薬指に血の指輪・1889


 

※ご注意
・ギル菊。R15。
・戦前における歴史記述があります。ただやってるだけのような、抽象議論してるだけのような。明るくはないです。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。


 


絹布の法被が貰えるらしいと期待した人も含めて、提灯行列が続いた夜。

喧噪の大広間から抜け出し、控え室で肩を揉んでいたら逆側の肩に顎が乗った。
はあ、と菊は振り返りもせずにため息をつく。
「ギルベルトさん…」
「あんでわかんだよ」
「こんなことをなさるのは今日の招待客の中で貴方だけです」
「こうか?こうするのか?」
顎をぐりぐりと動かされて、気持ちの良さの前におかしさがこみ上げてきて、菊はこらえきれず笑い出した。言葉が実態を措定する一番いい例が「肩凝り」だとはよく言われるが、そんな言葉がある=概念がある=状態があると言われてもギルベルトには理解できなかったようで、留学中何度説明しても上手には揉んでくれなかった。くすくすと口に手を当てて笑う菊の腹に腕を回し、ギルベルトは「ぶー」と唇を鳴らした。
菊は笑いながら独り言のように言う。
「どうして貴方は…」
「なんだよ」
「そんなに端正なお顔で、どうしてそんな子供じみたことをなさるのですか」
「ふーん…」
ギルベルトは腕を少し上にずらし、顔をすべらして耳を口元に寄せた。
「この顔が好きか、お前」
耳腔から直接A10神経に囁きかけられて、菊は息をとめた。
「もっと近くで見るか?」
視線を向けてよいのかと首を動かしたが、その動きは柔らかく阻止された。頬に当てられた唇はすぐに離され、傲岸な命令の言葉を紡ぐ。
「だったら、大人の空間に連れて行け」

ギルベルトの泊まる部屋は最上階の貴賓室に用意されていた。同じ建物だから行くのは簡単だが、他にももてなさなければいけない招待国はいる。それなのに、式典会場に彼らを置き去りにしてのエスケイプを自らに許してしまったのは蕩けてしまった尾てい骨のせいだけではない。部屋のクラスがそれを表しているように、今日において彼は特別なのだ。

菊は今日、彼の手引きで「立憲国」へ生まれ変わった。

提灯行列に立つ人でも内実を問えば正確に答えられはしないだろう「憲法」をおしいだき、来年には議会を開く。コンスチチューションの語を知らない人民でも、確実に分かる言葉がある、それは「アジアで唯一の」という修辞だ。私達はもう頑迷固陋の周辺国とは違う、私達は西欧列強と肩を並べる――そんな空気だけは確実に広がっている。
そんなはずがないと、菊は分かっている。接ぎ木と背伸び、そして自己暗示。負けない、負けないと呟かなければ列強歴々とは対面することさえ難しい。強気の外交姿勢で臨んでいる兄たちとの会見でさえ終わればごりごりに筋肉は凝るのだ。

それでも「アジアで唯一の」という自己暗示は確実に効き始めている。何が唯一かも知らないまま、謁見台に立つ菊に歓声を送る人民。菊は、時折無性に、全ては虚妄だと叫びたくなる。

虚妄を虚妄と知りながら、しかし現実の皮相を滑っていくために精緻な制度を作り上げた上司。彼とともにベルリンの地で暮らした日々、今前を歩くこの人の美しさだけが「事実」だった。

この人にとって、「くにのかたち」とは、Sollen=あるべき型枠ではなく、Sein=事実そうである姿なのだ。

すっと伸びた背筋。無数の刀傷があるというのに飛沫も玉となって転がりそうな滑らかな肌。その上の銀髪。針のようで、同時に白絹のようで。そして赤い眼。…がきっと振り返って睨んだ。
「おせえ」
腕を掴まれるのとドアが開けられるのが同時、そしてほとんど抱えられるようにベッドに追いやられるのが10秒後、その上にのしかかられ、欲情に満ちた赤い眼を間近で見たのが1秒後。
「お前の国、遠いんだよ」
「すみません」
「謝んな、お前のせいじゃねえだろ」
「ええと、はあ、まあ」
「でも遠いんだよ」
「す。……ええと、はい、遠いですね…」
「会えなさすぎだろ…」
「す」
言葉を切ったのは、今度は菊の声帯ではなく、ギルベルトの唇だった。薄い唇はひとを酷薄に見せる。人を食った表情を作ることの多いギルベルトは余計にそう思われている。しかし菊は知っている。口づけの激しさや抱きしめる腕の強さ、それからすると意外なほどの手指の繊細な動き。

久しぶり…何年ぶりだろう。ベルリンの町で、何度も抱き合った。強引なようで丁寧な、老獪なようで初心な彼に、反発しながらも惹きつけられた。
自由でいながら規律を愛し、血をも舐めとるその舌で愛の詩をつむぐ。
ギルベルトの手にボタンを外されながら菊は思う。―――はだかにされる。体ではなくその中身が見透かされる。
下着の下にサラシを見て、ギルベルトの眉があがる。
「まったお前はっ」
「いや、だって…」
だって、恥ずかしいのだ。厚い軍服で少しは誤魔化せようかと思うものの、胸板の薄さは他国と並ぶと際だっている。
「見た目だけカサ稼いでどうする気だ。肉食って中身詰めろ」
「この前も言いましたけどね、米は完全食品で栄養価も高く、」
「そういうことを言ってんじゃねーよばーか」
手荒くサラシを外される。言葉も荒いが、菊には分かる。ギルベルトはこの細い体で並び立とうとする菊が心配でならないのだ。そうやって庇護の眼で見られるのが悔しくて、嬉しい。かばわれて、甘やかされて、いつまでも追いつけない。
けれどもこうして生身と生身で向き合えば体格の差は歴然としていて、菊はそれに恥じいる前にうっとりと眺めてしまう。細身の体に、しかしみっちりとつまった筋肉、左右の完全な対称。きっと骨の色さえ美しい、と引き寄せられるように鎖骨に口づけながら菊は思う。
無理な体勢がたたって支えの手がすべり、枕に頭を沈めた菊に、ギルベルトは顔を近づけて、鼻を噛んだ。
「いたいです」
「あれっほど言ったのに」
「なんのことです」
「議会だよ。予算議決権を与えるのはやばいって口すっぱくして言ったろ」

どんなに学界の権威に説かれようと、皇帝から直々に言われさえしても、それは飲めない相談だった。会計の権を持たない議会など、持ったところで立憲体制とは認められまい。趣味で国づくりをしている訳ではない、列強諸国に認められなければ意味がないのだ。

菊の上司は憤懣やるかたないといった表情で菊に訴えた。彼奴等は、我が国を侮っているのです。まだ議会を操れる段階には来ておらぬと、いや、本当のところ、憲法を持てる段階にも来てはおらぬと。帰れと言わんばかりです。
言わんばかり、どころか、菊は言われた。「帰って飯食って寝てろ」。
あのときは憤りしか感じなかったが、その後、部屋に帰るときに骨が折れそうなほど抱きしめられたり、二人で外食をしている時に腹十二分目まで詰め込まれて、気づいた。これは、彼なりの愛情なのだと。

「…そうですね、苦労するでしょう。貴方でさえ、大変でしたものね」
近代憲法の常識を破ってまでギルベルトが縮小権限議会を提案したのは、まさにそことの対立がかの国の宰相を悩ませていたからだった。男子普通選挙によって国民意識を調達しようとした彼の思惑は外れ、議会は増税の、ひいては帝国経営の障碍となっている。
富裕層だけに選挙権を許すつもりの菊でも、復活してきた自由民権派と内閣が議場で対決することは容易に予想がつく。それを力で封じればまた非難が渦を巻く。下手をすればまた血を見る。分かっていても、ここで掲げておきたい旗幟は、「他国に通用する立憲体制」の「かたち」なのだ。

「…俺のことを言ってんじゃねーよ」
横を向こうとしたギルベルトの頬に手を伸ばす。

「貴方をないがしろにしたわけではないのです、分かって下さい」
頬をつかまれ、しぶしぶと目線を戻したギルベルトは、小さく眉を寄せた。
「そんなこと言って、お前、夏休みにお坊ちゃんのところに行って以来、あいつばっかりだったじゃねえか」
「そんなこともないのですが…」

元にしたのはドイツ帝国憲法、しかし憲法策定の支柱となった思想はベルリン大学のグナイスト(実際の講義は彼の若い弟子に投げられていた)のものではなく、ウィーン大学のシュタイン教授のものだった。
「あいつの学問思想は時代遅れだって言ったのに…」
「でも私が求めるものを下さいましたし、私に興味を持って下さいました」
「……」

ギルベルトはしばらく黙って、もう一度菊の鼻を噛んだ。
「痛いですって」
「ここが君主」
「はい?」
「そしてここが両議会」
己を支えていた両腕を菊の両肩につく。重心を膝に移し替えてはいるのだろうが、それでも少なからぬ力が菊にかかった。細く見えて、やはり重い。
顎の先に口づけて、そのまま舌を這わせ落とす。胸骨に当たったとき、彼は小さく「政府」と言った。

やっと気づく。シュタイン講義の一節、国家機関を人体にたとえて行われた説明だ。

「弾正、宮内、文部、司法、大蔵」
ことん、ことんと骨の凹凸を感じては中央省庁の名を挙げていく。丹田にあたる位置の――なるほど、国家の要だ――「大蔵」を言われたときには、なまなまとした舌の刺激に、菊の芯は既にたちあがりはじめていた。顎に当たったそれを無視して、ギルベルトは手を肩からどけ、菊の膝を持ち上げた。内股に性の脈をみとめたかのように舌をはわせて、「農務」と呟く。
「あ、あ」
的確に煽られて、菊は顔を横に振る。枕に顔を埋めても既に張り詰めた雄芯は隠れない。その赤みも、垂れた透明な液も見えたはずなのに、ギルベルトは知らぬ顔で顔を逆に向ける。今度は右足の内股に「商務」と言いながら口をつける。
「も、も…」
耐えられず、菊は手を伸ばした。
「軍隊がやってきた」
ギルベルトはおかしそうに笑った。右手が海軍、左手が陸軍だったか。やみくもに頬にのばした指は一本ギルベルトの口の中に入り、そのまま飲み込まれた。
ぴちゃ、ぴちゃと指はなぶられる。指の側面をなぞられると、菊はその刺激を芯に感じた気になって、堪えられず熱い息をもらした。と、また噛まれた。思わず睨むが、歯形の痕をなぞるように指をなめ回され、また声を漏らしてしまう。
「ギルベルトさ……、お願いです、触って…」
ただ思いだけで血を昂ぶらせていたその機関にようやく触感が与えられ、菊はあやうく突破しそうになってしまい、手の甲を強く噛んだ。久しぶりなのだ。ずっと待っていた。ずっと欲しかった。
手で隠そうとする表情に顕れた色を花蕊のように恥ずかしげもなく披露している機関は、蜜のような雫をこぼし続けた。同じく、その少し下の機関も肉のひきつりで期待を表現している。からかわれるかもしれないと菊は目を閉じたが、それぞれに伸ばした手をゆっくりと動かし始めたギルベルトは、予想外の言葉をこぼした。
「こんな姿、弟がみたら卒倒しちまうな」
「…?」
兄が東洋人の男の下半身を嬲る姿、であろうか。それは確かに…みられたくないかもしれないが。首を傾けた菊に意地悪するつもりだったのか、ギルベルトは少し強引に指を進めた。
「俺のことじゃねーって。お前だ、なんでそんなに色気あんだよ。ピュアなルーイがこんなのみたら鼻血で失血死しちまう」
「…あの、他の方に、見られたくないのですが」
こんな破廉恥な姿。心底から言ったのに、ギルベルトはくっと指の力を強めた。握る手と探る手のそれぞれの力に、菊は大きく仰け反ってしまう。
「もう、待たねえ」
両膝を抱えられ、菊は数年待ち続けたものが届く予感に震えた。
顔の横で、ギルベルトは呟く。
「遠すぎるんだよ、お前」
「す」
みません、の言葉を飲み込む。
「あいつらみたいな結婚もできねえ」

 

他の誰も信じまいが――ギルベルト本人さえあやしいものだが、菊は熱烈にギルベルトに憧れている(菊の新体制とほぼ同時に誕生した彼の弟に勝手な親近感を抱いてもいるが、抱かれたいとまでは思わない)。しかしそれでも――ドイツ=日本二重帝国というのは無理がありすぎる。歴史の差、文化の差、そして距離。
それでも、他の公国は併合して帝国を作り上げた彼が、連邦の中に組み入れられる一つの邦としてではなく、オーストリアとハンガリーのように、帝国と並置される存在として菊を見たことが、…それだけのことが、嬉しかった。

完全に動けなくなった菊を拭き清めて、ギルベルトは隣で健やかに寝息を立てている。立場の差なのかそれともやはり体力の差なのか分からないが、何度もいかされた菊には指一本自由にならない。瞼さえもあげられないまま、菊はとりとめもなく昼に交わした会話を思い出した。

 

――枢密院での議論中、上司の一人が「臣民の権利義務」を「臣民の分際」に書き換えるよう要求してきました。「サブゼクト」とは君主に対して「レスポンシビリチー」しか持たない存在であるはずだと。
――わかってねーな。
――ええ、そこで別の上司が…貴方のところで学んだ彼が反論しました。そもそも憲法とは第一に君主権を制限し第二に臣民の権利を保護するもの、そうでない憲法など作る意味がないと。
――まあ……君主権というか、国家権力だな。
――普遍的に言うならそうですね。まあ、我が国に即した議論ですから。しかし、どちらかといえば自由主義的と思われていた人が「権利を書くな」と言ったことが不思議で、どういう意図だったのか聞いてみたのです。そしたら、「言論の自由など、人々がもともと持って居るもので、憲法がそれを生み出すわけではないでしょう。それなのに「権利がある」と書いてある、「から、ある」、ことになりませんか。天然のものであるはずの権利が『授けられたもの』になりはしませんか」、と。
――ふうん。
――なるかもしれない、と思います。「平等」だって既に「陛下の聖旨」となっている。言い続ければいつかそれは実体となります。特に、彼のように定見を持つでもない人が、まして、初めて「権利」という言葉を聞いた人が、そのように思うのはむしろ当然でしょう。そのような理解誘導さえも含みこんで、私は言葉を発していく。
――…そういう…時期もあるだろ。

――ねえ、ギルベルトさん。
――なんだ。
――足の、薬指だけを動かせますか。
――え?…え?
――やってみてくださらなくて結構ですよ、靴で見えませんから。私は全くできないのです。
――……
――あれはまだ「わたし」になっていないのでしょうか。縫い目がまだ直りきっていないのでしょうか、まだ「おまえはわたしだ」という言い聞かせが足りないのでしょうか…。

 

わたしは、ほんとうに、わたしですか。

あなたのきっぱりとしためのように。

 

わたしは、ほんとうにつながっていますか。

あなたのりんとのびたせすじのように。

 

ふと呼気を感じて意識を向けると、闇の中、ギルベルトがこちらをうかがう気配が感じられた。起きてますよ、そう答えようと思うが、声帯も瞼も言うことをきかない。仕方なくただだらりと横たわっていると、ギルベルトがベッドの下の方へずり下がるのが感じられた。
「菊」
返事を期待されているのか、いないのか。声は低い。
「お前が褒めたこの顔だがな。お前がうちにいた頃と少し違うだろう」
そうだったろうか、菊はその違いがよく分からない。しかし言わんとしていることは分かる。彼の上司が先年替わった。今度の皇帝は随分と血の熱い人だという。
「俺は変わってしまうかもしれない」
ギルベルトの指がするりと脹ら脛をなぞる。
「お前は遠すぎる。お前の声は届かない。ずっと傍で言い続けてくれれば、変わらないかもしれないけど」
くるぶし、かかと。つちふまず。
「俺を好きだと――敵にはならないと言い続けてくれれば」
そうしなければ――敵になってしまうのだろうか。
「俺に未来は誓えない。お前は、根本のところで人民を信じられていない。できないものを交換して、お前の代わりに、そして未来の代わりに誓いを送ろう」
うやうやしく持ち上げられた足を持ち上げ、ギルベルトはその爪先に口をつけた。

 

(両足は人民)

 

指の一つ一つに口づけを与え、ギルベルトは、継ぎ目の残る薬指を口に含み、強く吸った。

 

 

 

鬱血の跡は傷をかばう包帯のように、そして指輪のように残った。

 

 



すみません、「肩凝り」という言葉ドイツ語にあるようです。

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