※ご注意
		  ・(仏日)×(フラ菊パラレル)です。国側は基本国名、パラレル側は人名です。
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           【フランシス――5/3】
 	      
 	        衝立の向こうからぶっと吹き出す声が聞こえて、意識が奥のテーブルの二人連れに向かっていたのかもしれない。その二人がそそくさと店を出ていくのを何となく追いかけた眼は驚愕に見開かれた。
 	        「女の子になった菊」がそこにいた。
 	        優しい柘植色の肌、黒いショートボブに慎ましい胸。
 	        恋愛をできるだろうと予感出来る、唯一の女性が、そこにはいた。
 	        「……っ」
 	        カラン、とドアベルがなって、仲むつまじそうな二人はフランシスの世界の外に出た。
 	        「…どうかしましたか?」
 	        菊も小首を傾げ、半身振り返ったが、既にドアは閉じられていた。
 	        「う、ん。ちょっと、素敵な女性を見かけたものだから」
 	        少し目を見張って、それから菊は眼を細めた。
 	        「フランスの男性って、ほんとに、みなさん『そう』なんですね」
 	        「いや、そんなことはないけどさ。素敵な女性には声を掛けるのが礼儀だという雰囲気はあるね」
 	        「声をかけにいきますか?」
 	        「いや、男連れだったから」
 	        「残念でしたね」
 	        「…ていうか、いかないよ?菊と話してるのに」
 	        「そういうものなのですか?そちらの流儀に合わせてかまいませんよ」
 	        「流儀はともかく、俺は菊を優先したいから」
 	        菊はにこりと笑った。
 	        「友情に厚い方ですね」
 	        「でしょ。菊ちゃんの方は、素敵な女性を見つけたなら、俺を後回しに彼女を追いかけても気にしないぜ、っていうくらい、厚い」
 	        フランシスは何気なさを装ってそう言い、菊の反応を伺った。表面には出さずに緊張していたフランシスに、菊ののんびりした声が届く。
 	        「それこそ、難易度が高いです。日本の男性は、素敵だと思った女性にも容易に声がかけられないものなんですよ」
 	        「ふーん、そうなんだ。菊ちゃんも」
 	        「ええ」
          へー。
 	      忘れろという依頼は現在「いってこいでチャラ」になっている。だからあの夜の菊の言動をもって不機嫌になるなどルール違反というものだ。そうだけれども、『冗談』の『たちの悪さ』はかなりのものだ。
 	      「そういえば、日本でも飲酒可能年齢は16なの?」
            「いいえ?20歳ですよ」
            「え、そんなに遅いの?……いや、その前に、だったら菊ちゃん、飲んだら駄目なんじゃない」
            酔っぱらってたくせに。若干ふてくされて言えば、菊は瞬きをした。
            「私、23ですけど…」
            「えーっ!?」
            「……幼く見られるのは慣れてますけど、…慣れてしまいましたけど、そんなに驚かないで下さい」
            「ほとんど年違わないってこと…?」
            「はあ。私は向こうの大学出てから来ましたから」
            「そっか…官費留学生なんだったっけ」
            「はい。絶対留学するって決めてましたから語学は死にものぐるいでやりました。日本人の舌にはフランス語はかなり難しいんですけど」
            へえ。それで流暢だったのか。フランス国民の例に漏れず母語を愛するフランシスはそれをがんばって習得したということで菊の評価を更に上げた。
            「菊ちゃんのフランス語はとても綺麗だけど。声が好みだからかな、それでヴェルレーヌなんて朗読されたらうっとりするだろうな」
            「巷に雨の降るごとく…ですね」
            うっすらと頬を染めて、菊は言った。
            「フランシスさんの言葉こそ、私の耳にとても美しく響きます。……あの、変な風に思わないで下さいね、そういう意味ではないのですけど」
            断りを入れても菊はなお逡巡し、ややあって言葉を継いだ。
            「フランス語は愛の言語だと、聞く度思うんです」
            忘れて下さい、という依頼を守るつもりのフランシスは、にっと笑って受け流した。
 	      受け流したけれども、心の中でため息をついた。本当に、たちが悪い。
 	      「…じゃあ、お互い飲めるわけなんだし、今度部屋飲みでもしない?ワイン片手に、一晩中愛の言葉を囁いてあげるよ?」
 	        冗談めかして言うと、菊もくすりと笑って同じノリで返した。
 	        「えぇー?女性ならフランシスさんの声だけで妊娠してしまいそうですね」
 	        菊は悪戯っぽく付け加えた。
 	        「酔いすぎないで下さいね?」
 	        「いや、それ俺の台詞」
 	       
 	      【フランシス――5/7】
 	      
 	      「お前さ」
            「…んー?」
            「上の空じゃね?」
            「…えー、そーお?」
            そういいつつも、眼が通りを彷徨っている。
            「そうだろうがよ、窓の外ばっかり見てんじゃねーか。誰か探してんのか?」
            「…んー…」
            ギルベルトに言われるまでもない。通りで、市場で、カフェで。気づけばあの女性を探している。
            さらさらの黒髪が肩に触れ、その下のすらりとした体はふんわりとしたワンピースに覆われていた。今時流行らないくらいの「女の子服」。今、街を歩く女性の多くはユニセックスでシックな格好を好む。
            格好はどうでもいい。とにかく好みそのままの顔をした彼女が、恋愛の対象となりうる女性であることが重要だった。独り身の楽しさを謳歌している、と涙目で主張するギルベルトには殴られるかもしれないが、言い寄られて始まったこれまでの恋愛など全部引き替えにしてもいいから、「彼女」と恋ができないものかと思っていた。
 	      「なあ…」
 	        相変わらず頬杖を突いたままカフェの外を見るフランシスに、ギルベルトは手帳から眼をあげずに「あんだよ」と返事した。彼にとって今一番重要なのは、ここまで騒動が大きくなったにも関わらず実施が発表された学年末試験への対策を練ることである。
 	       
 	      学校閉鎖が発表されていたことを、フランシスは土曜日になって同じアパートの学生から聞いた。彼は6日月曜に予定されている抗議デモに参加するのだと強い口調で語った。誘われているのは分かったが、フランシスは曖昧な微笑で断った。
 	        このムーブメントに乗り切れない自分に気づいている。多分、初発の印象のせい―――ナンテール校の運動が「異性寮を訪問する自由の獲得」として新聞にとりあげられたためだ。新聞が揶揄したように「若造のわがまま」と思った、わけではない。「異性を訪問すること」は大人として自立的に行動することの象徴だというくらいフランシスにも理解できた。彼らの主張には頷きながら、しかしフランシスは彼らと行動を共にするだけの熱を持てなかった。それがなぜなのかを考えることも放棄していた。
 	      それなのに月曜日にカルチェ・ラタンに向かったのは彼女と会えるかもしれないという淡い期待による。
 	        しかし、一帯はそんな暢気な期待を打ち砕く緊張状態だった。警察の厳重な警戒のもと集まり始めた学生達には催涙弾が打ち込まれた。フランシスはしばらくその騒擾を眺め、いくつかの街頭集会の議論を立ち聞きして、帰宅した。
 	        デモは、「無統制」をこそ根本原理としていた。組織の長や知識人によって組織されるのではない、運動家から指導されるのでもない、自律的に参加していく運動形態を彼らは模索していた。
 	      あらゆる管理からの解放。
            誰かの台詞がフランシスの耳に残った。
 	       
 	      最終的に1万5千にも及んだと言う学生集団は、平穏裡にデモをしていたというのに、夕方から夜にかけて、警官隊に激しい攻撃を受けたという。デモ側・警察側合わせて負傷者八百五人という「カルチェ・ラタンの虐殺」は学生の側に世論の風を呼びつつあった。
 	      
          
 	      「だから、なんだっつーに」
 	      ギルベルトはこの運動に全くの没交渉だ。適性のある分野で高等知識を身につけるのが大学。「知識は壇上から授けられるもの」であって一向に構わないから左翼学生等の批判が心に届かない。「大学は免状のための工場、教授は生産要員、学生は製品でしかない」といわれても、「たりめーじゃねぇか」くらいは言いそうだ。
 	        仲は良くても感性は違うから、フランシスにはソルボンヌの中世的権威主義は鼻につくし、それを批判する大学改革要求は賛同できる。一つ一つの言葉には――とはいえ、何せ「無統制」運動なので言葉は余りにも雑多なのだが――頷けても、共に行動しようと踏み切れない。まあ、こんな非常時に恋愛に惚けるのもフランス人らしいと自分で思う。
          
 	      「もしさあ、ルートヴィッヒとさ…」
 	        少し考えて、言葉を足す。外見が、という想像はあまり美味しくない。
 	        「印象とか内面がすっごい似てる女がいたら、お前、惚れる?」
 	        ギルベルトは飲もうとしていた炭酸水を、コントのようにぶーっっと吹き出した。
 	        「ちょっ…おまっ!」
 	        慌ててハンカチを出し顔をぬぐう。よだれのように口から水を垂らしたギルベルトに既に吸水力の落ちたハンカチを投げてやると、無言で口周りをぬぐった。
 	        「…謝んねーぞ。そのふざけた脳は一回セーヌで洗ってこい。ていうかいっそ手術受けろ。開いて、妄想の根源を抜いて貰って来い」
 	        「……」
 	        フランシスは苦笑した。
 	        「…そこまで言われると、考えたことあったのかとか思っちゃうよ?」
 	        「ふ、ざ、け、ん、な。俺のルートを妄想で汚すな」
 	        「いやだから、そういう言い方が、さ…」
 	        へらへらと笑ってやると、ギルベルトの眼の険が少し落ちた。
 	        「家族に求めるものと女に求めるものは別だ。当たり前だろうが」
 	        「…デスヨネ−」
 	        「………ま、ルートが持っている美質を兼ね備えた女がいたら、一目置くのは確かだな。けどよ」
 	        「うん?」
 	        「お前が聞きたいのはそういうことか?」
 	        「んー?」
 	        「よく分かんねーけど、ルートに似た女と付き合うくらいならルートを構った方がいい」
 	        「あー……。うん」
 	        「あんだよ」
 	        「いや。ダヨネーって」
 	        わけわかんねぇこいつ。そう言い捨ててギルベルトは手帳に目線を戻した。
 	      ギルベルトがただの冗談で口にした「脳の手術」。フランシスはそのイメージを振り払おうとひらひら、と手を振った。
 	      
          
 	      
 	       
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