋 - 18歳・春 - 19歳・夏 - 14歳・初夏 - 15歳・春 - 19歳・秋 - 19歳・冬 - 19歳・初夏 -】