いきものたち 1


 

※ご注意
・'011年1月23日穂崎様発行の「国と日常」アンソロジー『彼らはそこにいる』寄稿分の再録です。非CP。

 いきものたち1:'80 奥州:生き物たち(英・日)
 いきものたち2:'70 欧州:狼(独・伊)
 いきものたち3:'80 奥州:狐 (英・日)


 

夏の盛りとはいえ窓を全開にして車を走らせれば山から下りてくる涼しい風に汗も乾く。それでも未練がましくクーラーをがちゃがちゃと弄っていた菊だったが、やがてため息をつき、頭を下げた。
「やっぱり壊れているみたいです…すみません」
「いや、平気だ」
やっと虚勢を張らずにこの言葉を言えるようになった、とアーサーは笑顔を見せた。東京を出たときは軽快に動作していたクーラーが東北自動車道を走り出して小一時間、不穏な音を出し始めた。高速だけに窓をフルに開けるのも躊躇われ、細くあけた隙間から空気だけを通していたが、暑さに弱いアーサーには蒸し風呂のように感じられ、「平気」と返事する、その声音がかえって菊を焦らせているのが分かった。分かっても如何ともし難かった。
「もともと、俺のわがままで連れてきて貰ったんだしな」
「いえ、そんな。遠方のまちにまで興味を示して頂いて有り難いです」

皆で集まって雑談を交わすような場で、バカンスをどう過ごす?という話題の時、菊は黙っていることが多い。一ヶ月以上を当然視する欧州組の中では微かに疎外感を覚えるアーサーだが、それでも一、二週間、夏の太陽光線を謳歌するために遠出する国民は多い。菊のところでは、短ければ三日、土日を足して五日程度の休みで、しかも遊興に費やすのではなく親元へ帰り盂蘭盆会という宗教行事を行うのが一般的だという。キリスト教圏のほとんどでは死者に祈る日は初冬だから、「バカンス」という開放的な語感にそぐわないそれを説明するのは面倒になる、だから菊は黙る。とはいえ、帰省せずに旅行、という人も多くなってきてはいるのですけどね…そんなこともぽつりと言っていた。
その菊が、「今年は東北をふらっと回ろうかと」と言ったのは初夏に行われた世界会議の後の茶話会の時だった。それはどちらかと言えば向こう隣に座っていたフランシスに言ったものだったのだが、珍しい、と、アーサーは会話に嘴を挟んだ。

「どこに行くって?」
「青森、秋田、岩手あたりですかね」
「なんかあるのー?」
「公的には、青秋林道建設工事を続行するかどうかの視察で」
「「仕事じゃん」」
声が重なってしまった。フランシスは、あ、と指を立てる。
「それってあれ?ブナ原生林の中央を通すって道路」
よくご存じで、と軽く目を見張って、菊は頷く。
「あの辺りは、特に観光名所があるでもなく、紅葉狩りを楽しむには険しすぎ、生えているブナも杉や檜のように木材として活用ができない…そんなわけで、放置していた森なのですが、楽器製造などでブナも使われるようになったので、伐採用の林道を通して地域を活性化させようという計画だったんですね。一方、これだけの広さを持つ原生林は貴重だという反対意見もあって」
うーん、とフランシスは腕を組んだ。
「菊ちゃんはさ…、自然に恵まれすぎてたせいで、いろいろ無頓着すぎると、お兄さんは思うなあ」
知ったような口を聞くフランシスに軽くアーサーは苛立った。
「それ、すごく古いのか?」
「そうですね、私が目覚めた時にはもうありまして。約八千年前……もしかしたら日本列島と同じくらいかと」
アーサーとフランシスは顔を見合わせた。それは世界規模で保存に力を注ぐべき森ではないのか。
「ですが、国土開発は産業振興と表裏一体となっている我が国で、…しかも地域間格差是正の叫ばれる東北で、こうした公共事業を止めるというのは痛みを伴う判断です。最終的には県が判断することになるでしょうが、私にも現地を見て欲しいと言われまして」
しばらく菊は俯いていたが、やがて顔を上げた。
「まあ、そういうわけで折角遠くまで行くので、ついでに涼しい東北でゆっくりしようかと。田沢湖、角館、花巻、遠野」
「んっ」
急に顔を上げたアーサーに、菊は瞬きをした。
「俺も行きたい!」
「え」
「連れて行ってくれないか」
「ええ、まあ……大丈夫ですけれども」
菊はしばらく逡巡して、言葉を継いだ。
「河童は、いませんよ?」

 

菊にはせんから見えていない。それを知っているから、アーサーも落ち込みはしない。三者で会話できれば楽しかろうと思うけれども―もしそれができたら菊こそが嬉しいだろうと思うけれども!―諦めている。けれども、自分にはまだ見えるのではないかと思う。薬をくれた親切な奴だし、自分のことを気に入ってくれていたみたいだし。―もう百年近く前のことだけど。
あの頃、道を歩けば「異人さんだ」と囁かれた。それが「鬼畜米英」になり、そして「外人さん」になった。東京ではもう金髪翠眼が奇異の目で見られることはないが、地方へ行けば穴が開くほど見られる。視線に関する感覚がどうにも俺等と違うよな、と、フランシスと(珍しく)頷き合ったものだ。
ともあれ、最近の好景気と円高は日本人を大量に海外旅行させたし、語学学校その他で外国人の雇用を生んだ。接触は摩擦を生むが、接触無しの理解はあり得ない。いつまでも精神的鎖国のままではいられません、そう菊は拳を握る。あまり人のことは言えない、欧州組という括りに入りきらないアーサーも「そうだな」と頷いた、その気持ちは本当だけれども……変わった結果失われたものがあるのかどうかが気になりもする。菊に聞けば両手を振って否定するだろうが、結局のところ、『彼ら』に菊の家を出て行かせたのは自分たちではないのかという疑念がぬぐえない。

 

お仕事は後回しです、と、菊は先に観光ガイドを引き受けた。花巻、遠野を回って盛岡に引き返し、新幹線に乗せてくれるという。八月十五日には東京にいなければいけないからといい、一方、九日夜に九州から戻ってくるからとその隙間をぬうような旅行日程となった。せわしくさせたのを謝ると、菊は笑顔でかぶりを振った。
「少し前に、我が国で長く愛されている、銀河を旅する少年たちを描いた児童小説がアニメになりましてね。折角なのでその作者を偲ぶ旅を重ねたのです。諸説ありますが、その物語の舞台が多分今頃なのです」
「ふうん」
「アニメ、音楽も映像もいい出来なのですよ。主人公の少年たちが猫として描かれているのが意外と言えば意外なのですが…」
アニメーションが「子供用の娯楽」の域を超えつつあることは理解している。自国で作られた『スノーマン』は「絵本を読む層」以外にも幅広く受け入れられたし、『風が吹くとき』は明らかに大人向けの時事批判となっている。しかしそういうレベルを超えた菊の没入ぶりは、少々不思議に思われるほどだ。アーサーには理解しきれないが……先年この国で話題を集めていたアニメーション映画、ダンゴムシが巨大化したような怪獣に村が襲撃されるそれの特殊な世界設定のように、文学・映画という既存の方法では表しきれなかった『表現したいもの』が菊の中にあり、その方法を得たということなのだろう、と考えている。

花巻で高速を降りた車は町中を抜けて川沿いに出た。休憩です、と車をとめ、河原で背伸びをする菊はなんだか楽しそうな顔をしている。
「……どうかしたか?」
「ここ、イギリス海岸っていうんですよ」
「は?」
「この場所を愛した作家が、そういうあだ名をつけたんです」
「な、なんでだ?」
「泥岩層がむき出しになっていて、川岸が白いでしょう。それがドーヴァー海峡のイギリス側辺りみたいだからってことで。…彼は貴方の処のそれを見たことは無かったんですが、地質や鉱石については詳しくて」
「はあ…」

川岸が白いというだけでイギリスと呼ばれて、なるほど、とは流石に言えない。しかし、ゆったりと流れる川とその上を吹き渡る風の心地よさは、アーサーの気持ちを上向きにした。好感の持たれているものごとに自分の名が冠されているのは嬉しいものだ。「アングレース」という修飾語を逆の方向にばかり使われているせいで、なおのこと嬉しい。

菊は静かに両手を開いて、微笑みを浮かべた。

「―ここは、友情と喪失と再出発の旅への、銀河ステーションなのです」

それは小説のストーリーなのだろう、けれども、菊にそれを言われ、アーサーの心臓は揺れた。映画の猫(?)たち、小説の少年たち、作家の愛した人々、そしてその人々の生きる国。

「…夜に来たかったな」

そういうと、菊は瞬きして「ではいずれ」と微笑んだ。

 

ええと確か、と地図を見ずに川沿いの道を走らせる菊に任せて、窓の外の光景を楽しむ。青々とした田の上をすいっと虫が渡っていく。そういえば、と思いついて川岸を眺め、アーサーは微妙な顔になった。
「なあ、菊」
「はい、なんでしょう」
「なんであんな風に、灰色にしているんだ?」
「え」
川岸に目をやって、菊は更に不思議そうな顔になった。
「護岸工事ですよ?我が国の川は比較的急で、流域面積に対して水量が多いので、洪水の危険性が高いんです」
「ああ…」

一瞬納得し、いややはり、と首を振る。
「あんな河畔には、誰も愛称をつけたりしないんじゃないか」
灰色のコンクリートに固められた川岸。落下防止だろう、無骨な金網…そして多分、生物種の減った川。

菊は驚いたようで、瞬きをして、それからゆるゆると路肩に車をとめた。肘を窓枠につき、口にゆるくむすんだ拳を当てて考え込む。
「んー…」
「お前に言っても仕方ないのかもしれないけど」
「いえ、すみません、ここら辺は国有地でもあります」
「あ、いや…。その、前に言ってただろ、公共事業は地域振興でもあるって。つまり…経済の問題なのに他国が印象論でどうこういうのは嫌だろうと思ってだな」
「……確かにそうなんです。東北は厳しい自然条件とちょっとした歴史的経緯があるために経済的な支援が必要だと考えられていて、だから、罪滅ぼしではないですが、公共事業をとめるのはしのびなくて…」

だけど。菊は呟いた。

「このままだとカワセミさえ来ない川になってしまう」

だけど。また呟く。

「ここが人のいない町になってしまうかもしれない…」

アーサーは頭を掻いた。せっかくの休みなのに仕事モードにさせてしまったらしい。山と川、場所は違えど、白神山地の林道と問題の所在は同じだ。だが、「全くの手つかず」に価値がある後者と違い、ここには違う方途がある。

「例えば、だ。その作家が愛されているというなら、それを偲んで来る読者もいるかもしれない。その観光客が本を片手に散歩できるよう河原を整備して、周りの草も人手を入れて刈る。そういう工事の発注、雇用の創出だってあるだろう」
「あ…」
菊は顔を上げた。
「そうですね、こうした問題は結局人が決めるしかないと思っていましたが、……国としてふたつながらに保護するという姿勢を見せることは、できるのですね」

深々と頭を下げて礼を言うから、アーサーは頬を染め、馴染みの台詞を舌に乗せた。

「おっ、お前の為に言ったんじゃない、俺の海岸のためだ!」



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