※ご注意
・文学者パラレル、ギル←菊←アサ、死にネタ、歴史的事実及びその捏造・改変ありです。
・以上が苦手な方、この時代のドイツについて少しでも地雷のある方にはUターンを強く推奨します。
【1. 2. 3. 4. 5. 6.】
「そうだな」と言わずにただ微笑んだアーサーは、その時点で、三国の将来について悲観的な予測をしていたに違いない。
菊はその年の秋、ドイツ大使館に移った。来年はここでオリンピックが開かれる。外交上重要な国には違いない。宮仕えの身、文句があるでもない、むしろ場を与えられたと喜ぶべきなのかもしれないが、ペンの仕事はやりづらくなった。
近くなった、と喜んだギルベルトは、菊を連れ回しては国を案内した。何もこんな慌ただしく行かなくてももっと良い季節があるでしょうに、赴任期間は長いのですから…そう言っても聞く耳を持たず、有名な城だの公園だのを見せて回った。
その年の瀬に、アーサーがベルリンを訪れた。ナチス学生同盟の焚書に抗議して以来、国際ペンクラブとドイツ文学界の間には冷ややかな空気が流れている。かつてのドイツペンセンターは政治的理由から数名の文学者を排除し、やがて活動を停止した。決裂は不可逆的だ。それでも「作家アーサー・カークランド」への歓迎はあるらしい。小さな交流会が開かれるのだという。
駅に二人で迎えに行くと、アーサーはポーターに荷物を運ばせながら「よう」と手を挙げた。そのまま軽くギルベルトに拳を向ける。
「全く、到着時刻に正確な汽車だ。旅情ってもんを分かってねえ」
笑って拳を受け止めたギルベルトは口をとがらせる。
「迎えを待たせるのが旅情かよ」
「待ってくれてるのに一向に到着しない汽車にじれるのがいいんだよ。……久しぶりだな」
「おう。おい菊、お前今頃恥ずかしがんな」
「ひー」
小突かれて、菊は後ろ手に持っていた花束を渡す。花って、意味分かりません。なんで私が。そう言って抵抗したのに、「あいつ感激するから!」と押し切られた。赤い薔薇を選べと言われたのを、せめて色の薄いデイジー主体にさせてもらった。
「お久しぶりです!……ようこそ」
「あ……うん」
アーサーは戸惑うように視線をさまよわせた。やはり男の人に花束なんておかしかったんじゃないでしょうか…!菊が、くっと両手を握り合わせた頃、やっとアーサーは表情の落ち着きどころを見つけたのか、「ありがとう」とふわっと笑った。そして、花束を胸に抱き、香りを吸い込む。
「嬉しい、すごく」
こういう顔をされると、熱狂的なファンが嫁候補として群れを成しているという話が実感できる、と、意味もなく照れた菊は思った。
「菊だな」
花の一つに手をふれてアーサーが言ったので、こっくりと頷いた。
「すみません、目立たない、地味な花にさせてもらいました」
「………そんなことないぞ、綺麗じゃないか。いや、いいんだ。特に意味はないんだな」
「はい?地味さにですか?……もちろんです!別に花代をけちったわけでは!」
「いや、いい、そんなこと思ってもいないし」
笑うアーサーに、困惑していると、はーくしょい!と声が響いた。珍しく黙って立っていたギルベルトだった。
「さみい!」
「そうだな、早く行こう」
「はい」
今日はギルベルトが手料理を披露してくれるのだ。
「……って、芋ばっかじゃねーか!」
「はは」
キれたようにテーブルを叩くアーサーに、菊も苦笑する。確かに、運ばれてくる料理が全てジャガイモ主体で、むしろそのバリエーションの豊かさに感激してしまう。もちろん地下室から持ってきたという特製ブルストも豚肉もゆでられていたし、マスタードのソースも美味しかった。けれども付け合わせが余りにも芋芋していて、もう菊は満腹だ。そう、地下室。ギルベルトが住んでいるのは庭付きの一戸建てだ。こぢんまりとした家ではあるけれども、一人で暮らすには広すぎないかといつも菊は思う。親を早くに亡くしたとは聞いていた。そして、かの「弟」はここにはいない。
「うっせえ、神の与えた食糧に文句つけんな」
「聖書に書いてないんだろうが」
相変わらずのやりとりをする二人を笑って眺めながら、菊はフォークでそっとつぶし芋をつついた。
ジャガイモは、ドイツを食糧危機から救った、まさに神の与えた食糧である。そして菊の国も、甘藷先生がサツマイモを広めてくれていなければ人口がどこまで増えていたか。今でも、大多数の国民にとって肉が食べられないのは当たり前、米が食べられない人だって多い。国土の多くが平原であるドイツと違い、四分の一しか平野を持たない日本にとって、耕地は――つまり植民地は、垂涎の的である。しかし、「これ以上植民地にされる国を増やすまい」というのが世界のルールになった以上、その枠の中で方途を探していくしかあるまい。一官僚として菊はそう思う。既得権益を持つ国に都合の良いルールだとは思うけれども。
考えにふけっていたら、ギルベルトが箱を持って台所から戻ってきた。そしてアーサーに顎をしゃくる。
「おい、お前紅茶いれろ」
「客を働かせる気か」
「コーヒーでいいんなら…」
「やる」
そうまでして上等のお茶を用意した理由は、出されたトルテを口にした瞬間理解できた。最高級の材質を使った、すばらしい品である。「なんだよ、言えば作ってきてやったのに…」と言いかけたアーサーは、一口食べて黙った。ギルベルトは苦笑している。アーサーの菓子作りの腕など知らない菊は一瞬二人を見たが、すぐに意識は目の前のトルテに戻った。甘い物は別腹の菊が口を極めて褒め称えるのを自分の手柄のように頷いていたギルベルトは、さっくりと言った。
「今日、エリザが持ってきた。ローデが作ったんだと」
「え」
アーサーのその声音に、菊は瞬きをする。
「ローデリッヒっつうのは、あれな。俺の幼なじみで、素っ頓狂な方向に有能な編集者を抱えた出版社の社長。んで、その暴力女の旦那」
フォークで一口大にトルテを切り分けて、ギルベルトは続けた。
「お前に宜しくって。やっぱり色々危機感感じてるんだろ。もうドイツではレマルクとかケストナーとか売れないし、影響も来てるみたいだ」
彼らはオーストリアペンの会員なのだと説明して、アーサーは頷いた。
「あ、ああ…。…俺にできることなんて、そうないんだけどな」
「らしくねえな。いつもみたいにふんぞり返って、なんだってできますって顔してろよ」
いつもの小突きあいに戻った横で、菊はフォークをくわえた。「素っ頓狂な方向に有能な編集者」である「暴力女」とは、間違いなく、かの「片思いの相手」だろう。あのあとこっそりと英訳本を買い求め、菊は滑稽味溢れる描写の中に切ないほどの主人公の思いを感じ、一人泣きそうになったものだ。自分の「かっこよさ」を信じ、ちょっとした彼女の挙動にも手応えを感じて胸をふるわせる主人公。一方で、彼は、彼女が他の人へ思いの全てを捧げているのを完全に分かっているのだ。
本の中の話だと自分に枠をはめてさえ、心が大いに揺らされた。今、その切なる恋の相手の名前を知らされ、菊は胸がつまった。多分、主人公に同期しているのだ。空いた手で胸を掴むと、その下で心臓がことんと鳴った。
さっきまで感じなかったカカオの苦みが舌に広がっていた。それは失礼だ、と菊は思う。美味しさを褒める菊に、自慢そうな顔を見せていたギルベルトに失礼だ。
そんな菊に気づいたのか、アーサーは、ん、と咳払いしてフォークを置いた。
「こんなこと聞くのはなんなんだが…、うまくやってるのか、あいつらとは」
「おう」
ぱくりと最後の一切れをくわえ、ギルベルトは親指をたててみせた。
「もう、そんなんじゃねえから。だから気ぃ使うな、ほんと」
「そう言いながら、お前ずっと独身じゃねえか」
「お前が言うな!」
笑った瞬間に口から零れたかけらを「おっと」と拾い、ギルベルトはゴミ箱へ向かったその足でトイレに行った。
まだ胸を掴んだままの菊をしばらく見て、アーサーは小さな声で聞いた。
「なあ」
「……はい?」
顔を向けると、アーサーはしばらく菊をみたまま沈黙し、やがてぽつりと言った。
「菊、って、呼んでるのか、あいつ」
「はい?」
予想外の話題に、菊はきょとんとした。
「いつから?なんで?」
「え。え…いつ、だったでしょう、こちらに来て…何となく、自然に」
もうずっとそう呼ばれている気がする。こちらも君よびしているのだから気にならなかった。
「他にはそう呼ばせてないじゃないか」
「え、そんな……私が許可を出していないみたいに仰らないでください」
当然のように名字で呼ばれ、隔てを感じていたのは菊の方である。同じ日本人でもファーストネームで呼ばれている人は多いのだから、なおさらだ。
「じゃあ、俺も菊って呼ぶぞ?いいのか?」
「え、もちろん」
そう言ったのに、絶対に「もちろん」という顔をしていたはずなのに、トイレから戻ってきたギルベルトを交えて再開された会話では、やはり菊は「本田」と呼ばれた。
言われてみれば、と思う。菊には人見知りの気がある。対人関係に関する精神的エネルギーは仕事とペンの活動でほぼ消費しつくす。恋愛がどうこうという前に人と付き合うのが煩わしい。それなのに、ギルベルトには呼ばれれば時間をやりくりしてでも出かけてしまうし、部屋に来れば入れてしまう。甘すぎる、と自分を省み、多分お互いにお兄ちゃんモードなのだな、と思う。時々思い出したように菊の頭をかき回すギルベルトは、明らかにその手の位置に弟を思い出しているし、わがままに振り回されることをどこか楽しんでしまう瞬間も菊の思い出の中にある。
ベルリンに来てすぐ、ギルベルトが盆栽に興味を示したことがある。荷物になるからと拒んだのに、母に無理矢理持たせられた南天の鉢だった。
「こういうちっちぇえ木は、庭に植えたら大きく育つのか?」
「どうでしょう…ものによると思いますが、多くは根付かないのではないでしょうか。……窮屈に感じますか?」
この箱庭的日本趣味を、気味悪く感じる外人も少なからずいるという。枝振りを矯めることについては欧米の方が積極的だと思うが、なにやら不自然な気がするという。
「うーん?」
ギルベルトは腕を組んで考えたが、やがて首を振った。
「いや、そういうことじゃねえな。単に、どうなるかなと思っただけだ。けど、これが俺んちの庭に来たら嬉しいとは思う」
「ふむ」
鉢は対になっている。一つを友誼の印として移植するくらい母も許すだろう。そう独り決めして、庭に移し替えることにした。
「――これは南天と言いまして、名前が縁起が良いとして日本で好まれる木なのです」
「へえ」
指示された通り穴を掘りながらギルベルトが頷く。暖かい地方の木だ。少しでも日当たりのいい場所がいいだろうと南向きの角に植えることにした。そこは二階にベランダが張り出しているので雪も積もりにくいという。まだ雪の気配もない秋日だが、そういうからには、この街はさぞ積もるのだろう。
「天災から家を守ってくれるのですよ」
「へー」
土ごと移しながらギルベルトはちょっと天を見上げた。
「……どこからが天災なんだろうな」
「?」
しゃり。移植ごてが土をさらう。
「時代そのものが天災みたいに思える日もあるよな」
「……」
ギルベルトの目線の先には、弟のものだという部屋がある。主を失ったままの部屋。彼が今どこにいるのか、菊はまだ知らない。
「……南天の花言葉は、『良い家庭』です」
「ふうん」
手袋をしたままの手で鼻をこすって、ギルベルトはもう一度「ふうん」と言った。その横顔をしばらく見て、菊は提案した。
「…南天にも、家をつくってあげましょうか」
「あ?」
「南天は、雪の重みに耐えられず折れてしまうことがあるのですよ。だから支柱を付けて、ついでに、今年くらいは、軽く覆って暖かくしてあげたいですね」
「ああ、なるほどな。…ちょっと待ってろ」
そう言って家の中に消えたギルベルトが戻ってくるのを待っていると、突然足下から「おい!」と呼ばれた。ぎょっとして振り返ると、一階の足下の窓かと思っていたところからギルベルトが見上げていた。
「え?……えぇ!?」
目線を上下させていると、ギルベルトは吹き出し、「とりあえず受け取れ」と細い薪を十数本差し出してきた。ついでにと麻縄の束を菊の足下に投げあげて、ギルベルトは窓を閉めた。戻ってきて言うには、そこは半地下なのだという。ドイツでは今でも住人が家をメンテナンスする習慣があるので、工作室のような空間を持っていることがある。明かり取りと換気のために天井近くに窓があるのだと。
「それが、外から見れば地面近くの窓になるのですね」
「そういうこと」
器用に薪を円錐形に束ねながら、ギルベルトは頷いた。そして思い出したように吹き出す。
「そんなに驚くたー思わなかったぜ!」
「うるさいですよ」
「目ぇ、まんっまるにしてやんの!」
「もう!」
胸をぽかりと叩くと、「菊、やっぱり年誤魔化してんだろ」などと笑いながら言う。どっちが子どもだ、と、また胸を叩いた。