SSSsongs37(ギル菊アサ) ・5

※ご注意

・文学者パラレル、ギル←菊←アサ、死にネタ、歴史的事実及びその捏造・改変ありです。
・以上が苦手な方、この時代のドイツについて少しでも地雷のある方にはUターンを強く推奨します。

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「壮大な空虚」とアーサーが評した「民族の祭典」は雷雨のような拍手の裡に終わった。この金メダルの数に現れたドイツの跳躍台が、巷間に言われるように自尊心回復欲求なのだとしたら――世界大戦後の鬱屈はどれだけのものだったのだろう。
あの大戦は、時代のねじを大きく巻いた。進んだと思った部分もあった。国際的組織ができ、不戦条約さえ成った。これからは外交の時代だと檄を飛ばされた。人類は戦いの衝動を理性で克服したのだと――その認識が間違っていたのだとは、言いたくない、まだ。
ギルベルトが菊を遠出に誘うことはほとんどなくなった。ただふらりと家に来てソファに転がりごろごろしては帰って行く。猫のような人だと思う。
翻訳の仕事は減っているのだという。「まあ、俺は過去の遺産で食っていけるからよ」と嘯き、実際生活には困らない程度の版権収入があるようだ。
「確かに、生活水準があがったんだ。俺のくっだらねー馬鹿話も好景気の恩恵にあずかれるくらいには」
と両手に頬を埋めて、ある日ギルベルトは言った。
「失業率は格段に減った。再軍備によって工業も活気づいたし、政府がルートを整えたから外国旅行なんてのに行く国民も増えた。あー、イタリア行きてえな。一緒に行こうぜ」
「そんな暇あるわけないでしょう」
日独提携交渉は大詰めだ。互いに組むことのメリットよりはデメリットを感じているために、軍事同盟色を減らして当面国際社会に波風を立てないよう工作している。イタリアか、と菊はため息をつく。多分次は三国提携交渉になるだろう。
忙しい毎日の中で、この人が来る時間だけが潤いになっている。棚から蒸留酒を出し、グラスを二つ並べ、菊も並んで腰掛けた。
抱いたクッションに顎を埋めて、ギルベルトは呟いた。
「古典を読め、知見を広げろ、科学力、技術力を高めろ……言ってるこたあ、正しい。『普通』の人間が普通に生活する分には、何もおかしなところがない、むしろ良くなってるんだろな」
『普通』でない、とみなされた人間には、追放や逮捕の手がじわじわと及んでいる。共産党員でも聖職者でもないとはいえ、ギルベルトのような自由人にはこの体制は窮屈なのだろう。
注がれたシュナップスをくいとあけて、ギルベルトは口をとがらせた。
「イタリア語できたら仕事あったかもなー。ラテン系は手出さなかったからなー」
「系…というと」
「スラブ系は、辞書ひきゃ大抵なんとかなる。ちゃんとやったのはロシア語だけだけどな」
「そうなんですか」
主な仕事は英独翻訳だと聞いていたので、少し驚いた。そういうと、「もっと仕事ねえの」と手を振る。なるほど、なにせ現在進行形の日独提携も結節点は「反共」だ。
それはともかく、菊などにとっては、ロシア語というと、もはや手を出す気にもならない難解言語の代表格という気がする。主要国の言葉は挨拶に支障のないレベルでおさえてはいるけれども、翻訳の仕事ができるほどに学ぼうという気になれない。ロシア文学はもっぱら訳書で読んだ。
「……友人に露文をやった者がおりまして、『アンナ・カレーニナ』の冒頭を朗読してくれたんです。もちろんさっぱり訳はとれなかったのですが…」
「あー…、『幸福な家庭は凡て其の幸福を同じうして居るが、不幸な家庭はそれぞれその不幸を異にして居る』、か?」
「はい」
この場に誂えたようだ、と菊は思った。大衆社会の特徴は「多様にして画一」。今のこの国を支える中産家庭はどこも同じように幸せの絵を描いている。
「その辺り、原語で聞くと、なんだか響きが重いのですね」
少し空中に目線を浮かべたギルベルトだったが、やがて「…ああ」と言った。
「ドム(家庭)って音が何度も繰り返されるからか」
「何か、弔いの鐘の音のように響きました。――この『響き』は、訳書では伝わらないのですよね」
「ああ……だなあ。上手くそういう音の訳語が見つかれば別だけど」
なんとなくその言葉をきっかけに翻訳の話になった。菊にも時間があったので、つまみを出して杯を重ねた。
「言葉の、音の類似性の話じゃなくて、生活習慣の類似性も、翻訳の時に大きな助けになりますよね。我が国では牧畜の経験がない人の方が多いので、時々当たり前のように出てくる畜産まわりの描写に、説明が必要になるんです」
「そういうのあるだろうな――いや、それを言うならお前のところの小説の方がこっち持ってくるの難しいんじゃねえの」
「実際少ないですしね」
「猫のやつと踊り子のやつは英訳で読んだけど、やっぱりこっち舞台の方が読みやすかったな」
どきりとした。アーサーも読んだという二大巨頭の作品だろう。日露戦争の頃、日本を知って貰うためにと肝いりで翻訳されたらしい。
「…漱石の思考は、当時の日本の思想界や社会状況と不可分ですから…」

そして、『舞姫』もそうだ。――嗚呼、くこゝに写さんも要なけれど、余が彼をづる心のに強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき――何度読み返し、その言葉の美しさに心をふるわせたか。しかし、多分彼の「詩人の筆」は時を越えて愛されるだろうけれども、あの物語は、あの頃日本が、文字通り血税としてかき集めた資本を留学生に投下し報国を義務づけていたという状況なしには成立しがたいだろう(その前提が無ければ、主人公の所行はただの非道である)。そもそも外国人女性との恋が醜聞にならないなら、あの物語は生まれさえしなかったのだ。自由な恋を許さない社会は、古今東西、ある。そして、他の何よりも自分のなすべきことを優先させなければならない立場というのも、また、あるのだ。

「……ツルゲーネフに『アーシャ』という小説があるでしょう。あのお転婆なアーシャが主人公に恋をして、呼び出すシーン、ありますよね」
「ああ、エロいよな!震えながら『あなたのものよ…』!」
芝居がかったその言葉に苦笑する。
「あの小説の翻訳が日本近代文学の嚆矢とされているんですが、そこでは『死んでも可いわ…』とされているのです」
「へー!」
「はしたない、と思われるかと懸念したんでしょうね。当時、識字階級の娘は自分から男に声をかけるのでさえ憚られたものですから」
む、とギルベルトは腕を組んだ。
「前提が違うんじゃ、仕方ねえけどよ。あれは、いいだろ。奔放で高貴な、と思われてる『私』が全身『貴方のもの』なんだぜ?」
「路線は同じでしょう。我が身はもう自分のものでないんですよ」
腕を組んだまま首を傾げて、ギルベルトはやがて「ふむ」と言った。
「お前ならどっち?」
「え?」
「どっちがぐっとくるかってこった。よし、良い方いってみろ」
そういうと、ギルベルトはぐっと体を寄せてきた。のしかかるような体勢になって、囁きかける。
「アーシャっ」
おら、言え。そう目で迫るギルベルトの息には酒気が漂う。酔っているのだ。そういえば随分長い時間飲んでいる。つまりは菊の方にも随分と酔いはたまっており、そのため「何ばかなこと言ってるんですか」と押し返すという選択肢が浮かばなかった。
今の若い子なら『あなたのものよ』はおろか、『愛してる』くらい言うだろう。大正という時代を経て、日本人も自我と自由を手に入れた――少なくともその概念と価値を知った。好きな人に好きということを、本当の自分をさらけ出すことを躊躇うべきではない……違った路線に行ってしまった感があるが、自然主義はそうした時代風潮の中で広がっていった。
菊はギルベルトの眼を見た。赤い眼が20センチ先で光っている。『普通』ではない、今のこの国では愛されないという赤目。人を灼くほどの高温を感じさせつつ、冷たく人を見通すこの瞳。
この人は何にも縛られない。人との繋がりが人を強くすると言った、その繋がりが無くても生きていける人なのだ。少なくとも、私との間の線は、寂しいほど朧だ。もしこの人が私との間にくっきりとした線を引くなら。この瞳で私をうつすなら。……未来を、または過去を見るような遠い眼をしなくなるなら。

「………死んでもいい」

ぐ、と詰まるような顔をしたまま、ギルベルトはとまった。そのまま三秒、突然「わあああ!」と叫び、ギルベルトは跳ね上がり、座り直した。
「や、やっべー!俺、今血迷うところだった!!」
ぱち、と菊は瞬きをした。
ゆっくりと身を起こす。
けせせ、と、いつもより更に掠れた笑い声がした。
「危うくダッハウ送りになるとこだったじゃねーかよ!」
肩を叩かれて、菊はぐらりと揺れた。


ミュンヘン郊外に作られたダッハウ収容所始め各地の収容所には、『普通』でないと見なされた人、が収容されている。政治犯、共産主義者、キリスト教聖職者、障害者、そして同性愛者。強制労働が目的と言うが、収容の理由が遺伝的なものであると見なされた場合、断種手術も行っているという。
追放と収容は内外の関係が逆になるが、『ノイズ』に『普通』の社会から関わりを断たせ、そもそも見えなくするという意味では同じである。『ノイズ』を消した社会は平穏に保たれる――『ノイズ』がどうなったかさえ気にとめずに。

私の恋は、この人を破滅させる。

始まりと終わりが同時に訪れた恋は、菊を苦しめた。どうして今まで気づかずにいられたのだろう。初めて出会った時からずっと、自分の視線はこの人に奪われていたというのに。
苦しくて、ギルベルトを遠ざけた。仕事は山のようにあったし、遅くまで大使館に居座れば自然と顔を合わせる回数は減った。休日に訪ねてくることはままあったが、ソファに座らず机で書類を読んでいれば、しばらくごろごろして素直に帰って行く。特に態度を変えないギルベルトに安堵しつつ、無性に腹立たしくなることもある。血迷うところだった、というギルベルトは、つまり血迷ってさえいない。彼にとっては、くしゃみして忘れられる程度の、ただの戯れの時間だったのだ。
文学の世界に身を置く者の端くれとして、それなりに本を読んできた。私淑した小説家の、衝動を押さえられず醜聞を流すという実話のような創作も、首を傾げながら読んだ。世間体や信頼、その他自分が得ている何をも引き替えにしていいと思えるような「恋というもの」が、どうしても理解できなかった。
死んでもいい。その一言が自分の中からこぼれ落ちたことで、菊は決定的に自覚した。これが、恋、なのだ。
何をしたいわけでもない。ただ、見て貰えないのが寂しい。同じように思ってもらえないのが寂しい。この人は今も深い愛を他に捧げている。思い人に、幼なじみに、弟に。私は彼らのようにこの人を動かすことなどできない。
会いたい、けれども、会いたくない。私を、懐く子供のようにしか思わないこの人と。
混乱していた。
顔が見たいことに、会えば心が浮き立つことに、そのくせ部屋の空気が吸うのも辛いほど重いことに。
その目を見るだけで、指が髪に触れるだけで、心が激しく揺さぶられる。しかしそれは口に出してはいけない思いなのだ。
苦しくて、11月に入るとほとんど大使館に泊まり込んだ。
そして25日、『共産「インターナショナル」に対する協定』は調印の日を迎えた。

アーサーからの電話を、菊は重い心で受けた。日独接近は、日本ペン結成を促したアーサーの願いの対極にある。既に交渉過程にあることは諸国に勘づかれており、それが今後の国際社会をどんな方向に導くのか、各国もシビアに注目している。交渉の当事者である菊の眼から見てさえ、この協定がどれだけの利を日本にもたらすのかが分からない。というより、軍事同盟としての明確な利は国際関係の不利をもたらすというのが外務省の認識だから、積極的に前者の利を減らすよう画策した。似たような事情はドイツ側にもあったらしく、結局決められたのはコミンテルンにお互い気をつけようという約束だけだ。そうであっても、日本と英米との間に置かれた距離は一段と大きくなった。
「いや、その話じゃなくてな」
アーサーは口ごもる菊を制した。
「俺は外交官じゃないし。ペンを通じての運動は日本の会長と直にしてる。そうじゃなくて……ギルベルトのことなんだが」
「えっ」
上擦ったその返事に、アーサーは息をとめた。
「……そうか」
「――何がです」
「いや。………小説、書きたくなったか」
その返事に、自分の思いはとうに見抜かれていたのだと知る。
「……」
「つーかさ、お前、鈍すぎないか?」
からかうような調子の中に、かすかにいたわるような響きを感じ、菊は気づく。そうだった。アーサーはその「片思いの相手」とも知古の仲だ。ナチス政権成立以前はドイツペンセンターも機能していたのだから、国際ペン大会では皆で顔を合わせる日もあっただろう。アーサーは、菊の思いを見抜いていたのではない。菊の失恋を見通していたのだ。傷つくことを予見しながら、しかし止めはしなかった。恋をするのも、傷つくのも、当人の自由なのだ。
「アーサーさんは、優しくて、ひどい人ですね」
「なんだそれ」
アーサーは鼻を鳴らし、「お前の方がよっぽどだ」と断言した。意味が分からない。
「そんないわれ方をするなら、徹底してやろう。さあ書け、おら書け。小説でも詩でもいい。タンカ?でもいいぞ」
言いつのるアーサーに逆説的ないたわりを感じる。
「……書いたって、アーサーさん読めないじゃないですか…」
苦笑すると、ふんと電話の向こうで鼻息が聞こえた。
「お前が訳すに決まってるだろう」
流石に笑いが漏れる。
「どれだけマゾヒストですか…」
「いや、俺の方がよっぽどだ」
ははは、と笑っている。「ところで」と声の調子を変えた。
「……今聞いて良いのか分からないんだが。最近会ったか?」
「…いえ、ここ一ヶ月はお会いしてないですね」
「あいつ、様子おかしくないか」
「はい?」
驚きに声がとがる。
「先月亡命してきた作家が、もしかして奴も…というようなことを言っていてな」
「も――亡命、ですか?」
彼は政府の弾圧の相手ではない。それこそこのまま『普通』に暮らしていける。彼の人種・民族・公的立場、そのどれをもってしても。政権にコミットしていないのは確かだが、特に主義主張をメディアに向けて開陳するでもない。
「なぜそんなことを仰るんです、その方は」
「あー…」
しばし言葉を濁して、やがてアーサーは続けた。
「弟に、言いたいことがある、と言ってたらしい」
「……」
「中にいて言えないなら外からなら言えるだろうか、とか、いなくなること自体で伝わることもあるかな、とか」
気になるとぽつりと言ってアーサーは電話を切った。


 


 

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