※ご注意
 	     ・「一週間同棲」米日第三話。
 	      【1.2.3.4】
 	      
 	      
 	      
 
           † 一日目 †
        
大荷物を運び込んだアルフレッドを、何はともあれと台所に招き入れ、冷やしておいた麦茶を振る舞った。
          「遠路はるばる、こんなところまでおいでいただいて」
          「なんてことなかったんだぞ!君といちゃいちゃ一週間って思えば遠さも重さも吹き飛んだよ」
          ごくごくと一気に飲み干して、空のコップを差し出してくる。菊は麦茶をついだ。吹き飛んでも残る重さがあったのだろう。今年は冷夏に終わりそうだが、それでも高温多湿の東京の夏だ。二杯目も美味しそうに飲んでいる。
          菊は僅かに目線をおとした。
          「その……お嫌ではなかったですか。……人の目とか」
          「うん?」
          状況を裏返して自分ならと考えて見るだけで気疲れしそうだ。
          「全然!」
          そうだった、この人は敢えて空気を読まないのだったと菊は苦笑した。アルフレッドはそれに合わせるようににっと笑って、けれども予想外のことを言った。
          「君が思う以上に、君の国民は俺のことが好きなんだぞ。知らなかったかい?」
          
        
 	       
 	       † 二日目 †
 	      昼下がりに二階に行くとむわりとした空気に押し戻されそうになった。窓を閉めてきたことを後悔しつつ、鈍る足を叱咤して階段を上がる。まっすぐ窓に向かい、そのまま物干し台に出て大きく息をつく。兼好法師の言葉通り夏を旨として建てた日本家屋であるというのに、おそろしく暑い。手の甲で額の汗を拭って、シーツを取りこむ。ちゃんとシーツから夜の匂いは消えている。
 	        まあ、また、どうせ。そう考えてしまって、胸に抱えたシーツで顔を隠す。はしたない。
 	        「――っ」
 	        そこで突然視線に気づいた。はっと隣を見ると、二階の腰高窓のカーテンが動いた。
 	        見られていた。朝にもあったことだから、驚きはしない。けれども、やはりいい気はしない。顔を顰めると向こうからも白い目が返ってきた。
 	        菊は逃げるように階段を降りた。
 	        「どうしたんだい?額に縦皺」
 	        アルフレッドは腹ばいになって新聞を眺めていたが、足音に上半身を捻って振り返った。
 	        それには答えず、帆のように背にかけたシーツごと覆い被さった。
 	        「なんだい。いちゃいちゃしたくなった?」
 	        「……」
 	        そういうことではない。背中に額をすりつけるようにかぶりを振ったが、思い直して縦に首を動かした。
 	        「どっちさ」
 	        笑うように言って、アルフレッドは力を抜いて寝そべった。菊はぴったりと体を重ねる。背に頬もつける。私たちは好き合っているのだ。それを確かめ合いたいと思うのは自然な感情なのに、周りから快く思われない。「いちゃいちゃ」を慎みのないことと思う、まして男同士のそれは道に外れたものと思う、そういう「普通」の感性が、刺さる。ここ日本でも、そしてアメリカ人にも、私たちの愛は喜ばれない。できるのは、この繭のような覆いの中でこっそりと「夏休み」に浸ることだけ。
 	        軒先で風鈴が微かに鳴った。
 	      
 	       
 	       † 三日目 †
 	      初日、「除草剤を撒けばいい」と文句を言われながら二人で庭の草むしりをした。それなのにもう緑があちらこちらに沸いてきた。
 	        「まさに、城春にして草木深しってやつですねえ……」
 	        「夏じゃないのかい」
 	        独り言のつもりだったので、返事にぎょっとする。
 	        「また『VS日射病戦』やるなら帽子貸して」
 	        「あら」
 	        渋られると思っていたので思わず瞬きしてしまう。
 	        「立つ鳥なんとかかんとか、だろ?寝泊まりさせてもらってるんだからね」
 	        つば広の麦藁帽子をかぶりながらウィンク。不似合いなような、似合っているような。
 	        「あ……ありがとうございます」
 	        こちらの流儀に合わせてくれるのだ。菊は頭を下げた。
 	        雑草はあちこちに茂っていた。抜いては土を落とし、一カ所に集めていく。根の張ったものも多い。新たに生えたものばかりではなく、初日の取り残しもあったのだろう。
 	        「ところで、さっきのは何だい?季節外れなのに思い出すって」
 	        「ああ、あれは――」
 	        言うか言うまいか一瞬迷ったが、菊は続けた。
 	        「国破れて山河あり、に続く句です」
 	        古い漢詩の、と続けようとして、思いがけない強い視線に気づいた。
 	        「破れてなんかいないじゃないか」
 	        「や、ええ、……はい」
 	        そんなにダイレクトに連想したわけではない。ただ、あれだけ草むしりしたのにとがっくりきて、人為と天然の対比が思い出されただけだ。
 	        それを説明すると、アルフレッドは顔から緊張を解いて宙を見た。
 	        「神の創りしものと、人の創りしものか……」
 	        「……」
 	        目線を地面に落とし、そこにあった草を力任せに引き抜いて、アルフレッドは言った。
 	        「全てを神が創っていたなら、この世の何もかも完全なのかな」
 	        「……」
 	        菊も顔を伏せた。
 	        「……それは貴方の神。私の神が最初に産んだのは未熟児です」
 	        アルフレッドは振り返って目を見張った。
 	        「そうなのかい?」
 	        「だから生まれてすぐ海に流されます。……そして漁師達に拾われて神になる」
 	        険しさへ顔の色を変えていたアルフレッドは、最後にまた拍子を外された顔になった。
 	        「――そっか、多神教か!」
 	        「あ、はい」
 	        それこそ予想外の指摘で、菊も瞬きした。
 	        「そっかー。そんじゃ、話の前提が変わっちゃうな」
 	        「……」
 	        前提。その言葉を奥歯で噛む。彼の言う天地創造の世界に、菊はいない。世界の完璧さを想像することもできない。
 	        黙っていると、アルフレッドはにかっと笑った。
 	        「そりゃ、雑草の神様が頑張るはずだ!」
 	      
 	       
 	       † 四日目 †
 	      風呂からあがったばかりで喉が渇いていた。浴衣のあわせをはたはたと開けて風を取込ながら、台所に向かう。ガラスのピッチャーから麦茶を注ぎ、ついでに食材を確認する。とりあえず朝ご飯用の卵があればそれでいい。浅漬けもあるのを確認し、ドアを閉めた。
 	        「……」
 	        もう一度ドアを開け、息をつきながら目を閉じると、どんと肩に重みがのった。
 	        「ずるいぞ、菊〜。一人で涼もうとして」
 	        おんぶおばけのようなアルフレッドを慌てて引きはがす。
 	        「ち、違いますよ。中を見ていたんですっ」
 	        「ふうん?何があった?」
 	        「えっと――卵と、浅漬けと。あと、コーラもありましたよ。牛乳も」
 	        確かめるように冷蔵庫を開けてコーラの瓶を取り出し、ぽんと栓を抜いて直接飲む。ぽんと口を離して、ぽそっと呟く。
 	        「卵と牛乳……。アイスクリーム、食べたいなあ」
 	        菊は苦笑した。
 	        「無理ですよ。冷凍庫ないんですから」
 	        「だよねえ。生クリームもないし」
 	        ふう、とため息をつく。
 	        それへの同調という調子で菊も苦笑する。
 	        この家にないアメリカの食べ物を口に出されるのは、『夏休み』を始めて以来、何度目だろう。それがここにないことなど最初から分かっているはずなのに。
 	        和食が嫌いな訳ではないのだろう。薄味だと思っているのは丸わかりだが、それでも真似事のように手を合わせてイタダキマスという顔は喜びに溢れている。食べるという行為に対してだけではない、口幅ったいことだけれども、菊が毎食つくり一緒に食べるということが心底嬉しいのだと感じ取れる。
 	        だから、この「あれが食べたい、これが食べたい」に含意はない。日本の食にだめ出しをしているわけではないし、『夏休み』を止めようと言っているわけでもない。ただ食べたい。幸せのアイスクリームに幸せのチョコレートシロップをかけたいな、というくらいのことなのだ。
 	        「食べに行きますか?折角だから銀座にでも」
 	        「えっ」
 	        一瞬顔を輝かせたアルフレッドは、けれども、口を閉じた。
 	        「……いや、いいや」
 	        「どうしてです?」
 	        「君がそのデートを楽しんでくれないから」
 	        「え……」
 	        アルフレッドの大きな手が、ぽんと菊の肩にのる。
 	        「君も『楽しい』って思ってくれるようになったら、行こう。夏休みじゃなくってもさ」
 	        「……」
 	        菊は顔を逸らした。
 	        気づかれている――のは分かっていた。向けられる白い目を痛いと感じるのは、アルフレッドの方ではなく、菊の方なのだ。
 	        楽しいと思えるようになる、のはいつだろう。菊が「世間」というものを気にしなくなる日。そしてアルフレッドと菊が街中でデートをしても、したいだけいちゃいちゃしても、白眼視などされなくなる日。……そんな日がくるとは、今の菊には、思えない。
 	        顔を背けているのを分かっているだろうに、何も気づいていない体で、アルフレッドは菊の頭を引き寄せ、額に軽く朽ちづけた。
 	      
 	       
 	       † 五日目 †
 	      家中を拭いて回っている菊の後ろを、手伝いのような体であちこちを濡らしていたアルフレッドの動きが止まっている。どうしたのかと戻ってみると、柱のところでしゃがんでいる。
 	        「どうかしましたか」
 	        「うん。なんか、彫ってある」
 	        菊もしゃがんで柱に手を当てた。
 	        「ああ。柱のきずはおととしの、ってやつですね。そうやって子供の身長の定点観測をするんですよ。ほら、線の下に、きよしとか、あきらとか」
 	        「へえ!毎年家の前で家族揃って写真を撮るような感じかな」
 	        「ああ、そうですね。まあ、丈比べは伸び盛りの子供だけですが」
 	        アルフレッドはにこりと笑った。
 	        「日本人は子供好きだよね」
 	        笑みを返して、刻まれた十数本の線を撫でる。線の横には名前が交互に書いてある。兄の背に弟が追いつき、また引き離され、追い越す。自分たちから見ればほんの一瞬の、だけれどもこの家族には密度の高い年月がこの柱に詰まっている。清。昭。決して菊の年に追いつかない二人の兄弟は、いつ菊の身長を追い越したのだろう。
 	        「この家、君が手配してくれたのかい?」
 	        「いえ、上司が」
 	        そう、と頷いて、アルフレッドはぐるりと首を巡らした。
 	        「……いい家だね」
 	        菊は少し笑った。
 	        「貴方には、狭いでしょう。というか、低い?」
 	        アルフレッドも笑って、何度かぶつけた頭頂部をさすった。
 	        「確かに、俺とイヴァンなら、二日と暮らせないかな。顔を見なくて済む所に逃げられないからね。でも君となら、家のどこにいても君の気配を感じられる」
 	        手を引かれるのに従って膝をつくと、首を伸ばしてちゅっと頬に口づけられた。それを覆うように手を当てて、菊は笑った。
 	        「貴方とイヴァンさんがこの狭い家で暮らす一週間を隣から眺めるのは面白そうですけどね。仲良くならないと玄関が開かない家!企画」
 	        アルフレッドは大きく肩をすくめた。
 	        「屋根を踏み抜かずに隣の二階に飛び移る方法を忍者に教えて貰わなきゃ!」
 	      
 	       
 	       † 六日目 †
 	      半分残してしまった西瓜は、今更ながら冷蔵庫に戻した。
 	        イタダキマスは昨日までと同じくにこやかにやるけれども、黙って咀嚼している。菊の方も味付けがどう天気がどうと呟きはするが、それはほとんど独り言で、だから会話にはならない。
 	        風呂を先に勧めて、その間に洗い物を済ませ、明日の米を研いでいると、いつの間に来ていたのか、アルフレッドに後ろから抱きしめられた。
 	        このように抱え込まれると、菊の肩幅はすっぽりとアルフレッドのそれに収まってしまう。頭一つ分高い身長のせいで、横だけでなく縦も折り込まれるように、頭に顎をつけられる。
 	        「……」
          米に埋まった菊の手にアルフレッドの大きな手が重ねられる。ざりざりと音を立てながら指と指が交差する。暗い台所の隅で、二つの手は水の中の雪にその色を沈める。
 	      ――世界は白か黒かの二分法じゃない。
 	      「違い」は、どちらにとっても前提だ。国という存在である以上、違いがあるから、同じものとしてまとまれないからこそ、私たちはこの世に在る。
 	        ことの最初から、出会いさえも剣呑で、八つ橋抜きに帰れと言って、それでもあの日手を引かれて見た景色は忘れられない。腕力に違いがあったからこそ、新しい世界が切り開かれた。友情も、愛情も。
 	        違うものに対する忌避はどちらにもあった。好悪様々な国民感情を滝行のように浴びせられて、憧れも憎しみも受け取って、それでも、惹かれた。
 	        世界が二元論じゃないことは、自分自身の心が証明済みだ。
 	        ざり、と米の中で手が動く。乳白色の波が立って、収まった。
        
 	       
 	       † 七日目 †
        夕日に目を射られながら洗濯物を取り込んでいると、隣の窓のカーテンが動いた。
          前にこうして見られたときには部屋に逃げ戻った。今回は、と菊は物干し台の手すりをぎゅっと握った。案の定、揺れたカーテンは閉まらず、冷たい視線を見せ続けた。
          自分はこの人に疎まれている。そんなことを自覚するのは辛い。
          「あのっ」
          菊が声を張ると、流石に意外そうに、その目が見開かれた。下町だから隣家までの距離は短い。普通に話すだけで聞こえるだろうが、丹田に力を込めて出さなければ声がただの息になってしまう。
          「私、――私たち、今夜、出かけます」
          「……」
          何を言い出すかとでも言うようにその目が冷たく眇められる。
          「デート、するんです。だって、――だって私たち、恋人同士ですから」
          言い切った。手すりを握った手は力を入れすぎてもはや感覚を失っている。アルフレッドは誰に対しても裏表がなく、だから二人の交際は国の集まりの場では周知の事実として扱われている。フランシス辺りにからかわれるのさえ慣れている、けれども自分から言ったことはなかった。
          長い沈黙の後、シュッと音がして、男の口元に赤い火がともった。それをハエのようにゆうらり動かして、もう片方の手で金の髪を掻き上げて、男は「へえ?」と言った。
        
 	       
 	       
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