ゆめのおわり・1944

 

※ご注意
・ギル菊。「薬指に血の指輪・1889」「Close・1895」「狼は夢を見るか・1919」の続きです。そちらを先にお読み下さい。
・戦前・戦中における歴史記述があります。明るくないです。ギル出てきません(ルートヴィッヒ視点)。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。


 


案内を断る声が遠くで聞こえていた。この声は、菊だ。ならば。俺はそのまま床を磨き続けた。もう少し、ものを言わずにいたい。菊ならば、不作法を咎めることもあるまい。
フェリシアーノは野生的勘で、菊は年の功で、大事なところをはずさない。五年と持たなかった「三国同盟」だが、この二人には百年以上の親友同士のような思いさえ抱いている―――今でも。
床を磨く。
薄汚れた角柱を、壁を、床を、磨く。
足音もなく近付いていた菊は、ひたすら床を磨く俺に、声もかけずたたずんでいた。気配で分かる。ひどく、疲労している。階段を一つ白く洗い上げて、それでもまだ顔を石床に向けたまま、俺は言った。
「菊。お前も、離れて、いいんだぞ」
「え?」
「自分を守るために、最善の道を探せ。あいつのように」
「ルートヴィッヒさん・・・」

ベルリン=ローマ枢軸は破綻した。やつの上司は逆さ吊りにされた。バルカン半島はパルチザンの手に落ちた。もはや先は見えている。在日大使館から届く極秘情報では、宮中内部では終戦工作も始まっているという。折り合いのつけどころをさぐり合い、一つにはイヴァンによる講和斡旋の道を探っているらしいが、無駄だ。「不可侵条約」が簡単に破棄されるさまなど、俺の上にすでにみてきたはずだ。

「フェリシアーノ君は、どうしているでしょうね」
「俺の親戚がシカゴにいるんだ、とでも言ってるんじゃないのか。実際いるだろうしな」
「彼に『なんでもするから』って言われたら、なんでもしてあげたくなっちゃいますからね」
「そうか?俺は軽く殴りたくなったこともあるぞ」
「なさらなかったくせに」

いや、結構本気で殴ったこともあるぞ、と思ったが、口にはしない。
戦線離脱。それを咎めるより先に、死線から逃れられたことを祝ってやりたい。それくらい、泥沼だ。

「お前も・・・」
「ここにいますよ。私は離れません」


腕を止め、両手と顎をデッキブラシの柄にのせる。
「なあ・・・今更なんだが、聞いてもいいか?」
「なんでしょう」
「何でお前は、俺と同盟を組んだんだ?」

日独関係は、歴史的にも地理的にもつながりが強いとは言い切れない。まして軍事的地勢でいえば協力関係になりえない。助けに行けもしないし、来てももらえない。思想的共通性をどちらの上司も喧伝したが、「アーリア人至上主義」と「白人排除」が共存できるはずもない。
「…お前の黒目黒髪は、俺は気に入っているんだがな」
完全な独り言だったのだが、呟きは菊の耳に届いたらしく、小さく目を見張って、それからほほえんだ。
「私も、聞いていいですか」
「なんだ」
言いながら階段状の観客席に腰を下ろす。目で促せば菊も隣に腰掛けた。

「以前お聞きしたことです。ルートヴィッヒさんはバウハウスをお嫌いなんですか?」

「……ああ、そんな会話したな」
この場所だった。民族の祭典と謳われたベルリン・オリンピック。ベルリン=東京枢軸形成が目前で、次回開催国でもある菊を――だった、その時は――招き接待した。
劇場効果を意識した競技場設計、音響効果。戦後復興をアピールするために奮起した我が国の選手団。たくさんの金メダルにファンファーレ、拍手と歓声。
いつもは表情を見せない黒い瞳をきらきらと輝かせながら菊はひときわ小さい自国選手にがんばれがんばれと声援を送っていた。

「そういえば、バロン西はどうしてる」
体格差をものともしない巧みな手綱さばきで二大会連続金メダルの呼び声も高かった馬術選手は、残念ながら落馬した。陸軍の軍人であった彼は、日独防共協定締結を押し進めていた上層部から、金メダルを我が国に譲るよう圧力をかけられたという。本当かどうか知らないがあり得なくはなかった。あの頃既に、「上司の行動」は「俺」の預かり知らぬところとなりつつあった。菊もそうであったとしてもおかしくはない。
「…彼は硫黄島です。どの戦線もひどいんですが、南方は壮絶です。総員玉砕という言葉が修辞ではなくなってきている……」
「そうか」


同盟と言いつつ、そして「世界大戦」と言いつつ、しているのは「それぞれの戦争」と言うに近い。菊の側も俺の両面作戦に言いたいところはあっただろうが、俺の方もあの海域戦略はどうかと思う。思うが、手を貸してやれない以上口も出せない。


それにしても、人が死にすぎる。


阿修羅神が俺に憑依したのではないかと妄想混じりに思うことすらある。


「それで、バウハウスなんですが」
「あ、そうだったな、すまん。…そうだな、『俺』個人で言うなら、ああいう清潔感は嫌いではなかった」
菊はこくん、と頷く。


1920年代、ワイマール、のちにデッソウを根拠地にする新しい建築家集団が一つの時代を作った。
それまでの建築も、表現はそれぞれ意味を携えていた。尖塔を高くしひたすら天を指向したバロック、伝統を重んじた歴史主義、軽快で活力に満ちたアメリカ合理主義、植物をモデルにしたアール・ヌーヴォー、鉱物に進んだキュビズム。神から人へ、そして自然へ、無機物へ、幾何学へ。
目線を下げ思想を掘り下げる中で、ワルター・グロピウスらは無機質さが持つ「非・権威」「非・格差」「非・固有」という思想に行き着いた。
真っ白な壁、ずらっと並ぶ大きなガラス窓。すべてが規格的で、すべてが等しい。バロック建築を垂直的と呼ぶことになぞらえていうなら、彼らのデザインはどこまでも水平的だ。

ドイツの伝統を捨て、ドイツ性を捨てたそのインターナショナルな建築思想を、上司たちはユダヤ的と呼び弾圧した。
その上司達が求めた第三帝国様式建築の一つがオリンピアスタディオンである。門のようにそびえ立つ角柱、自然石を使った競技場。視覚効果を最大限まで計算し、超越性を表現している。
オリンピックの興奮に目をくらまされず、そのことを正確に指摘した後で、しばらくためらったあと、菊は「ルートヴィッヒさん、は、バウハウスはお嫌いなんですか?」と聞いてきた。


「これも、それも、私にはドイツ的に感じられてしまうのです。多分、遠くよそから貴方を見るからなのでしょうけど」
「菊は、どうなんだ?長方形中心のバウハウスは、全く『日本的』ではないだろう。最近増えてきたらしいが、違和感ないのか」
「そうですね…バウハウス派は、小学校や中小集合住宅を数多く手がけているため、随分と社会に馴染んできました。大震災後の東京の求心力が呼び込む人口を町として支えるのに適していたのだろうと思います。木と紙でこぢんまりとした家を並べてきた私にとって、無個性で無機質な大型建築にはやはり違和がありもするのですが、……一方、何事も無ければこのタイプの建築はもっと広まっていくのではないかとも思うのです。先ほど『日本的ではない』と仰ったのですが、ある意味『日本的』感性が一部共鳴するのかもしれません」
「ほう」
「言葉にするのは難しいのですが…『規則的にみんな平等』という印象、でしょうか…」
そこで大きく歓声があがり、会話は打ち切られた。

 

「ドイツ的なるもの、か…」
その結晶として俺はここにいる。そのように作られた。菊もまた、日本的なるものの結晶として生きることを強いられている。
その行き着く先がこの空疎な空間なのか。
スタディオンに二人並んで腰掛け、がらんと空いたフィールドを見る。戦線に人を送り込み過ぎて、ここから人が、町が、暮らしが消えていく。
「お前が言うように、確かに、20年代のバウハウスも……ワイマールも、俺の中から生まれるものだという気はする。だけど30年代は、上司達が示す方向性に国民も熱狂した。それぞれ、見た夢は違う。国家『社会主義』に夢を見た者も、『国家』社会主義に憧憬を感じたものもいる。そして俺は………」
隣席に立てかけたデッキブラシを見る。

「『第三帝国』という言葉の中にあるつながりに熱くなっていたのかもしれない」
菊はこくんと頷いた。
「『第三帝国様式』はローマ帝国美学の継承ですし」
そしてフェリシアーノも古代ローマの建築デザインを積極的に採り入れようとした。結局は建設半ばで断念されたが、ローマ万国博の為に建設されていた新都市エウルにも超越性を感じさせる意匠は多い。

 

「もしかしたら俺は、単にあいつに繋がりたかっただけなのかもしれないな」

 

いつからあるのか知らないが、やたらと古いそのデッキブラシは、何故かも分からないが、いつも俺の気を和ませる。疲れると床磨きをする俺を、上司は変な顔で見る。そして兄貴は、…いつもは俺をからかうことを忘れない兄さんは、その時は俺をそっとしておいてくれる。

 

「そういえば、兄貴だが」
「は!?どこから『そういえば』なんですか!?」
予想外の変化球を投げられたように菊は飛び上がった。

「あ…いや、特になんてことはないんだが。フェリシアーノが兄貴の様子を俺に聞く度に耳をすませていたようだったから、気にしているのかと思っただけで…しかも、別になんてことはない、なんとか無事だと言おうとしただけだ。…驚かせたようですまない」
先の大戦以来兄は長く引きこもっていた。お前に任せる。お前の好きにすればいい。投げ出したような言い方で、だけど痛みのほとんどを黙ってひきうけて、兄は森にこもった。戦争が行き詰まり、人手が足りなくなって手伝いを頼んだら、「おう」と二つ返事で前線に出向いてくれた。戦況には見合わない軽い調子の手紙を時々寄越してくる。

「い…え。考えてみれば、話の出発点にして結論なので、いいんです」
「ん?」
「いえ。聞き流してください」
菊は片手で顔を隠し、はたはたともう一方の手を振った。
それから二人、肘をついて空を見上げた。今は晴れた空。既に何度もこの街は空襲を体験している。ノルマンディー防衛線は突破されてしまった。血の雨はもう降り止むことはないだろう。
太平洋の制海権を失いつつある菊は、本土空襲の豪雨にさらされることだろう。それは既に「彼の戦争」であって、止めれば俺に戦力が集中するからと続けていることではないだろう。とはいえ、それでも離れないのはなぜか。

話の出発点にして、結論。
何気ないふりをしつつ気にしていた動向。”単に繋がりたかっただけかもしれない。”

……そう、なのか?

思わず横を見たが、菊は気づかないふりで空を見続けている。
俺も空へ眼を戻した。
テーブルクロスを取り払ったように、いろいろなことが繋がって見えてきた。俺にもできると言ったのに「お前にはまだ無理だ」と色んな世界会議に代理出席を続けた兄。どれに出るか(出ないか)の偏りに不平を漏らすと「うるせぇ言うこと聞け」と顔をそらした。その頬の赤さ。軍隊のことは俺に任せろと兵法指南にもわざわざ極東まで出向いていた。

「へぇ…」
「…なんですか」
「いや。なんでもない」
笑み崩れそうな顔を取り繕う。そうか。兄さんには―――兄さんだけの心の領域があったのか。
菊はしばらく「やらかした」とでもいうような苦い顔をしていたが、やがて言った。

 

「話の出発点に戻りますとね、いろいろと理由はあるんですが、一つには、お兄様と賭をしたのです。別にあちらは賭けたつもりはないのでしょうが、私は夢に賭けた。…内容は秘密です」
「ほう。で、勝ったのか?」

菊はじんわりと笑った。
「…負け、ですかね。自分自身が負けてしまった感じです」
でも、賭けた以上、見守らないと。

呟いて、いきなり菊は身をかがめ、軍靴を脱いだ。ああ涼しい、と言って、その指をうにうにと動かす。
「ねえ、ルートヴィッヒさんは、足の薬指だけを動かすこと、できますか」
いきなりの話題転換に面食らいつつ、ひとまず応える。
「…医学的に見て、それは結構難しいのじゃないか?」
「わたし、結構足が器用で、やろうと思えば―――やろうと思えば、ですよ?、急須からお茶をそそぐくらいできた気がするんです」
たとえにしては余りにも具体的で思わず眉が寄る。それは東洋でもなかなか行儀の悪い仕草ではないのか。
「できた気がするんですけどねえ、なんだか、今、全然、だめなんです。体が思い通りにならない」
ぐー、ぱーと手を握って見せる。確かに、左手と右手の動きが揃っていない。

「やり始めると突っ走る性格は昔からあったんですが、全体がばらばらだったからどこかでストップが効いていた。今は、統一体…だからこそ、手も、足も、頭も、どこもかしこもが『自分には止められない』と思っている感じなんです」
菊は表情を消した。

「今、我が国でも、最終兵器の開発を進めています。海軍の「F研究」、陸軍の「二号研究」…二号は濃縮実験まできました。しかし、原理的に核爆発を軍事転用することは可能なんでしょうが、どう考えてもうちの鉱産資源と資金力では間に合わない。それを思えば、やり返される前に戦争自体を止めることを考えた方がいい、『全体』である私はそう思います。けれども、『全体』として動くことができない」
「終わらせられない…か…」
確かに、勝利のうちに全てを終わらせる最終兵器の空想は魔力を持っていて、長い間うちでも研究が進められている。しかし、理論ではそれは形にならず、複数回の実験とそのための資金がいる。正直、もうそちらに回す余裕はない。


「獣たちは、腹を見せればそれで戦いを終わりにできるのに…」
ぽつり、と菊が呟いたので、そちらに話題を振る。

「そういえば、菊のところには、あまり狼はいないのか?」
「はい?…いえ、いますよ。本州にいた種はもしかしたらもう絶滅したのかもしれませんが…」
「あまり身近な動物ではなかったとか?」
「まあ…犬猫に比べれば、そうですね。ですが、農産物を食い荒らす害獣を捕ってくれる動物として、遠まきにあがめられていた、というところでしょうか。『おおかみ』は『大神』だと言われます」
「へぇ…」
「何か?」
「いや、俺のところではむしろ狼自体が家畜を食い荒らす害獣だったからな。そして、人に憑依して狂わせるものでもあった。『狼憑き』って聞いたこと無いか?」
「ああ……、文学作品でお見かけしたような。うちでは人に憑くのは狐ですね。…でも狐も神の使いなんですが」
「随分、狼についての見方が違うんだな。………と、兄さんが言ったことがあってだな。話の中身は聞いていないが、世界を裏返された気分だったと言っていたぞ」
「はあ。……どこからそれを思い出されたんですか」
「あ」
あまりいい連想ではなかったのだ。どうしようか、しばらく迷って、告白するように言った。

「”『俺は』やめればいいのに、と思うのに止められない”つながりなんだ。挟撃作戦の中でなんとか持ちこたえるために、ユーゲントから選抜して、占領された地域で動くゲリラ組織…というかテロ組織を作るという話がある。その名前が『ヴェアヴォルフ』―――人狼、と言うんだ」


菊は静かに聞いていた。
長く黙って、そして、もう一度空を見、最後に、はかなく笑った。
もう終わっていることを分かっていた夢の、足跡を見るような顔だった。



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