※ご注意
・文学者パラレル、ギル←菊←アサ、死にネタ、歴史的事実及びその捏造・改変ありです。
・以上が苦手な方、この時代のドイツについて少しでも地雷のある方にはUターンを強く推奨します。
【1. 2. 3. 4. 5. 6.】
つもった雪を踏みしめながら、菊はギルベルトの家を訪ねた。ドアベルを鳴らすが誰も出ない。そんな日が二日ほど続き、今日は最初から庭に回った。旅行に出ているのかもしれない。そう思って雪を冠した庭木の横を抜けたら、あの南天の木が育っていた。もとがもとだけに「木」と呼ぶのが憚られる大きさではあるが、それでも立派に実を付けている。白い雪にその赤は映えた。この木がここに根付いていることへの感慨が、長い時間菊をそこに留めさせた。もし降っているなら肩につもっただろうというほどの時間しゃがみこんでそれを見つめていたら、突然足下の窓が開いた。
鋭角に向かった菊の視線の先には工作用の机があった。のっていたのは、時計に見えた。たくさんの導線と、それに繋がれた無機質に光るものが無ければ。
「…!」
菊は閉めようとされた窓に急いで手をかけた。ぐぐ、としばらく攻防が続く。
「……大声を出します」
その菊の脅迫に、諦めたようにギルベルトは「そこで待ってろ。行く」とため息をついた。
言葉に嘘はなく、ほどなく彼は姿を見せた。彼を待つほんのわずかの間に、雪がちらつき始めた。先ほどのセーターの上にウールのオーバーを羽織っている。菊が口を開くより先に、ギルベルトは言った。
「時計だ」
「……」
「弟が昔学校で作らされた鳩時計を直していただけだ」
「……」
そんなことを言うこと自体が、言葉を裏切っている。菊は自分の外套を握った。何かを握りしめていなければ震えそうだった。
「その『時計』で、何をしようとしていたんですか」
ようやく絞り出した声は掠れていた。
「……」
ぎゅ、とギルベルトの足下で雪が鳴った。
「……貴方は、ペンを手に持つ人でしょう……?」
「……」
小さくギルベルトは雪を蹴った。
「あれで、何を伝えられるというのですか」
黙っていたギルベルトは顔を上げ、静かに菊の眼を見た。
「『Nein』だ」
「Nein…?」
否定。違う。こんなのは、――青い鳥じゃない。その一語を突きつけるために、ギルベルトは手に暴力を持つという。
「チルチル・ミチルの家にいた青い鳥は、最後、逃げてしまうんだ」
「……はい……?」
「ものとしての『幸福』はない。それは、見ようとするから見えるもので、そこにそれをあらしめるために努力するからあるもんだ。…『平和』もそうだろ」
「……」
「戦争をしていない今は平和なのか?今は本当に『大戦後』なのか?今を『戦前』にするかしないかは、俺たちが今何をするかにかかってんんじゃないのか」
「そ、…そうかもしれませんが!」
菊は髪をぐしゃりとかき乱す。薄くのりはじめていた雪がその動きに振り落とされる。
「その『何か』が、あれ、ですか…!?」
「……」
「私がしていることには意味がないというのですか…!」
いや、むしろ。この路線がいやだというのなら、外交官としての菊がしていることは、ギルベルトには害悪なのだ。前髪を掴んだ菊の手をギルベルトは掴んだ。
「そうは言ってねえだろ!お前の国はまだ政党活動も労働運動も盛んで、排外主義も世論の中心じゃねえ。ペンクラブも機能している」
今年、日本をジャン・コクトーが訪問した。文芸家協会がホスト役を努めたらしいが、日本ペンとも交流したという。息苦しさは強まっている、一方確かに海外へ関心は開かれている。今はまだ多分、道はあるのだ。ただ孤立から引き返す道は、体面としてだけでなく経済的にも苦境を強いるというだけだ。ドイツには、もうナチス以外の政党はない。議会が一党に支配されている以上、「合法的」という言葉は「体制従順」という意味にしかなりえない。
「行動も表現だろ。もう、普通の言葉は弟に届かねえんだ」
ぎゅ、と捕まれた手を掴み返した。
この人を動かす、誰もかもがにくいとさえ思った。きりりと睨むと、ギルベルトは怯んだ。
「私は……ギルベルト君を止めることができます」
それこそ、強制的に。この人を、破滅させることで。
「…あんだよ」
気を緩めると涙がたまりそうだった。
「私はっ」
目に力を入れ、声を張る。隣家に人がいるのかいないのか知らない。しかし、いるなら聞こえる音量だった。
「ギルベルト君がっ………」
「―――っ!!」
言わせて、くれなかった。
掴んだ腕は強くひかれ、そのまま二人は雪の上に倒れた。どさりという衝撃に、傍らの南天の木が揺れた。
片手によって物理的にふさがれていた口が、ようやく息をつけるようになった後、ギルベルトは小さく囁いた。
「お前を巻き込むな、馬鹿…!」
「私を捕まえる権限を、この国は持ちません」
「でも失脚するだろ!」
「本当に足を失うわけではありません。たとえ足を失っても、ことばを失うまでは、私はやめません!」
しがみついた。彼の上肢の長さと厚ぼったいオーバーは回した手を背中で交差させてくれなかった。それでもいいから、体をひきとめようと体側を必死で掴んだ。
「お前な……!」
がりがりと髪をかいて、ギルベルトはため息をつく。
「俺は、そんなたいそうな人間じゃねえ」
「知ってます」
「てめ…」
一度強く睨み、顔を横に向けて眼を閉じる。
「アーサーみたいに、ちゃんと生きて、書けて、人を動かせる人間じゃねえんだよ」
「人と比べる話じゃないでしょう?」
腹が立った。なぜ人を引き合いに出すのかと、顔にも書いて言うと、ギルベルトはまた菊の顔を腕の檻で囲んでため息をついた。
「……俺に、どうして欲しいんだ」
「『時計』は壁に戻してください」
「んじゃ、何もすんなっていうのか」
菊はかぶりをふる。違う、そうは言っていない。
「ただの文字書きになにができるってんだよ……」
なにが。その問いに、所詮異邦人であり、外交官特権に守られる菊は答えを持たない。しかし、それでも。
「私は、諦めません」
所詮ただの官僚、上に言われたことをするしかない。それでも「外交」を任務とする省の中で、できることはあるに違いない。そして、日本ペンにも、また。
雪は激しさを増し、視界を鎖した。もう、この人しか見えない。
はあ、とギルベルトはまたため息をついた。
今日はこの顔しかみていない、と眉間の皺を見ながら思う。険しい目つきながら、その奥の目が揺れている。
――この人が本来持つ、あの快活な笑顔が戻るなら。
菊は、手を伸ばし、南天の枝先を折り採った。小さな実がついてきた。それを口にくわえ、睨む。何かで口を鎖していなければ、封じられた言葉が転がり出てしまう。
南天は、葉にも実にも生薬作用を持つが、同時に毒性も持つ。神経麻痺を引き起こすドメスチンやアルカロイドが含まれるのだ。
――死んでも可い。
そのことを知っていたのかどうか、ギルベルトは小声で悪態を吐き捨て、がばりと体を伏せた。唇に挟まれていた小枝は、舌によって容赦なく捨てられる。そのまま口内に侵入した舌は、火傷のようなちりちりした痛みをまき散らしながら菊の中を荒らした。やっと背中に届いた手は、厚い生地の上で何度も滑った。それでも腕の輪の中に閉じ込めてしまおうと必死で腕を伸ばした。
なるほど、心臓を割るようだ、と菊は思った。今のこの気持ちを言葉にしようとするなら、インクはつまり血に違いない。
口を離し、そのまま菊と額をあわせて、眼を閉じたままギルベルトは呻いた。
「ばっかやろ…」
そんな風に言われる筋合いはない、と菊は思う。
大馬鹿野郎なのはギルベルトの方だ。冗談に紛らわし、何でもない様子を見せていた癖に、結局菊の思いは丸わかりだったのだ。分かっていながら、受け流そうとしていた。ギルベルトに対するほどではなくても、醜聞は、やはり菊を傷つけるから。心臓を取り出して口に突っ込んでやりたい、と菊は思った。
「お前は、もっと簡単に、幸せを手に入れられるだろが…」
そして、そんな残酷なことを言う。その「私の幸せ」の絵の中に、彼を描かせてはくれないのだ。
額をもう一度すりあわせて、ギルベルトは体を起こし、菊の上腕を掴んで引っ張り起こした。無言で服についた雪を払う、その強さはまるで叩かれているようだ。
はたかれるそばから雪は服にとりつき、白くする。菊の手はもうかじかんで感覚を失っている。その手を掴み、無言のままギルベルトは菊を家の中へと連れて行った。
半地下の工作室は、ついたままの石炭ストーブで温められていた。急激な温度差に手と頬が痛み、菊は小さく呻いたが、ギルベルトは構わずストーブの前に菊を座らせた。ばさりとテーブルクロスをひっくり返して机の上のものを覆い隠し、部屋の奥からとってきたバスタオルを菊の頭からかぶせる。菊は動かず、いや動けず、視界を布でふさがれるに任せていた。と、その布ごと、後ろから抱きすくめられる。
一枚の布を隔てて、若干くぐもった声が届く。
「今が、ここが、こうじゃなかったら――」
腕の力が強まり、菊の心臓はまた小さく呻く。
俯くと涙が落ちた。
どうせ見えない。そう思った瞬間、水道の蛇口を開いたように、すうと水の流れが頬にできた。
先刻、冷たい雪の中で、熱い口づけの中で、菊は思った。
いっそ雪がこのまま二人を凍らせてしまえばいい、と。雪を繭として、心を時代から守りたい……と。
そう思い――いや、とかぶりをふった。
もし私がチルチルやミチルの年ならば、そう願うことは許されるだろう。戯曲の最後、青い鳥に逃げられたチルチルは、観客に呼びかける。「どなたか、もし鳥を見つけたら、ぼくたちに返していただけませんか?…いずれしあわせになるには、ぼくたちには青い鳥が必要なんですよ…」。自分たちは、そう訴える子供たちに時代を与えなければいけない、大人なのだ。時代は天災ではない。少なくとも、この年である自分には、そしてそれなりの地位を得ている自分には。「今」は、沢山の「私」がなしたことの集積であり、つまり「私」の責任なのだ。
立場上そう思う菊は、だから、ギルベルトに反論の言葉を持たない。
布越しに菊の耳は小さく囓られた。
犬か、と、菊は小さく笑い泣きする。
と、たかが布の幕にさえ遮られてしまうほど微かな音量で、言葉が耳の中に送り込まれた。
菊はまた小さく泣き笑いを漏らす。
言わせてもくれない、聞かせてもくれない。――なんて、優しくて、ひどい人。
その後、菊の頭は乱暴にタオルでかき回された。盛大にもつれた髪でバスタオルから出てきた菊にギルベルトは吹き出し、わしゃわしゃと手櫛でそれを直した。けせせ、と笑う彼はもういつもの彼で、先ほどまでの時間は忘れたような顔をしている。だから菊も、強引に拭いた赤い目で彼を睨んだ。
「ちゃんと、ブラシ貸してください」
投げられたそれで髪を整え、ぱたぱたと服を確認する。少し汚れたが、もう濡れてはいない。凍っていた血の流れも戻った。手袋の中で手をにぎにぎと動かしてそれを確かめ、菊は「帰ります」と言った。
「――おう」
「時計は、ちゃんと壁に戻してくださいね」
「おう」
悪さを見つかった子供のような顔でギルベルトは笑った。
それが、彼を見た最後となった。
年明けてすぐ、菊はアルゼンチン公使館への転勤を命じられた。電話でそう伝えると、ギルベルトは自分も一旦引っ越すという。ローデリッヒのとこにしばらく居候するという彼に、最後のやりとりを約束としてくれていることを知る。オーストリアは親ドイツ派の勢力が強いとはいえ別の国だから、この移住はいい冷却期間になるだろう、そう思っていたが、翌年には国自体がドイツに併合された。
そして1939年、ドイツはポーランドに侵攻。「戦後」だった筈の時代はその名を「第二次世界大戦中」と変えた。
1940年には外務省筋が阻止していた「軍事同盟」が成立。翌年末には日本が太平洋戦争を起こし、これにより、日本ペンクラブは国際ペンクラブから除名された。
ギルベルトの死は、新聞で知った。アルゼンチンはこの戦争について中立的立場を保っていたが、大西洋と赤道を挟んだ国の事件に大きな注目を与えなかった。彼は、『反政府的言辞』のチラシを配ったとして人民裁判で裁かれ、即日処刑されたのだと、ただそれだけが数行で書かれていた。
菊はその年、職を辞し、故郷に戻った。
丁寧に世話を続けた盆栽の南天は、枯れずに菊についてきた。
南天の花言葉は他にもある。その一つは「私の愛は増すばかり」という。
戦後2年、日本ペンが国際ペンクラブに復帰したとの報も、菊は新聞で知った。
農地改革により本田家も前ほどに豊かではいられなくなったから、農作業のまねごと――というよりは庭いじりの域の引きこもり――をしていた菊もまた働きに出ることにした。公職追放に遭わずに済んだ菊は、村役場で単調な事務仕事を得、パシャパシャと和文タイプライターを打って毎日を過ごした。無味乾燥なお役所言葉はかえって菊を慰めた。もう、どんな言葉も自分の中からは出て来ない、と思った。
村の誰からも「本田様」と言われる立場だった家の、名目上家長である菊は、各方面から見合いの話が持ち込まれたが、やんわりと、しかし断固としてそれを受けず、台所にも自分が立って家政をおさめた。そして、これもまた名義上菊の子とされている甥には、給料の中から養育費を渡してまだ弟の家にいて貰っている。菊に懐いている甥は既に十二歳、もうすぐ新制中学に入る。読み聞かせをしてあげたかったですねと言うと、お父さんを通して菊さんの声を聞きました、などと言う。
名前が印刷物に残るような立場からは全て身を引いたと思っていた菊だったが、ある日、日本ペンクラブから資料提供の依頼が来た。発足以来の歴史をまとめるという。郵送に信頼がおけず、さりとて東京に出るのも億劫で迷っていたら、甥が東京見学をしたいという。この子に対する不義理不面目は果てしない。そう言うなら、と汽車で行くことにした。
会長は既に代替わりしており、顔見知りではない大作家となっていた。事務員に頼まれたものを渡してそっと帰ろうとしたらどこから連絡が行ったのか彼は現れ、菊の手を握って「ありがとう」と言った。ありがとう。君が、つないでくれた。
菊はやんわりと笑った。その頃のことは、まだ思い出になりきれていない。心臓はまだ小さな刺激で、割れる。
甥のリクエストのまま、資生堂パーラーでアイスクリームを食べ、丸善に行った。レモンを持ってくれば良かったですねなどと呟いても、甥にはまだ分からない。首を傾げる子の頭を撫でて、本棚の間をゆっくり歩いた。
それは、待ち伏せしていたかのように、突然菊の目に入った。
洋書コーナーの絵本と児童書の間、平台の端。今月の新刊と貼られた紙の下に、Gilbert Beilschmidtの文字があった。
立ちすくんだ菊を甥は不思議そうに眺めたが、何かを察したのか、声をかけずじっと見守っている。それを気遣う余裕も無かった。訳すなら「金の鳥」と題されたその本を手に取る。こんな本は――私は知らない。
頁をめくると、解説にArthur Kirklandの署名があった。
――この原稿は、何重にも封筒に入れられて投函された。一番上の封筒の宛先はスウェーデン、次の封筒の宛先はアルゼンチン、次はブラジル、また次、次…最後に、国際ペンクラブセンターに宛てて。各封筒には、ことの次第と、中の封筒を投函してほしいとの依頼の手紙が入れられていた。各国ペンの受け取り手は順繰りにその依頼を果たした。そうして、手紙は地球を一周して、戦争の時代を飛び越して、私の元へ届いた。
賭だったろう。郵便事情が極端に悪い中、そしてドイツ人の署名をしつつ敵対国へ渡していくその封筒が最後まで行き着くかどうかは。
そして、祈りだったろう。届けたいことばを届けたい人に届けられる時代がくることへの。
彼は、自由という言葉を戦時下のドイツ国民へおくり、それを理由に断罪された。
言葉は人を殺させる。しかし、祈りはやはり言葉を通じてなされる。「ペンは剣よりも強し」と古人は言った。剣はペンを折る。しかし、ペンは剣を越える。
本書は世界中の子どもに向けられている。
が、とりわけ、私たちがともに愛した人へ届くことを、世界の片隅で祈っている。
もし奇跡がその人へこの本を届けたなら、その国の子どもたちへ彼の祈りを伝えて欲しいと願っている。
「……菊さん」
その心配そうな声音に顔を向けて、菊はいつの間にか涙していたことを知った。
「……」
「だいじょうぶ、ですか…?」
はい、と答えようとして失敗し、菊はただ笑った。涙は止まらなかった。
しばらく逡巡していた彼は、ハンカチを取り出し、そっと菊の頬を拭った。
ありがとう、と菊は言った。
「もう大人になった貴方ですが……、ホテルに戻ったら、読み聞かせをさせて下さい」
「…その本ですか?」
洋書ではないかと驚いたような顔をする。
「ええ。全身全霊をかけて、訳しますから」
そこで紡がれる言葉は、確かに「表現」と言えるだろうと、初めて菊は思った。