※ご注意
・アサ×菊(+フラとか)@1990年代前半大学生パラレル。
苦手な方はお戻り下さい。
アーサー・カークランドは走っていた。
自分のせいでは毛頭ないが、待ち合わせに遅れるなどイギリス人としてあってはならない。まして相手は時間に厳密といわれる日本人だ。しかも初対面。第一印象=ルーズ、などという屈辱には耐えられない。
正門を通って図書館に行くルートは、工学部キャンパスからは回り道になる。確か裏門があるはずだという読みは当たり、しかもそれから続く林の中の小径をぬければ図書館はすぐだった。自画自賛に思わず鼻息が荒くなるのを、正門の手前10メートルで足を止め、深呼吸した。これなら間に合う。であれば、息を乱したまま会うべきではない。常に冷静に、紳士的にあるべきだ、イギリス人であるならば。
ラウンジには一人しかいなかった。つまり彼が待ち合わせ相手なのだろう。彼は本を読んでいた。図書館である以上、それは自然なことだ。新聞であっても、雑誌であっても不思議はない(図書館によってはマンガであっても不思議はないことを知るのはもう少し先のことだ、何せアーサーはこの4月に留学してきたばかりなのだ)。
しかし、いささか奇妙だった。アーサーが近付いていく間、彼はすこぶる真剣にそれを読んでいた。しかし、「もしかしてアレか?」と思いつつ近付いた、まさしく「ソレ」を彼は読んでいたのだが―――アーサーの理解の範疇では、「ソレ」は「使う」ものであって「読む」ものではない。
「―――timetable?」
思わずもらしたその言葉に、ようやく彼は顔を上げ、慌てて立ち上がった。
「アーサー・カークランドさんですか?本田菊です。お聞きおよびですか?」
「あ、はい。チューター、してくれて、ありがとうございまs」
留学前の日本語研修で、「日本語は原則的に全ての音節に母音がつく、ただし、文末の「す」だけは「u」が落ちる」と教えられた。その通り発音したつもりだったが、菊は表情を変えないまま瞬きをした。
アーサーはこういう表情の変化に過敏である。俺の日本語はまだまだらしい、と思ったら、本田と名乗った男は「へえ・・・」とおもしろいことに気がついたように言った。
「ちゅーたー、って発音するように教わったんですか」
「ハイ」
これも研修で気をつけるよう言われた。外来語は日本語なのであって、原音通りに発音するとかなりの単語が通じないのだと。せーたー、と言わされて、「wはどこに行ったよ」と突っ込んだものだ。それを説明すると、彼はふんふんと頷いた。
「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い、ってやつですね」
何がなんだかさっぱり分からないが、すこぶる楽しそうだ。
「ところで、多分それも習った言い方なんだと思いますが、私との会話の時にはもっとくだけた言い方をしてください。…私の方は、習い性となってしまったのでこの口調変えられないんですが、アーサーさんの方はお気になさらず。「ですます体」で話すと同級生のお友達と仲良くなりにくいのでね、練習のつもりで」
「あー」
知識でだけは知っている。留学生が事前研修で習う言い方は基本的に目上に対する言葉遣いで、同級生とはまた違った話し方をするものだという。こっちさえ知っておけば礼を失することがないからということらしいのだが―――敬語は親疎の疎を表す機能もありますから、くだけた言い方もおいおい覚えていってくださいね。にこにこーと最終日にそんなことを言われても、教えてもらわなければ覚えようがないではないか。隣席のフランス人にそう愚痴ったら、呆れ顔で、何言ってるの、日本人の恋人作れば自然に覚えるでしょうよと宣った。社交性は民族性なのか。羨ましいような気がしなくもな―――くはない。断じて認めない。
「それにしても、急いでもらったみたいで、恐縮です。私、待つのは全く苦痛じゃないんで、次回以降、理由がおありならゆっくりおいでいただいていいですよ」
「え」
なんで。なんで急いだってばれた。息も整え、服の乱れもないか確認したのに。
本田菊はにこりと笑い、ついと腕を伸ばしてきた。いきなり間合いを詰められフリーズしている間に、彼は髪の間から何かを摘みとると背伸びを戻した。そして、指に挟まれたピンク色の花びらをちらりとかざす。
「色合いがきれいでそのままにしておきたい気もあったんですが。これだけ髪に絡まっていたみたいです。桜の林を突っ切っていらっしゃったんでしょう。正門からいらっしゃったなら桜の下は通らないですからね」
「あ。・・・でも、大学外から付いていたかもしれないじゃないか」
「それならどこかのタイミングでお気づきになるでしょう。トイレには鏡もあるんですし、そういう箇所で身だしなみをチェックされるタイプの方とお見受けしました。だって、学生には珍しいですよね、その手入れの行き届いた靴は」
思わず肩をすくめた。お見通し、というやつらしい。
「ホームズ、みたい…だ」
すると、本田はぱあっと顔をほころばせた。
「ミステリマニアにはこの上ない称号ですね」
「それは、気が合う、な」
今度は、発音記号[ei]はどこに行ったよ、と突っ込んだりはしなかった。不思議なことだが、それまで「アメリカ英語どころでなく訛った言葉」と感じられていたのに、「これはもう日本語という別の言葉なのだ」という考えが、すとんと心に納まった。そして、専門分野を学ぶために仕方なく学ばされていた悪魔の言語―――正直、今時英語が通用しないなんてどこの僻地だと毒づいていたのだ―――の響きが好ましくさえ聞こえるようになったのも、また不思議なことだった。
菊とは、週に一回会うようになった。場所はいつも図書館のラウンジ。二時間程度、たとえばレポートの日本文を校正したり、講義の中で理解できなかったところを教えてくれたりする。
「なあ、それができるってことは」
「はい?」
「…もしかして、センパイ?」
菊は目をぱちぱちと瞬かせた。
「はい。ドクター1年です」
日本には飛び級の制度はないはずだ。ということは、
「年上!?」
「…はあ、まあ…アーサーさんが恐ろしいほどの童顔でなければ」
「お前が言うな」
東洋の神秘ってのはこのことか。留学生用の寮でも隣になったフランス人がそれを言った時の、妙ににやけた顔をセットで思い出す。奴は言った通りに、常体、つまり「くだけた言い方」の習得につとめているらしい。しかし、―――日本語研修の最後の日には「俺はずっと敬体だけ使えばいいさ」と毒づくように思っていた、その割に、俺の方もなかなかの日本語力向上だと思う。先生がいいからな、とフランシスに自慢すると、いや恋人に先生になってもらった方がずっと早い、と持論に固執した。馬鹿め、人間関係っていうのは、シャボン玉のように脆く浮ついた恋愛だけではないのだ。
「え、俺、タメ口でよかったのか。その前に呼び捨てでいいのか」
「今更ですか」
年上を前提として常体使用を提案していたつもりだったのだろう菊は、小さく肩をすくめた。
「『本田センパイ』?」
「え」
目をのぞき込んで、
「イツモアリガトウゴザイマス?」
「やめてくださいよー」
少し顔を赤くした菊は、腕を掻く動作をしてみせて、その後、二の腕を抱いたまましばらく黙った。
「私は、確かに大学に雇われてこの時間ここにいるわけですから、ちゃんと『センセイ』しないとまずいのかもしれないんですけどね。アーサーさんさえ嫌じゃなければ、『お友達語』のままでいてください」
その日、俺は帰宅後鉢合わせたフランシスに向かい、「先生に友達になってもらうって手もあったんだぜ!」と胸を張った。「ああ、友達、ね…」と何か哀れむような顔をされたのは気にしない。同級生にはそう呼べる者がいないことも気にしないのだ。
「私もそんなに友達多くないですよ」
次に会った時、菊は笑ってそう言った。
「本を読んでばっかりでしたし、他の人には『…で?』と流されてしまうところにやたらと興味を引かれてしまうし」
「たとえば?」
「そうですね、専門外のことで言うと……甲州街道は、使う大名が少なさそうなのにどうして五街道の一つなんだろう、とか……あ、すみません、意味不明でしたね、うーん、どうしてお酒で気が大きくなった状態を英語では『オランダ人の勇気』と言うのか、とか」
思わず、ぐ、とつまる。オランダ人には「お前が言うな」と言われそうな語彙であることは理解している。
「…そんな俗語は覚えなくていいだろ」
「でもクリスティにだって出てくるじゃないですか。訳されていない海外ミステリを読もうとするとそういうところに結構ひっかかるんですよね。まずは意味が分からなくて、次には、どうしてそういう言い回しになったのだろう、と。…なかなか、イギリスの方は、大陸への敵愾心がおありですよね?」
ふふ、と菊は笑った。
以前、クリスティだけはほぼ全訳あるんですよ、と言っていた。訳されていない、紹介されてもいない作家さんも多くて。いつか、ロンドンのMurder oneに行ってみたいです、本屋さん全部がミステリで埋まってるなんて、天国でしょうね…!うっとりする菊に、あ、俺行ったことある、と言ったら掴みかからんばかりの反応を示した。本場・イギリスに生まれたから、ミステリはもちろん好きだ。けれども、菊のそれは確かに「マニア」というに足るレベルで、イギリス人作家のものについてさえ知識が追いつかないこともある。それでも共通の話題が打ち解けるのに多大なる力を発揮したのは言うまでもない。
いずれにせよ、菊は原書も読む。この分じゃフランスをネタにした言い回しもいくらか知っているのだろう。このあたりはアイロニカルなユーモアの範疇と見るか、性格が悪いと見るか微妙なラインだ。話を変えるにしくはない。
「でも、菊は人当たりもいいし、親切だし…とても人から愛されるタイプに見えるんだが」
「あ、い……なんて大層な言葉を使うような状態にはなりませんけどね、私も日本人の例にならって、嫌われるのが嫌で、当たり障り無い人格に育ってきました。でもやっぱり、何かを突出して好きというのは、その分何か愛される要素を捨てるような気もしますね。恋愛もそうなんじゃないんですか。一人を愛しすぎたら博愛から遠ざかるような気がしません?」
「あ……いや、別に恋愛のことで言ったわけじゃないんだが…」
言った訳じゃなかったのだが、
「…誰か、好きな人が、いるのか?」
言いながら、なぜか心臓が大きく動くのを感じた。
「い、いや、別に、そんな、他人のプライベートに干渉するつもりはないんだがな!あの…ドクターコースなら実験で忙しい筈で、たまの空いた時間を俺が独占してるんだったらちょっと申し訳ないとか、そういう話で!」
驚いたような顔で俺の弁解を聞いていた菊だったが、ややあって、苦笑とともに肩をすくめた。
「…日本には、クリスマスや大晦日を引き合いに出して婚期のことで若い女性を焦らせるという悪習がありましてね。それでいうと、私は今クリスマスイブなんですが、このまま独身街道を突っ走るか、見合いでどなたかご紹介いただくかになるんでしょうねえ。あまり恋愛に向いた性格でもない上に、この業界、女性が極端に少ないでしょう」
「ああ…」
日本では理系全体でも女性は少ないと言うが、まして電気工学。一年のクラスでも男女比は7:1。院生女子は全学年で一人しかいないという。台湾出身の彼女はオーバードクターで、TAとして時々学部にも顔を見せる。整った顔で胸もゆたか、遠目に見てもなかなかに素敵な女性なのだが、おしむらくは既婚者だ。
「ボタンを引き当てたとでも思って、諦めてますけど」
ボタン、というのは、それこそクリスティの小説に出てくる。名探偵ポアロがイギリスの伝統的なクリスマスに招かれる話だ。正餐の主役、クリスマス・プティングの中に占いのアイテムが入れられている。自分にサーブされたプティングに指輪が入っていればすぐに結婚できる、ボタンが入っていれば一生独身。
「実際に引き当てたわけじゃないんだろう」
「もちろん、食べたことも見たこともないですよ。名探偵のように、主義と一致するわけでもないので本当に引き当てたらがっかりするでしょうね。ああ、どこかにいい出会いが転がっていませんかね」
肘をついた手の上に頬を乗せて、菊はため息混じりに言った。それは話を終わらせるための台詞のようでもあり、一方で本音のようでもあった。なんだか、胸がちくりと痛む。
「……俺と出会ったじゃないか」
ぱちくり、そんな音が聞こえそうなまばたきをして、それから菊は破顔した。
「ええ、だから、恋愛の話から離れれば、別に人間関係で不満なんてないですよ。研究も楽しいし、研究室の皆さんも気のいい人たちだし、何より、素敵なお友達ができましたしね」
言葉を受けて、微笑した。もちろん、嬉しかった。もちろん。
日本の美しさとして先人たちが称えた一つが四季の変化だ。薄桃色の靄に包まれたような春から緑も濃く日差しを透かす初夏へ、それは確かに目にも鮮やかだった。
「とはいえ…」
「暑いですねー」
「蒸籠の中かここは」
「湿度もありますからね」
そう言いながら菊は涼しい顔だ。図書館はクーラーが効いているからいい。閉館ぎりぎりまで粘って日中の日差しを避けたとしても、まだその空気はむわっと暑い。
「留学生用の寮は冷暖房完備ではなかったでしたか」
「確かについてる。集中管理で、7月になるまで温度が何度だろうとスイッチの入らないやつが」
「あー。運転期間が規則で決められているんですよね」
こういうのをオヤクショシゴトというのだと寮でアメリカ人がぶーぶー言っていた。まったく、合理的に考えてほしいよな!大雑把な彼とは意見の折り合わないことが多いが、それには強く同意する。
「なんで菊はそんなに汗かいてないんだ?」
「かいてますよ」
腕を持ち上げ、脇の下を見るようにして菊は言った。確かに、Tシャツには薄く汗染みができている。その動きで白い二の腕が強調され、ちょっとどきりとする。菊はどんな時でも襟のあるものを上に羽織るようにしているらしいが、今日、サマージャケットは座席におかれ、白地のTシャツだけだ。なぜそのセレクト、と思うような英単語がプリントされたそのTシャツは、思っていた以上に菊が細身であることを示している。しかしその割には薄く全体的な筋肉がついている。
「菊は、何か運動していたのか?」
その話の出所を正確に推理した菊は、苦笑してTシャツの腕をまくりあげ、上腕二頭筋を掴んだ。肩に続くラインがすらりと現れる。
「実家が道場なもので、幼い頃から剣道を。―――剣道って、おわかりですか」
一瞬ぼおっとしていたのは、剣道がなんたるかを分からなかったからではない。
「あ、うん」
「―――そうだ、アーサーさん、もし帰国されないんだったら」
そんな予定はない。「帰国しない」、に同意なので、頷く。ややこしい。
「宜しかったら、うちの田舎に遊びにいらっしゃいませんか」
「え」
「東北なので、少しは涼しいですよ。山以外何もないですが、東京とは空気が違います。もっとも、私がそんなに実験室を空けられないので、一泊二日になると思いますが」
「え――いいのか」
「ええ。家族にお友達自慢させてください」
なぜだろう。いつからだろう。最初あんなに嬉しかった「友達」の語に、なんだか心がしゃくれるような気持ちになる。
同級生に、「友達」と言ってもいいような知り合いができてきたからかもしれない。「ごうこん」という飲み会にも誘われた。隣に座った女の子は童顔に似合わずやはり年上で――東洋の神秘だ――、下着のような薄い服は会話をしようとするだけで胸の谷間が目に入り、紳士らしからぬ目線を送りそうになるのを避けるために酒を飲み続けたら、オランダ人の復讐か、危うく酒と劣情に飲まれるところだった。送ってくれて有り難う、あがってコーヒーでも飲む?彼女の目線はいろんなことを許しているように見えたし、正直体はだるく、かつ若く、このまま頷いてこの空気ごと唇を吸ってしまおうかとも思ったが、ね?そうしましょうよ明日日曜日だし、というだめ押しにかえって目を覚まさせられた。あ、ごめん俺明日予定ある、帰る。ぎりぎりのところでイギリス人の矜恃を取り戻し、できるだけ爽やかに、何事もなかったように手を振った。そうだった、明日は菊と会う日だ。それなのに……それなのに、なんだろう。論理の筋道は見つからないが、ともかくその前日にそんなことになるのは厭うべきことのように思えた。
寮の奴らとならもう少しくだけた付き合いもできている。相変わらず隣室のフランス人はすかした気障野郎だし、二階のアメリカ人はぶっ飛んだ思考でお祭り騒ぎを強行する。こちらも酔って部屋に殴り込みをかけることもあるのでお互い様だ。絶対に面と向かっては言わないが、まあ、「友達」なんだろう。
それとかあれとかと、同列に扱いたくはないからだ、きっと。もっと特別の枠でカテゴライズしたいし、彼のためだけの言葉で菊を飾りたい。
その枠の中に、自分たち以外の誰も入れたくないのだ。
新幹線は全席指定席だった。てきぱきと手配してくれた菊に頼りきりで、とにかく言われるがままに待ち合わせ場所に行き、切符に書かれたシートに陣取った。いつの間に買ったのか菊は提げていた買い物袋からお茶の缶を二本取り出し、一本を渡してくる。
「長丁場ですから、遠慮無く寝てくださいね。私も昨日遅くまで実験だったので、寝てしまうかもしれません」
そんな、ありえない、もったいない。そう思っていたのだが、前日フランシスの愚痴に付き合って飲んだのが効いてしまい、はっと気がつくともう二つほど県を通り過ぎていた。目を閉じたまま、半覚醒の状態で車内アナウンスのメロディを聴く。
冷房の効きすぎた車内の温度を気遣ってのことだろう、菊の上着をかけてくれているようだ。胸の上に柔らかな肌触りと微かな、ほんの微かな菊のにおいを感じる。日本人の中でも菊は体臭が少なく、あまりそれを意識したことはない。けれども、例えばラウンジからエントランスへ降りるとき、たまたま目の前で扉が開いたからとエレベータに密着して乗る、そういうふとした瞬間に、彼の生身を感じることがある。
ああ、これ、菊の匂いだなあ。そう思いながら、しばらく瞼をあけずにいる。これがないと寒そうな気がするから……別にこのままいたいとか思ってるわけじゃないんだ!心の中で呟いて、さすがに我に返った。このままいたいって、どういう心境だ。おかしいだろう。
ぱちりと目を開けると、気配に気がついたのか菊はこちらを振り返りにこりと笑った。
「アーサーさんは、お行儀よくお眠りですね」
「……いや、寝ている時点で行儀が悪いだろう。すまない」
「いえ、前にも言いましたけど、私、待つのとか全然苦痛じゃないんですよ。常時本を持ってますしね」
それで思い出した。
今菊が読んでいるのは普通の文庫本らしいけれども。
「なあ、なんで時刻表だったんだ?」
「え?」
「最初に会った時、熱心に読んでいただろう。何か調べていたのか?」
「ああ…」
少し照れた様子で目線を前に戻し、手にしていた本をぱたりと閉じる。
「あれは、ネタを探していたんです。私、手すさび程度ですけど、書きもするんですよ」
「ミステリを?」
「ええ」
もし場所が許すなら口笛を吹きたいところだった。
「知らなかった。読みたい」
すると、悪戯っぽい目をされた。
「気になります?」
「『もちろん』」
思わず英語で返すと、菊は、絶対に解けない筈の謎々を解かれてしまったような顔をして、小さく、わー、と言った。
「どうかしたか?」
「いえ……あの、その英単語、語呂合わせで『虻去ると絶対の安心』って覚えたんで、なんかそれを思い出しちゃうんです。………あれですよね、sureより気持ちが強いってことですよね」
こくん。頷くと、嬉しそうな、でも申し訳なさそうな顔で菊は手を合わせた。
「書き上げたのが手元にないんです。できあがると、その日は『すごいのが書けた!』と高揚するんですが、だいたい次の日に読み返して恥ずかしくなり、破いちゃうんですね。最近はワープロ打ちなので余計に。全消去しちゃうんです」
「誰かに読ませたことはないのか」
「ないですね、恥ずかしくて。書いてるのを人に言ったのも初めてです」
初めて。とくん、とまた心臓が動いた。
「どんなのを書いているんだ?」
「どんなのだったら書けるのか分からなくて試行錯誤している感じなんですけど、あのとき書こうとしていたのは、時刻表ミステリです」
…ああ、なるほど。やっとつながった。
「トラベル・ミステリか。それで、列車を調べていたんだな」
旅とミステリは親和性が高い。ミステリの主要素である「非日常」へのインを明示できるし、ヨーロッパの客車はしばしば六人掛け個室になっているから、衆人環視でありながら密室性が高く、不可能興味を作りやすい。了解、と思ったのに、菊はすっきりしない顔をしている。
「というか、時刻表を調べていたんです」
「ん?」
「ええと、そういうジャンル、ありませんか?時刻表を載せて、アリバイを読者に崩させる式の」
「ああ……」
頷きはしたが、半解状態だ。アリバイと時刻表?
「単純に言えば、こういうのです。ある時刻に犯人はA地点で目撃されている。死亡推定時刻の犯行現場からAまでは通常考えられるダイヤでは絶対に到着できない。ところが、一度進行方向とは逆のローカル線にのって数駅いくと、到着数分後に出発する新幹線に間に合う。新幹線を使うと遠回りになる筈だという路線図を出しておいて、誤誘導させるのがポイントで―――」
「待て待て待て」
菊はまじめな顔で言っているが、それは突っ込まざるを得ない。
「なんでしょう」
「数分後ってなんだ。綱渡りすぎるだろう」
「え。でも、だいたいこういう話はホームでの乗り継ぎ時間も計算に入れて…」
「じゃなくてだな。机上の計算でしかないだろう」
アリバイというからには殺人レベルの計画犯罪の筈だ。そんな時に列車の運行なんて不安定要素を計算に組み込む筈がない。そう主張すると、最初は目をぱちぱちさせながら聞いていた菊だったが、終いには、にやりと笑った。
「なるほど」
そして、バッグから一冊のパンフレットを取り出した。
「さて、アーサーさん。これが現在の時刻表です。私たちが乗っている列車が、これ。そして……」
つつ、と指をすべらせて、
「もうすぐこの駅に停車しますね」
「ああ」
折から、車内アナウンスが流れ出した。降りる数分前にはメロディ、発車の前にもホームでメロディ。親切なことだ。
「停車時刻、これですね?」
「…うん」
ちらり、と腕時計を見ると、正確にその一分前をさしている。時計は合っている。ということは、…列車運行は合っているのだ。
「まだまだ。さてアーサーさん。そのまま、腕時計を見ていてくださいね」
「え」
やがて新幹線はスピードを落とし、駅舎の中に滑り込み、停車した。そのとき、すっと吸い込まれるように秒針が12を差して止まり、停車時刻ぴったりを示した!
「Magic!」
思わず声に出すと、菊は悠然と微笑んで言った。
「No,dad,logic.」
いや、どんな論理だろうが、あり得ない。呆然としていると、菊は小さく舌を出した。
「まあ、さすがに秒単位で合ったのは偶然ですけどね。この列車の運転手さんが優秀でよかったです」
「綱渡りだったのか?」
「いえ…でも、驚いていただける範囲だとは思っていましたよ。例えば、お召し列車といって、皇室専用車が出ることがあるんですが、例えば東京から新大阪に行くでしょう。そうすると名古屋・京都・新大阪に止まるんですが、その時の許容範囲は、到着時刻で言うとプラスマイナス5秒以内、停車位置で言うとプラスマイナス1センチなんだそうですよ」
「いっ……」
一センチって。思わず人差し指と親指でその距離を確かめる。
「お召し列車の場合は、ホームに布いておく絨毯とずれてしまうのでその誤差が『許されない』んですが、よっぽどのトラブルがない限り、もともと運行はその範囲でなされてるんです」
「なに!?」
「数分遅れたらお詫びのアナウンスが流れますね。乗客の方は本当に分単位で乗り継ぎを考えていることがあるんで」
「おかしいだろう、その態度自体!」
「ええ、まあ、余裕を持つに越したことはないんでしょうけど…実際、定時性が確保されているもので、ぎりぎりでもなんとかなっちゃうんですよね」
思わず、ふるふる、と首を振った。信じられない。それを平然という菊も信じられない。
「……びっくりしました?」
嬉しそうだ。そこはかとなく悔しいが、素直に頷く。
「ふふ。ミステリ書きの醍醐味ですね。驚くのも好きですが、驚かすのも楽しい」
「………」
ちょうど目指す駅についたので、荷物をまとめて立ち上がる。そうすると見下ろす形になる。
「じゃあ、今度は俺がお前をあっと言わせてやる」
「え?驚かしてくれるんですか」
余りにも嬉しそうに言われ、少し慌てる。
「……っ、勘違いするなよ、お前がそれが好きだからっていうんじゃなくて、このままじゃ悔しいから、やり返さないと気が済まないから…!」
菊は例のぱちぱちをしながらその台詞を面食らったように聞いていたが、何らかの形で咀嚼がいったらしく、はい、とにっこり笑った。