Close・1895

 

※ご注意
・ギル菊。R15。「薬指に血の指輪・1889」の続きです。そちらを先にお読み下さい。
・戦前における歴史記述(三国干渉あたり)があります。明るくないです。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。


 


彼の顔を見たとき、まさか、とも、なるほど、とも思った。
現在、対外文書はすべて帝国の名で発されている。彼の国の「人としての姿」は、すでに弟君のそれとして万国に認識されている。それなのに今、イヴァン、フランシスの隣に彼の顔がある。
土地果てる場所―そう呼ばれる極東のこの地にまで、いとけない弟を差し向けるのがしのびなかったのかもしれない。彼の国を挟む二大強国、緊張関係にある(いやむしろ仇敵と言ってもいいはずだ)彼らとの共同行動というのがおん自らの出動の理由かもしれない。
いずれにしても―――自分に会いに来てくれたのだと自惚れる理由はなかった。

「終わり」は、いつのまにか自分の上を通り過ぎようとしていた。いつだってそうだ。いつも自分は「時」に遅れる。見しやそれともわかぬまに…歌の文句を思い出し、菊は自嘲した。
たぶん、「終わり」は、あの血の指輪を贈られた瞬間に始まっていたのだ。
変わっていく。流れに棹さし、時には逆らって、この激流を泳ぎきるためには、変わらなければいけない。たとえそれが心に爪を立てる行為でも。そういう時代なのだ。何より―――自分が先に、修羅道に墜ちた。

兄が、無防備に背中を向けたのは、私にだからこそ。その気の緩みを…信頼を、斬って捨てた。
あの背中を忘れることはない。

しかし今は、顔を作らなければいけない。罪悪感など気取らせるわけにはいかない。北の大国は弱みを見せれば容赦なくそこを突いてくる。
これは生存競争なのだと、骨肉の情などそもそも存在しないのだと、そう心から主張している、ように見せなければ。

(俺は変わってしまうかもしれない。)

今、薄い唇を引き結んで対面するこの人は、あの日、呻くようにそう言った。

 

彼は今、私に、三等国のままでいろと言うためにここにいる。

 

 

「どうかな?」
イヴァンの、とらえどころのないほわほわした口調が流れてくる。
「僕たちの言いたいことはそれで全部だけど。どうする?」
「性格悪いぞ、お前」
フランシスが頬杖をついて揶揄する。
「どうするも何もないだろ、なあ?」
「…」
呼びかけられたのが自分だとは目線でわかっていたが、即答することができなかった。唇をかんだからだ。そう、どうするも何もない。承諾する以外にどうすることもできない。
遼東半島は返すしかない。そしてイヴァンの手が兄の肩にかかるのを手をこまねいて見るしかない。その事態を覆す軍事力も政治力もない。そして―――上司は決してそれを認めないだろうが、この三国の容嘴が持たないのと同様、先の戦争も、その戦果も、何ら道義性を持たないのだ。

「―――これも、ひとつの戦争だから。悪く思わないで?…というのは無理だろうけどさ」
戦火を交えていなくても国際社会は戦争状態なのだとフランシスは言う。いつそれは終わるのだろう。うんざりだ。今更外交を閉じるわけにも行かないだろうが、200年の静謐が懐かしい。
「おい、お前もなんか言え。共同責任なんだろうが、同じく憎まれろ」
フランシスに肩をどつかれたギルベルトは、四人の目の前に置かれていた書面をとりあげ、ただ、最後の文を読み上げた。

「迅速かつ明確な回答を要求する」

 

さっさと言え。はっきり言え。ベルリン留学中、何度となくそういわれた。お前はどう思うんだ。どうしたいんだ。
イギリス型立憲君主制がいいならそういえ。東洋のルソーと呼ばれる男もいるんだろう、やつの言うとおり共和制にしたいと思うのか。
違います、あなたを目指しているんですと訴えれば、鼻で笑われた。
一緒に学びにきた上司は既にグランドデザインを見定めていただろうが、菊にはまだ迷いがあった。本来女性的なあの方に、そのお子らに「顔」の役は重すぎはしないか、それよりは「君臨すれども統治せず」の方が、いやいっそ覇気も力もある上司等に責任も取らせる体制の方が風通しがよくないだろうか。菊の中にあるあれやこれやの思いを見透かしたように、ギルベルトは、俺をめざすならそうはっきり言えと迫った。

しかし彼は、愛の言葉を請うたことは、一度もなかった。ああ、好きです、あいしています……揺さぶられながらそう言うとギルベルトはいつも頷き、時には彼の側からも口づけとともにその言葉が贈られたが、「言え」と言われたことはなかったのだ。
菊は、ギルベルトの細められた目の奥に諦念を感じ、ほんとです、といつも付け加えてしまう。それにも、ああ、と頷きながら、ギルベルトはそっと笑う。本当です、愛しています、誰より、何より――――
わかった、とギルベルトは子供をあやすように頷き、シャボン玉を見るような目で菊を眺めた。そこに現れた色は紛れもなく愛であったのに、同時に、それが消える未来をも見ているかのようだった。

今だって菊は、迅速かつ明確に言うことができる。あなたを愛しています。

だけどこの場は、「終わり」の最終幕だ。鬱血痕もきえたように、もう二人の間に約束はない。
彼の赤い目は、菊の視線を受けても揺らがない。彼はいつも決心している。または―――断念している。

 

 

控え室に戻り、上着をソファに投げ捨てる。答えは最初から決まっていた。顔を合わせる前から……いっそ、条約の締結が成った頃から決定していたと言ってもいい。菊がもぎ取った権益は列強の中国政策とそのフィールドにおける力関係を覆しかねないものだったのだから。いったんは下関条約を受け入れると伝えてきたとはいえ、前言を翻すことくらい、彼の国の極東政策を考えれば予想はつく。
しかし―――貴方が、よりによって貴方が来るとは。
対面したことも少ない弟君であったならもっと冷静にうけながせたであろうに。返還の代わりにいくら巻き上げるかの算段でさえ平然とやって見せたであろうに――
なぜ、貴方が。
なぜ―――彼らと。

 

目をきつく閉じていた菊は、侵入者の気配をさとることができなかった。いきなり手を捕まれ、引っ張られ、ウォークインクローゼットの中に押し込められる。あくまでコートを掛ける程度の容積しかないそこは男二人のほかに空間をほとんど余さなかった。
「ギ…」
「言うな」
閉められた戸は足下の通風口しか光をもたらさない。彼の目が見えない。
「わたしっ」
きつくかきいだかれ、その言葉は途中で消える。
「言うな。俺は聞かない」

なぜ、お前は。
なぜ―――彼と。

アーサーと。

「違います」
「もう言葉には意味がない。だから言うな」

本当です。そう言おうとした矢先、口がふさがれた。お願いです、言わせてください。本当はずっと弁解したかったんです。確かに日英通商航海条約は私にとって大きかった。あれがなければこの戦争には踏み出せなかった。だから、開市についての交渉では自分とともに権益にあずかれるものとしてアーサーさんの名前だけを出しました。それは義理人情というもので、貴方の代わりに彼の手を取るということではないのです、ねえ、聞いてください――――!
心の中で叫ぶ間、奪うようなくちづけは続いた。

「…」
「名前を、呼ぶな」
「…なぜです」
「『今』が許されなくなるからだ」
「…いま。」
「名無しの二人が人目につかないところで何をしていても外交上の問題はない」
「…それは、『わたし』と『あなた』であれば問題になると言うことですか」
「…お前にとって、より、そうだろう。今日俺はお前の敵になった」
「ちがっ…」
「言うな!」
鋭く制し、ギルベルトは顔の横の髪をわしづかむようにして自分の肩に押し当てた。
「もう遅すぎる。それは、一年前に言うべきだった。隣でそう囁いてくれれば、手を握ってくれれば、信じることもできたかもしれない。――今はもう、信じるふりさえできない」
遠すぎるんだよ、お前。再びその呻くような声を聞き、菊は目からこぼれるものをギルベルトの軍服に吸わせながら瞼を閉じた。

ギルベルトは狭いクローゼットの中であちこちをぶつけながら上着を脱いだ。菊のシャツもはぎとり、暗闇の中、菊をきつく抱きしめた。10年前も、この人の腕の中は、胸は、暖かなものではなかった。熱いか冷たいかどちらかに切り替えるしかできないのではないかと思っていた。そうではない―――いま、こんなに、熱くて冷たい。

この人の目が好きだった。髪の色も。服を脱がなければ分からない美しい筋肉も。見ることを禁じられ、菊は掌だけででもそれを感じようと手をめちゃくちゃに動かした。ギルベルトも指で、唇で、頬で菊をさすった。とまらない。かちゃかちゃと性急にベルトを外しあい、菊はターンを奪うようにしてその中のものを口に含んだ。
愛しています、本当です、本当なんです――――

普段は香水で隠されている肉食獣の気配を全身から立ちこめさせたギルベルトは、ほぐすというよりはかき乱すように菊を暴いた。彼の指に思うさま翻弄され、菊はしばしばあえぎ、舌がとまった。そんなときでもギルベルトはそれを責めない。促すこともない。彼は何も欲しがらない。ただ奪い、ただ諦める。

ねえ、貴方が求めてくれるなら、私は、私は……

「…」

名前を呼びもせず、腕の動作だけで頭を上げさせて、ギルベルトはその口を蹂躙した。そのまま体をひき起こし、壁にもたれかけさせて片足を担ぐ。菊はギルベルトの首に必死でしがみつき、重力に耐え、衝撃に耐えた。

ほとんど痛みに近い快感の中で、ギルベルトの囁くような声を聞いた。

「『お前の肌は美しい』」
「………っ」
「それと同じなんだ」

手を離すわけにはいかなかった。
しがみつくしかなかった。
やがて絶頂を迎え、菊は同時に涙をこぼした。

黄色。
もう心が麻痺するほど、その言葉を貼り付けられた。
例外的な形ではあれ西洋との窓口を持っていた兄は、あの誇り高い兄は、この言葉にどれだけ傷つけられてきただろう。
そんな目線を知らないまま200年を過ごした。
井蛙の心、それで構わなかった。
自分を恥じる気持ちなど持たなくて済んだ。
引っ張り出して、大海に投げ込んでおきながら、私を笑うものたち。そして、言葉にしなくても明らかにそれを劣等視するものたち。
最初は眼中になかったらしい菊の肌のことを、重ねる内に、ギルベルトは口にするようになった。お前は美しい。お前のこの肌が好きだ。そういって鬱血痕や歯形を散らした。

あの頃も信じられなかったその言葉。今は、なおさら。

 

"Die gelbe Gefahr!"
私の肌の色は、禍とまで言われたのだ。彼の「顔」によって。

 

信じられるわけがない。いくら、今は名前を捨てているとはいえ。いくら、彼と皇帝とが一体でないとは言え。

 

”お前の言葉もそれと同じだ。”

どうして信じてくれないんです―――そう身をよじった、愛の言葉と。

 

彼が嘘をつかないことを知っている。私が彼に誠実であることを彼も知っている。

それでもなお、信じられないし、信じさせられない。

 

「終わり」の幕など、もうとうに降りていたのだ。私達はもう、どうしようもなくすれちがってしまったのだ。

 

涙を掌で強引にぬぐって、ギルベルトは再び菊を自分の肩に埋めた。
「もう、何もやれない。知識も、言葉も……極東権益も」
「わたしが、どうしようと、気にしない、と?」
「……最初からそうだ。お前は自由だ」
私が他の人の手をとっても。私が貴方の敵となっても。
それでも……気にもしてくれないと、彼は言う。

 

そして、彼は、一言もそうは言わないけれども、「兄を斬った弟」である私を許せないでいる。

 

「……先に出て、その扉を閉めて下さい」
「お前が先に出ろ」
「私には、無理です。貴方の手で終わらせて下さい」
「……」

ギルベルトは日頃の言動とは不似合いにしばらく逡巡し、最後に強く、背骨が歪むほど菊を抱きしめたあと、身を翻し、その扉を、

 

 

 

閉めた。

 

 



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