太宰治「待つ」/日

◆読書案内◆
 三省堂『現代文』(高校国語)/青空文庫/太宰治『女生徒』角川文庫、1997

「省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。」
(あらすじは説明しにくい小品なんですが、感性に強く訴えかける小説です。ぜひぜひ↑から)

◇ほさき様リクエスト◇

※単体でも読めるんじゃないかと思いますが、英日パラレルミステリ話(premise and plain magic)のプレスト−リーです。


その前に式を挙げたら「駆け込み婚」なんて呼ばれて業腹だ、なんて理由で、敬愛する先輩は30歳の誕生日を迎えた今日を待って、華燭の典を挙げた。新郎は彼女の前職で地方の国立大学に就職した先輩、どちらの地元でもない東京で行った披露宴は要するに双方の両親の海外旅行プラス研究室の飲み会で、気心の知れた仲間でさんざん飲んだ。”遠距離恋愛”から”新婚早々別居”に変わった新郎はそれでも嬉しそうだ。双方が研究職予備軍の場合、別居または長距離出勤はかなりの確率で起こる。労働市場が小さい上に全国に点在しているし、だからと言ってどちらかが研究の道を諦めるには、スタートラインにくるまでに時間と金をかけすぎている。そもそも、根性の座っていない者は何度もふるいにかけられて博士論文までたどり着かない。それだけが原因でもないのだろうが、理系大学院の男女比率は実に殺風景なとしたものになる。そして、それが原因では全くないが、本田菊は恋愛とは無縁に学士4年・修士2年を終えそうである。
今年論文を提出するのは菊を含め数人いたが、いずれも締め切り前に良好な実験結果を受けて論文がまとまっていたので気持ちよく飲めた、気持ちよく酔えた。和洋中の酒をちゃんぽんにした二次会もはけて、今、菊は一人上野駅にいる。
関東の冬は滅多に雪が降らない。ただ乾燥した冷たい空気が構内をかけぬける。


昨年、大阪圭吉の短編集が編まれた。アンソロジーではしばしば採用されるその探偵小説家はまさに乱歩から横溝に至る時代の空気を体現する話をよくしたが、その才能を全て発揮しおえる前に戦争に巻き込まれ、終戦の年にルソン島で死んだ。戦後教育を受けた菊の目にはすんなりと読めない話もありはするが、それをも含めて、湿度の高い幻想的な空気を醸し出しつつ全てを理に落としていく手技を菊は好んでいる。
その大阪圭吉は鉄道にも造詣が深かった。蒸気機関車のギミックを好んだだけでなく鉄道という仕組みそのものが好きだったのだろう、駅舎にたたずんで日がな一日、周りをせわしなく通り過ぎる人々をぼんやり見つめることがあったという。


ミステリに関して言えるほど鉄道に関しては「マニアです」と胸を張って言えない――世間的には胸を張ることではないかもしれないが、マニアにはマニアなりの自負があるのだ――菊は、丸一日それで楽しめるほどの愛を鉄道には傾けられない。けれども、各駅には各駅の風景があり、空気がある。それをぼんやりと感じて数時間を過ごすくらいには好きだ。いや………菊は鉄道という仕組みが持っている構造に感性が反応するようになったのだ。故郷にいるとき、駅は、左から右へ、右から左へと人を運ぶだけのものだった。東京は街全体がターミナル、つまり終着点である。絶え間なく繰り返される列車の到着と出発は、収縮と放散が血液を思わせる。迷宮のように入り組んだ駅舎でその全体像を目にするのは難しいが、この駅にとどまらず東京という街から地方に伸びていく鉄道網をイメージしながら、大荷物を持った若者や地図を片手に周りを見渡している老婦人を見ると、しみじみと東京は心臓なのだと思うのだ。
かつての駅は鉄道を待つためだけのもので、だから改札口の手前、広く空いた空間にたくさんのベンチが用意されていたが――故郷の駅は今もそうだ――東京の駅は待合室とホームにのみベンチが置かれ、改札口の手前は商業施設が整えられている。特に上野は開業110年を目前に飲食店街を整えているところらしく、いっそう、ただぼんやりととどまれる場所がない。ないことに文句を言うわけにもいかない。菊が待っているものは列車ではない。ただ――待っているのだ。

 

人になんと言われようといいじゃないですか、と菊が言うと、つい数時間前まで純白の花嫁だった人は「姐さん」に戻って笑った。
「そうは言ってもね、『存在』は結局『表現』でできあがっていくでしょ。なんと呼ばれるかに対して意識を払うのは、私が社会の中でどういう存在であるかを決めることでもあるんだから」
「でも、姐さんは年齢にこだわらない人なのに、逆にこだわっちゃったじゃないですか」
「違う」
彼女はそこで手にしていた紹興酒をくっとあけた。
「私がこだわったのは、『結婚』の方。私の結婚は、焦りや体面でするようなものじゃないわよ!ってこと」
「はいはい。魂の結びつきってことですか」
からかったつもりだったのに、彼女はふわっと笑った。幸せを顔全体で表現したような笑みだった。

 

その二次会の後、久しぶりに上野駅に来てしまったのは、なんとなく妬けたからだ。彼女の元には訪れた、菊の元には先触れさえない何かについて。彼女のような――趣味があうのだ――女性が院に入ってこないかなとちらりと思い、学部四年生のむさくるしい顔ぶれを思い出してため息をついた。いやいや学外者が受験してくるかもしれないし、と思って、菊は今度は苦笑した。一般的な意味で素敵な女性が入学して来ようと、たぶん菊の方にアンテナがない。万が一その人が笑って手を振ってきでもしたら、顔をひきつらせて会釈するやいなや逃げ出してしまうに違いない。この年になってなんだと言われるに違いないが、怖いのだ。女性がというのではない。自分が認識する自分、何事にも平静で無難に対処できるはずの自分が、惑わされ、かき乱され、振り回される、そんなことになってしまうかもしれない、恋というものが。この自分がそうはなるまいと思うものの、こんな朴念仁こそ一度恋をしたら惑溺するというのは古今ミステリの定番で、だから菊はいつの間にか自分の心に予防センサーを張ってしまった。
こうして駅で待っているのは、そのセンサーをも突破して胸に飛び込んで来る女性であるのかもしれない。それなのに、それが怖くて仕方ない。来て欲しいのに来られたら困る。どこの女生徒だと自嘲するが、思春期を読書三昧でスルーしてしまったせいで、大人になりきれていない。
そもそも、自分が待っているのは、本当に『人間』なのだろうか。違うような気がする。形のない、ぼんやりしたもの。例えば、桜の花びらのような。いや、初夏の若葉のような。違う、九月の稲穂のような。いっそ、ふりつもる雪のような。美しく、魅力的で、特別で、それなのにセンサーにも妨害されることもなく近づき、気がつけば心のすぐ隣にいるもの。
ときめき、と言ってしまえばやはり滑稽だろう。結婚してさえおかしくない年齢で、そんなものをただ待っているなど。そんなものを感じたくて駅に行き、ただ人波を眺めて帰るなど。全く、と肘を突いた手に顎を埋めたところで視界の隅を何か輝くものが通り過ぎた。はっと顔をあげると、稲穂かと感じたのは東京では珍しくもない金髪で、一瞬振り返った瞳を若葉と感じたに過ぎなかった。その姿はすぐに人波に消された。
一瞬の邂逅に過ぎないのに、しかも相手も男性であったのに、確かにそこにあった煌めきに、菊は小さく微笑んだ。
ときめきは――本の中だけのものじゃない。


私はいつか、それを見つける。

 


 

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