いきものたち 3


 

※ご注意
・'011年1月23日穂崎様発行の「国と日常」アンソロジー『彼らはそこにいる』寄稿分の再録です。非CP。

 いきものたち1:'80 奥州:生き物たち(英・日)
 いきものたち2:'70 欧州:狼(独・伊)
 いきものたち3:'80 奥州:狐 (英・日)


 

すみません、と何度も謝る菊に、アーサーはいやいやと手を振る。事前に地図で見たときには―この東北避暑旅行がとても楽しみだったのだ―そんなに複雑なルートでもないと思ったのだが、川沿いの道に入り込み、勘で進んでいたせいもあって、大きく道を外れてしまったらしい。それなりに大きな農道ではあるのだが、建物もなく、人影もない。夏の盛り、農閑期ですからねえ、みなさん朝早くにお仕事をすませてこういう時間帯は家の中で休憩しているのでしょう。そんなことを言いながら菊は車を走らせる。クーラーは壊れているが、窓から来る風は心地よい。別に時間の約束があるわけではない、日のあるうちに遠野に着ければいい。いや、日本の夏は暑いから、河童だって日が傾いてからの方が出てきやすいかもしれないじゃないか。
だからアーサーの機嫌は全然悪く無かったのだが、ガイド役を自認している菊には文字通り汗顔の至りらしく、ぺこぺこと何度も頭を下げる。
「こんなところにまで喫茶店もありませんし…」
そう言われて初めて、そういえば喉が渇いたかな、と思う。でもまあ別に、と言おうと思った瞬間、菊が「あ!」と声を上げた。
「よかった、いいものがありました」

そう言って路肩に車をとめ、さっさと歩む先にあるのは、掘っ立てと称しても怒られないような粗末な小屋だ。慌てて追いつくと、明かりの一つもない無人の小屋で、菊はそこに置いてあるキュウリのざるを手にとって改めている。
「お、おいっ」
勝手に、いいのか。そういうつもりで声をかければ、菊はちょっとすまなそうな顔で振り返った。
「すみません、きちんとした飲み物などはないので…でもきっと水分補給できると思います」
トマトの方が水気があるでしょうか?などと手にとって首を傾げ、菊は、いきなりそれをかぷりと食べた。
「おいっ」
「はい?」
きょとんとした目を向けられる
「お前、それは、クイニゲ…」
「逃げませんよ?」
「違った、マンビキじゃないのか」

はてなを二つ三つ頭上に飛ばして、やがて菊は「ああ!」と声を上げ、看板を指さした。
「これ、読めなかったんですね。『農産物無人販売所』と書いてあるんです」
「販売所…?」
「ええ、売ってるんです。だから、ちゃんと買うつもりでしたよ」
菊はポケットから小銭入れを取り出し、投票箱のような箱にちゃりちゃりとコインを入れた。
「きゅうりも買いましたから、どうぞ」
「え」
「ほら、ここに料金箱って書いてあるでしょう。ここに代金を入れれば売買成立です」

差し出されたそれは、緩やかに湾曲しているが、棘の強さが新鮮さを主張している。渡されたそれを見つめていたら、トマトを食べ終えた菊が、同じざるからキュウリを一本とり、食べ始めた。別に毒味をしろというつもりではなかったが―とはいえ、得体の知れないものだと思っていたのは事実だ―本当に、食べていいらしい。ぱきりと半分に割ってかぶりつけば青臭い苦みと旨みが水分と一緒に流れ込んできた。

「―うまい」

にこり、と菊は笑った。イギリスの野菜のうまさを、かつて菊は褒めたことがある。本当に、生の野菜はおいしいですねえ!―その「は」はどういう意味だと突っ込みたかったものだ。それはともかく、このキュウリは自分の舌に叶う。乾きが少し満たされたせいで欲が出て、トマトにも手を伸ばす。菊が察知し、手渡してくれる。球形というよりは楕円、なにか瘤ができたような形のトマトは、不格好だが、瑞々しい。最近の日本のトマトは味が薄いと思っていたが、喉が渇いていたからだろうか、水気が嬉しい。
それにしても。
菊が大丈夫だと請け負い、差し出したから食べたけれども。販売者のいない―つまり、もしここに毒物が置かれていても責任をとる人がいない野菜を平気で買う菊に、最後に料金を払って行かなくても文句が言えない形で野菜を売る誰か。
いくらなんでも、
「無防備じゃないか…?」
何せ、東京では生き馬の目を抜くと言われるマネーゲームが展開されつつあるのだ。
またきょとんとした顔を向けて、菊は「そういえば、そうですかねえ」と小首を傾げた。
「これ、流通外なんですよ。少し曲がったり、S、M、Lの規格にあわないものを、大手小売業者は嫌がるので、農協を通じたルートに乗せにくい。自家消費するには多すぎるし、売るといっても人手を割けないから、『捨てるよりはましかも』でああして置いているのですね」
「ああ…」
「まあ、こんな場所にきて野菜の数個の値段をけちる人もいないでしょうし、逆に規格外ということ以外に変なものを置いたりもしないものでしょう」

理解できたようなやっぱりできないような気持ちでざるに入れられた野菜を眺める。売れないのか、これが?なぜ?アルフレッドが「日本の流通ってさあ!」と喚いていたことがあるが、確かに傍からは理解しにくい。しかし、こんな悪意の存在を度外視したような流通にだってアルフレッドは入り込めないに違いない。
目をしばたかせていると、菊の方が小首を傾げた。
「アーサーさんのところでは、沈黙交易はなかったのですか?」
「沈黙交易……って、カルタゴのあれか。その場にものを置いて隠れ、別の民族のものがそこに来てお金を置いてものを持ち去る」
「ええ」
「あれは、言葉が通じないからそうするのだろう。取引のレートに納得がいかないなら取引中止の可能性もあるわけだし」
「まあ、カルタゴのはそうでしょうが……あれの一つの変形のようなものが、この辺りにはありましてね」

岩手から秋田へ向かう道筋はいくつかあるが、いずれも奥羽山脈を越える険しい山道となる。一晩で越えられない山には多く助小屋(すけごや)と呼ばれる山小屋が造られるが、それを使った取引が行われていたのだという。藩をこそ「国」と呼んだ近世日本では、藩を越えての行き来には面倒が伴った。しかし隣藩への輸送の需要はある。そこで、ちょうど両藩の境界線に立つ助小屋まで荷を運び、その助小屋にもし自村あての荷が置かれていたら持ち帰るという形でやりとりが行われていたのだという。

「じゃあ、荷物は小屋に置きっぱなしなのか?」
「ええ」
「取り放題じゃないか」
「険しい山ですからねえ、泥棒もいないんですよ」
「しかも、相手がちゃんと届けてくれる保障もないんだろう?」
「それは、まあ、信頼ですよ」
しれっという菊をまじまじと見る。もう一度言うが、この菊は、東京やニューヨークではなかなかにえげつない仕手戦を繰り広げているのだ。

むにゃむにゃという声がして振り向くと、いつの間に現れたのか、老婆が杖を突きながら小屋の中に入ってきた。
聞き取れない日本語を、菊が訳してくれる。
「お買い上げありがとうございます、だそうで」
老婆は料金箱の奥へ回り、南京錠を外して、ちゃりちゃりと小銭を回収した。むにゃむにゃ、という言葉に菊が「へえ」と相槌をうつ。
「この方のおじいさんは、助小屋に泊まったことがあるそうですよ」
そして老婆は昔話を始めた。

――今となってはもう詳しいことは分かりませんが、なにやら藩命を帯びての山越えだったようなのですね。当時は開国だ攘夷だ、勤王だ佐幕だと血の気の多い時代でして、この辺りも奥羽越列藩同盟などといって戦争に備えていました。ですから、祖父も、まだ元服したての若輩者だったそうですが、緊張しながら小屋に泊まったのだそうです。ところが、雪の深い中を登ってきて疲れてしまい、囲炉裏にあたっているうちに、うとうとしてしまったらしいのです――

 

気がつくと、若者は蓑をかけられて横たわっていた。飛び起き、周りに目をやると囲炉裏の向こうに虚無僧(こむそう)がいた。彼もここに泊まるらしい。虚無僧―顔を編み笠で隠し、尺八をふいて悟りを開かんと諸国を行脚する普化宗の僧、…に化けた隠密である可能性もある。若者は身構えたが、特に書状を託されているわけでもない、脳の中以外に何の秘密も持していない。虚無僧の微笑んだような空気も伝わってきて、若者は座を崩した。
商売ではないとはいえ、喜捨できる余分な金銭など身につけてはいない。しかし、奥深い山の中、今から死地に赴こうとする若者は、この世の名残に美しい音を聞きたくなった。
家に伝わる観音像でございます、と、若者は懐から小さなそれを差し出した。母が祈りを込めて持たせてくれたものだった。金無垢のそれはぼんやりとした囲炉裏の光を受けて輝いた。

僧は固持した。こんなものを戴くほどの腕前ではありません。

これしかないのです。命さえ、もう差し出す先が決まっているのです。若者は頭を下げた。

何度かの押し問答の末、僧は、それではと尺八を構えた。美しい音に若者は満足したのだが、一曲が終わると、僧は続けて不思議な曲を吹いた。明らかに虚無僧がならいとする音曲ではない、だけではなく、こんな音律の曲を聴いたことがない。けれども、その緩やかなしらべは、なぜか若者に「なつかしい」という感情を呼び起こした。

――老婆は少し言葉を切った。じいさまは、それを鼻歌で聞かせてくれたのです。じいさまも私も、耳の鋭い方でないので、聞き違い覚え間違いなどあるのでしょうが、後年、女学校で教わった「埴生の宿」に、それがそっくりでしてねえ…――

狐に摘まれたような気持ちでした、と頷いて、老婆は話を続けた。

暖かい火と穏やかな曲に心をほどいた若者は、僧に聞かせるというでもなく、訥々と思うところを語った。

奥羽越列藩同盟は、勤王佐幕、そして開国を基本路線としている。日本は変わろうとしている、それは分かる、仕方がない、けれども、薩長のやりようは余りにも筋が通らない振る舞いではないか。そうした義憤で結びついた同盟であるけれども、諸藩の間には温度差がある。薩長の後ろにはイギリスがついていて、軍事力をいや増している。勝てるわけがない、もう時代は彼らに握られている。だから早々に降参するだろう藩もある。それさえも、仕方がない。だけど自分はこのまま座していられない。いいのか、素知らぬ顔で前言を翻し、反対意見は力で圧殺する、そんな形で「新しい日本」を生んでいいのか。
そんなこころを、若者は吐露した。僧はしばらく黙って、ぽつりと言った。

私はこうしたことを語る分際ではありません、が――貴方に、もう一度この助小屋に戻り、そして家に戻り、人生に戻って欲しいと思っております。この先の奥州には、官に敵対したものとしての冷遇があるかもしれません。けれども、今ご披露したような新しいしらべが導く未来もありましょう。

僧はまた静かに尺八を吹き始めた。

次の朝、若者が起きると、既に僧の姿は無かった。のみならず、夜中に積もったらしい雪のどこにも足跡はなかった。若者はいぶかりながら山を越え、戦闘に参加したが、九死に一生を得て家に戻った。後年、ふと思い立ってその助小屋を訪ねると、そこには(出たときには確かに無かった)観音像が届けられるべき荷として置いてあったという。

 

「純金を?誰も盗らなかったというのか?」
思わず口に出すと、菊も流石に驚いていたのだろう、頷いて、老婆に問い返した。
「そうらしいのですねえ。訳ありだと思って誰も手を出さなかったのでしょうか。全体に、雲を掴むような話で。祖父も言っておりました。もしかしたら狐に化かされたのかもしれない、と」
「狐?」
また怪訝な顔をすると、今度は菊が教えてくれた。
「日本では、狐と狸は人を騙す動物なのですよ。それにしても懐かしいですね、そのフレーズ。比喩としてではなく、何かの現象を説明しようとするときに『狐に化かされたのだ』と言う、というのは……そうですね、オリンピックの頃までじゃなかったでしょうか」
老婆はこちらのやりとりが分かっていたのかどうか、「時代は変わりましたけど、庭の御稲荷様にはちゃんと油揚げあげてますよ」と言って去っていった。

二人も車に引き返す。
それにしても、とアーサーは身を乗り出した。
「やっぱり、いるんじゃないか?」
「何がでしょう」
「河童。あいつら、言ってたぞ。見える人がいればいられるんだって。『狐』の方はつい二十年前までそこいらにいたってことだろう。さっきの彼女みたいな人がいるこの地なら、顔も出しやすいんじゃないか」
菊は、ちょっと可哀想な人を見る眼になった。妄想じゃないと言っているのに。

「ええと…」
エンジンをスタートさせ、ギアをローに入れて、菊はぽつんと呟いた。
「私が狐だったのかもしれませんよ」
「え?」
首を向けたアーサーに、菊も目を合わせて、丸めた手を前足のように顔の横に出して、小さく微笑んだ。

「―こん」



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