※ご注意
・文学者パラレル、ギル←菊←アサ、死にネタ、歴史的事実及びその捏造・改変ありです。
・以上が苦手な方、この時代のドイツについて少しでも地雷のある方にはUターンを強く推奨します。
【1. 2. 3. 4. 5. 6.】
案外睫が長いんだな、と思った瞬間、「さらに続き」を思い出した。
「あああああああ!」
突然頭を抱えた菊を、ギルベルトは「ああ?」と見やる。
「どした」
「いえ!…いえ。なんでも、ないです」
「ふうん」
くしゅん、と小さなくしゃみをして、ギルベルトは通りに目をやった。「アーサー、おせえ」
センターでの理事会の後、食事をしようと誘われたのは先週のことだ。ギルベルトがドイツに引きあげるので、馴染みのレストランに行くのだという。そんな場に混ざっていいのかと逡巡すると、「奴が是非連れてこいとうるさい」とアーサーは憮然とした声を出した。「奴はお前のこと小動物みたいに思ってるからな、遠慮無く先輩風ふかせろ」
そんなことを言われても多少長く生きているだけで「先輩」じゃない。案の定、理事会のあと合流するアーサーを待つべく待ち合わせた喫茶店では、出会い頭、わしゃわしゃと頭をかき回された。
一瞬ごとに表情を変える人である。紅茶しかねえだろと言いつつメニューをのぞき込み、目を伏せると、赤い瞳が睫の影になり色を濃くする。その白金の睫を見ていて、エリスについてもそんな描写があったと思った瞬間、アーサーが言いかけた台詞の後半を思い出したのだ。
――何故に一顧したるのみにて用心深き我心の底までは徹したるか。
いやいやいやいや!それではまるで、私の心の底にギルベルト君(の顔)が入ってきたみたいじゃないですか、まるでかの美しい踊り子のように――菊は恥ずかしさに一人身もだえした。穿ちすぎだ、と言いたいが、最初にかの小説を持ち出したのは菊である。ほとんど直後の文なのだから、アーサーがそれを思い出すのにも唐突さはない。だが、そういうことではない。言葉は文脈に規定される。あの時話題にしていたのは、「表現」だったはずだ。
「お前、さっきから何百面相してんだ」
軽く額に皺を作って、ギルベルトが聞いてくる。いつの間にかけたのか、眼鏡をかけている。手には折りたたまれたチラシがある。菊が心中のたうち回っている間に読んでいたのだろう。状況に飽きるのが早い人なのだ。
「なんでも、ないです。…百面相というなら、貴方こそ。眼鏡なんてしてたんですか」
「イギリスの店は暗いんだよ」
そうといえばそうかもしれない。この国は雰囲気を大切にする。酒や紅茶を飲むだけならはっきりした照明はいらない。
「それに、頭良さそうに見えんだろ?」
確かに、やたらと理知的に見える。もともと、シャープな顔立ちなのだ。しかし単純に頷くのも悔しい。
「そんなことを言うと、頭悪そうに見えますよ」
「言うなあ、お前」
口の端で笑って、ギルベルトはまた興味を窓の外に逸らした。
「あ、鳥」
硝子を隔てたすぐ向こうで、黄色い小鳥が桟に落ちていた何かをついばんでいた。
「なあ」
「はい」
「お前の国でも、『青い鳥』って読まれてんのか」
「もちろんです。メーテルリンクは真っ先に名前の挙がる海外文学者の一人です」
「ふうん」
「幸せは本当は身近にあるものだという児童小説でしょう」
「え」
「え?」
顔を上げたギルベルトに、小首を傾げる。青い鳥は家にいたのではなかったか。
「家の鳥の青さが分かるようになる話、だろ」
「……成長譚だということですか?」
ギルベルトはこくりと頷く。落ちてきた眼鏡を第二関節で押し上げて。
「そういう風に、弟に読み聞かせした」
「弟さんがいらっしゃるのですか」
「ああ――うん。今ちょっと、青い鳥探しに行っちまったんだけどよ」
話が繋がらない。無理に繋げて考えるなら――彼の弟の成長は、弟を彼と同じ思想的位置につれてこなかったのだ。菊は話をやんわりとずらした。
「私にも弟がいますよ。そして私は、『赤い鳥』を読んで聞かせました」
「へえ?」
くるりと目を回してギルベルトが面白そうな顔をあげる。
「赤い、か」
「ええ。我が国の詩人が我が子の誕生をきっかけに、子供たちに良質な文学を与えようと作った雑誌です。子供のための読み物や歌は官製の読本や唱歌ばかりでしたから、国民創世に目的意識の偏ったそれらではなく、芸術性に重きをおいた作品を作ろうという運動として作られたんです。実際、美しい話がたくさんありました。ひとりぼっちの子狐の話とか、地獄に垂れる蜘蛛の糸の話とか」
「お前もそれで育ったのか?」
「いえ、創刊時にはもう私は児童ではありませんでしたから。けれども、……それでも子供の癖に生意気ですが、こんな風に大人の人が子供のために一生懸命にお話を書いてくれるというのはいいなあ、と思いながら読んでいました」
「……」
本を書く動機はさまざまだ。何のために書くか、誰のために書くか。それを巡ってこの50年、何度も論争が起こった。菊にはちょっとコミットしづらい論争だった。目的など、作品に付随するものでしかない。明らかな政治的目的に書かれたものでも――それこそ少し前に流行ったプロレタリア文学のような――人を涙させることはあるし、目的などないと言い張る作家の文章が人の人生を決定づけることもある。しかし児童文学は、語彙や話構造の制約を受けながらそれでも敢えて書くその姿勢に、作家の祈りが感じられる。未来を託す子供たちへの祈りだ。そのことに、菊はいつも少し感動する。そんなことを説明すると、ギルベルトはふんふんと頷いた。
「じゃー、子供たちが未来を明るく感じられるように、俺様の幼少期の日記を公開すっかな!」
「え!!」
思わず声を上げた菊に、苦笑が返される。
「――やーっぱ、アーサーめ、ばらしてたか」
「あっ……」
失態に気づき慌てると、ギルベルトは軽く手を振った。
「ちげえ。俺は気にしてねえのに、多分気を遣ったんだろ。変に周りから聞かされるより先に言っといた方がいいって」
「ああ…」
笑っているのだから、本当に気にしてはいないのかもしれない。しかし、まんまとかまをかけられて秘密をおかしたたことには変わりない。アーサーの気遣いを無にしてしまった、と菊は身が縮む。ちらり、と上目遣いに見やると、ギルベルトはにっと笑った。
「ま、だからお前も気にすんな。でも、アーサーの前では黙っとけ」
「ああ…」
なんだか、妬けるほどだ、と菊は密かに思った。口にすれば嫌な顔をしてみせられるだろうけれども、――本当に二人は、いい友人なのだ。
と、「何をだ?」と眉間に皺を刻みながら待ち人が来た。そのまま立ち上がるかと思いきや、紅茶の一杯くらい飲ませろ、と菊の隣に腰を下ろす。
「俺様がちょーかっけーって話だ」
けせせせ、とギルベルトは笑い、菊もつられるように笑った。笑いながら思った。アーサーが一瞬憧れるという「あんな風な恋」は、今もギルベルトの心の底にあるのだろうか、と。
恋をしたことがない。許嫁がいたが、女学校を出るやいなや教師と駆け落ちしてしまった。悲恋は執筆で昇華すべきだと周りからは言われたが、書きたいなにものも心の中にない。ただ、「そうか」と思っただけだ。遠戚で顔見知りでもあり、多少の情はあった相手だが、それで済むくらいの気持ちしかなかったということだろう。文壇は私小説ばやり、私淑した大家もその中にいる人ではあったが、彼らのような衝動を身のうちに飼ったことも、それのせいで泥にまみれた心地になったこともない。外国暮らしが長いせいで日本人と知り合う機会もないし、まして白人の嫁を連れてきたら嫌がるでしょう、と父母の追及からのらりくらり逃げていたら、諦められてしまったのか、弟の子を養子に貰う算段がいつのまにかついていた。
「だから私は、子持ちではあります」
そう言うと、二人は目を丸くした。
「おま…こどもみたいな顔しといて…」
「ギルベルトくん」
横目で睨むと続きは口に仕舞われた。アーサーもぽかんと口を開けたままだが、構わずフィレ肉を口の中に放り込む。このレストランは、立ち上がって拍手したいほど料理が美味しい。ずっと、自分の舌がまだ文明化されていないのか、それともイギリスの料理の方がおかしいのかと困惑していた。二人もこのレストランを(「料理だけは」と)褒めるのだから、やはり自分の味覚はおかしくないのだ。
「だって、おまえ…誰が育てんだよ……」
ギルベルトが行儀悪くフォークで菊を指してくる。
「いや、そりゃナニーだろ」
アーサーの言うこともさりげなくずれている。流石お貴族様だ。
「弟が育てていますよ、もちろん。名義だけですから。うちとも頻繁に行き来しているようですから、本格的にうちに来て貰うことになっても、なんとかなるでしょう」
「面識はあるのか」
「まだ一歳にもなっていませんからね。一方的に顔を見ただけですが、かわいいものです」
正直、ほっとした。これで、恋をしなくても済む。――恋をしてさえ、表現する何も心にわかない半端物だなどと、自分を思わないですむ。そして、この幼子の顔を見てそんなことを考えている自分に辟易した。
「……あと数年は外国周りが続くでしょうけど、戻った時にでも、絵本を読んでやりたいですねえ。アーサーさんの本は、まだ早いでしょうから……本棚に置いておきましょう」
急に話が戻ったせいか、瞬きをして、アーサーはぷいと顔をそらした。
「子供に受ける小説じゃねえ。……弟なんか見向きもしなかった」
おう、とギルベルトが声を上げる。
「そっか、三人とも弟持ちか」
「俺はすっげえ年離れてるけどな」
「じゃあ、余計に可愛らしいでしょう」
ギルベルトがちらりと目線を寄越した。あ、と菊は思う。よく分からないが、まずい方向らしい。が、アーサーはしばらく肉を咀嚼した後、うん、と頷いた。「そうだな」。そうしてワインを含む。
ギルベルトは手を挙げてワインのお代わりを頼んだ。馴染みの、と言っていたように、美丈夫のオーナーシェフとは知り合いのようだ。軽口を叩きながらワインを選んでいる。代えて貰ったグラスを掲げて、ギルベルトは言った。
「俺等の弟とかさ、俺等の――ま、いつになるか分かんねえけどよ、俺等の子供が、こんな風に乾杯できたら面白れえな」
残りの二人はにっこりと笑って、グラスを合わせた。涼やかな音がした。