狼は夢を見るか・1919

 

※ご注意
・ギル菊。R15。「薬指に血の指輪・1889」「Close・1895」の続きです。そちらを先にお読み下さい。
・戦前における歴史記述(ベルサイユ条約直後あたり)があります。明るくはないです。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。


 


もう長いこと闇の中にいた。このままそれに同化するのだろうとさえ思っていた。
両目を覆う包帯は汗のせいでわずかな異臭を放っていた。薄いガーゼのそれはしかし入念に巻かれ、光とおぼろな輪郭しかギルベルトに伝えない。それで十分だった。戦場を長く泳いできた者として人並みならぬ勘を持つギルベルトは、本当は足音だけで、誰が近づいてきたのか、そいつは敵意を持っているのか、どの程度の武力を備えているのか、判断がつく。目を隠しているのはいいわけにすぎない。本当はわかっていることを、「わかりません、わからないように措置しています」とアピールする。
国際関係とは結局人形劇だとギルベルトは笑った。茶番を茶番と知りながら、操る黒子の顔さえ凝視しながら、それでも人形の動きに感嘆してみせる。

ばかばかしすぎるぜ…

苦笑してベッドサイドのシュナップスに手を伸ばした、それにひんやりとした手が重なって、ギルベルトはベッドの上で身をこわばらせた。
今、まさに、気配など読みとれると思ったばかりだったのに。今の今まで人がいることなど気づかなかった。誰だ。

「…」
冷たい手ははただ息づかいだけを伝える。
「…」
ギルベルトはその手首をつかんだ。
「菊、か」
「…!」
あきらかに逃げようとしたその手を、強くつかむ。
「何しにきた。お前も俺を傷つけにでも来たか」
「…っ…」
また手は逃げようとした。今度は追わず、退くに任せた。

汎ゲルマン主義を掲げ対外膨張策を展開したドイツ帝国は、昨秋の革命と敗戦により終焉の時を迎えた。ルッツの頭上に輝く王冠をみた、その同じ場所で、フランシスは講和条約を成立させた。嫌がらせのようなドイツ皇帝の戴冠式はそれもまたナポレオン侵略の報復だった。
怨念の連鎖。
うぜぇ、とギルベルトははき捨てた。わかった、俺がアハト刑を受ける。

『平和喪失者』。中世、実質的追放であるアハト刑を受けた者はそう呼ばれた。法の保護からはずれ、彼を害した何人たりとも罰を受けなくなる。身内は遺族として扱われる。ギルベルトは、世界の平和を失わせた罰として彼の平和を捨てた。
故郷の森にひきこもり、眼を覆い、逆らわず、報復の暴力をただ甘受するギルベルトの傷は絶えない。殴られても刺されても、斬られてさえ、プロメテウスのように彼の体は癒えてしまう。痛みだけが繰り返される。

「なぜ、目を隠すのです」
菊の声は意外に平静だった。意外に、と思った自分に苦笑する。菊に、動揺しなければいけない謂われなどないではないか。彼は戦勝国であり、自分は敗戦国である。彼はかの大英帝国と手を結ぶものであり、こちらは手足をもがれた存在である。
いや、もっと率直に言おう。
こいつは、俺の足の薬指をかっさらった男だ。
「青島は、どうだよ」
「…」
「サイパンは。まあ、俺には流刑地くらいにしか使いようもなかったけどな」
「私にとっては十二分に意義がある島です。太平洋中心地図でみれば我が領土はその真ん中に広く展開します。制海権をもつわけでもないのに、まるでその海さえ自分のものになったかのように見えて、実に国威発揚に有効です」
感情を乗せない菊の声に、ギルベルトは乾いた笑いを返した。遠い遠いと思っていた太平洋の小さな列島、それでも近くに独租借地や海外領土があった。それがせめてもの足がかりだったのに、欧州戦線で手いっぱいの俺の虚を突いて、こいつはそれを奪い取った。

 

本当に、遠くなった。なにもかも。

 

「ギルベルトさん」
「あんだよ」
「なぜ、目を隠すのです。貴方は結局、貴方を傷つける者が誰なのかわかっているのでしょう」
「…」
ただ、口角をあげる。
「なぜここまでされなければならないのです。なぜあのひとはここまでするのです…」
あのひと、か。
今度は意識的でなく、苦笑が漏れた。
そう呼ばれる位置に俺がいたこともあった。もう、遠い昔だ。
菊の顔は見えない。

「競争原理といいながら、弱者が強者に成り上がることを許さないというのがこの条約の底意です。あのひとたちは、きっと次は、新興国のわたしを押さえにかかる…」
「わかってんじゃねえか」
「貴方に教えられました」
「他山の石ってやつか」
「ギルベルトさん」
皮肉にはとりあわず、菊は聞いた。
「答えてください。なぜ目を隠すのです」
「知らなかったか?アハト刑を受けた男は狼の皮をかぶらなきゃいけないんだぜ」
「…存じてます。教えていただきました。故に『平和喪失者』は『人狼』とも呼ばれるのでしょう」
「優秀な生徒だ」
「貴方が教えてくださらなかったことも知っています。ハンス・フェール氏の論考を読みました。中世の農民は、武器を持っていたそうですね?」
「は?」
話の展開についていけず、ギルベルトは間抜けな声をあげた。
「ラント平和令の解説をしてくださった時に、こうして農民を武装解除したのだとおっしゃったではないですか。農民の持つフェーデ権―――自力解決としての決闘権を停止させ公的な司法権に回収した、その際に武装を禁じたので、以来中世の農民は武装権を持たなかったのだと」
「あ…、ああ」
「そのとき、わたしは、おなじです、と答えました。喧嘩停止令、刀狩令。名字帯刀は士分の権利。私は、遅れこそすれ、ヨーロッパと同じような歴史的段階を踏んできているのですねと」
覚えている。ギルベルトさんっ、と、菊は袖をつかんできた。公私を厳密に分ける菊が講義中にそんな不作法をするほど、そのとき菊は、興奮していた。
安堵していた。
両極端なその二つの感情を同時に見せていた。


私は、貴方と、ヨーロッパと、同じなのですね。
私は、「アジア的停滞」を免れたのですね。
私は、貴方と、同じ位置に立てるのですね、…走って追いつきさえすれば。


走れるのか本当に、と思っていた。こちらだって走っている。その小さな体でどれだけ体力が持つのかと。

どうしてそう同じになりたがるのか、ずっとわからずにいた。その髪の艶やかさを、その肌の柔らかさを、その目の色の深さを、ほめたたえるたび、菊は悲しそうな目をした。ありがとうございます、と、思ってもいないような感謝の言葉を口にして、俺の髪をさわった。銀髪赤目の俺の容姿はヨーロッパでもスタンダードではない。それをこよなく愛する菊が、どうして自分への賞賛は受け入れないのか、納得がいかなかった。


菊は、ずっと、自分は「枠外」なのではないかとおそれていたのだ。走っても、そもそも「近代」を獲得できないのではないかとの焦燥を抱えていた。隣の王の体制は「アジア的専制」と呼ばれたりもしている。そう呼ぶことで発展段階の枠から王を外して「世界史」は考えられている。
恐れながらそれでも走って、だからときには、しがみついて。ギルベルトさん、好きです、あいしています―――

その手を払うようにして彼岸にたった。

今、菊の表情は見えない。

 

「彼の論考によれば、禁じられたのは平時の帯刀権であり、自力解決権だった。武器は農民の家に保持されていたし、村をでるときはそれを帯びることも許された。そもそも武装とは自由人の資格であり名誉権であったと」
菊は言葉を切った。
「…」

そう、言われればそうだった。そして確かに菊にはそれと反することを講義した。
俺たち国は人と違って数百年単位の記憶がある。しかし、人の記憶が都合にあわせて書き換えられてしまうように、現代の国民の認識が国の記憶もゆがめる。歴史像とは国民と国家が相互作用する壮大なメディアなのだ。

それを言い訳すべきなんだろうかと躊躇っていると菊が小さく苦笑する気配が届いた。
ぎっ、とベッドが鳴り、わき腹近くのベッドが少し沈む。声の出所も近くなる。
「読みながら、笑い出しそうになりました。そうだったんです」
「あ?」
「うちでも、刀狩りといって武器徴発した後、鉄砲・鑓先は返したりもしたんです。帯刀とは長刀・双刀を言いましたから、脇差しを農民が差すことをとがめたりはしませんでした。
刀狩りとは結局、身分統制であって、物理的な武装解除ではありませんでした。彼らが一揆で鉄砲を用いなかったのは、そして一揆の鎮圧に大名も鉄砲を用いなかったのは、―――」

菊はかみしめるように言葉を継いだ。

「『あれは人に向けるものではない』との合意が双方にあったからです。暗黙の了解だったそれを、いつの間にか私は忘れ、国民皆兵を押し進めるときにはもう、農民は武器を持つ権利を奪われていたと、それを国防という名誉に与らせるのだと説いていた。私は、すっかり忘れていたんです」
「忘れた方が生きやすいってことだろ」

おぼろに、話の行く先が見える。そちらに進ませてはいけない。

「見えないふりをするようにですか」
細い指が包帯にかかる。あわててその手をつかむ。
「これは、違う」
「復讐をしないためなんでしょう」
「…っ」
「『誰か』に殴られたなら恨みを晴らさなければならない。わたしのところで長らく仇討ちは権利でもあり義務でもありました。親兄弟の敵をうつことで初めて彼は日常に復帰できた。貴方はそうしかねないルートヴィッヒさんに恨みを引き継がせないために、『誰から』殴られたかわからない、そんなふりをしている」

分かった、俺がアハト刑を受ける。殴るなり刺すなり好きにすればいい。

―――それで終わりにしてくれ。頼むから、弟は。この。連環の呪縛から。


「……むかつくくらい、優秀な生徒だ」
「もう生徒ではありません。ですから学恩に背いて見せます。…それは、失策です」
「なんだと」
「今は弟さんは平静です。むしろ混乱しているから平静です。しばらくは賠償金稼ぎの忙しさにまぎれてもいるでしょう。けれども、いつかきっと今の貴方を思い出します。そして報復をしようと思うはずです―――誰にすればいいのか分からないから、『世界』に」
「な、ん…」
「矛先を見失った怨念は拡散します。決して霧消ことはありません。ギルベルトさん」
握り止めていたはずなのに、いつのまにか逃げ出していた手が、いきなり包帯をひきはがす。
世界がその姿をあらわす。


旧敵が、戦勝国としてあいつらの側に回った国が―――いや、菊が、そこにいた。


少し頬の肉がそがれ精悍に見える、しかし髪の美しさも肌の色合いも変わらない菊。目にするだけで手を伸ばしたくなるそれが、自分は敵だと言いながら、目の前にいる。
あんなに静かな声だったのに、いつから流していたのだろう、頬に涙の河がみえる。


「恨みは、目をつぶるのではなく、見据えるべきなのではないですか。私を、憎むべきなのではないですか」
「…」

そんなことができるか、馬鹿。
お前はそれができるというのか。できたというのか。

「いつの間にか、公権に武装権が回収されるのを当たり前と考えるようになり、個人の自己解決権という論理を忘れてしまっていましたが―――」
「まて、言うな」
「―――世界という公権に、一個の国は自己解決権を回収されなければならないものなのですか」
「言うな!」
「武装権は名誉権ではないのですか、それを奪ったものを憎まなくていいのですか」
「言うなと言っているだろうが!」
腕をつかみ強くひくとバランスを崩した菊の体はベッドに転がった。身を返し、そのうえに乗る。

黒い目は言う。
私を恨めと。
弟には私を憎ませろ、そうしたら、弟が狼の皮をかぶらせられる未来は来ないだろうからと。
無茶を言う。それはわかっているのだろう。
目線に耐えかねたように、やがて瞳は睫に隠された。

本当に走れるのかと心配だった。こんなにも小さく、こんなにも細く。力の源泉である国民を信じきることもできず。それなのに恐怖政治をしくこともできず。

せめて隣にいるなら二重帝国という形でかばってもやれる。近くにいるなら知恵を授けてもやれる。

そのどれもかなわないのに、ただ愛だけを差し出してきた。

 

強くなりたかった。
あの男の代わりに、後ろ盾になれるほどに。

 

強くなりたかった。
地球の裏まで支配が及ぶほどに。
小さな小島だけでなくもっとそばに足がかりが得られるほどに。
ベルリン・ビザンチウム・バグダッド。
伸ばした手は、東へ、東へと――――――

 

もう、遠いところまで来てしまった。

 

こいつの臆病さや曖昧さは底の見えないほどの優しさの裏返しだったのだと、今ならわかる。恨みの的になってやると菊はいう。”ただ、弟を愛する貴方のために。”

顎をつかんで唇を奪った。歯ががちりとあたり、神経に障った。最初怯んでいた舌はやがて濁流の中でそれでも川上を目指す小舟のように必死で主張を始めた。
貴方が好きです、あいしています―――

長い長い時間の後、菊はまた静かに涙の河を光らせて、言った。

「…『わたし』と『あなた』では問題になるのではなかったのですか」
「俺はもう国じゃねぇ。狼だ。だから―――野良犬に噛まれたとでも思え」
そう言って鼻をあまがみすると、菊は笑ったような困ったような顔をした。
「野良犬に噛まれたらトラウマになって忘れられないと思うのですが」
「忘れろとは言ってねぇだろ」
ぷ。とうとう菊は吹き出した。
「勝手です」
「獣だからな」
むちゃくちゃな言い分を押し立てて、菊の肌に歯を立てた。耳朶、首筋、肩。後で困るだろうかと一瞬考えもしたが、菊が止めないのをいいことに、体中に歯形を散らした。
白い軍服に隠されていた肌は、薄赤く染められている。信じやしないからもう言いもしないが、この不思議な土のような色が愛おしい。
あばらの中に水がたまるほどだった胸には綺麗な筋肉がついていた。随分と技術力も経済力も進展したらしい。
「あまり…見ないでください」
菊が苦しそうな声を出す。先の戦争は総力戦で、アジア・アフリカ市場はこいつとアルフレッドに奪われたも同然だった。その火事場泥棒的な発展が後ろめたいらしい。
「まだ細ぇよ。帰って肉食って寝ろ。…後でな」


今は、食わせろ。


そう言うと、菊は、しばらく顔を赤くしていたが、やがて、不敵そうに笑った。


私にも、貴方を食べさせてください。

 

くるりと上下を入れ替えられ、頭を軽く枕でうった。あ?と思っているうちに菊は服をはぎ取り、跨って見下ろしてきた。
私はもう、子羊ではありません。
そう囁いて、口を合わせてくる。重なった胸、腹、その下で互いの興奮がすりあわされる。たまらず手を伸ばすと、応えるように舌が激しく動いた。
挿れたいのかと思ったが、そういうことでもないらしい。触られほぐされれば素直に悦ぶ。探ってやれば、ああ、と首をそらす。

欲望を変えないまま、ただ形だけを変え、菊は俺の上でいった。

 

一度では終われず何度も向きを変えてむさぼったから、流石に菊は疲れ果てて眠っている。片肘をついて寝転がりそちらを見ながら、昔のことを思い出した。
最初に抱いたときは、奇妙な罪悪感がつきまとっていた。まるで幼児性愛に手を染めてしまったような。まして時々は気を失わせていたのだからなおさらだ。
随分、体力がついた。
もう生徒ではない。もう子羊ではない。
導かれる側でも食われる側でもなく。

一個の国として立つ、その証として武装する者。


生まれて以来、戦いっぱなしだった。憎みもし、恨みもした。敵の鼻をあかしていい気にもなった。
そんな生き方しかないと思っていたのに、いきなり世界に菊が飛び込んできた。
ひよこのように頼りなく、ただ愛おしかった教え子は、行き違いの積み重ねで対岸にたった元恋人は、今だけは、その立場を捨てて、隣にいる。

 

「ギルベルトさん」
てっきり寝ていると思った菊の声がして、髪をすいていた手をとめた。
「私が間違っているのかもしれません」
「あんだよ」
「しばしば西洋の方は人間性の欠如をたとえるのに獣を持ち出されますけれども。山の生き物は厳粛ですが合理的な秩序に沿って生きています。無駄に同類を殺し合うのは人間だけなんです」
菊はこちらに向き直った。黒曜石のような瞳がひたりとこちらを見据える。
「私達は、食い・食われる永遠の螺旋から抜け出せるのかもしれません。人を捨て、ただの生き物にかえり、誰かにあてた恨みを捨てることで」
「……どうだろうな」
正直、分からない。もう実権は弟に移っている。あいつが何を思いどう動くのか。見当もつかない。世界を隠す白い膜は取り除かれてしまったが、依然、世界は闇の中にある。

「来年には国際統合も成り、世界は大きく変わるでしょう。もうあんな戦争を体験しなくて済むように、もしかしたら不戦条約が結ばれるかもしれません。武装を奪われていようといまいと、徳川200年の平和のように、社会的合意によって武力行使を封じるなら―――」
勢い込んで言い始めた菊は、空気を出し切った風船のようにしおれた。
「そんな『世界』ではないと、自分で言ったのでした」
「…」
戦うばかりが得意で、夢を描くのは得手ではない。しかし、この国に生まれた19世紀最大の夢想家の国家像をイヴァンは現実にしてしまった。

Die Ordnung des Wirtschaftslebens muß den Grundsätzen der Gerechtigkeit mit dem Ziele der Gewährleistung eines menschenwürdigen Daseins für alle entsprechen.
(経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない)
―――ヴァイマルの夢。ただ食い合うのではなく保障しあう社会。


戦いのない世界。そんなものが実現するのか。ありえない、と現実認識は判断を下す。

けれども、自分にはありえないと思っていた「憎しみを越えた関係」が今確かにここにある。

 


果てしない泥の海の中にただ一つでも月の欠片が落ちているなら―――いつか一個の国としてこいつと抱き合える可能性が闇の中にも細く光を放つというなら―――

 

見たことのない夢とやらを見てもいい、祈るようにそう思った。



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