※ご注意
・(仏日)×(フラ菊パラレル)です。国側は基本国名、パラレル側は人名です。
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【フランシス――5/10】
菊の部屋は、謙遜ではなく、事実、狭かった。
夜道の危険を慮ってフランシスが訪問したのだが、かえって悪かっただろうかと思ってしまうほど、そこは薄暗い屋根裏部屋だった。
二度目の握手から一週間。勉強にバイトにと忙しいだろう菊を思って約束の日取りを先にしたが、その自分の読みの甘さを何度となく罵った。しかし、大学が閉鎖されるなんて思ってもいなかったのだ。授業がなくなるからもっと早く会ってもいいなんて想像がつくはずがない。とにかく、主観的にはとてもとても久しぶりに会った菊は、たいそう恥ずかしそうに自室に招き入れた。
「えっと」
焦るけれども、二の句が継げない。どこに座ればいいんだ?床か?
「すみません、私は椅子にかけますので、フランシスさんはベッドに座ってもらえますか」
「あ…うん」
狭い部屋なのに、本棚が三棟もたててある。それに圧迫されて、生活スペースと言えば机と椅子、あとはベッドしかなかった。
「あの、本当は下の部屋を借りていたんです。でも、こちらの仕切り壁ってとても薄くて、その…」
「…ああ…フランス人は愛の営みに躊躇ないからねー」
フランシスの隣人も週に何度かは起承転結がはっきり分かるほどの声を聞かせてくる。お互い様というか、そういうものだと思っていたが、菊はそれで部屋移りをしたらしい。
「寮は?」
「考えはしたんですが、あまり共同生活が得意ではなくて」
恥ずかしそうに肩をすくめている。不器用な生き方がより生き方を大変にしているように思えたがフランシスが口出しするような――できるようなことではない。
「――あの、これ」
「うわあ、ありがとうございます」
台所も共同だと言うから、簡単にマリネやキッシュを作ってきた。ギルベルトが嫌がらせかと思うほどくれたザワークラウトも入っている。
「一応私も少し作ったんです」
蝿帳からフリッターのようなものを出してくる。
「もとはポルトガル料理なんでしょうか?よく知らないのですが…今では日本料理の代名詞みたいになってますんで」
「あ、テンプラ!」
フジヤマ・ゲイシャと並んで知られる日本語だ。
「ええ」
共同炊事場でこんな綺麗なものを。
「本当は揚げたてが美味しいんですけど、片付けしないわけにはいきませんので…本当の腕前はこれより上だと思って下さいね」
言いながら他にも小皿を数品出してベッド脇に配置された机に並べる。見たことのない調理法ばかりだが、眼に鮮やかで食欲をそそる。これはなかなかの手練れらしい。
学生の身にしては奮発したワインで乾杯をし、しばし料理談義にふけった。
食後、デザートにと持参したマドレーヌをうっとりと眺めながら菊は言った。
「お貴族様のお菓子ですね」
「フランス人はみな心の貴族です」
ふふ、と笑って、菊は立ち上がった。
「お腹いっぱいではあるんですが、いただいちゃいますね。紅茶か何か、要ります?」
「俺はワインのままでいいけど」
「じゃあ、私もこのままで」
おっと、と言いながら片手を机について姿勢を戻す。足に回ってきたらしい。
「マドレーヌと言えば…」
フランシスは先周りして答えた。
「プルースト?」
菊は嬉しそうに頷いた。何のことはない、書棚に揃っているのを見ただけだ。しかし、名刺に「私は『失われた時を求めて』を読んだ」と書けば人となりが分かる、と言ったシンガーソング・ライターがいる―――つまり通読していない人の方が圧倒的に多いこの大河小説を外国人の菊は読んだのかと少なからずフランシスは圧倒された。
菊が渡してくれた一つを小さくちぎり、口にいれようとしたところで菊が続けた。
「どうして、せっかくふんわりと焼き上げたマドレーヌを紅茶に浸したりするんですか?」
「…え?そこ問題?」
「だって、びちゃっとなってしまうでしょう?」
「そりゃ、まあ、ね?」
「ふわっと焼く為には色々手間がかかるのに…」
むーと睨んでいる顔がおかしくて、フランシスは、自分のグラスに手の小片を突っ込んだ。
「あ」
赤く染まったマドレーヌを差し出すと、菊は怯んだように口を閉ざした。そりゃそうだ、紅茶でも違和を感じたのに、ワイン漬けだ。それでもフランシスの笑いかける眼に気圧されたように、菊はおずおずと口を開いた。そっと送り込むと、唇が閉じ、静かに咀嚼が始まる。
「どうよ?」
「……お酒が強くて味なんか分かりません」
「絶対、次にワイン漬けマドレーヌを食べたら、この記憶を思い出すだろ?」
かの小説では、紅茶にひたしたマドレーヌを食べた瞬間少年の日の記憶が嵐のように吹き上がるというシーンがあるのだ。
「いや、食べませんから!」
ははは、と笑ったところでフランシスはたいそう残念なことに気がついた。ワイングラスに油が浮いてしまっている。
情けない顔で菊を見たら、一矢報いたというように「飲み干すまでお代わり禁止です」と言った。
酔いのせいなのかそうでないのか、自分が浮かれていることには気づいていた。菊の方も、いつもより笑顔率が高い。
プルーストから敷衍して、フランス文学の話に流れた。史学を学ぶ身としてそれなりの文学史上の知識はある。読んでもいるけど、やはり読み込みの深さでは負ける。やるもんだなあと不遜ながらに考えて、ふと思いついて聞いた。
「なあ、ジャン=ルイ・ボリって知ってる?ゴンクール賞もとった作家なんだけど」
「え…すみません、不勉強で。いつ頃の方ですか?」
「戦争ものなんだから、それこそ1945年とかかな。今でも書いてるけど」
「すみません、分からないです。その方が、何か?」
「ん?…いや、なんだろう、別になんていうこともないんだけど、ついでに思い出したから」
フランシス自身にもなぜ思い出したのかよく分からず、酔いを理由にその話を流した。
用意したボトル二本は簡単に開いてしまった。それこそ自分の身の安全の為に引き上げるべきだと分かっていながら、フランシスはぐずぐずとこの時間を引き延ばそうとしていた。見かねたのか菊は遠慮がちに申し出た。
「あの…泊まっていきますか?」
「いいの?……って無理、だよね…」
横になれるものはベッド一つしかないのだ。
「つめれば、落ちはしないと思うんですけど。柔道の強化合宿の時なんてもっと狭い面積で雑魚寝でしたから……フランシスさんさえ嫌じゃなければ、私は平気です」
「ああ、うん…菊ちゃんがそう言うなら」
もうシャワーを使える時間は終わっている。二人は赤い顔のままベッドに寝転んだ。菊の替えのパジャマを一旦は借りたが窮屈に過ぎて、下着姿を勘弁して貰う。自室で寝るときは脱ぐTシャツを着ているのがせめてもの遠慮だ。
かちん、と電気が消える音が聞こえ、フランシスは大きく息をついた。
SMの趣味はない、…と思うけれども、自分にはマゾヒズムが隠れていたのかと思ったりもする。なぜ自分から拷問部屋へ飛び込むような真似をするのか。
酔った菊の緩んだ笑顔、赤く染まった頬、少しだけ甘えた口調のフランス語。
二階の窓の花は目で楽しむしかない。しかし、生け垣の花ならふれることもできるのだ。手を、伸ばしさえすれば。
さわれる場所に、菊がいる。だけどさわれない。
「彼は男だ」。
語学の教本でしか意味がないようなこの一文を、菊と知り合って以来、何度となく思い浮かべた。
恋をしたい。他の人と同じように、普通に、恋がしたい。25年かけて熟成されたその思いは根深くて、菊にそっくりの幻の女を捜しもした。だけど、ギルベルトがルートについて言ったように、身代わりと恋をするより、当人と向き合っていたい。事実、菊と会っている時に彼女のことを思い出すことはなかったのだから。
フランシスに背中を向ける菊の息づかいを感じて眠れないまま、ぐるぐると考えた。真っ暗な闇に、こんな夜中にそれでも行われている集会のざわめきが遠く響いてくる。
出会って以来、菊の夢を、何度となく、見た。
最後にはいつも、口にできないような展開になる。
華奢な体を抱き留めた感覚はリアルに思い出せるから、いつも夢の中で菊はフランシスの腕の中にいる。黒曜石のような瞳をだんだんに閉じて、口づけを待つこともある。項を見せて、ただ息と体温で熱を示すことも。夢は、現実の制約を離れ、封じていたはずの欲望をあばき、水飴のように甘く柔らかくフランシスをとらえる。
抱きしめる手をすべらせれば、夏の服は簡単に素肌への侵入を許す。滑らかな肌、そして痩せぎすな脇腹。一瞬息を止めたさまが愛おしくて、項に口を付ける。鼻孔に届く体臭に――菊のそれは隣に座る程度では気づかないほど少ない――また酔いを感じ、口づけを繰り返して耳朶を噛む。菊はいつもここで咎めるように、そのくせ促すように、フランシスの名前を呼ぶ。促されているように聞こえるのは自分の耳のせいだと分かっていながら、それに許されたかのようにフランシスはもっと大胆に手を動かす。片手じゃ足りない。全身で菊を感じたい。足の間に太ももを割り込ませ、もう一方の手も無理矢理腰に回して、両方の掌を菊の素肌に触れさせた。電流が通ったかのように、フランシスの脳はしびれ、かぼそい制止の声も媚薬のようにしか響かない。
臍のくぼみと、あばら骨のラインとを存分に楽しんで、フランシスの両手はそれぞれ上下に滑った。平板な胸、そこに飾りのようについた突起、そして柔らかな茂みと、
ああ、今回もそうだ、この段階にくるといつも目の前にうす赤く点滅する三角形が見える。
だんせ
「ふ、フランシスさんっ…」
――現実?
ざっ、と血の気が引く音が聞こえた。
闇の向こうで、ずずっと体が遠のく音がした。荒い息づかいも聞こえてくる。
「よ、よいすぎないでくださいって、いったじゃないですか…っ」
口が乾いて返事ができない。
「無理だって、言ったんじゃないですか……!」
「俺……今………」
「……」
菊の息だけが聞こえる。
「ごめん、帰る!」
「…え」
「ほんと、ごめん、後でドゲザでも何でもする、何でも言うこと聞くから、今の忘れて!」
ひどい、のは分かっていた。それでも、この場にはいられなかった。セーヌに飛び込みたいとさえ思った。
服をざっと身につけて、そのまま部屋を出る。建物のドアも開いていたのを幸い、フランシスは夜の路地を駆け抜けた。
うす赤い三角形が脳裏に点滅する。
今、菊に触った。ずっと触りたかった。
俺は、菊の肌に触れ、胸を触り、下半身を掴んだ。
彼は紛れもなく男で、俺はそれを分かっていて、そして―――だから、興奮した。
25年、何度も否定した、あがきもした。
けど、「それ」は今、明白な事実だった。
受け入れられなかったのは、菊が男であること、ではない。
俺が、男である菊を愛するタイプの人間なのだということ、だった。
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