八日目 (4)

 

※ご注意

・「一週間同棲」米日第四話。


 

 † 七日目 †

「ここ?」
「ええ」
運転手に頭を下げて一度引き上げて貰い、菊はアルフレッドを通用門に先導した。話は通してある。財閥当主自身ではなく、執事らしい初老の男が菊だけに目を合わせるようにして庭に案内した。
適度に手を入れた庭園には清水が通ってきた。しつらえられた腰掛けに二人並んでゆっくり団扇を動かしていると、静かにかぼそい光が漂い始めた。
「わぁお……!」
一匹、また一匹。飛ぶものもいれば、留まるものもいる。
どれもこれも、その身を青く焼いて、愛を呼んでいる。私はここにいると叫んでいる。

生きたい。そのシンプルな、そして根源的な願い。

私は今ここに生きている。

生きたい。

顔を上げたまま、菊は目を閉じた。
「ねえ、すっごく綺麗だよ、菊!ね、き……」
俯くと、それにつれて喉を苦いものが滴り落ちた。

「アメリカさん」

呼びかけに、彼は目を見開いた。

「やはり、石油は売って頂けませんか」


 † マイナス二十日目 †

「サマーバケーション……ですか?」
流石に、何を言っているのかと目を瞬いた。
「このご時世に」
「このご時世だからこそだよ。『人』は夏休みをとるんだ。俺たちがとっていけない理屈はない」
縁側に設えていたガラステーブルのセットに向かい合い、日本は二杯目の紅茶を注いだ。純和風建築の菊の家だが、ここだけは一人掛けのソファを置いているから、アメリカと過ごす時はよくここで向かい合う。――いや、向かい合ってきた。

いくら「それはそれ、これはこれ」だとしても、流石に国は時代と無関係に生きられない。念願だった東京オリンピックを諦めた頃から、どうしても来訪も間遠になった。日本の方が尋ねることはもともと少なかった。海を越えるのにだって金が要る。

「今年の日本人は、盆休み程度しかとらないと思いますよ。月月火水木金金、です」
「It's cra……」
吐き捨てようとしたアメリカは、珍しく空気を読んだ。
大きく開かれた両手が降りるのを見届けてから、菊は苦笑した。
「今年というのは、貴方にとっては『平時』でしょうが私にとっては『非常時』なんです」
「まあ、そうなんだけどさ」
口を尖らすように閉じて、アメリカはテーブルの紅茶に指を伸ばした。
「そうであってもね、俺と君が恋人同士としての蜜月を求めていけない筈はない」
ないだろうか。国の幸福より自分のそれを優先する国民がいれば逮捕している国であるというのに。挙国一致。その言葉が掲げられてからもう五年。国事犯は牢に溢れている。

「勿論、全面的にそうだなんて、俺にだって言えないさ。俺はアルフレッドであるより前にアメリカだからね。君もそうだろう。そういう生まれなんだから仕方ない」
カップを優雅に傾ける、その姿に別国の影が重なる。自由を愛することの証明のように粗野に振る舞ってみせることの多いアメリカだが、時々育ちの良さが透けて見える。
彼が生まれたのはまさに近代へのとば口。国というものの在り方が今の形になる頃に物心ついたからなのだろう、彼は先の言い方を躊躇いなく口にする。――何よりも前に自分は『アメリカ』であると。
「そうであっても、本気でやれば一週間くらい一緒に過ごせる」
「しかし……一週間、何をするのです」
「何もしないのさ!ただひたすら、いちゃいちゃするんだ」
「それに意味は」
「無い!君も知ってるだろ、どれだけ腰を振ったって、何回イったって、それで外交関係が好転するなんて、有り得ない」
日本は二重の意味で顔を顰め紅茶を飲んだ。
「……では、なぜ」
テーブルの向こうで、かちん、とソーサーが小さな音を立てた。

「頭がおかしくなりそうだから」

笑顔で物騒なことをいう。
「幸福追求の権利は国是なんだよ。それなのに俺は今君といちゃいちゃできなくてものっすごく不幸だ。今日だってあとちょっとで迎えが来て、君と引きはがされる。こういうのは嫌だって行動と要求で示さなきゃいけない、けど、現実的に無限の要求はできない。だから、最小公倍数で、一週間」
「……はあ」
無茶苦茶を言うと思っていたが、案外計算づくだ。自分の要件だけを演算項にしているところが、いかにもアメリカらしい。
「しかし、先ほど申し上げました通り、私は戦争中なんです」
「そうだね」
「東京を離れる訳にいきません。緊急事態に中断できないような休暇は要求もできない」
「あー。うん、そうか」
「一方で、この家に滞在して頂く訳にもいかないんです。ご近所の目もありますけれども、そればかりではなくて。何せ貴方は、」
「うん」
利敵国とも、仮想敵国とも言わせずにアメリカは頷いた。
「じゃあ、君の条件と折り合う場所で、どこか借りてくれよ。軽井沢のホテル辺りがいいんだけど、そうもいかないかな」
「え。うちでいいんですか」
アメリカにとっても日本は居心地のよい国では無い筈だ。米英懲すべしの声は日に日に高まっている。
「ああ。……まあ、連絡役だか監視役だかを隣に住まわせろくらいの条件を大使館が出してくる可能性はあるかもな。それくらいいいだろ?

「ええ……」
そう言ってから日本ははたと首を傾げた。いつの間にか実行が確定事項になっていないか。まあでも、と日本は思う。流されて、押し切られてという体なら上司に言い出せる。こんな破廉恥なことでも……そう考えて息をついたら、問いただされた。
「OK?」
「え」
膝の上で組んだ手に顎を乗せて、アメリカは真っ直ぐに菊を見た。
「これは完全に我が儘だからさ。『俺だけの我が儘』なら強行できない。『俺たちの願い』なら、交渉頑張れる」
水色の目線はレーザー銃のようだ。言質をとろうと構えられている。
「どうだい?」

 

 † 一日目 †

「さて、と」
コップをテーブルにたんと置いて、アルフレッドは言った。
「その格好ということは、先に来て掃除してくれてたのかな」
言われて、おっとと頭に手をやる。三角巾をつけたままだった。割烹着は、まあ、今更だ。
「一通り掃きはしました。家財家電は上司が新品を入れてくれたみたいで、その時にも掃除はしていたみたいです」
「良かった。ホテルじゃないみたいだったから、嬉しい反面ちょっと心配だったんだ」
菊は小首を傾げた。
「嬉しい?」
「うん。だって、君の視線を百パーセント俺のものにできるだろ?他の人が傍にいると、君はきっとその人に気を遣っちゃうからね」
「ああ……」
それは、そうかもしれない。人の目はどうしても気になってしまう。ましてここ最近の空気を思えば。それは確かに自分が創り出しているものである筈なのに、この一週間だけはそれから自由になりたい。いっそ御用邸でも用意してくれないものかと思っていた。
「一方で、そんなに都合のいい家が空いてるとも思えなかったから、廃屋みたいなものになって、着いた早々大工仕事なんてことになっちゃうかもって心配してたんだ」
「それはそれは」
菊はにっこり笑った。
「良かったです、どうお願いしたものかと思ってました」
「え」
すたすたと座敷に向かい、明かり障子をすたんと開ける。後ろについてきたアルフレッドは「Oh……」と呟いた。
小さな庭に広がるのは雑草の海。一夏でこうなるとも思えないから、去年辺りからこの家は誰も手を掛ける人はいなかったのだろう。
「し、芝刈り機で……」
「お持ちですか?私の方ではそのようなもの用意してません」
「じゃ、これ、全部、手で抜くのかい……?」
にこり、振り仰いで微笑むと、アルフレッドは額に手を当てて天を仰いだ。


 

 † 五日目 †

狭い浴槽で体をくっつけ、いやそこでとどまらずあれこれしてしまったせいで、完全に逆上せてしまった。浴衣一枚で一番涼しそうな縁側で寝転んでいると、Tシャツ姿のアルフレッドが団扇片手にやってきた。
「……」
木に温度を吸いとらせるようにして寝転んでいる菊に、それはいい、と思ったのだろうか、頭頂をつけるようにしてアルフレッドも寝転んできた。そう広くない縁側は、二人分の身長で端まで届いてしまいそうだ。こうして一辺を二人で充たしていると、この家の隅々までに二人が及んでいる気になる。
「……ふふっ」
笑うと、頭の先がずりと動いた。
「どうしたんだい」
「いえ」
上手く説明できる気がしなくて、笑って誤魔化した。草むしりの成果だろうか、蚊はほとんどいない。顔にかけていた手ぬぐいをずらし、もらっていた団扇を大きく動かし、アルフレッドにも風を送る。
「ああ、気持ちいいな」
子供のような声に知らず頬が緩む。見上げれば団扇の先に星が見える。と、アルフレッドが呟いた。
「星、きれいだ」
思うところを言い当てられて、驚き、しかし嬉しくなった。同じものを見ている。
目の色が違うから、映る視界は違うのかもしれない。体格が違うから見える射程も違うかもしれない。少なくとも、見たものにどう思うか、どう考えるかの脳はどうしようもなく違う。
――それでも。

「そうですね」

今、同じ瞬きを見ている。


 

 † 二日目 †

風呂の掃除に続いて玄関先にも軽く水を打って、戻ってくると座敷にアルフレッドの姿がない。首を巡らせると、視線の先で手がひらひらと動いた。階段だ。
「こちらにいらしたんですか」
「うん。ちょっとだけ涼しいし」
家の北側にあるからだろう。そしてそれよりも、腰掛けられるというのが嬉しいのだろう。この家の居室は全て畳敷きで、椅子を持ち込んでもいない。
と、ぽんと隣を叩かれた。そこに座れというのだろう。
「……それは流石に狭くないですか」
「ちょっとね。だからいいんじゃないか」
手を引かれるようにして隣に座るが、やはり窮屈だ。日本の階段は往々にして急で狭い。男二人が腰を掛けられるような幅はない。アルフレッドは片方の腰を浮かせるようにしたが、それでもぴったりとくっついてしまう。
「……って、まさか、貴方、それがも……」
続きは声ごと吸われた。
抵抗しようと伸ばした手は上の段に押さえつけられる。
「ちょっ!……あれ」
闇雲に動かしていた手を突然止めたのでアルフレッドも力を抜いた。
「どうしたんだい」
「今、手に何かあたって……」
蹴り上げとその上の踏面が地震か何かで歪んだのだろう、少し隙間があって、そこに何かが挟まっている。抜き出してみると丸めた紙に硬貨が包まれている。十銭銀貨だ。紙には「アキラドノ ヨクゾタカラヲミツケタリ」と稚拙な字で書いてある。
「……どういうことだい?」
「多分、兄弟で捜し物あてのゲームをしていたんでしょう。お兄さんが隠して、けれども弟さんは見つけられなかったんですね。字からすればまだ幼い頃でしょうから、もう何年も宝物はここで待っていたんですね」
『昭』の悔しそうな顔が目に浮かぶ。
「そういうことか。日本の建物は古くなるとあちこち破けるんだなあと思っていたけど、それも込みで遊んでたんだね」
菊は肩をすくめた。破けると言われるとまるで紙のようだ。流石にそんなに脆くはない。でも、障子の破れや柱の穴で遊ぶのはここの家族だけのことではない。
後で上司に渡しておけば弟の手に渡るだろうか。そう思って紙に包み直して数段上の踏面に置くと伸ばした手を絡め取られた。
「ちょっ」
抗議しようとするが、笑われた。
「そこに置いた時点でさ、君は続きをする気じゃないか」
「……!」
手も足もじたばたと動かして抗議をしたが、それを全て封殺するように手足を絡められる。
「待って、だって、背中痛いじゃないですか!」
あ、そうなのかという風にアルフレッドは目を瞬かせたが、やがてその目は意地悪に細められた。
「分かった、工夫する」
「そんな」
反論を無視して、アルフレッドは綺麗なウインクを寄越した。
「困難の中にヨロコビを見つけるのが、人の道ってものだよ」

 

 † 二日目 †

布団を押し入れからおろそうと手を掛けると、すっと代わられた。腰を痛める可能性のある仕事はやってもらうにやぶさかでない。有り難く脇に立っていると、アルフレッドは一枚を敷いたところでもう一枚を持ったまま考え込んでいる。
「どうしました?」
「あのさ。これ、二枚重ねて、その上に二人で寝るってのはどうだい」」
「え?」
「こう……」
いいながら、敷き布団の上にもう一枚布団を敷いている。
「ね?」
「ははあ」
菊は手で緩む口元を押さえた。笑ってしまう。
「固くて、昨日背中が痛かったんですね?」
「いや、そんな……大したことなかったさ!けど、二枚ならもっとふかふかになるんじゃないかと思ったんだ」
ほら、とその上に腰掛けてみせる。
微笑んで隣に座ると、確かに厚みが増した分柔らかい。
「でも、その分狭くなってますよ?一枚でさえ、昨晩寝返りのたびに足をはみ出させてらっしゃいましたのに」
ぬぬ、とアルフレッドは口を結ぶ。自分の寝相と布団二分の一の面積を秤に掛けているのだろう。やがて考えるのに飽きたのか、えいとタックルをかけるようにして菊を布団に押し倒した。
「ほら、くっついて寝れば大丈夫なんだぞ!」
無理無理、と笑いながら菊は体を起こそうとしたが、肩から抱き込まれていてそれは叶わない。
大体、寝床が固いと思うなんて、と考えて、その先は胸にしまうことにした。
野戦に出ることもある菊には布団があるだけで御の字だ。枢軸での訓練では敷布もなく三人火の周りで雑魚寝することもある。確かに節々は痛むが、休息が取れるだけでありがたい。
つまり――菊は、「夏休み」だとどれだけ意識していても、体の構えが戦時のそれになっている。そしてアルフレッドはそうではない。
柔らかい布団で寝られる幸せ、湯を張った浴槽で体を伸ばす幸せ。
この「夏休み」はそうした「日常」に置いてきた小さな幸せを思い出させる。
もしかしてそれが彼の狙い――「日常」への未練から戦争回避の欲求を生み出させて、そのための撤退を肯わせて――そう考えて、心の中で首を振る。
「どうしたんだい?」
「いえ」
腕枕に頬を擦るようにして体を寄せる。嬉しそうに額に口づけてくる無邪気そのままのアルフレッドは、もしそうした謀をするなら、完璧な罠をはって、菊にちらともそんな疑惑を抱かせないに違いない。
つまりこれは、菊自身の未練なのだ。
「……」
悟られないよう眉をしかめていたら、首のしたの腕がもぞりと動いた。
「?」
目線をあげると、アルフレッドが困ったような顔をしている。
「腕、しびれました?」
そう聞くとその顔のまま首を振る。
「そんなの全然平気だけどさ……。ほんとに、全然寝返りの余地ないね!」
ハの字に下がった眉を見て、菊は思わず噴き出した。

 † 七日目 †

笑うような顔でふうと紫煙を吐き、金髪の男は笑った。
「ご申告、どうも。では、つかず離れずでついて行こうかな」
「……そんなことなさらなくても、彼に危害を加えたりしませんよ」
男は噴き出した。
「あんたにそんなことができるなんて思ってない」
笑って付け足す。
「あんたみたいなちびに」
「……」
その目に明らかな軽侮と憎悪を読み取って、菊は口を閉じた。
黙ったまま見つめ返す菊にかえって苛立ったように、男は煙草を持った手を振り回した。
「まったくよ、毎日毎日、昼間っから盛りやがって。反吐が出そうだぜ」
「……」
言葉の上で否定するようなことはない。「盛って」いるのは菊だけではないが、そんなことは承知の上でこの男は言っている。人とはそういうものだ。愛する祖国がすることだからこそ、増幅した憎悪はその相手方だけに向かう。
言い返さず、ただ見返すだけの菊に向けて、男は火の付いた煙草を投げつけた。東京の立地とはいえ流石に隣家、菊まで届くことはなく、それは庭の砂地に落ちた。
踵を返しかけた男は、振り返って言った。
「あんたたちが今いるその家、なんで空き家だったか知ってるか」
「……いえ」
二軒続きの空き家を探すなど菊にはできなくて、全て人に任せた。
「上の息子が兵役拒否して逃げて、監獄入り。父親は特高にしょっぴかれ、母親は心痛で倒れ、悪評が響いて店も続けられず、一家で田舎に逃げたんだそうだ」
「……!」
男は、軽蔑と、思うさま軽蔑をする愉悦を同時に顔に浮かべた。
「あんたが不幸にした国民の家で、あんたは日がな一日男のブツ尻でくわえてよがってんだ」
「…………」
空き家だったという上司の言葉を鵜呑みにして、あちこちに残る生活の痕跡にも思うところを持たなかった。自宅を使わないがゆえの『非日常』感を楽しんでもいた。この男が言うとおり、この家の至る所で触れあい、睦み合った。
二人で寝転んだ縁側。無理矢理並んで座った階段。シーツを干した物干し台。
庭のたらいで踏んだステップ。米を研ぐ盥の中で重なった手。
食べる、寝る、炊事、掃除、洗濯。生活のありとあらゆる側面を共有するかのように、どこででも。
菊の無表情をどう思ったのか、男は大きく舌打ちして踵を返した。
夕焼けの中に取り残されて、菊はうつむいた。
清。
昭。
途中で途絶えた柱のきず。
十六になっただろう昭は今、どこでどうしているのだろう。
来年は、もう、太平洋でも戦争になっているだろう。昭は一家の「汚名」を濯ぐために年端もいかないままその手に銃を取るだろうか。
「…………」
夕日は次第に鮮やかさを失い、闇へ飲まれつつあった。

 

 

 † 七日目 †

アメリカは、目を眇めた。その前を蛍が一筋の線を作りながら過ぎっていった。
「俺をそう呼ぶということは、夏休みは打ち切りかい?」
あくまで私人のアルフレッドと菊として続けていた夏休みだった。国の立場に戻れば一緒にいることも難しいから。
大陸からの撤退。石油や鉄の輸出制限。
互いに要求があり、引けないラインがある。お互いに、相手が「こう」であることは認められない。二人の間に横たわる溝を視界に入れないようにして、ただ互いだけを見てきた一週間だった。
「はい。もう、一週間ですから」
「明日までだと思っていたな」
アメリカは肩をすくめた。
腰に片手を当てて、もう一方の手をひらひらと振る。
「石油は、売れないよ。だってあれは『もしこのままなら』と条件をつけて提示した要件で、君はそれを知って、そのままにしているんだから」
「……」
自分は、果たして『そう』『した』だろうか。済し崩し的に開かれた戦端と、後から付ける大義名分。流れるままにここに来てしまった。
「余計な口出しだけど、君の情報操作のまずさは、英国軍のレーション並なんだぞ。相手は才知明弁の宋美麗とパンダだよ?内向きに『自分悪くない』って念仏唱えてる場合じゃないだろ。明石元二郎はどこへ行ったのさ」
畳みかけられて、菊は苦笑しかできない。
「……でも、もう引けないんです。前にも言いましたが、私は既に『非常時』です。ここで止まったら、その前の歩みを否定しなければならなくなる。貴方も『そう』なった時の、前のめりになって自分を留められなくなる感じ、分かるでしょう」
「分かるけどさ」
大胸筋を大きく動かすようなため息をついて、アメリカはベンチに腰掛けた。
「……分かったけどさ」
毎日肌を重ねていたのだ、こちらの熱暴走も伝わったのだろう。日本も隣に腰を下ろした。
蛍は数を増し、あちこちで光の線を創っては消している。

「この夏休みの意味について、二つ、考えました」
うん?と僅かに首を回して、けれども日本を見ることはしない。
「一つは、そうやってもう四年も暴走している私に、日常の楔を打ちにいらしたのかと」
「うん?」
「日常とその中の喜びを思い出させることで、非日常から引き戻そうとなさったのか――ということです」
「……」
いや、と手を挙げかけたのを、遮って日本は続けた。
「ええ、違います。『私』にそれをしても、何ら変わらない。人型としての私たちは、結果を生きているだけ。私たちがいくら睦み合っても、国民感情も外交関係も変わりはしない」

人の目が気になるからそう思うのではない、やはり自分はアメリカ国民の多くには嫌われている。生きるために必死で行うあれこれが彼らの目にはアンフェアに映る。知日派の言葉程度では感情は覆せない。
アメリカに愛されていることを疑ってはいない。それは自分が向ける思いと同じに確かなことだ。それでも、アメリカ人にははっきりと嫌われている、低く見られている、生意気だから叩けと語られている。
そしてアメリカが言うように、日本人には、特に都市中間層には、消費文明の象徴でしかないアメリカへの憎しみは浸透していない。それでも強くあろうとする日本の障壁であることは理解されているし、だから戦となったら躊躇わずに銃を向けるだろう。
二つの国は遠すぎて、それぞれの人は違いすぎて、隣の国であるというのに「隣人」とは思えなくて、だから簡単に撃ちあえるだろう、撃たれれば憎しみが沸くだろう。
違うね、面白いねと言ったアメリカ。強引に手を引かれ眩しさを知った日本。遠すぎて、違いすぎて、だからこそ自分たちは愛し合ったのに。

国と人――「私と貴方」と「私たちと貴方たち」の決定的な差。

しばらくつむっていた目を開けて、日本はアメリカを見据えた。
「ではなぜ、貴方は我が儘を通そうとなさったのか。ただそうしたいから、と仰っていましたけれども――」
もう一度目をつむり、息を吸う。
「貴方は、燃料計のゲージを満タンにするようなつもりで、私を愛しに来たんです。……この後、思い残すところなく、いっそ非情なほどに、合理的に、『結果を生きる』ために」

アメリカは一瞬息を止めた。僅かに張った下瞼が小さく震える。
「……そう、なのかな。俺はそこまで考えてたつもりは無かったけど」
どうだろうか。そうかもしれない、そんな計算が似合わないようでもあるし、似つかわしいようにも思う。それが目的と意識されていなかったとしても、断言出来る、もう彼は国民感情に従って日本と戦う用意ができている。

日本は立ち上がった。
「だから、今打ち切っているんです」
「……うん?」
後ろを振り返らず、日本は続ける。
「貴方を、満足させてはやらない。あと少し足りない、もう一回抱きたい、……抱きたかった。アメリカとしての貴方にではない、アルフレッドとしての貴方に、そう思わせるために。貴方からアルフレッドを――人としての心を、消させない。これが私のくさびです」

しばらく沈黙が続いた。
「……きく」
その言葉と共に、突然後ろから抱きすくめられる。
太い腕、高い背。全身が彼の香りに包まれる。耳にかかる息は熱い。胸元をぐっと押さえた。こうして抱かれるだけで、苦しく、切なく、胸が止まりそうに、同時に体中が溶けそうになる。けれども、――もう夏休みは終わりなのだ。

胸に当てたままの拳に大きな掌が重ね合わされ、強く圧される。楔は、打ち返される。

日本もまた、この熱く苦しい心を抱いたまま、先の見えない『結果』の大海に投げ出されるのだ。

 

 

 

 

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