※ご注意
・文学者パラレル、ギル←菊←アサ、死にネタ、歴史的事実及びその捏造・改変ありです。
・以上が苦手な方、この時代のドイツについて少しでも地雷のある方にはUターンを強く推奨します。
【1. 2. 3. 4. 5. 6.】
その南天は無事根付いたという。年を越して、三月のある晴れた日、菊はギルベルトの家を訪ねた。雪の掃かれた道を通って庭に回ると、確かに木は一回り大きくなっていて、葉脈にも力がある。異国の土から水を吸って、息を続けているのだ。
「まだ実はなりませんね」
「そうなのか?季節が違うだけじゃねえの?」
「南天の実は冬になるのですよ。真っ赤な、綺麗な実がなります。やっぱり、この大きさではまだ無理ですね」
「じゃあ、来年はなるかもしんねえな」
「どうでしょう…ええ、育てばなるかもしれませんね」
菊は言いながら地面に雪兎を作った。
「南天の実を埋め込むんです」
「なんでだよ」
「え、目の代わりですよ?」
「なんで?」
噛み合わないやりとりをしばらく続けて、気がついた。
「日本では白毛赤目の品種が飼い兎としては一般的なんです。在来種の野ウサギはそういう色合いではないんですが」
「なんでそんな品種が流行ったんだ?」
なんで。そんな質問は予想していなかったので困惑する。
「……可愛いからじゃないですか?」
ギルベルトは口を曲げた。
「赤目、可愛いか?」
今度は菊が口をへの字にする。別に赤目が可愛い訳じゃない。白地に赤、そしてもふもふが可愛いのだ。しかし、
「――きれい、です、よね」
眼を見て言うと、ギルベルトは怯んだように顔を引いた。
「あんま、好かれねえんだな。こっちでは。金髪碧眼ってのが純アーリア人種の証らしいからよ」
「ああ…」
黒髪の菊もそうした視線を感じることはないではない。まして黄色人種なのだ。
「弟は、きれーな水色なんだけどよ」
独り言のようにギルベルトは言ったので、菊もそれを聞き流したような顔をした。目線を横にやると、庭木を白く覆う雪が目に入る。もう東京には梅の香りを先触れに春の気配が届いている筈だ。やはり、こちらは緯度が高い。
その連想から、二月の末にもかかわらず雪が降ったという日を思い出した。
「先日の――」
「ん?」
「東京クーデター……」
先月の末、東京は戒厳令下におかれた。要人の多くが殺され、陸軍本部は乗っ取られた。昭和維新と名付けられていたクーデターは結局成功せず、投降した将校たちには厳しい処分が予定されているという。
また、こうして――ものが言えなくなっていく。
四年前もそうだった。首謀者は断罪される。しかし、軍自体は発言力を増していくのだ。そして断罪されたテロリストたちの行動の源泉、悲憤のもとは変わらないままだ。都会に消費文化が花開く一方、農村の娘は売られていく。
陸軍の青年将校に東北の出身者は多い。学才があり家計にゆとりがあるなら中学・高校へ行く。ゆとりがないなら学費免除の師範学校へ、または士官学校へ。彼らは身内として、または幼なじみとして、塗炭にまみれて生きる人々の苦しみを知っている。
その場にいれば、菊は殺される側となるのかもしれない。そもそも法治国家として――諸外国に日本をそれと認めさせるため、先人がどれだけ苦労したことか…!――テロなど許せない。しかし、同郷の者として、血の叫びを菊は聞いた気がした。
「暴力は、研ぎ澄ました刀のようです」
「…」
「美しい、痛い、悲しい、恐ろしい」
「……」
「ではペンは。本当に剣よりも強くいられるのでしょうか。言葉は、暴力にひるまずにいられるのでしょうか」
双方に反対派を抱えながら、秘密裏に、日独提携の交渉は続けられている。発言力の増した陸軍の圧力に外務省は逆らうことはできず、事務を引き継いでいる。多分、日独の間にラインは成るだろう。既にドイツと提携しているイタリアとも繋がるかもしれない。それは必然的に、覇権国英米との距離を作る。
こんな中、生まれたばかりの日本ペンは、どう自分を守れるのだろう。今年の国際ペン大会には日本代表も招かれるという。来年はどうだろう。再来年は?
ギルベルトは雪うさぎを小さくつついて、ため息をついた。
「知らねえ。……でも多分、アーサーは怯まねえんだろうな」
「ああ、あの人は…」
「一人でも強い。けど、多分、線が見えるからもっと強い」
「線、ですか」
「自分に繋がる線だ。各国ペンセンターとか…お前とか。責任は人を強くするし、繋がりは人を勇気づける。お前も、奴がトップだと思えば少しは心強いだろ」
こくりと頷いて、菊はじっとギルベルトを見た。……では、貴方は?言論統制が強まり、文壇にも政治色が強まったこの国の中で、貴方は。
「一人楽しすぎるぜ」
嘯き、ギルベルトはぱっと足下の雪を蹴った。粉のような雪が舞う。その白い幕をかきわけて、菊はギルベルトに詰め寄った。
「私は?」
「ああん?」
「私は、貴方と繋がってはいないんですか?」
「え…いや、そりゃ…」
「ここに、線はないんですか、ギルベルト君」
「……」
胸ぐらを掴んでいた、その顔を胸に押しつけられる。頭を抱かれているのだ、そう気づくまで数秒かかった。
「んな顔すんな」
どんな顔なのかもう菊には分からない。ただぐしゃぐしゃになっていたのだろうとは思う。この白い雪を煙幕に、ふらりとどこかへいってしまいそうな気がしたのだ。
服を掴んだ両手に、更に力を込める。
「ギルベルト君」
髪が乱暴にかき乱される。
「なんだよ」
「行かないで下さい」
「…別に」
どこかに行くなんて言ってねえだろ。
つぶやくように言う。言っていません、確かに。貴方は何も言ってくれない。私と貴方の間の線などまるでないかのように、貴方はいつも、
自由なのだ。
失って初めてその価値を知ることは、しばしばある。同様に、「無い」ことの自覚が、それを求めていたことに気づかせることもある。「ある」と「ない」はただの対義語ではない。
春の訪れが遅いベルリンで花が一斉に咲き始めると、色に飢えていたことを思い出させられもする。それなのに夏が来ればあの美しく峻厳な雪が街を覆えばいいと思ったりする。
自分に無いものはいくつもある。中でも、文学をやる資質が決定的にないのだろうと菊は思う。
ギルベルトの「著書」に、鳥の視角を感じたことがある。自分自身の旋毛も、背筋のゆがみさえ見下ろすかのような冷徹な視線。
一方で、まるで彼の心臓がそのまま筆を走らせているかのようなパトスを感じたこともある。自分以外に読者を想定していなかったのならなおさら、あの分量を書かせた熱情は、ひたすら、「書きたい」という気持ちということになる。
冷静と情熱。そのどちらも、自分の中にはない。多分それこそが自分が表現者たりえない理由だろうと思う。人の作品から受け取った感動をできるだけそのまま伝えようとただ組み替えているだけ、かつて平塚女史が使った表現をとるなら、自分は他によって光る青白い月だ。そう思う。
「――俺は、お前のそういうところは、本当に嫌いだ」
駅で落ち合ったアーサーにざっくりと言われ、肩が落ちる。
「……知ってます……」
だから言わないでおこうと思ったのに聞き出したのはそっちじゃないですか…と口の中で呟いたら、ぺしりとはたかれた。
「言うな、じゃなくて、思うな、と言っている」
「横暴です。精神の自由を掲げる国際ペンの議長たる貴方が!」
「詭弁だ」
ざっくりと切り捨てられる。それくらい、分かっている。菊は口をとがらせた。
「卑屈になる自由はないんですか」
「あるだろ。そして、それを嫌いだと思う自由も言う自由もあるだろ」
「そうですけど…」
肩が、さらに落ちる。
「……アーサーさんに嫌われてしまいました…」
今度の「ぺしり」は前より力がこもっていた。
「お前の!そういうところ、ほんっとむかつく!」
「ど、どういうところですか!?」
卑屈な態度を嫌う人だというのは知っている。けれども、今度の「そういうところ」は分からない。
「いや、いい、分かろうとすんな。お前の鈍感はせめてもの慰めだ!」
そう言ってずかずかと先に進んでしまう。基本的に早足なのだ。あわてて小走りに追いかける。
乗った車が向かう先は、ウンター・デン・リンデンだ。オリンピック競技場に向けて整備された大通り。開会式を見に来たのだ。「随分変わっちまったな」とアーサーは車窓を見ながら呟いた。「俺、パス。終わったら二人でうち来いや」とひらひら手を振ったギルベルトは、多分家でジャガイモの皮を剥いている。
赴任当初、ギルベルトがあちこちと引っ張り回したのは、風景が変わってしまう前に、ということだったのだろう。風景とは、価値の鏡でもある。
街路樹が切り倒され、居並ぶ柱頭が建設された頃、ギルベルトとここを横切ったことがある。かつてここを案内した時には饒舌だったギルベルトは、無言で道を渡ろうとした。その時、前を車が走り抜けていった。黒い制服に身を包んだ端正な男たちが乗っていた。
ギルベルトはちらりと菊を見下ろした。
「かっこいい、か?」
「はい?」
数度瞬きして、主語は彼らSSだったことに思い至る。親衛隊は容姿も採用条件になるという。
「顔は――ギルベルト君の方がかっこいいと思いますけど」
まじめに答えたのに、ギルベルトは、まるで物理学者にベロを出されたようなぽかんとした顔を見せ、その後爆笑した。意味が分からない。
「お前、ほんっと……」
続きは言わず、菊の頭をわしゃわしゃとかき回す。子供扱いされるのが嫌いだと知っているくせに、この癖だけはやめてくれない。
「え、なんです。顔じゃないんですか。服とか?」
服のセンスは、まあ、日本の陸軍辺りには見習わせたい部分もある。
「まあ、そういう、全体だな。『ドイツってかっこいい』の象徴っていうか。まさに――青い鳥ってやつだ」
――それ以来、親衛隊の黒い服を見る度に、水色の目を探してしまう。殆どが金髪碧眼だから、やっていることに意味はない。
そしてこちらの弟さんは、と隣の緑の目の横顔を見ながら思う。どこにいて何をしているのか、どんな人なのか、全く知らないけれども……多分「弟三人の乾杯」は、幾重にもあり得ないことなのだろう。
視線に引かれるように向き直ったアーサーは少し眉をしかめていた。
「…あのな」
「はい」
「謙譲がお前の文化で美徳であることは知っていて、それでも言うが、少なくとも俺の本がお前の国で読まれることについて、お前は俺の相棒なんだぞ」
「は、あ」
そこに話が戻ったのか。一拍遅れて、菊は頷いた。それを不同意の表明ととったのか、アーサーは向き直って、真剣な目で言った。
「翻訳なら、俺もギルベルトもやっている。組み替えるだけなんて思ったことねえぞ。全翻訳者と、お前の言葉遣いが好きな俺の本の日本の読者と、俺に謝れ」
「……すみません」
「よし」
偉そうに腕を組んで、アーサーは頷いた。こういう態度が似合う、太陽のような人なのだ。
「……お前は、まだ、小説か何か、書きたくなったりしていないのか」
車を降りたところで、ぽつりとアーサーが聞いた。まだ、という副詞がひっかかる。まるで、いつかは必ずそうなるかのような言葉。
「言葉にしなければ心に蓋ができないような、そんな気持ちにはならないか」
「いえ?」
「ふうん」
アーサーはすっと顔を前に戻した。「まあ、文学者の全てがそんな風にことばに向き合うわけでもない」
「…はあ」
「人生それ自体で詩を書くやつもいる」
「……はあ」
何の話だ。時々アーサーの比喩は文学的過ぎて意味が分からない。
首を傾げていると、アーサーは更に変なたとえをした。
「お前が心臓を割った血で書いたものを読みたいような気も、一生読みたくないような気も、する」
分からない、と顔に書いた筈なのに、アーサーはそれ以上の説明をせず、ただ笑った。