八日目 (2)

 

※ご注意

・「一週間同棲」米日第二話。


 

 † 一日目 †

「ばあべきゅう」
「イエース!」
確かに、ただ一週間暮らすにしては大荷物だと思っていた。ボストンバックの他に台車のようなもので箱まであったから、一体何を持ってきたのだろうと訝しんではいたのだけれども。
引っ張り出してきた鉄板と網を大量の炭火の上にだんと構え、そこで肉を焼くのだという。
「庭で」
「庭で!」
もちろん肉も持参。それがまた恐ろしい量で、この人は一体何十キロを担いできたのかとくらくらしてしまう。
「それは……お隣さんには煙がいってしまいますね」
匂いも。それがどう受け止められるかは分からないけれども。
「だねえ。思ったより隣が近いな」
軽く眉間を寄せているが、これは「困った、どうしよう」という顔ではない。「ちえっ、まいったな」くらいだろう。
「日本ってこうなんです」
「そうなんだなあ」
腕組みをして、大きくため息をついている。そして、それをほどきがてら、両手を軽く開く。
「まあ、まさか隣が文句をつけてくることもないだろうけど、気になるならオスソワケでもしてあげて。焼いたマシュマロのビスケットサンドでも、さ」

 

 † 二日目 †

声にならないわめき声をまき散らしながら一階に戻ると、ペーパーバックをぱらぱらめくっていたアルフレッドが「どうしたんだい」と首を捻った。
「お隣さんと目が合っちゃいました……」
「うん?」
それがどうしたのかという顔だ。
「こんな遅い時間に、シーツ洗って干してるところを、見られたってことです」
「ああ。それがどうしたんだい?」
「絶対あれは『昨日はお楽しみでしたね』って顔です……!」
両手で顔を覆うが、アルフレッドは羞恥心を共有しようという気すらみせない。
「そうだよって顔すりゃいいじゃないか」
差し伸べられた手に導かれて隣に腰を下ろすと、頬にキスをされた。
「俺は、昨日も昨夜も、とてもとても楽しかったんだぞ。君は?」
「……」
そんなことを聞くかと口を尖らせていると、今度はそこに軽いキスが落ちる。
「この一週間は、君といちゃいちゃする以外のことは何も考えたくないよ。もし君が隣近所の目が恥ずかしいって言うんなら、洗濯物を干すのも食料品の買い出しに行くのも、全部俺がやる」
「そんな訳には」
思わず口を挟んだが、まあまあと手で制せられる。
「いくらサマーバケーションだと言っても、俺はこの一週間の休みをもぎとるの、すごい大変だった。多分、君はもっと大変で、いろんなところと交渉してくれたんだと思ってる。これに付き合ってくれてるってだけでも愛されてるって実感するし、だから愛おしいと心の底から思うし、全身全霊かけて愛したいと思う」
「……」
正面からそう言われて、菊は胸に押し寄せるものの熱さに思わず目を伏せた。
「私だって……それは……」
「したいから、そうしている。人の目とか、意味とか、そういうのは、君が好きだって気持ちの前では吹き飛ぶくらいのものなんだ」
「……」
そう、は、言い切れない自分がいる。菊はそう思った。世間の目が何より気になる器質との付き合いはアルフレッドとの交際よりも長いのだ。あの家は、若い男がアメリカ人の男を連れ込んで、日がな一日何をやっているのやら。近所にそんな風に噂されているのではないかと勘ぐってしまって買い物に行く勇気も出せない。そして、自分たちがそうしていることの意味だって、詮無きことと知りながらも考えてしまうのだ。
それでも。菊は拳で胸を小さく叩いた。自分で決めたことだ。約束をしたのだ。
「……そうでしたね。私も、貴方のこと以外は考えないようにします。貴方と、貴方との共同生活以外のことは」
「うん」
今度は軽い音を立てて、頬に口づけられた。

 

 † 三日目 †

素麺の鉢をどんと置くと、アルフレッドは「Oh……」と言った。
「今日もかい」
「明日もですよ。乾麺で、ゆでるだけ。これ以上に夏の昼食に向いたものはありません」
アルフレッドはまた「Oh!」と叫び、そのまま頭を後ろに倒した。そうして天井を見たまま呟く。
「ハンバーガーが食べたいなあ」
菊は片眉を上げた。
「『夏休み』、打ち切ります?」
急速に顔は戻され、ぶんぶん、とふられる。
「でもさ、君も食べたくないかい?肉汁がじゅわっと出てくるような焼きたてのハンバーグに、しゃきしゃきのレタス、甘酸っぱいピクルス……」
「ああ、そういえば青菜漬けがあったのでした」
小皿に盛ってくると、アルフレッドは「そうじゃない」と首を振りながらそれでも箸をのばした。
「むしろ、よくこの暑さで食欲が落ちませんね」
「暑くて辛いなあという時ほどしっかり食べたくならないかい?」
今度は菊が首を振る。
「夏に食欲が落ちるのも、だから体力が無くなるのも、毎年のことですから。敢えて食べるとしても鰻くらいですね」
「鰻は……ノーサンキューなんだぞ」
菊は胡乱な目になった。
「アーサーさんとこの鰻料理を想像していません?」
「だって、調理法は違ってても食材があれと同じなんだろ」
そうは言われたくない。けれども、食べる用意のない魚のことで争っても仕方ない。
菊は冷水の中から白い麺を引き上げながら宣言した。
「明日も素麺です」
「えええええ」
「……でも、ちょっと食べ方変えてみましょうか。キュウリやトマトと一緒に盛って、マヨネーズと割り下を混ぜたもので和えて」
分かりやすくアルフレッドは目を輝かせた。
「マヨネーズ!」
「蒸し鶏のほぐしたものなんかも合うかもしれませんね」
「フウウウウ!とっても美味しそうなんだぞ!」
「ま、それは明日ですけど」
今日はこれ、と菊は汁を含んだ麺をすすった。

 

 † 四日目 †

「やっぱり、洗います」
決意して立ち上がると卓袱台の向こうでアルフレッドが目を瞬かせた。
「お茶碗も服も、さっき洗ってきたじゃないか」
「いえ、シーツです」
「えー。昨日はゴム使ったからそんなに」
「しゃらっぷ」
鋭く遮って、こほんと息をつく。
「何がどうあれ、夏ですから。そうでなくても夜寝ていればコップ一杯分の汗をかくのです。今夜の快適のために私はシーツを洗います」
そう言ってあげておいた布団からシーツをはぎにかかると、なぜかアルフレッドもついてきた。
どうしたんですかと聞くと、きれいなウィンクを返された。
「『今夜の快適のため』なら俺もやらないと」
「そういう意味では、全く、ないです」
軽く睨むが、まあまあといなされる。ベッドスプレッドとは仕組みが違うだろうに器用に布団からシーツを外し、大きく折りたたんで掲げてみせる。先日のどたばた以来、アルフレッドは家事に協力的だ。いや、何をするにもつきまとって、隙あらばいちゃいちゃしようとしている、という方が実態に近い。
「で?やっぱり洗濯機は使わないのかい?」
「そのネタ、しつこいですよ」
つん、とアルフレッドに背を向けて、庭に降りる。大盥に水を張って石鹸を泡立て、その中にシーツを放り込むと、アルフレッドは映画俳優がやるような仕草で「ジーザス!」と言った。
「当てつけにしたってさ!そんな原始時代みたいなやり方しなくったって」
鼻で笑ってやる。
「させて!って言いたくなりますよ」
そして着物の裾を絡げて、足を盥に突っ込んだ。
「えっ」
まだ朝の内とはいえ、そろそろ汗ばみはじめる頃だ。踝まで水につかる心地よさに、菊は大きく息をついた。そして目を丸くしたままのアルフレッドにもう一度笑ってみせて、足踏みを始めた。
縁側で見ていたアルフレッドはぷく、と頬を膨らませる。
「気持ちよさそう」
「ええ」
「やりたいな」
「原始人みたいに?」
ぶううう。
膨れて、そのまま拗ねるかと思いきや、突然「えい!」と盥に飛び込んできた。
「きゃっ、え、わ、わ」
避けようとしてそのまま倒れそうになったところで、腰を抱き留められる。
「ちょっと!」
何をするかと抗議しようとしたが、両手をとられてしまう。
「一緒に踊ろう!」
遊びじゃないんですよと言おうとしたが、娯楽のようにやってみせていた手前、抗議がしにくい。そして動作としては大差ない。ただ、狭い。
狭いから、アルフレッドの笑顔はすぐそこにある。ハミングで口ずさんでいるのは今流行りの音楽なのだろう、その軽快なリズムに合わせて握られた手は挙げられたり下げられたり、そして引き寄せられたり。
最初は隣の目を気にしていたが、めまぐるしく動かされて、もうそれどころではない。ステップなど踏めないが、アルフレッドの刻む調子に合わせて足踏みしているうちに、どうしようもなくおかしくなってきた。一度口から空気が漏れると、もう留めることができない。笑い出すと、アルフレッドも笑った。笑いながら手を取り合ってくるくる回った。
何をやってるんだか。そう思うけれども。子供じゃないんだから。そうも思うけれども。
それでも、今楽しいと思っていること、こんな風に楽しくやっていけたらいいと思っていることは、そんな考えで萎れない。
足下からたったシャボン玉が二人の周りに煌めいて、そしてはじけて消えていった。

 

 † 五日目 †

りんと風船が鳴り、菊は目を上げた。いつの間にか卓袱台に肘を突いたままうとうとしていたらしい。寝汚い、と頬を軽く叩いて顔を巡らすと、縁側で大の字になったまま直射日光を受け止めるアルフレッドが見えた。太陽が傾いたせいで陰から引き出されてしまったらしい。暑いのだろう、眉根を寄せて、苦しそうにしている。
「あら、まあ」
脇を掴んで座敷に引き戻そうとしたが、びくともしない。一体何貫あるのだか。困った。
菊は台所へとって返し、手ぬぐいを水に浸して軽く絞り、玄関から傘を引き抜いて、縁側に戻った。傘を広げて庭側に回り込む。日差しが遮られたからだろう、ふっと顔の険しさが緩んだ。額に浮いた汗を手ぬぐいでおさえようとして、菊は一瞬その手を止めた。
今、ここで、この布で、この顔を、覆ったら。一体何がどうなるのだろう。
私たちはあくまで結果を生きている。好況不況をうけて体調が変わりはするが、転んで怪我をしたからといって国民の誰かが傷つくわけではない。どれだけ爛れた夜を繰り返そうとも、跡の残るほどつねろうとも。
私たちの交情は、何も生まない。憎しみさえも、ただ与えられるだけ――。
手を止めたのは一瞬。菊はすっ、すっと汗を拭って、その手ぬぐいを首筋に当てた。
驚いたように目を見開いたアルフレッドは、菊の手に手を重ねて、「気持ちいい」と呟きながらまた目を閉じた。

 

 † 六日目 †

喉に手をあてた。肌のぬめつきとは裏腹に、内側はからからだ。開け放した日本家屋で、こんな昼日中から。そんな言葉もブレーキにならず、ひたすら喘がされた。
肩口で額の汗を拭い、ようやく上半身だけを起こしたら、食べかけの西瓜が目に入った。もうぬるくなってしまったに違いない。それでも水分は水分。そう思って、卓袱台に這い寄り、崩れかけた果実を食んだ。泡のような繊維のような果肉が唇の周りに絡みつく。わずかに眉を寄せつつ、手の甲でそれをぬぐい取って、一切れ食べ終えた。
しゃくしゃくという音に起きたのか、アルフレッドは体を起こし、菊を見ている。
「貴方も食べますか」
手に取ったばかりだったそれを差し出すと、一瞬顎を引く。
「いや……」
喉が渇いてはいるのだろう、断ったくせにちらちらと菊の食べる西瓜を見ている。やがて、やはり水分が欲しくなったのか、卓袱台に置かれたままの包丁をとってざくざくと切り、小ぶりなピースを作っては口の中に入れた。
大きな口を持っているくせに、妙に上品ぶるものだと考えながら次の一切れにかぶりついて、突然気づいた。
「……もしかして」
「うん?」
菊は口の端を手首で拭った。
「貴方にとって、この食べ方は、野蛮ですか」
「ん、」
そうなのだと分かって聞いたのに、アルフレッドは返事の言葉をしばらく探した。
「ワイルドだな、と、さっきは思った」
「つまりそれは」
気づいたのは、その先だ。
「『非白人的』ですか」
それが尋ねられていると分かっていたアルフレッドは、だから肩をすくめた。
「『君たち』がどうこうって話じゃないよ」
そうなのだろう。黄色人種、または日本人への蔑視と結びつけられているなら自分で気づいている。彼の中だけのことだったから、意識が届かなかった。
「――でも、結局、『自分たち以外』であり、『非文明的』なんですね」
アルフレッドは僅かにメガネの縁を押し上げた。そのせいでガラスが彼の表情を隠す。息を詰めていた菊をしばらく見つめて、アルフレッドは大きく息をついた。
「……その話、続けるかい?『夏休み』が終わっちゃうよ」
「……」
そうやって誤魔化すのか。蒸気口に蓋をして、その上でアイラブユーと手を広げるのか。そんな『いちゃいちゃ』に意味なんて――そこまで考えて、しかし腹の中のとぐろは急速に勢いを失った。
意味は最初からない。ないのだと、知っていて始めたことだ。それでも一週間、と約束した。
「……片付けます」
手に持ったままだった一片はもう捨てる気で、立ち上がろうとしたら、その手を捕まれた。
「一言だけ」
そして、その菊の食べかけの西瓜にがぶりと歯を立てる。西瓜は大きくえぐられ、その抵抗にか、アルフレッドの白い頬に汁をなすりつけた。菊から目を離さずそれを腕で拭い、アルフレッドは言った。
「世界は、白か黒かの二分法じゃない」
離されて、はじめて、しびれるほどの強さで手を握られていたことを菊は知った。こくりと唾液を飲み込んだ菊に、先ほどとは打って変わった軽い調子で、アルフレッドは「顔、洗ってくる」と言い置いて立ち去った。

 

 † 七日目 †

「蛍?」
「ええ。都心に名所があるんです」
「へえ。水が綺麗な所にしか生息しないのに」
「椿山荘という、もとは元勲の別荘でして、庭園が広いので生き残っているようです」
いつの間にかアルフレッドのコップは空になっている。ピッチャーから麦茶を注いでやった。
「庭園デートか。いいね。fireflyの光できらきらして!」
きらきら。蛍狩りに使ったことのない形容に菊は手を止め、首を傾げた。
「え。光るよね、日本の蛍も」
「もちろん光りますけれども。なんというか……ネオンサインやシャンデリアとは違う趣があるというか……」
「そりゃあそうさ、なんたって生き物があんなに発光するんだからね。It's miracle!」
それも違う気がする。そもそも「火のハエ」という言い方からして情緒から遠い。
「儚いと思えばこそ命の燃焼に感じ入る――というのは」
予想外のことを言われたというようにアルフレッドは目を見開いた。
「……そんな風に思って、蛍を見るんだ、君は」
「……ええ」
へえ、とアルフレッドは肩の力を抜いた。菊は苦く笑って呟いた。
「私たち、色々違いますね」
「ほんとだな!」
菊は目をあげた。言葉では肯ったのに、気持ちは共有していないらしい。声音に負の色はなかった。こくり、と麦茶を飲んで、アルフレッドは続けた。
「面白いね!」
菊は瞬きをした。アルフレッドの顔に、誤魔化しの気配はない。本心からそう思っているのだ。――いや。「それも彼の本心なのだ」。そういう人なのだ。矛盾はない。いや……、それも違う。矛盾によってぶれることがない。それはそれ、なのだ。
こんなにも違う私のことが、それでも好きですか。そう聞けば、ためらいなくイエスと言うだろう。
黙っている菊に、アルフレッドは「どうかしたかい?」と瞬きした。
「いいえ」
菊は麦茶を飲んだ。
問うのなら、問われることを考えなければならない。こんなにも違う彼が、それでも好きか。――好きなのだ。だから、ここに、こうしている。違うと思っても。ただの差ではなく優劣の違いと認識されるものであったとしても。それでも好きで、だから苦しい。
「……庭園デート、楽しみましょうね」
うん!とアルフレッドは破顔した。

 

 

 

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