※潔くネタバレの注意書きを書くならば
・文学者パラレルです。
・ギル←菊←アサっぽい話です。
・ギルとアーサーはとても仲良しです。
・死にネタです(作中にそのシーンはありません)。
・1935年スタートで歴史的事実、実在の人物をあてています。
・あてているだけで全面的に嘘です。意図的にいくつかのことを捏造・改変しています。
・この時代のドイツについて少しでも地雷のある方にはUターンを強く推奨します。
【1. 2. 3. 4. 5. 6.】
ロンドンの冬は少しだけ故郷の冬と似ている。雪は降らず、霧に包まれ、とにかく冷える。帝大に入って迎えた東京の冬は拍子抜けするほどのぬるさだった。もっとも、東京の暖かさには人いきれの多さもあるに違いない。白河以北一山百文と言われ続けた奥州は、菊が育った頃にもまして、数年前の大凶作以来人の流出が続いているという。苦界に身を沈めた娘の中には本田家の小作の子もいたと聞く。
大使館から持ち帰った報告書の束の上にペーパーウェイトを転がし、菊は窓へ歩み寄った。開ければ冷たい霧が菊を包む。
この冷たさは――。首筋を霧に晒しつつ、思う。
今日本が感じている冷たさだ。
”松岡全権堂々退場!”――「堂々」としか書きようがないに違いない、そして「堂々」としかいられなかったに違いない。国連脱退を意味する会場引き上げが他国代表の目に、どう見えたかはさておき、松岡さんがとれた態度は、それしかないのだ。そのように進んできた以上。いつもの思考の袋小路に入り、菊はため息をつく。
自らもその仕事を引き受けながら、菊には時々「外交」の虚々実々が辛くなる。カードゲームのように相手の底意を探りながら、慎重に切っていく。時にはこれみよがしに突き出された一枚を敢えて引きながら、そして時には、その気がなくてもカードをテーブルにたたき付けて席を立ちながら。
たかだか13年存続してきたレジュームに過ぎないのだと、自分に言い聞かせることもある。昔は国際連盟など無かった。個別外交の時代に戻るだけだ。言い聞かせながら、既にそれが嘘であることを分かっている。時代は、「国際協調のテーブル」を一度経験してしまったのだ。そこに非白人を招くことを含めて。だからこそ、そこから抜けたのは、単なる「戻り」ではありえない。孤立への一歩なのだ。
あれから一年半。外務省にも派閥が出来つつある。このまま世論におされて孤立を突き進める、覇権国英米との関係回復のため手を尽くすか。しかし、軍に逆らえば――下手をすれば殺される。五・一五事件、血盟団事件で、そんな怯みが上層部に立ちこめている。
首を一度振って体を戻し、窓を閉めようとした、その時、玄関に立ちこちらを見上げる人影に気づいた。
「――アーサーさん!」
アーサー・カークランドは目許を緩め、軽く帽子をあげて見せた。
ハンカチで肩の水滴を拭って、それからノッカーを叩いたのだろう、アーサーが入ってくるまでにはお茶の用意を済ませられるほどのゆとりがあった。外套を受け取りソファに案内すると礼を言って火のそばに腰掛ける。いつも仕立ての良い服を着ている。しっとりと湿気を吸った背広は薄く光って見える。
ちらりとティーセットに目をやったのが見えて、菊は少し緊張した。イギリス人たる彼は、評価を口に出すような無礼はもちろんしないけれども、お茶の味にはうるさいのである。
人づてに知り合って以来何度かお茶を振る舞う・振る舞われる場面に遭遇したけれども、未だにアーサーのそれには及ばないし、そう評価されていることも分かっている。
ぱち、と薪がはぜた。
「狭い部屋で恐縮です」
アーサーは世界中で名前に知られる作家だが、もともと貴族の家柄で豪邸を所有、維持している。菊の家も地元では名家だが比べものにならない。ましてこの地での菊は間借り暮らしだ。
「いや…」
アーサーは渡された紅茶の香りを吸い込んでから軽く部屋を見渡した。
「まるでお前のような、居心地の良い部屋だ」
身の丈に合っているということだろうかと少し複雑な気分になったが、全体として好意的な言葉なのは分かる。菊は曖昧に微笑した。
「落ち着く」
そう言って一口紅茶を含んで、アーサーは「ほう」という顔になった。こちらを見る顔には「上達したな」と書いてある。認められればやはり嬉しい。微笑から曖昧さが抜ける。
しばらく静かに紅茶を味わった後、アーサーは「ところで」と言った。
「先に言っておくが、これからの話は外交官の本田菊に対してではなく、本に携わる人間としての本田菊に対してするものだ。お前の職業的立場に差し支えるものとは思っていないが、それを責めるものでもないと理解して欲しい。――今のこの事態を、憂慮している」
「…」
菊は一瞬固まり、それからゆっくり頷いた。
菊は本業の傍ら、英文学の翻訳紹介もしている。大学時代、編集を任されていた同人誌に翻訳を発表していた菊は、その平易にして繊細な言葉遣いの妙に定評があり、それなりに名も知られていた。アーサーの本の邦訳を最初に行ったのも菊だ。アーサーの小説は一種幻想小説の空気を帯びていて、現実と空想のあわいが朧である。霧の中に入るように自然に妖精たちの世界に入っていくアーサーの小説は日本語では表現できないと噂されていたが菊の翻訳がその噂を一掃した。以来、日本の文壇にも知己が増え、またアーサーの信頼も勝ち得た。
「このままでは日本は孤立する。俺は何の政治的権力を持つでもないから、事態を変える直接の力にはなれない。だが――この名を出すと皮肉と思われそうだが、初代リットン卿は言った、『ペンは剣よりも強し』と」
「はい。『リシュリュー 』ですね」
アーサーの留保の件は受け流して、菊は頷いた。劇作家の孫の国連への報告書を思えば、なるほど言葉は単純な軍事力を上回る国際的圧力を持ち得る。とはいえ、鉄砲の弾とは違い、言葉は文脈の中でいくらでもその意味を変え得る存在である。リットン・レポートがその裡に潜めていた「譲歩」は言葉の受け手の無視または無理解によって意味を消した。
アーサーは小さく体を前に出した。
「言葉は互いを結びつける。伝わりにくいと言われていた俺の小説も、お前によって東洋に届いた。言葉の送り手と受け手にキャッチボールの構えがあり、媒介があるなら、繋がりはただの夢想じゃない。そう思わないか」
菊はゆっくりと頷いた。そう思う、訳ではない。しかし、そう思いたい。媒介になれたのなら嬉しい。小さな私の存在が英国文学を日本の読者に近づけたというなら嬉しい。他国・異文化に生きる人を自分たちと同じ人間として引き寄せたなら、その他国との国際関係を積み重ねようと思う一つの契機となったならこの上なく嬉しい。
「そこで、だ。ペンを日本にも作らないか」
「『PEN』ですか…」
なるほど、と菊は内心膝を打った。思いつかなかったのが不思議だ、アーサーは国際ペンの会長である。表現の自由擁護と文学による相互理解促進を掲げる「書き手」の団体は各国に地域ペンを持ち、毎年大会を開催している。
「しかし、私に仰るのですか?私はP・E・Nのどれでもありません」
詩人・劇作家のP、エッセイスト・編集者のE、小説家のN。別に参加資格がそれに限られる訳でもないのだが、菊としては一次的創作者ではないという自己認識がある。自分は物語を紡げる者ではない。ただ風が花粉を運ぶように言葉を受け渡すだけだ。
アーサーは笑った。
「会長は、誰か『センセイ』に任せればいいだろ。椅子に座るのは誰でもできる。椅子を作るのはお前にしかできない。俺もお前にしか頼めない。……べ、別に伝手がお前しかないわけじゃないぞ!」
いや、それはどうでしょうと菊は心密かに突っ込んだ。ファンは多く、崇拝されているとさえ言えるアーサーだが、そしてそのカリスマ的な指導力も確かなものだが、友人が多いかと言われると言葉を濁さざるをえない。まして日本人で彼の知己となりえた人が何人いるだろう。
考えを読み取ったかのようにアーサーが憮然とした顔になる。
「お前が思っているよりは、友人もいるぞ」
「す、すみません!」
顔に出ていた失礼な思いを顔ごと伏せる勢いで、菊は低頭した。
苦笑して顔を上げさせ、アーサーは「日本ペンができたら、紹介しよう」と紅茶を干した。
その日は案外早くやってきた。本省の文化事業部もこの団体創設に好意的だったし、大学時代私淑していた作家は椅子に座ることを快諾してくれた。若干の自己顕示欲もあるだろう、しかし、この時世下でイギリスに本部が置かれる団体の支部組織をまとめるにはそれなりの意識と覚悟がいる。職務上ロンドンを離れられない菊は、侘びの気持ちも込めて事務的・金銭的な便宜をはかるためそれなりに忙しく過ごしていた。創立大会にはアーサーが祝辞をよせてくれることになっていた。
そうした小さな用向きでペンセンターを訪れた時のことだった。応接室で待っていろとの伝言を受けて、菊は案内を断ってそちらへ向かった。開けられた窓から芽吹きの香りが流れてくるような……つまりは人の瞼を重くさせるような、春の日だった。
まさにそれに籠絡されたのだろう、応接室には先客がいて、腕組みをしてソファに腰掛けたまま微睡んでいた。知らない人だ、と菊は思った。日本を離れて、もう長いこと沢山の欧米人を見てきた。しかし、こういう顔は見たことがない。削がれたような顔のライン、銀とも見える薄い金髪。どう表現したらいいだろう、こう、こういう…
考えていると、不意にその人物が目を開けた。そのまま正面の菊を見、目を眇める。その瞳は、薄く赤みがかっている。紅玉のようだ、と思い、自分の陳腐さにうんざりした。
「――お前、」
誰だ、と聞かれるだろうと思い、菊は口を開いた。「私っ」という声と重なるように「本田菊か」と彼は言った。驚き、子供のようにこっくりと頷く。と、彼はにいっと笑って立ち上がり、勝手に菊の片手をとって振り回した。
「やっぱな!絶対そうだと思ったぜ!俺、ギルベルト・バイルシュミット。宜しくな!」
握手だったのか、と今更ながらに思い、その機関銃のような言葉に圧倒されてこくこく頷いていたら、ティーセットを持ってアーサーが現れた。
「おら、本田が驚いているだろうが。少し落ち着け」
「アーサー!お前、やっぱ小説家だわ。一目で分かったぜ!」
菊は促されてソファに座り、隣のアーサーと向かいのギルベルトを交互に見やった。話の展開からして、菊には紹介が無かった彼に、しかし菊のことは伝えてあったらしい。
「っていうか、あんだけ言えばまあそりゃ大体分かるってもんだ。お前、会う度本田の話ばっかりすんだもんよ」
けせせ、とあまり聞かないタイプの笑い声を響かせるギルベルトに、アーサーは軽く眉をしかめた。
「…紹介が遅れたが、ギルベルトだ。ドイツ人なので多少の不作法には目をつぶってやれ」
「んだとこら」
どうもこういう軽い打ち合いが彼らの基本姿勢のようだが、菊にはついていけずおどおどと二人を見てしまう。何より、寝ていた時と今とのギャップが大きすぎて、ギルベルトにどう対応して良いかよく分からないのである。いずれにしても、「菊が知らない友人」の筆頭が彼なのだろう。アーサーの表情は随分くつろいでいる。
こんなにタイプの違う二人がどうやって知り合ったのだろう、と考えて、菊は直後自分を笑った。本繋がりに決まっている。ドイツ人のギルベルト・バイルシュミット……覚えがあるようなないようなもどかしい感じを中に持ちつつ二人を眺めていたら、「さてと」とギルベルトは立ち上がった。
「んじゃ、俺は用事も済んだし、帰るわ。噂の本田菊にも会えたし、今日は楽しすぎるぜー」
机の上に置いてあった書類袋を片手にギルベルトは帰り際菊の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「またな、本田菊」
「…っ」
「こら」
子供扱いに憤然とする前に、アーサーが横からその手を払いのける。「本田は、お前より年上だぞ」。
「えっ!」
本気で驚いた顔をするギルベルトに、菊は立ち上がって手を差し出した。
「これからよろしくお願いします、ギルベルト『くん』」
目を見開いたままだったギルベルトは、菊の威勢を見せ、ようとしたその顔をしばらく見て、ぷっと吹き出した。
「おう、宜しくお願いされてやるぜ!」
突風が去ったように部屋が静かになった。何となく二人、顔を見合わせて肩をすくめ合う。
「珍しいタイプのご友人ですね」
「だろ?お前も気に入るんじゃないかと思ってな」
大作家センセイに失礼だが、可愛らしい人だ、と思ってしまう。仲良しなのだ。そして、自分の好きなものを、好きになって貰いたい人なのだ。
「それにしても、本当に失礼な話なのですが、お名前が思い出せず…ドイツペ……ドイツの文学者の方なのですよね?」
ドイツペン、と言おうとして踏みとどまる。彼の地では、ナチス政権の成立以来、センターが機能を停止している。文学、科学、美術……様々な分野で、ドイツも孤立を始めている。
ともあれ、ここに来ているのだから文学関係者であることは間違いない。アーサーは肩書きを言わなかった。それは名前だけで分かるような存在だということなのだろうと、菊は不明を恥じる。と、アーサーは手を振った。
「いや、あいつは『ギルベルト』の名前ではそんなに有名じゃない。翻訳をちょこちょこやってるくらいだから、お前は知らなくても仕方ない」
ということは、別の名前で有名なのだろう。なぜそちらで紹介されなかったのだろうと首を傾げていたら、アーサーが苦笑した。
「本当に不憫な話だから、聞いたことを言うなよ。日本には紹介されてないんじゃないかと思うけど、あいつ、『俺様日記』の『作者』だ」
「ああ…!」
確かに邦訳はないし、さらっと英訳本に目を通しただけだったが覚えている。思い込みの激しい、若干性格の破綻した主人公が、熱烈な片思いをしてすげなく振られ続ける話だ。人物造型もユニークだが、何よりその主人公の暑苦しさと、それを書き記す筆者の冷静さが絶妙のコントラストだった。
「あの小説の作者さんだったんですか!すごい筆力だと思っていました」
「…ということになってる。が、あれはただの日記だったんだ」
「はい?」
「しかも、それを読んでしまった当の片思いの相手に『小説』だと誤解されて、本人の知らない間に出版されちまったんだ」
「え。…ええええええ!」
「当時あいつ失業中だったからな。よかれと思ったんだろうし、実際『小説』ならいい出来だしな。売れたし」
「え、だって、名前で気づくじゃないですか」
と言った後で思い当たる。主人公の名前は作者名と同じだった。つまり、『ギルベルト』ではなかった。
「そこら辺があいつの不思議なところだよな。そのまま書くのは躊躇われたらしく、もともと名前とか人物の設定とか時代とか微妙に変えてんだ。だったら完全に小説にしろって言うんだよな」
「はあ……」
ソファに背を預けて考え込む。
思った以上に、複雑な人物だ。あんな暴走気味の行動をとりながら、同時に、自分さえも大地の上の駒であるかのように鳥瞰してみせる。自分のことであるならなおさら、恐ろしいほどの筆の冴えだ。かの本は今でも版を重ねている。つまり、出版差し止めなどはしていないのだ。多分それは、出版の仲介をした「片思いの相手」への配慮なのだろう。言葉にしてさえ気づいて貰えなかった「思い」を、しかし、彼は今も持っているのだ。
「なんとまあ……」
言葉を探して数秒、やはり自分は表現者の資格がないと思いながら、菊は諦めて一番手近な表現を拾った。
「深い愛ですね」
アーサーはゆっくり頷いた。
「あんな風に恋がしてみたいと――うっかり思う瞬間がある。すぐ思い直すけどな。不憫すぎる」
へえ、と菊は思った。そういえば色恋の話をしたことがなかった。洋の東西を問わず、作家というのは感情の振れ幅が大きい人種だ。恋愛を主題にしない文筆家でもよく醜聞を引き起こす。アーサーは独身だが、容姿といい名声といい、…ちょっと分かりづらいが紳士的な性格といい、もてるのだろう。
そんなことを考えていたせいか、しばらく場を沈黙が支配した。
「……本田は?」
ちょっと掠れたような声を出したアーサーは、ん、と咳払いをして紅茶を含んだ。
「本田は、恋人とか、いるのか?」
「私ですか?」
想定外の質問にきょとんとしていると、紳士らしからぬ質問だと思ったのか、アーサーは妙にあたふたと言った。
「い、いや、べ別にお前のプライベートに干渉したいわけじゃなくてな、ほら…表現者なら、恋愛は肥やしだろう」
痛いところを突かれた、と菊は思った。もちろん、翻訳も表現であると菊は思っている。しかし、そうであるなら翻訳者になりきれていないのだろう。菊は、いつまでたっても自分が表現者であると思えない。自分の心に湧いた感情に上手く言葉を当てはめてやることができないのだ。…もっとも、そんな風に感情がわき上がる経験もほとんどなかったけれども。基本的に菊は凪いだ海のような心を持ったまま三十年あまりを生きてきた。
「ギルベルトさんは、アーサーさんのこと、『さすが小説家』って仰ってましたね」
「ぶっ!」
勢いよく吹き出したアーサーに驚いていると、なんでもない、と手を振られた。呼吸の関係だろうか、顔が赤い。
「……私は、小説家でも、まして詩人でもなくて。ただの外交官……あ」
さっき頭をかすめた、けれども捕まえられずに逃げていったフレーズが蘇ってきた。「ドイツ」と「詩人」、そして「恋愛」(または「醜聞」)というキーワードによって。日本現代文学の二つの巨塔。
「ギルベルトさんのお顔を拝見した時、思い出したフレーズがあったんです」
――余に詩人の筆なければこれを寫すべくもあらず。
森鴎外の『舞姫』、エリスの顔を初めて見た時の描写だ。書かないという表現。文豪にこれをやられてしまうと、もうあとは沈黙するしかない。……ですよね、と苦笑交じりに――自嘲の姿勢をアーサーは嫌うのだ――言うと、アーサーは複雑な顔のまま固まっていた。
「………『何故に一顧したるのみにて』――」
ぽつりと呟かれ、それが『舞姫』の続きだと知る。確かに、日露戦争の後くらいに英訳刊行されていたはずだが――
「ご存じなのですか?」
問いかけにはっとしたようにアーサーは顔を上げ、いや、と首を振った。YES/NOを問うではない――YESなのはわかりきっている質問にNOと言われ、菊は困惑を微笑と紅茶で誤魔化した。