貴方○夢を見る (6)
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※ご注意
各自グラスを持って、ソファに移った。映画でも見るかと聞けば、会話を楽しみたいですと応える。どっちにもメリットはある、映画は(当然にしてフランス映画であるから)雰囲気を作れる、会話なら目と目を合わせられる。 「―――ねえ、菊ちゃん」 昨日は「おそろい」でごまかされたけど。タイム、とサインしてから買ったのだから、ゲームの上でのことではなく「菊として」欲しがったのだ、三本とも。アクセサリーとして使えばいいとフランシスは何の気無しに言ったが、考えてみれば、日本人男性は結婚指輪以外の指輪をする習慣がほとんどない。 「……私には、どうしても自分が醜く見えていて。お三方の『似合うよ』は、少なくともこれらに釣り合うくらいは認めてもらったと解釈できると思えば、記念に欲しくなったんです」 フランシスは片眉をあげた。 嫉妬は恋愛ゲームのスパイス……と思ってくれないだろうか。いやむしろ、自分の脳が、これはゲームの一イベントだと認識してくれないだろうか。菊が残り二人のことをどんな風に思っているのか、考えると苦しくなる。なんで、俺のだけを選んでくれなかったの。なんで、俺とのゲームを中止したの。――どっちかが、好きなの? 菊は顔を戻し、底の見えない黒い目でじっとフランシスを見つめて、言った。 それぞれに、憧れなんです。お三方とも。 菊はちらりと壁の時計を見、仮面のような笑みを顔に戻して手の甲を掲げた。 恋愛ごっこなんて、言い出した馬鹿は誰だ。俺か。ゲームのように楽しんで、楽しませて、また日常に戻れると思っていた馬鹿は。そうとも、それも俺だ。こんなにも菊はうまく現実との折り合いをつけているのに。明日以降どの国とも摩擦無く外交できる道を残しつつ、「現行世界秩序のために有効な」三日間を自己演出している。 アーサーの恋の急騰ぶりに笑ったのはいつの日だったか。たった三日で、掴まれてしまった。 小さな沈黙をワイングラスを傾けることで受け流そうとしていた菊は、はっと何かを思い出したように壁の時計を振り仰いだ。…いや、時計のそばのものを。凝視の先にあるのは、一枚の絵皿。皿の上半分を占めるのは雄鶏、国立製陶所の専属画家だったランベールの作品である。 「あれ………、オルセー美術館の所蔵品ですよね」 日仏交流150年を記念して両国でいくつか行事が開催された。その一つがオルセー美術館展だ。 「―――『フランスが夢見た日本』―――」 文明に削り取られてきた人の本然を残しつつ、ストイックな精神文化を形成していた遠い遠いおとぎ話のような国。 その化身、胡粉でこしらえた人形のような菊。
「貴方がたは、いつも私に夢を見る――いえ、私で、夢を見る」
菊はフランシスの手を掴み、その人差し指をグラスの中に突っ込ませた。赤紫の液体が小さな水音をたてる。ワインにぬれた指をくいと引き、頬をなぞらせた。 「私の上に、貴方がたの夢の絵を描く」 赤紫の液体は象牙色をした菊の肌にしみこみ、匂いだけを残した。 「あの頃の貴方は、『自然に帰れ』という理想を心に持ちつつ、文明化しつつある産業社会でそんなことはできないと悟っていた。だから遠い私に『自然性』を見て目を細めた。貴方がたはいつも私を『観る側』だった」 まだ菊にとられたままの指は再度菊の頬をぬらした。 「日露戦争の頃、うちで『人類館事件』というのが起きました。内国勧業博覧会で、学術目的と称してジャワ、台湾、北海道など周辺地域の「人類」を「展示」したのです。清国、朝鮮、琉球からの抗議を受けて、その方々の展示は取り下げられました。抗議の文を読みながら、その通り、抗議は正しいと思いながら、……すごく苦しかった。これは実は、私が『観られる側』から『観る側』に成りかわるための装置だったのではないかと―――そのわずか20年前、ロンドンの「日本風俗博覧会」で見せ物にされたことの、方向を変えた復讐だったのじゃないかと」 「菊ちゃん……」 「ロンドン日本人村」と呼ばれたその催しは民間主催だった。キモノの娘に手妻使い、ハラキリ・ショーとゲイシャ・ダンス。礼儀正しく真面目な彼らにロンドン市民は好感を持ち、喜んで「拝観料」を払った。人気らしいなとアーサーに言えば、眉をしかめられた。――ミスタ本田からはやめてくれと何度も言われているんだ。 あの頃、どれだけ言葉を尽くしても、菊は「私は醜い」との思い込みを捨てず、変わりたがった。 「その私に何を言う権利もありませんし、あからさまに見下されるよりは――それも実際ありましたから、よっぽどよかった。でも、見下されるのも、仰ぎ見られるのも、同じですよね。結局私は、対等と思ってもらえない」 捨てた夢を他の上に投げかけたのも、白人以外を見下したのも、事実だ。自分を愛する気持ちが、自分と余りに違う者への嫌悪感を抱かせる。昔は、それが当然だと思っていた。 今は違う。 菊と自分の立ち位置の差は分かっている。菊にいくら核アレルギーがあろうとも、故にフランス製品不買運動が起ころうとも、95年の核実験を謝ることは出来ない。謝れば崩れてしまうものがあるから。 菊は、自らを傷つけたものに我が身を預け、安全さえ委ね、電飾の夢に未来を託す。フランシスにはとてもできない身の処し方。 輝くためには力がいる、と菊は言った。自分らしく輝くためには現実的な力がいる、他の誰とも対抗できるくらいの。――フランシスこそがそう思う。 こんなにも生き方が違うのに。心は逆らいがたい引力のさなかにある。 「菊ちゃん」 濡らしてしまった指を引き寄せ、唇にあてる。ワインの酸味に混じって、確かにここに菊の体温がある。生身の、菊。 近代になってその存在に気づいた欧州各国は、菊を人形のようだ、仮面のようだと噂した。確かに菊は美しかった。人形のように。だからそれ以上惹かれることはなかった。
もしかして。青天の霹靂のような衝撃がフランシスを襲う。フランシスを苛立たせたあの菊の冷め具合。セオリーだのステータスだのと、「これはリアルではない、わかっている」と言外ににおわせていた菊は……笑みの陰で、ひっそりと絶望していたのではないか。最初から。 ―――フランシスさんが、私と、恋をするのですか。 天を仰ぐ。ゲームだと言うなら、オールリセットして最初からやり直させてくれないだろうか。
「ごめんなさい」
「………はい?」 「私など眼中にないことくらい、最初から知っていたのに――降ってわいた幸せが手放せなくて」 ごめんなさい、と、菊はまた呟いて、そっと目を閉じ、額をフランシスの肩につけた。
「待てって!!」
―――別にお前の心配なんてしてないぞ。 「あのね、菊ちゃん。とりあえずそれは金っ輪際ないから。まあ確かに誤解を招く言動があったかもしれないけど、それは俺が他の誰かと付き合ってるからでも、――菊ちゃんがそういう意味で対象外だからでもない。………正直言うと、お兄さんは、菊ちゃんこそが俺とか坊ちゃんをてんで相手にしてないと思ってた」 これはこれで本当である。「ありえません」と切って捨てられるかと思ったのも―――菊にそう言われるのが嫌だなと思ったのも、『ごっこ』発言の一因だ。 「え?」 「だって、菊ちゃんは、いつだって『アルフレッドさんと同じでいいです』って言うじゃん。あれって、『ここでの意見の出し合いなんて無意味ですからそれで済ませましょう』ってことだろ」 会議が、議決よりも議論の共有に意味があると思おうとする場合、菊の態度はいただけないのだ。 「えー」 人種も、歴史も、歩み方さえ違う。だけど、共有できる領域は拡げられる。 完全に重なり合うことがないのを分かっているけれども、それでも、今ここで二人は、同じ床の上にいる。 「俺も昔は相当田舎もん扱いされてきたんだけどね、俺の場合、『見られる』というより『見せてやる、見ろ!』という感じだからなあ…。菊ちゃん、俺が菊ちゃんに可愛い綺麗だ憧れるって言うのは、今でもいや?」 時計の針が12時に近づく。 「12時過ぎたら本気で口説くから」 「はい?」 「あーのさ。なんか、ちょっと舞い上がっちゃいそうなことを言われたと思うんだけどね。菊ちゃんは今日で完全に流せると思ったから、あれを言ったでしょ?てことは、実は、菊ちゃんの方でも俺とリアル恋愛をする気はなかったわけだ。……おとし甲斐があるなあ」 Declaration de guerre!片手で打って隣国へメールを送る。宣戦布告。覚えのある怖気が背筋を駆け上がる。 「接点少ないのは弱み、でも好きだって素直に言ってるところは強みかなあ。自惚れだったらそう言っていいからね。――Alt+TABって、表面に出るか出ないかだけで、ずーっとどきどきが続いてたって解釈していい?」 菊は顔を真っ赤にした。その頬に口づければ体温でより一層強まった芳香がフランシスの鼻腔をくすぐる。 フランシスはささやきかけた。「菊」。ついでに赤く染まった耳朶に軽く口づける。 「きらきらの夢を一緒に見ない?」
もうすぐクロノスが新しい世界の到来を告げる。
了
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ほんとぐだぐだですみません。
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