いきものたち 2


 

※ご注意
・'011年1月23日穂崎様発行の「国と日常」アンソロジー『彼らはそこにいる』寄稿分の再録です。非CP。

 いきものたち1:'80 奥州:生き物たち(英・日)
 いきものたち2:'70 欧州:狼(独・伊)
 いきものたち3:'80 奥州:狐 (英・日)


 

「ヴェー…」

フェリシアーノの眉はいつもだいたいゆるく下がっているが、今日はもう少し斜めになっている。目の前にいるのは仏頂面の兄と、スウェーデン人。…いや、スウェーデン生まれのコスモポリタンと言うべきかもしれない。アメリカ、ドイツ、スイスと学究生活を続け、ハンブルクの森と、最近ではアブルッティでWWFのプロジェクトに係わる動物学者である。どうしてこう、北のやつらって威圧感あるんだろう、と、兄に言わせれば北のフェリシアーノはしょんぼり思う。

「兄ちゃんも賛成なんだったら…」
その言葉にロヴィーノは軽く頷く。やれ。
「ヴェ…」
フェリシアーノは軽く掌をはためかせた。白旗の代わりだ。降参。兄ちゃんやってよ。
やるもんか、ムキムキの相手はお前の役目だ。金輪際あいつにお願いなんてしねーぞこのやろー。

兄弟のアイコンタクトが分かっているのかいないのか、エリックと名乗った研究者はもしゃもしゃの髭を撫でて言った。
「これまでの繋がりがあるから、私のラインだけでも大丈夫なのかもしれない。けれども、協力してもらえるのなら有り難い」
どこのだれだか知らないが、という言葉を彼、エリックは呑み込んだ。WWFの会議にふらりと紛れ込んだ若者が、いきなり会議のはけた後近づいてきて「弟に会うといい」とカフェに誘い出した。誘った側なのに黙り込み、遅れてやってきた、会うと「いい」はずの弟も同じようなへらりとした若者で、いったい何が「いい」のか分からない。わけが分からないながら、なんであれプロジェクトを成功させることに繋がるならと頭を下げた。ら、フェリシアーノと呼ばれた青年は「やめてー、俺チカラあるわけじゃないんだー」と更に眉尻を下げた。
「チカラではこの問題は解決しない。理解がなければプロジェクトは成功しないと分かっている」
そうかな、感情の問題じゃないのかな、とフェリシアーノはため息をついた。
「あのさ…。これ、単に人間の自己満足じゃないの?」

 

「それで?その男は何と言ったんだ?」
兄いうところの「ムキムキ」、ルートヴィッヒはココアを渡しながら聞いた。クッションの上にまるで猫のように丸めていた身体を伸ばしてそれを受け取るフェリシアーノは、完全に自宅並にくつろいでいる。

「そうです、って。多分これは人間のノスタルジアなのです、って」
「ふむ?」
「人間の行動によって生物種を減らしたくない、そう考えることが既に人間の我欲なんだから、正義とかで押し切るんじゃなくて、…ええと…、他に生きててほしいと思う欲と自分が豊かに生きていたいと思う欲の折り合う点をちゃんと見つけたいって言ってた」
「ほう」
むかいのソファに腰を下ろし、ルートヴィッヒはココアをすする。あったかあい、とフェリシアーノが笑うと、湯気の向こうでルートヴィッヒも口元を緩めた。

「―ということは、懐古主義を満たすために、ドイツの鹿をイタリアの狼に食わせろというわけか?」

言葉とは裏腹に、ルートヴィッヒの顔は穏やかだ。話にならん、と切り捨てられると思っていただけに、フェリシアーノは話を継ぐ穂に手が届き、かえって困惑気味だ。策を弄しているつもりはいつだってないが、今回は何が勝因なのかさっぱり分からない。…違った、まだ勝ってはいなかった。
「再移入、って言うんだって。そうやって生態系全体を復元するんだって」
イタリア半島の脛骨にあたるアペニノ山脈。その中程にアブルッツィ国立公園はある。そこには百匹程度の狼が生息していると思われている。森の中に住む彼らがその種を繋いでいくためには、しかも周辺の生活者の生命と財産を脅かさずに穏やかに生きていくためには、野生種の「餌」がいる。しかしその餌たる野生動物もまた絶えようとしている。そこでエリックたちの計画は、生態調査と環境整備、すなわち餌の再移入となる。そのアカシカをドイツに提供してくれないか、というのだ。

「天敵のいるところに放される鹿に、俺は同情するがな」
「うーん…」
エリックは専門的なことを語ったのだが、美女でもない彼の言葉を覚えられるわけがない。印象に残った言葉だけを言うなら、
「動物たちは、文明化する前の人間も含めて、みんな『天敵』を持って、釣り合いを保ってきたんだって」
「ふむ」
「本当は、『天敵』がいて数が調整されないと、生態系のバランスは崩れるらしいよ。鹿だけ保護していると、林が荒れるだろ」
「なるほどな…」
納得の表情を見せたルートヴィッヒに、フェリシアーノは肩の力を抜き、クッションを腹に抱いた。
「よかったぁ」
「何がだ」
「だってさ、ルート、狼嫌いじゃん。話聞いてもくれないかと思ってたんだー」
「俺が特別そうではないだろう」
「嫌いだなーと思った時に、ほっとかないだろ。兄ちゃんとかアントーニョ兄ちゃんとか、それからフェリックスなんかは、嫌いなやつがその辺にいるって時に、そういうもの≠セと思うから、テキトーにするんだ」

適当の逆が徹底であるなら、その言葉は自分より先に与えられるべき国がある、とルートヴィッヒは思った。ヨーロッパで最初に狼を根絶させたのは、地理的な条件が加勢したアーサーである。
人と狼の対立は普遍的なものではない。ネイティブアメリカンやイヌイットの神話のように狼の賢さや分別を持った行動が神のように描写されたこともあったし、トルコ・タタール・モンゴルの民のように自分たちの祖先は狼であると名乗る人々もいた。しかし、ある意味決定的なことに、古代パレスチナにいたのは狩猟民族ではなく牧羊者であり、彼らに敵対した狼は邪悪の象徴として旧約・新約聖書に描かれることになる。
そのキリスト教が支配力をもった中世ヨーロッパは農業拡大の時期にあたる。鉄製農具による開墾、三圃式輪作による農地展開、そして切り開いた森林の更に奥の湿地・草原には家畜が放牧された。野生動物は貴族の狩りのための保安林に追いやられ、猟の対象として生きることを余儀なくされ、―そうなると今度は逆に、狼は猟師から追い出される形で家畜のいる村に戻ってくることになった。そして「人を襲う狼」のイメージが作られることになった。実際には、人に直接危害を与えようとする狼はほとんどいないのだけれど。
イングランドで十六世紀の初めに狼が絶えたのは、単に彼らが住みうる森林が伐採されつくしたからである。市民革命・産業革命とヨーロッパを襲った歴史の波は野生動物全体の数を激減させた。十九世紀の末には多くの地方で「狼との戦いに対する勝利」が宣言された。人間の活動が生存の余地を奪った結果絶滅した、または絶滅の危機にある動物は数多ある。しかし、その中で狼が特別なのは、憎悪と、ほとんど正義感を持って人が積極的に殺していったという事実である。何せ聖書で名指しされた邪悪な動物である。中世の末には「狼男」「狼憑き」に対する宗教裁判により多数の男が殺されたし、ホッブスは―正確に言えばプラウトゥスは―「Homo homini lupus」という言葉で、疑いもなく狼は敵であると語った。
近代、社会ダーウィニズムが流布し、鋭い歯を並べる狼が弱肉強食の掟の上位にいると想像されるようになって、「強さ」の象徴として狼が文学に登場するようになる。しかし皮肉にも、その時既に狼の絶滅は既定路線になっており、しかもそれは「文明化の象徴」たるできごとと見なされていたのである。

 

「しかし、その論法なら、人間にも天敵が無ければならないのではないか?」
フェリシアーノは瞑ったような目を向けつつ小首を傾げた。
「……人間自身がそうなんじゃない?」
  時々フェリシアーノはこういうことをさらりと言ってのける。その兄にはもっとその傾向がある。虚無を知っていながら、それを眇めた眼で受け流す。フェリシアーノの言葉を使えば「テキトーにする」。…そういえば。
「ロヴィーノが嫌いなのって、俺とかか」
あはは、とフェリシアーノは笑って、首を振った。
「兄ちゃんは、ルートのこと嫌ってないよ。でも怖がってはいるかなあ」
「フォローになってない」
「別にフォローするつもりもないよー。だって自分で頼めばいいんだ」
兄ちゃんめ、と膨れる。
「お前は、狼保護に反対なのか?」
ただの「お願いのお使い」でしかないのかと聞いてみると首を振る。
「そんなことないよー!なんだって自分とこからいなくなるよ、やだよ」
「ふむ」

自分たち国は、人の意識の集合体である。だから「国民」は自分たちの骨肉であるという感覚がある。けれども、動物たちは、自分たちを積極的に作り上げているものではない―少なくとも「国」という枠組みに賛成票を投じたことのある動物はいない。それは身体の中を巡る血のようなものだ。いないことなど考えられない、大抵はどこかの国の上に存在し、多くはその国政の影響を受けているけれども、彼らは本質的に自分たちに縛られない。ボーダーフリーの極地にある渡り鳥は、例えばフェリシアーノと手を繋いだときに流れ伝わっていく体温のようなものかもしれないと思う。
この辺りも、島国である菊は感覚が違うかもしれないな、とルートヴィッヒは考えた。

「本田が」
「うん?」
「狼は、大神だと言ったんだ」
「へえ…」
「宗教的なこともあって牧畜による肉食を長くやっていなかったので、人と狼がほとんど敵対関係になかったというんだな。それでも旅人が襲われたという話が伝わっていたりもして、『恐ろしい存在』という意識はあるらしいんだがな。あの国では恐ろしいものだって祀られる」

「ヴェー…」
フェリシアーノはぱったりとソファに倒れ込んだ。
「俺ね、多分ちょっと悔しいんだ」
「なにがだ」
「兄ちゃんほどに『そりゃ、やらなきゃ』と思えないのが」
「ん?」
「狼はね、俺んとこでも祀られるんだよ。ルペルカリア祭ってのは、王女レア・シルウィアと戦いの神マースの子、ロムルスとレムスを育ててくれた雌狼に感謝を捧げるものなんだ。ローマは、王位簒奪者によって捨てられた双子が狼に育てられた土地なんだよ」
「ああ…そういえばそんな神話だったか」
「だから、兄ちゃんにとっては、狼はマンマの象徴でもあるんだ。……じいちゃんにとってそうだったようにね」
「…」
「やっぱり、兄ちゃんの方がじいちゃんに近いなーって、時々、思う」

腹に抱え込んだクッションが口までを隠し、フェリシアーノの表情は見えない。
イタリアという国を代表する弟、首都を名前に持つ兄。偉大なるローマ帝国の血―多分、兄は兄で、弟にそれを感じているだろう。
ルートヴィッヒは、ゆっくりと背もたれに身体を預けて、この兄弟のことを考えた。そして自分たちのことを。それぞれを作り上げている国民のことを。その一人一人に流れこんでいる歴史と文化のことを。

「……この計画書によると」
「ん?」
顔だけを回してフェリシアーノは目線を寄越した。
「依頼先は、バイエルン州食料農林省になっている」
「ん?そうだっけ」
「俺は連邦国家だから、この事案は俺の管轄にないな。州の案件だ」
「ヴェッ?」

慌てて身体を起こすフェリシアーノに、ルートヴィッヒは笑いかけた。
「バイエルンの兄さんのところに、一緒に行こう。口添えくらいはしてやる」
「あ………うん」
  フェリシアーノは胸のクッションをぎゅっと抱いた。伸ばされた腕に、髪がくしゃりとかき回される。

ありがとう、と、ごめんね、のどちらを採るか迷っているうちにルートヴィッヒは立ち上がり上着をとりに行ってしまった。「一番のお兄ちゃん」にずっと会えなかったルートヴィッヒに無神経なことを言ってしまったかもしれない。ちょっと内省するけど、何かまずかったか、あるいはまずくなかったか、よく分からない。
どちらにしても―ルートヴィッヒは怒っていない。その辺は、勘で分かる。口添えくらいと言ったけれども、一緒に頼んでくれるのだろう。

玄関の方から、早くしろ!と怒鳴り声が聞こえてくる。待ってよ、と駆け寄り、飛びついて腕に巻き付くと、その腕からあたたかい何かが流れ込んでくるのが分かった。



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