※ご注意
		  ・ギル菊。「薬指に血の指輪・1889」〜「ゆめのおわり・1944」の続きです。そちらを先にお読み下さい。
		  ・戦後における歴史?記述があります。戦後史捏造に近いです、リアルのことはスルーしてください。アルフレッド視点。
		  諸々、苦手な方はお戻り下さい。
 	      
 	      
           
          
          「いいんですか?」
          菊はにやっと笑った。
          「え、待って!」
          離しかけた指を慌ててビショップに戻す。嘘、絶対この位置に持って行けばあと5手で詰めるはずなんだけど。
          「チェスでは『待った』は無しなんじゃないんですか?」
          「いや、いやいや!…ほら、子どもには優しくってのが君のポリシーだろ?」
          ね?と上目遣いで見ると菊は苦笑して顎に指を当てた。
          「世界一位の経済大国が何を言ってるんですか」
          「ん、じゃ………、先輩をたてるのもポリシーだったよね?」
          「仕方ないですねぇ…。いいですよ、どうぞ」
          散々考えて、逆方向にそれを置いた、ら、菊は爽やかに笑った。
          「私、さっきの手が失策だとは言ってませんよ」
          「えー!!」
          「いえ、どちらでもあまり変わりませんでしたけどね。チェック」
          全く意識していなかったナイトがいつの間にか忍び寄っていた。
          「うっそ!」
          戦略を全部捨てて、防衛戦に回る。慌てて逃げ回るが菊は楽しそうに追い詰め、にこやかに「チェックメイト」と言った。
          「ちえーっ」
          アニメで見た「チャブダイガエシ」のようにひっくり返してやりたい。ヒーローが負けるなんて!
          卑怯だと詰ってやりたいけど、振り返ってみて実際「あの手」で戦況はひっくり返らないのだから口をつぐむしかない。ソファにばったりともたれこむ。
                      「……でも、性格悪いよ」
            「何とでも仰って下さい。結果が得られればそれでいいんです」
            「趣味が悪い、」
            「今更です」
            「男の」
            「は!?」
            飄々としていた菊の表情を崩したのがちょっとだけ痛快で、気分が上向きになる。やわらかい肘掛けに頬杖を突く。
            「なんで、あいつなわけ?」
            「い、いや、……なんでその話題なわけ?ですよ」
            「100年来の疑問だよね。付き合いはじめについては、まあ、いいよ。でも、なーんで、アーサーがあいつに負けるわけ?」
            菊はきょとん、とした顔をした。
            「なんでその話題でアーサーさんが入ってくるんですか?お二人を比べたことなどないですが」
            ああそう。比べものにもならないわけ。
            つうか、眼中無しってことか。かわいそうに。まあ、アーサーの言うことの伝わりにくさは欧米でも有名だ。共通言語を持っていない菊は、文字通りにアーサーの言葉を受け取っていたのだろう。
            「それにしても、その言葉、アーサーさんが聞いたらお喜びでしょうね。アルフレッドさんたら、いつもは散々に仰るくせに、ものすごい高評価じゃないですか」
            「……愛は人を愚者にするって誰か言ってたね……」
            どこが「ものすごい高評価」だ。ギルベルトより上って言っただけだ。どこまであいつを高いところにおいてるんだよ、菊。
            「理由なんて……美形だってだけでも十分じゃないですか」
            「アーサーだって顔整ってるじゃないか。黙ってれば」
            追加部分はギルベルトにも通用する。
            「お強いし」
            「それこそ、アーサーもだったろ」
            「実は、お優しいし」
            「アーサーだって、親しい人間には優しいぞ。ていうか、甘い」
            「そうですね」
            にこ、と菊は笑った。
            「多分、私とアーサーさんは、あの頃、兄弟ごっこをしていたのだと思います。特に私は、実の兄弟には優しくできない状態でしたから」
            いやいやいやいや。そっち方向に話を持って行こうったってそうはいかない。
            「周りはそう思ってなかったぞ?まあ俺は、鞍替えしたわけじゃないって知ってたけどさ」
          どれだけくだをまかれたことか。何せ菊は、それこそ弟が兄にするようにしたのだろう、恋愛相談をアーサーに持ちかけたという。菊の前では今でも紳士の仮面を外さないアーサーは、そして、付き合いを前提に話しかけてくる周辺国に違うと言えないプライドの高いアーサーは、凝り固まった表情筋をほぐすように頻々とうちに来ては飲んだくれていた。法の制定こそ遅れたが、あの頃盛り上がった禁酒ブームには、絶対、俺のうんざり感が反映している。
                      「それこそ、あいつだって誤解してたんじゃないのかい?」
            菊はちょっと黙った。
            「…ええ、多分。でも……同盟という事実、敵対という事実がある以上、個人としての私の感情がどこにあるかなど些細な問題だったでしょう。気持ちは変わっていません、なんて口でだけならなんとでも言えるのですから」
            「いや、それでほんとに100年気持ちを変えずにいられるのが信じられないよ」
            なんでもないように菊は返事した。
            「100年なんて、星の時間から考えればあっという間ではないですか」
            ぷっすー。俺の時間から考えれば半分弱だよ。
            「とはいえ、40年……。やっと、チェックです」
          
          1947年、菊は荒れた。まだ外交権もなく、国内政治も間接的…というより、2.1ゼネスト中止を皮切りにGHQが強権を発動し始めた時期だった。療養に専念することになっていた、つまりは外へ出歩くことができなかった菊は、伝えられる情報だけで「プロイセン王国」の消滅を知り、あの人に会わせてと泣きわめいた。占領下なのだから許すわけにもいかず、なかなかに手を焼いた。
            そして、こういう時どうなるんだろう、と周りも首を傾げた。ローマ帝国はいずこへともなく消えたという。いつか消えてしまうんだろうか、と思っていたギルベルトが、―――結局1949年10月、”オスト”として現れることが明らかになった時には、この世界のフレキシビリティーに感嘆したものだ。
        菊はそのことが分かって以来、家に籠もってひたすら考えていたが、やがて日比谷に来て、俺に宣言した。
          私は、狐になります。
           
          「勝算はあったわけ?」
            「チェスのですか?それなりに」
            全然違うけど、……なんだと!?思わず顔を上げる。
            「あったのかい!?ど素人ですって言ったくせに」
            「対戦をほとんどしたことがないのは事実ですから。ただ将棋に似てることは知っていましたし、コンピュータゲームを組んでみたこともありますから、ルールが分かってはいました」
            いけしゃあしゃあと。かぶとかれーととかわかんないです。みたいな顔で仕手戦を仕掛けてくる人なんだから、ゲーム開始時の「お手柔らかに」(ぺこ)も油断させるための罠だってことくらい読まなきゃいけなかったんだ、そうだったんだ、分かってたけど。
            「そうじゃなくて、奪還作戦のことだよ。『世界を変えます』って、ほんとにやるとは思ってなかったんだけど」
            「おや、そうでしたか」
            菊は平然と言って、脇机のカップを取り上げ口に運んだ。
           
           
          終戦当時、米国世論も国際世論も、菊の武装解除を要求していた。正直、何を考えて戦争を続けているのか分からない(だって、終始彼は無表情だった)菊はひどく不気味で、刃物は遠ざけておきたいという気持ちで一杯だった。占領初期、東西対立の最前線はもう少し西に引かれる予定だったから、子どもから玩具の銃を取り上げるように「軍隊解体」を要求した。菊は……というより、”戦争とは身近な人が殺されるもの”と思うようになっていた菊の国民は、概ねそれを歓迎した。菊は、何かを深く考えるような様子で小さく頷き、それを受け入れた。
            1949年10月、事態の変化は決定的になった。中国国民党は破れ、社会主義陣営のフロントラインは東シナ海にまで及んだ。
            そうなったら話は別だ、こちらの最前線を支えて貰わないと、と思っていた、矢先だった。
           
          「お断りします」
            「ヤブカラボウってこういうこと言うんじゃなかったっけ。来るなりなんだよ」
            「再軍備はしません」
            「……まだ頼んでないよ」
            こちらが草案に「戦争放棄」と書いたのだから、それを覆せと言うのには流石にはばかりがある。憲法改正が大変なように条項を設定しもした。できれば自発的にやってほしかったのだけど。
            「少なくとも今、国民の皆様はそれを嫌だと思ってるようですから」
            「今はね。でも攻めてこられそうだと思ったら話は別だろ?」
            「今のところ、その危険性は貴方が戦争をしない限り無いと見てます」
          む、と口を引き絞る。確かに、俺もそう見ている。陸続きならまだしも海を越えてまで、しかも今は広く米軍部隊が展開しているここにまで戦線を拡大するメリットは、王たちには、薄い。可能性はウラジオストックに残るが、さすがのイヴァンも「資本主義防衛戦」を守るために俺が来ることくらい想像するだろう。つまりそれは第三次世界大戦で、よっぽどの覚悟がなければ踏み込むまい。
          「そうは言ってもさ…。多分すぐに講和条約と主権回復が日程にあがるんだぞ?そしたら、やっぱり、独立国として、武装したいと思うだろ?」
            経緯からして勝手すぎる言い分だと思うから言葉に力がこもらない。言っていること自体は、常識だと思うんだけど。
          菊はすい、と身を乗り出した。
            「そこでご相談です」
            「なんだい」
            「私、虎の威を借る狐になろうと思うんです」
            胃を狩る、ってなんだ?菊の文学的表現は時々分からない。
            「何になるって?」
            「さっきも申しましたように、国民の皆様の軍隊アレルギーはまだ強い。本気で”人死に”にはうんざりしてるんです。だけど一方、ここは非武装地帯ですと宣言したからって爆弾が避けてくれるとも思ってない」
            焼夷弾は民間地区もよけてくれませんでしたもんねぇ、と、ちくりと言った。
            「随分神通力は落ちたでしょうが、それでもまだ貴方への信仰はあつい。貴方がすることなら、貴方が無理に要求してきたことなら仕方がない、そう言って、―――最終的には皆様受け入れると思うんですよ」
            持ち上げられてるんだか貶されているんだか分からない。いずれにしても、この言い回しは随分と含みを持っている。
            「…なに。なんか、企んでる?」
            「そんな言い方しないでください。ただ、貴方は貴方の目的のために、私は私の目的のために、『米軍駐留継続』で手を打ちませんか、ということです」
            「は?いや、最初からそのつもりだぞ?」
            「貴方が思ってらっしゃるより、もっと大規模に、です。費用は負担します。貴方が私に期待していたレベルの前線配備を私の土地でなさればいい」
            「………なに考えてんの………?」
          確かに、「一億総竹槍部隊」を覚悟して上陸した兵隊が拍子抜けするほど、菊の国民はすんなりと俺を受け入れた。同床異夢ってこのことだよなあと思うほど、「民主主義」という言葉は広まった。とはいえ、俺はまぎれもなく旧敵国、わずか5年前まで直にやりあっていた相手だ。自分は軍を持たず、ただ同盟国軍を駐留させる。丸腰というレベルじゃない。全裸で迎え入れるようなもんだ。
            ……不適切な比喩を思い描いてしまった。アーサーじゃないんだから。
          「あのさ、でもやっぱり、それって……裸で街を歩くくらいには非常識なことだと思うぞ」
            はだか?という顔で眉をしかめた菊は、こほんと小さな咳払いをして、そのまま、さらりと言った。
            「私、お金儲けしたいんですよ」
            「…そりゃ、俺だってしたいよ?」
            「というか、『いい暮らし』がしたいんです。国民の皆様がそう思ってる。『贅沢は分限者がするもの』と昔は思っていた。戦争が佳境に入って贅沢禁止が言われると、『みんなで窮屈になった』んですが、結局皆さんそれを受け入れた。その両方をステップにすれば、次のジャンプは、『みんなで贅沢できる』なんです」
            とん、とんと指で肘掛けを叩いて言われていることの意味を考える。
            「政治思想ではなく思潮が左傾するってこと?」
            政治思想のそれは、パージされることが内々に決まっている。
            「持って行き方によっては。でも、私の見るところ、やっぱり社会主義思想はヨーロッパを土台にしてできたもので、先に申し上げた話と重なりつつもずれているんです。あの主義にとって、『平等』は『要求』でしょう。自分を踏み台にして高みに立つなという。うちでは、むしろ『欲望』なんです。自分だけ高みにたって人から嫉まれるのは嫌だ、そういう感覚の方が多いんですよ」
            「……変わってるね」
            「西洋基準でものをいえば、そうなんでしょうね。なんか最近、無理してそのフレームで考えなくていいような気になってきました。話を戻しますと、だから、私は博打を打とうと思ってるんです。資本主義体制をとって、軍事なんていう金と人的資源の無駄は最低限に抑えて、国の総力を経済に傾注し、国民の総意をもって所得と富の再分配を徹底すれば―――」
          
            菊は、にこり、と笑った。
            「イヴァンさんの体制を、思想的根本から崩せるんじゃないかと思って」
          
            こわい笑みだった。思わず冷や汗が背中をつたう。
          「赤くなくても平等は実現できる、ってこと、かい。……でもそれは、ちょこちょこ無理があるね?」
            「ええ、だから”ご相談”です。まず、この統制経済にも似たやり方は資本主義の原則からははみ出している。自由競争でもないし、ソーシャルダンピングに見えるかもしれない。外需に頼るしかないでしょうから、繊維辺りを中心に貴方との間に貿易摩擦が起こるかもしれない。だから、信用して頂きたいんです。私は貴方を絶対に裏切らない。その証拠に、私は自前の軍を持たず、しかも貴方に全面的に協力します。簡単に言えば―――のど元を差し出しておくから、好きにさせてくれ、ってことです」
            「……」
          応接室の深いソファに背を預けた。
           何を考えているか分からない人は、怖い。人種が違うから分からないんだ、だから戦場で会ったらやり合うしかないんだ(だって菊の兵隊は投降の呼びかけにだってほとんど応じなかった!)、話し合いなんて無駄なんだ―――戦争の4年間で半ばそう思うようになっていた。それを知ってか知らずか、菊は、俺には手の内を全部明かすと言ってきた。
          
            「常識外れだよ」
            「ええ、世界の常識を変えてやろうと思ってるんです」
            相変わらずにこにこと、とんでもないことを言い続ける。
          「自分のための金儲けの集約で、ある程度の平等が実現する……なんて、常識外れでしょう?丸腰なのに独立を保つっていうのも。…それが10年、20年と続いたら、それまでの常識って役に立たなくなると思いません?」
            もっとも、夢想だけでわたっていける世の中ではありませんから、保険をかけにきてるんですけどね?と菊は俺の眼をのぞき込んだ。
            「俺が、『虎』なわけだ」
            「ええ、悪くないでしょう」
            比喩はね。虎は、強い。でも、若干危ういところもある。一つには、その菊のやり方は多分資本主義にも修正を迫るということだ。言葉にしてくれたから理解はできたけど、その感性には共感できない。てことは、うちにはその共同体的国家思想は及ばないかもしれない………考え込む俺を前に、菊は続けた。
          「理念で『ベースアップ』を求める社会民主主義国の方々の貧困対策には及ばないと思うんです。でも、もう、理念に賭けることはやめようと思って。博打を打つなら、その拠り所は、ここにします」
            菊はぽんと腿を叩いた。
           
          「私が体の細部を統制するのではなくて、体の細部が私を組み上げている。手が無くても足があれば前へ進めます。足が進む先に明日を思い描くのが私の仕事なんだと思うようになりました」
          (両足は人民)
            何か古い国家論でそんな言葉を読んだ気がする。
           
          「…とりあえず、計画と手順は理解したけど」
          そして、究極的な言質も得た。菊は、俺を「追い越す」つもりはない。そして、排除するつもりも。日本製品がどれくらいアメリカ市場に流れ込んでくるかは彼の努力次第だけど、逆についてはフリーも同然ということだ。これで話にのらないのは馬鹿だ。でも、うますぎる話にただ乗るのも馬鹿だ。俺は眼鏡の位置を直した。
          「『博打』って言うからには何か狙ってるものがあるわけだろ。それも世論に賭けるって言うんだから、国民の欲望じゃない、『君』だけの目的があるわけだ。君も分かってると思うけど、二極体制っていうのは、うまく運営さえできれば実はそう悪いもんでもないのに、君はそれを壊すって言ってる。君の本当の狙いに納得したら、手を組むよ」
          「え…」
            初めて菊が弱気を見せた。うろうろと目を泳がせている。
            「なに。言えないようなこと?」
            「いえ…、ただ、呆れられるだろうと思って…」
            「今でも呆れてはいるから。で?」
            「………あの」
          しばらく躊躇って、菊は、やっと言った。
                      「あの人を、取り返そうと思って」
            「はあ?」
            「あの人の手首につながれた鎖を、ぶっちぎってやろうと、思ったんです」
          不本意ながら、菊がそんな風に思う相手が誰なのか、100年前から知っている。氷で作った彫刻にルビーをはめ込んだような、あの男。
          「………それが、目的…?」
            「笑ってください」
            「うん、笑うけどさ」
            ははは、そう言ってやると菊はじとっと睨んできた。いや、言うとおりにしただけだから。
            「いやだって、……そこまでするほどの男かい、彼?」
            「です」
            こんなところだけきっぱりしてる。
            「……今はまだ無理だろうけど、そのうち普通に国交も結べると思うよ?」
          「そうですね、でもどうせ何年かは待つことになるでしょう。だったらその間もやれることをやります。別に、無理に足先を変えさせるわけじゃないんですから。ただ、皆様のフィジカルな欲望の上に、私のそれを重ねているだけです。……なんだか、そういうものの方が信用できるような気がするんです」
          
          
          菊はさらりと言ったが今思えば意味深長な台詞だ(未成年相手に!)。ともかく、菊は約束を守った。植民地だってこうはいかない、というほどの従順さで市場開放を進めてくれたし、「自衛」という言葉で手を打って、たくさんの戦闘機を買ってもくれた。在外邦人を守る手段を持たないわけだから輸出や海外進出に際しては政治的工作も随分やっていたようだ。諸外国に向けては、ほら、と何も持たない両手を開いて見せて、でも時々は後ろの俺を振り仰いでにっこり笑って見せて(まわりに「後ろ盾」を意識させて)―――まさに狡猾な狐のように、彼は牙を持たないままトップクラスの国として生きる「先例」を作った。
          そして、とうとう、イヴァンの上司に「日本は世界でもっとも成功した社会主義国だね」との冗談を言わせた。
           
          そう、この45年で菊がどんな人か、どんな戦い方をする人かなんて一番分かってた筈なのに。このあどけなくさえ見える顔にだまされてしまう。腹が立って盤面の駒をぐしゃ、とかき回していると、部下からの緊急連絡が入った。イヤホンをセットし、報告を聞く。ふん、ふんと頷く俺にはかまわず菊はコーヒーをすすっていたが、俺の台詞に、顔をあげた。
          「チェックメイトだったらしいよ」
           
           
           
           
          「で、なんでこんなすみっこにいんのさ」
            ソファの裏から声をかけたら、振り仰いだ菊は苦笑して応えた。
            「あなたこそ」
          「うーん…」
 
          よ、っとその背を乗り越え、菊の隣に腰掛ける。
            旧占領四カ国、ということで特に招待されているのだから、もうちょっと中心にいた方がいいのは分かる。だけど、ちょっとネクタイをゆるめたくなった。
            向こうのホールでは悪友三人組がもみくちゃになっている。パーティというよりどんちゃん騒ぎだ。多分、例の中継映像がみんなをハイテンションにさせた。壁の崩壊。ブレイク・スルー。その先にまだ見たことのない世界がある、気になる。
            「なんか、やっぱり、ちょっと、あの中には入れないかなーって」
            小さく菊は微笑んだ。
            「貴方でも、気後れすることがあるんですね」
            「心臓に毛が生えてるみたいに言わないでくれるかい」
            菊は何かを言おうとして口をつぐんだ。
            紳士らしさをどこかに置き忘れた酔っぱらいが酒のぶっかけあいに参戦している。そういえばワーテルローでは不憫同盟を組んでいたんだった。
            「こういうときは、アーサーも『ヨーロッパ』だったんだなって思うね」
          ああ、いわでもがなの一言だったと思わず顔をうかがったが、菊は向こうに気をそらしていた。視線の先に輪の中のルートヴィッヒがいる。日頃の”謹厳そのもの”といった表情を完全に崩して、こちらに向けてひらひらと手を振っている。あそこも相当のブラコンだよなあ、と思う。それにぺこりと笑顔を返して、菊は視線を戻した。「敵対という事実がある以上、個人としての私の感情など」と菊は言った。多分、他の誰かにも言えなかったんだろう―――言える立場にはなかったんだろう、「『私の』『貴方に向ける』気持ちは変わっていない」とは。まあ、そういうことは、確かに、ある。
                      「…俺はいいんだよ。別にどっちともそんな仲がいいわけでもないし。君は違うだろ。君は、特別なんじゃないか」
            菊は下を向いた。
            「私の、特別、です。あの人が。あの人にとって今の私がどうなのかは…」
            「え、なに、そんな風に思ってたんだ?」
            思わず顔を下からのぞき込む。
          
            二人の間に「約束がない」ことは知っていた。別れたのだと菊は認識していることも(それなのに40年奪還作戦をやりつづけるんだから大したもんだ)。
            「そのうちに」と思っていたのに、あの男が世界会議に出てくるまでには予想以上の時間がかかった。1973年、菊がその兄との和解を進めていた頃、やっと彼は国際連合に加盟し菊とも国交を樹立させたが―――菊がその20数年前「手首の鎖」と表現したものは予想以上の堅さだった。口も効かず、笑いもせず、ただ淡々と事務をこなす。バルトの彼らのように怯える様子を見せることはなかったが、それでもやはり強い圧力がかかっていたんだろうと思う。
            でも菊の隣にいる俺に、時たま、ほんの一瞬投げかけられる鋼鉄のような視線は、菊には見えていなかったんだろうか?
          菊はカクテルグラスを両手で持って、靴の爪先を見ている。
            あんな大博打をかまして、GNP世界第二位にまで上り詰めて、それでいてなんだ、その顔。どこの乙女だ。
            正直、最近は、無表情のままえげつない市場占有戦略をやってのける菊を怖いと思うことも多いのだけど、……本当に、恋は人を愚者にする。かわいいもんだ。
            顔をのぞき込んだまましばらく感慨にふけっていたら、いきなりその菊の右肩ががくっと沈んだ。
            「ふあ!?」
            肩に顎を乗せられ、後ろから腕を回された菊は抱きすくめられたまま、硬直した。その手が掴まれ、持ち上げられる。薬指に唇を落とされ、菊の顔はリトマス試験紙のように赤くなっていく。
          その顔の隣から、鋭い目がこちらを射る。
          「俺の。」
          「―――知ってる、100年前から知ってる」
          ホールドアップ。小さく掌を見せる。
          
            俺の返事に小さく目を見張ったギルベルトは、やがてくしゃっと顔を崩し、菊を両腕で抱きしめて「やわらけぇ」と笑った。