premise and plain magic・後

 

※ご注意
・アサ×菊(+フラとか)@1990年代前半大学生パラレル。の後編
苦手な方はお戻り下さい。


 

残念ながら、先に脅かされたのはまた俺の方だった。駅の階段を下り改札を抜けた辺りで、いきなり隣にいた菊が身体を二つに折り、床に沈みかけたのだ。
「え、おい!」
「……もー、よん君、勘弁してくださいよ……」
よく見ると、菊の腹の辺りにまとわりついているガキがいる。
「菊は俺に謝らないといけないんだぜ!」
「なんでですかー」
菊は苦笑半分に腰をかがめた。十ほどだろうか、そのガキは目線を合わせてきた菊の首にそのままかじりついた。こら、何をする。
「もっといっぱい帰ってこないと淋しいんだぜ…」
「あー、それはごめんなさい」
よっと、と言いながら菊は腰をかがめ、そいつの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そして、こちらを向いて頭を下げさせる。
「弟です。よん君、こちらはお友達のアーサーさんですよ、こんにちは、してください」
初めて俺のことを視界に入れたのだろうそいつは、かあっとあがった様子で菊の後ろに回り込んだ。
「人見知りするんですよ。典型的な内弁慶で、すみません」
「あ…いや。こんにちは、よろしく」
日本式に頭を下げたのに、そいつは菊の後ろからぺこりと礼を返したが、そのままもじもじしている。外国人に慣れないのだろう。そう思って歩き出したら、なあ菊、と囁き声が―――多分本人はそのつもりなんだろうが、地声が大きいからまる聞こえだ―――後ろから聞こえてきた。
―――前の人と、違うんだな。
え。
思わず意識が耳に集中する。
「ああ、フェリシアーノ君のことですか。はい、別の方ですよ。今度はイギリスからいらした方です」
「ふうん―――」
思わず、足の先に目が落ちる。「前の」。「別の」。「今度は」。
「―――俺、あの人好きだったぜ。ほわーんとして」
「アーサーさんも、いい方ですよ」
も。
アーサーさんも。
俺と菊しかいないと思っていた環の中に、本当はたくさんの人間が居たのだと―――お前はone of themなのだと。そう言われた気がした。
弟は菊に体当たりをかましたようだった。ふてくされたように呟く。
「菊の欠点は、はくあいしゅぎしゃなことなんだぜ」
「それ、欠点じゃないでしょう。―――ああ、おかあさん。迎えありがとうございます」
駐車場で待っていたらしい、若い――東洋の神秘だ――女性に頭を下げ、菊はまた俺を紹介した。ぺこぺこと下げた頭をようやっと上げた彼女は頬を染め、何事かをぼそぼそと言った。
ガキはとっとと助手席に乗り込んだ。後部座席に二人並んで、こっそりと先ほどの「ぼそぼそ」の意味を聞く。
「かっこよすぎてびっくりした、だそうですよ」
「……誤魔化そうとして適当に言ってないか?」
え、と菊は小首を傾げた。
「何も誤魔化さなきゃいけないようなことないですよ。母も本当にそう言っていましたし」
「…弟くんにはいまいちうけてないみたいだけどな」
「いえ、人見知りなだけですって」
「その―――」
唇を舐める。
「前にも、誰か連れてきたことあるのか」
「ええ、ありますよ。うちの研究室は留学生多いでしょう。我が家は本当に山しかない田舎ですけど、エキゾチックジャパンとか仰って、割と喜ばれます」
「ふ、うん………」
思わず窓の外を見る。流れていく山野の緑は、謙遜が不当に思えるほどに美しい。
だけど、もちろん、それに目を奪われて、ではなかった。理由もつけられないけれども、菊の顔を見るのが辛い。
菊の欠点は博愛主義者なことなんだぜ。
先ほどの会話がよみがえる。
少なくとも、俺にとって菊がそうであるほど、菊にとって俺は特別ではない。
考えてもみなかったそのことが、なんだか、胃に重かった。

夕食は手巻き寿司で、箸だのなんだのに煩わされずに済んだ。菊に似てものしずかなその父は挨拶を返したきり特に言葉をかけてこないが、歓迎してくれているのは空気で分かる。母親の方はもっと分かりやすく歓迎してくれているようだが、こちらは弟君に似て人見知りということなんだろう、あまり話しかけてこない。結局夕食からその後まで、専ら菊が会話を引き受けてこちらに話をふるばかりだった。風呂をすすめられ、「湯上がり縁側」を楽しんでいると、次に風呂を使ったらしい菊がスイカの切ったのを持ってきた。
高原の夜は温度が低い。それでも、冷やされたスイカは歯に心地よかった。並んで、しばらく黙って食べていたが、ややあって、菊はぽつりと、ごめんなさい、と言った。
「――え?」
「付き合わせてしまって。見ておわかりだったと思いますが、あの人は後妻なんです」
「……ああ!」
道理で若いと思った。もう東洋ならなんでもありなのかもと思っていたが。
「別に仲が悪い訳じゃないんです、ただ、……もう十年以上たつのに、未だにどう接していいのか分からない。多分、彼女の方も、いわゆるオタクの私を扱いかねてたんだと思います。私は……だから、クッション代わりに友人を連れて帰省していたのかもしれない」
「……ああ……」
そういうことも、あるだろう。互いに気を遣い過ぎる「家族で他人」たちの間に、本当の「他人」がまざれば、その過剰な、あるべきでない「気」のおきようは誤魔化される。しかし、ある種道具のように扱われたかと思うと、痛い。悔しいのではない、ただ、痛い。
「……と、今更ながら気が付いたんです。今まで、家に行っていいかと聞かれるたびに、ああ今年の帰省も無事済みそうだとどこかでほっとしていたんだと」
「…………ん?」
ん?聞かれるたびに?
菊は人差し指のつま先でぴん、ぴんと種を弾いた。
「そういえば、今年は自分から帰省のことを言い出したなあって、思ったんです」
「……あー……」
しゃくり、とスイカをはむ音が闇に響く。
「今まで私を助けてくれた友達だって、もちろん自慢に足る人々ですけど。見て欲しいなあと、自慢したいなあと思ったんです。こういう素敵な人が友達でいてくれるんですよ、って。…なんか変な話ですが、…だから、私は大丈夫です、って分かって貰いたくて」
にこ、と菊は微笑みを見せた。
「来てくれて、ありがとうございます」
「…いや、…うん。別に、お前のために来た訳じゃない、し」
「ふふ。そうであってくれた方が嬉しいです。楽しんで頂けてますか…と聞けるような場所じゃないことは分かってますけど」
「いや。楽しんでる。……来て良かった」
良かった、本当に。
この空間の掛け替えのなさが、改めて分かった。昨日にも置き換えられず、他のどこにも置き換えられない、この場所。菊の隣。
ミルキーウェイを眺める。
乳脂肪の粒ってものを、そもそもほとんど誰も見なかったんですよ。そんな地域ですから、天の河と牛乳を結びつける発想は生まれなかったんでしょうね。
生まれた国の違い。文化の違い。
――だけど、天の河から遡って、その白い光の粒を想像できます。それも素敵だなって思うんですよ。
二つのそれを重ねる贅沢。
高原の天はどこまでも高く、この一瞬はそのまま永遠に繋がっていた。

昼に家を出る頃にはあのくそ生意気な弟もそれなりにうち解けていた。また来たらいいんだぜ、と俺に向けて言いもしたが、その100倍くらいの時間、菊にまとわりついて次はいつ帰るんだ、傲らせられたくなかったら俺をほっといちゃだめなんだぜと訴えて、最後、ホームでは菊の首にかじりついて泣いた。
そんな子供の悲嘆を知らぬ顔で、やはり新幹線は定時ぴったりに発車した。
「それにしても、なんで日本の鉄道はこんなにぴったりなんだ?」
「ええとですね……いくつか理由はあげられるんですけど」
「例えば?」
「例えば、日本は非常に山がちなんですね。更に、江戸時代は地方統制のために敢えて交通の難所、急勾配とか道路を分断する川とかをそのままにしていました。そうなると、ヨーロッパでの主要交通手段のアレが日本には登場しなかったんです」
「アレ?………ああ、馬車か!」
「ええ。ですから、江戸時代、大名行列や物見遊山も含めてそれなりの国内移動があるんですが、全部基本が徒歩なんです」
「それで?」
「そうすると一日で歩ける距離に宿場ができ、町ができる。近代に入って、その町に鉄道ができていく」
「ああ……駅間距離が短いのか」
「はい。そうすると、時間を意識する度合いが飛躍的に高まるでしょう。例えば、日本でも長距離高速バスで東京から福岡やらへ向かうものがありますけど、道路の方が時間調整が難しいということを割り引いても、14時間ほぼノンストップで走った結果の数分のズレと、一区間五分程度の山手線での数分のズレとでは、受け止め方が違いますよね。あわせて、そういう山手線では歩いたってそうかかるわけではないですから、五分間隔というような頻繁運転でないとニーズに応えられなくなります。まして関東大震災後の都市膨張によって、輸送能力は大幅増加が求められていましたから。でもあの環の中を五分間隔で列車が走ると言うことは、定時発車しない列車があれば連鎖的に他の列車も遅れることになりますから、ますます時間を意識する……」
「なるほど」
「そのほかにも、機関士の技量に頼らず速度調整できる電車に早めに切り替わったとか、山がちなせいで風景の変化が大きく、速度調整のための目印をあちこちにつけられるとか、色々説明はあるんですが…」
「立派に説明になってるぞ」
「どうも。でも、やっぱり、『なぜ日本の鉄道が時間に正確なのか』と言うと、―――『そういうものだから』というのが一番あってる気がするんですよね」
「待て。そっちは説明になってないだろう」
「そう、なんですけど、ね。明治の中盤に鉄道国有化が進み、軍事輸送という役割をになったことと関係するとも思うんですが、つつがなく物事を進行させるべきだという感覚が関係者にあり、その結果大正期辺りにはある程度定刻発車が実現した。そしたら、乗客の側もそれが当然と思うようになるから、整列乗車に協力するし、遅れたら不満が出る。不満をぶつけられたら鉄道の側もより厳密に運行しようと努力する…」
「回り回って、どんどん正確になる、わけか」
「ええ」
「なるほど、『そういうものだから』、なあ…」
新幹線は菊のいう山がちな国土をくぐり抜け、そして正確に時を刻んでいく。

「しかし、ってことは、結局民族性ってことか?」
「うーん…そう言われてしまうと、なんだか日本が変な国みたいで違和感があるんですけど」
「でも、その時刻表ミステリ?他の国ではないだろ」
「え、そう…ですか?あるんじゃないですか。列車がぴったりに動くことが前提で、明示してある発車時刻がキーになっていればいいんでしょう」
「ああ。俺は読んだことないぞ」
「でも、世界は広いんですから、ありますよきっと」
「ないだろう。賭けてもいい」
「ほう。それはまた、大きく出ましたね。ミステリ読書歴は私の方が長いんですよ」
「そのお前が、記憶にないんだろ?ま、英語のものだったら読んでないのもあるんだろうけどな」
むー。からかうと、分かりやすく、菊は頬をふくらませた。邦訳の偏りは常に菊の嘆きの的だ。
「嗚呼…なぜ、なぜ日本ではドロシー・セイヤーズの扱いがこんなに低いのか……」
イギリスではクリスティと並ぶ存在だ。イギリス推理作家クラブの会長だって女史の一代前に務めている。
「伝説の『ナイン・テーラーズ』…」
「あ、それ訳されてないのか」
「読んだんですか!」
「ああ。あれだろ?鐘が―――」
「ぎゃー!!!」
いいかけたその口は強引にふさがれた。菊の掌によって。ほとんどのし掛からんばかりの菊の顔が、すぐそこにある。
「わ、分かってますよねアーサーさん、ミステリの世界でネタバレっていうのは万死に値するんですよ!!」
こく、と頷くと菊はそろそろと手を離した。
「で、鐘が、」
「ぎゃあ!」
今度は菊も笑いながら、でもやっぱり口をふさいできた。

確かに、菊は、いい匂いがする。

「予想外の凶器、というなら…」
いつからだろう、学習会の後にはご飯を食べたりついでに買い物に行ったりするようになった。学生身分だから高いところには行かないし、その後菊は研究室に戻るのだから酒は飲まない。けれども、忙しい筈なのにみじんもそれを感じさせず、美味しい店があるんですよと気軽に足を伸ばしたりしてくれる。
今日はアジアンヌードルが各種味わえるという店に来た。冷やし中華が「@日本」と書いてあるのでそう言うと、実際中華料理ではないんですよ、と菊は頷いた。日本は食べ物の魔改造、得意なんです。こういうのをオススメというのかは分からないが、ともかく冷たいということなのでそれにした。ついでに言うと、未だに湯に入った麺を「啜る」のには抵抗がある。
そういう菊は冷麺@韓国、を食べている。その麺をつまみ上げてしみじみと眺め、
「これは人を縊り殺せるんじゃないかなと」
危うく吹き出すところだった。
「そんなの、既に食べ物じゃないだろう」
「いや、だって、ものすごいコシですよ」
どうぞ、と菊は器を差し出してきた。仕方なく……まあ、興味とかも相まって……ついでに言うと、その気の置けない様子が妙に嬉しくて、箸をぎごちなく操って麺を一口貰った。ひとくち、のつもり、つまりはすぐに飲み込むつもりだったのに、噛んでも噛んでもかみ切れない。
「………なんでこんなの食うんだ」
日本はパスタだって固すぎる。消化に悪いだろうというようなうどんもよくある。
「もちろん、美味しいからですけど」
結びつきがおかしい。こういうのも慣れだろうか、冷やし中華でさえ固く感じるのだが。
「こういうの、どうでしょう?―――アジア屋台村みたいなところで絞殺死体が見つかるんです」
妄想の世界に入り始めたらしい菊は、いきなり設定を語り始めた。こういうことも、旅行後、増えた。
「凶器は細いゴム状のものだと分かるけれども、それは見つからない。唯一、中華屋台のワンさんのところからチャーシューを作る紐が見つかるんですが…」
「それじゃ索条痕が違うだろうが」
縒り目の痕が付くに違いない。こういう突っ込みは品がないと思っていたが、菊はむしろ喜ぶので遠慮無く言うことにしている。
「う、まあ、それはおいといて。何か見つかって、でもワンさんは『私が犯人の筈はない』という」
「そのこころは?」
「『なぜなら、中国人だから』」
「ノックスかよ!」
ノックスの十戒とは、70年ほど前にイギリス人推理作家ロナルド・ノックスにより提唱され、今でも斯界ではよく知られているミステリ上のルールだ。超能力はだめだとか双子はアンフェアだとかに混じって、「中国人を重要な役割で登場させてはならない」というのがある。中国人なら『モルグ街の殺人』のような侵入ルートでも驚異の身体能力で通過してしまいそうだし、いっそ妖術で部屋に飛び込んでしまいそうだ。そんな当時の偏見混じった認識に依る戒めであり、今となってはこの項はネタでしかない。
「……俺、最初それ聞いたとき、『見えない犯人』のたぐいで言っているのかと思って、居心地悪かった」
ノックスの十戒に、「犯人は物語の初期から登場していなければならない」というものがある。それに準拠し、物語の当初から顔を見せてはいるのに、読者の脳内の犯人候補者リストに挙がってこない人物、例えば、郵便配達人やガードマン。こういう「そこにいるのは当たり前だが、物語の主役級では無いはずだという認識で読者にも見過ごされてしまう」というタイプの仕掛けのことを『見えない犯人』という。誰までが「登場人物」なのか、その心理的盲点をついたスタイルと言えるのだが、もし、それとしてノックスが中国人云々を言ったのなら、―――「我々」の枠組みから排除していたという意味で実に差別的な話となってしまう。事実はそうではなかった訳だが、中国人なら合理的な推理を飛び越えるというのもまた人種概念のたまものだろう。
菊は小さく肩をすくめた。
「まあ、誰にしても、無意識に作ってしまっている前提っていうのはあるものですよね。偏見とも言いますけれども。例えば………予想外の凶器!彼はスコーンを喉に詰まらせて死んだ!とか」
「てめえ」
テーブル越しに脳天チョップを食らわせると、菊は小さく舌を出した。
「何度も言ってんだろ、あれは死ぬほどクリームとかジャムとかつけて食うんだから、口の中ではぱさぱさしねえんだよ」
「あ、じゃあこういうのどうです。プロバビリティー(確率)の犯罪。ミンスパイを食べさせ続けて糖尿病にする作戦!」
あくまで大英帝国様の料理にケチをつける気かともう一度手を振り下ろしたら、「真剣白刃取り・返し」をされてしまった。

菊の手はやわらかいな、と、笑いながら、思った。

CMが言うように、京都に行きたくなる季節になった。東京は山も空もあまり見えないが、街路樹のプラタナス、そして大学の銀杏の色の変化は見惚れるほどだ。
春の華やかさが人を涙させることがあるように、秋の鮮やかさが人を狂おしく思わせることもあるのだと知った。
最近、そういう色彩豊かな景色の中に菊を見ると、それだけで痒いような苦しいような変な気になる。
「どうしたのさ、坊ちゃん。恋患い?」
「違ぇようるせぇ髭失せろ」
「共用スペースで飲んでる奴の言うこっちゃないよ」
悪態を風のように受け流して、フランシスは対面のソファに座った。
「患い、は間違いないんだろ。お兄さんに話してみなって。経験豊富な先輩としてアドバイスしてやるから」
「うっせえっつってんだろ」
紙コップを投げつけると、危うくキャッチして、テーブルの洋酒を勝手に注いだ。
「分かった分かった。王様の耳はロバの耳で言ってみたらいいよ」
言葉通り、フランシスは横を向いて座り、聞いていない風で酒を飲み始めた。そういう気遣いには長けているやつだ。
何に苛々しているのか自分でも分からない。菊のことだとは分かっている。特別な友達でいたいのだということも。菊もそう言ってくれているのに、なんでこうも苦しいんだ。訳が分からない。
そんなことを旅の思い出も交えて脈絡無く話したら、フランシスは、うーん、と唸って顎の下を掻いた。
「なんつうか、なあ。これは本当に余計なこと言わない方が、お前さんのためなんだろうな」
「そんなの、最初から分かってる」
「だよなあ。…でも、なあ…」
目を瞑り、頭を掻いていたフランシスは、やおら身体の向きを戻した。
「じゃ、お兄さんからも問題。さっきそのオトモダチが言っていたように、日本の列車の定時性は有名なんだが、実は、我がTGVの定時運転率はだいたい92%、新幹線の95%には負けるが、在来線の87%より上回る」
「嘘付け」
「ホント…なのは、なんでだと思う?」
「はあ?」
意味が分からない。確かにフランス超高速鉄道は在来線よりは遅れる理由が少ないはずだが、それこそ賭けてもいいが、秒単位でぴったりにつく列車なんてあるはずがない。もしそうなら「フランス人がラテン性を捨てた」とでも新聞に書かれるだろう。
「ま、どこがポイントなのかに気づかないくらい、今の坊ちゃんの思考能力は硬化しちゃってるってことさ」
「てんめえ…」
ゆらり、と立ち上がろうとしたが、いち早くフランシスは自室に避難していた。

無駄に考えることを増やしてしまった。しかも、どちらも考えても分からない。
全く…と思いつつラウンジに向かうと、にやりとした顔が迎えた。
「ふふふ」
「…なんだよ」
「覚えてますか、旅行の時の、賭けのこと」
「―――あ、あ。あれか。『時刻表ミステリ』」
「はい。見つけました」
「え。海外の、だぞ」
「はい。舞台はスイスです」
「あ……スイス、か……」
スイスは、ドイツと並んで、ヨーロッパの中ではずば抜けた定時運転を行っている。なるほど。
「時刻表、ではないんですが、何時何分どこ発という情報が複数提示されていて、定時運転じゃなければなりたたないトリックでなので、まあ、勝ちかな、と」
まずは素直に賛嘆の拍手を送った。
「しかし、よく見つけたな。ドイツ語だったのか?フランス語?」
スイスが舞台ということで、当然のようにそれがスイス人の手になるものと思ったのだ。だから、そんな風に聞いたのだが。菊はまたにやりとした。
「中国語、なんです。在瑞台湾人の作家さんが台湾のミステリ誌に書いたもので」
「よく見つけられたな!………あ、もしかして」
「ええ、梅姐さんが教えてくれたんです」
TAをしてくれてもいるスーパー院生女子だ。年齢というよりその侠気に「姐さん」と呼ばれている。

「流石に中文は読めないって言ったら訳してくれて」
「……へえ」
菊は至極嬉しそうに続けた。
「彼女もミステリマニアなんですよ。国に帰った時なんかにもよく買うらしいんですが、これは雑誌に載っていたもので、ほんと偶然買ったんだとか」
「……」
気づいていなかったが、手の下のワープロ文書が、訳して貰ったというその小説なのだろう。タイトルをすっとなぞって、微笑みを見せる。
「割とよくできていますよね、って言ったら、日本の推理小説をかなり意識してるみたい、って…」
「なあ!」
強引に割って入った言葉に、菊は目を瞬かせた。
「なんでしょう?」
「あの…その、仲、いいのか」
「はい?」
「いや、だから、梅姐さんと」
「え。いや、まあ……そうですね。入学したときからの先輩ですから……。研究室での飲み会なんかあれば、周囲には委細構わず濃いミステリ談義してます」
俺と菊も、その間をつなぐのはこの趣味だ。
…しかし、俺の方は「マニア」を名乗るほどではない。『ナイン・テーラーズ』だってもちろん貸したが、訳してやろうなんて思いもしなかった。
先輩・後輩という関係はどちらも変わらない。
しかし、大学で在籍が重なった二人とは違い、俺と菊は、チューターという制度を挟まなければ出会わなかった。
専門についての討論さえするだろう二人と、教えて貰わなければ追いつけもしない自分。
「あの……」
困惑顔で菊は言葉をさしはさんだ。
「彼女、結婚してますよ」
「知ってる」
「あ、ならいいんです。なんだか、そういう意味での『仲』を疑われているみたいだったので」
「……」
違う、ような気もする。でも、どこが違うんだろうと思いもする。
結びつきの強さの問題なのだ。だけど、結局、そういう意味の『仲』だって、それがベースなんじゃないのか。
「じゃあ、もし結婚してなかったらどうだ?彼女のこと、何とも思わないか?」
顔も可愛いし、胸もある。性格もいい。学部の教室にあっても目を引くレベルの彼女は、あの大学院のメンバーの仲では「掃き溜めに鶴」だろう。
ぐ、と、分かりやすく菊は詰まった。
その表情を見て、胸の下の方がきゅっと締まる。
「……そんなこと、想像したって、無意味じゃないですか。歴史にifはないし、話の前提ははっきり思考の限界を形作るし」
「…どういうことだ?」
「彼女と旦那さんが出会う前に私が彼女を知っていたなら、もしかしたら、もっっっっしかしたら、違ったかも知れませんよ?でも、私は彼等をセットでずっと見てきたから、最初から『そういうもの』なんです。既にパートナーがいる人は、私にとって、男性との恋愛があり得ないくらい、当然、対象外なんです」

多分、顔が固まったのだと思う。

菊は慌てて言葉を足した。
「いや、あの…極端なことを言っただけで、そこまでの違いだとは思ってないですけど!」
フォローのつもりだったのだろうが、それはむしろ追い打ちだっった。

前提。…パラダイム。『そういうもの』。

「あー………」

そういうことだったのか。

多分、気持ちだけがそれを越えていた。頭の中では「あり得ない」と思っていたから、感情の出所がつかめず、ただ苛々した。
もう、ずっと前から、「そういう意味」だったのだ。

「なるほど」
「はい」
ほっとした顔で菊が頷く。
何を了解したのか、その理解は完全に食い違っているだろうが、知らせるつもりはない。
笑ってみせると、菊も微笑みを返した。
よかった、と顔に書いてある。多分、それくらい澱んだオーラを出してしまっていたのだろう。胸がみちみちと締めつけられて、菊の心持ちを思いやる余裕もなかった。
よかった、オトモダチの空気に戻れた。そんな顔だ。
それ以外の関係を思いもしない、考えるつもりもない、そんな顔。

「―――話は変わるが」
「はいはい」

「日本って、何分からが『遅延列車』扱いなんだ?」
「は?……1分ですが?」
「………なるほどな」
「なんでしょう」
「いや?」
精神力を総動員して、精一杯の穏やかな顔で微笑む。お見通しかよ、くそ髭。
と、
「あー」
首の後ろを少し掻いて、菊は手を伸ばしてきた。
「アーサーさん、顔、良過ぎて、腹立ちます」
そう言って、オトモダチに戻れたことに安心したらしい菊は、俺の頬を左右に引っ張った。

カレー屋を出たらもう宵の明星が空に現れていた。学校の裏門まで歩いて戻り、では、と頭を下げて研究室に戻っていく菊を見送って、小さく笑った。
なるほど。
数字の上では日仏高速鉄道の遅延率が近く見える、それは、前提が違うからだ。ヨーロッパでは10分以内の遅れは「定時運行」のうちなのだ(TGVだと14分以上の遅れから「遅延列車」とカウントされるはずだ)。
同じ「遅れ」という言葉を使っても、感覚が違えば、現実の受け止めは全然変わる。
そして、……例えば、TGVの優秀運転士はその事実を知りたいだろうか。風土も違えばインフラも違う。歴史的経緯も違う。そんな中で培われた精妙すぎる日本の運行事情に、一人の技量では追いつけない運転士は、自分が日本では遅延の常習者と扱われるかもしれないことを、知らないままの方が幸せじゃないか。

俺も菊も融通が利かない性格だと見切った上で、フランシスは、ヒントだけを与えることにしたのだ。―――話の前提が違うんじゃない?、と。

―――俺だって、あり得ないと思っていた。近づきたい、そうは思ったが、くっつきたいとは、思う、わけがないと思っていた。それこそ、菊のようないい方をするなら、「貧乳の女との恋愛は、男とのそれと同じくらいあり得ない」と思っていたのだ。

次々と星が瞬き始めている。

そしてまた困ったことに、じゃあ「友達」の称号はいらないのかと言われたら、それに頷けもしないのだ。今の「近しさ」を失いたくない。
となれば、話は論理的必然で、決まる。
俺さえそれに気づかなければ、それを封じ込めさえすれば、丸く収まるのだ。「あり得ない」と言っている菊に「あり得ろ」と言う訳にもいかない(そもそも「得る」という補助動詞は命令形を取り得るのか?)。
ヨーロッパに来た日本人は、最初、「列車がいつも遅れる」と苛々するだろう。でもそのうちに、「10分くらいの遅れだったら間に合ったうち」という心境にいたり、やがて「列車とはそういうもの」と思うようになるに違いない。

人は、動かしがたい環境には、慣れる。

そういうものなのだ。

「あー」

塀の鉄柵に寄りかかると、冷たい金属が額にあたった。
たばこを吸いたくなるのはこういうときなのかもしれないと思った。

「アーサーさんって、時々、呪文みたいなの言いますよね」
「え」
冬休みも間近になった頃、もこもこした白い「セーター」に包まれた菊が、両頬杖をついたままぼそりと言った。
「10分、って聞こえますけど、意味が分からなくて」
「ああ…」
口に出しているつもりはなかった。10分にも慣れる、そんな形で簡略化した言葉を呟いて、時々頭をもたげそうになる「それ」を封じ込めるのがくせになっていた。

「なんでもない。あ、あと、来週は別口で約束あるから、夜食はパスな」
嘘だった。予定なんてない。けれども、菊と向かい合って食事をするのさえ辛くなり始めていた。何せ、この東洋の神秘を具現したような生き物は、五歳以上年上のくせに、血涙を流したくなるほどかわいいのだ。今も少しうつむいて、セーターの袖を引っ張って手首を隠そうとしている。拗ねたような表情で、だけどそれを口にはしない。
「のびるからやめろ」
慎重に服だけをひっぱってとめさせると、菊は一瞬合わせた目をまた落とした。
「来週って、クリスマス・イブですよね」
「ああ、まあ、そうだな」
別に、だからパスだと言ったわけじゃない。家族とすごそうにも留学中。教会を探してミサに行ってもいいが、別に日本式クリスマスに興味はない。
「……お友達、できたんですね」
「いなかったみたいに言うな」
「はは。…」
事実いなかったことを推察していたのだろう、無理したような顔で笑った。そして、また黙った。
「それで、どうしてここの助詞は直さないといけないんだ?」
とん、とシャープペンの先で朱の入ったレポートを突くと、菊は「センセイ」の顔に戻った。

その日入ったパスタ屋で、菊は珍しくワインを頼んだ。いいのかと聞くと、大丈夫ですと断言した。あとはまとめるだけです。
研究の最先端のところまでは分からない。そうか、よかったな。そんな言葉で返して、俺も頼んだワインで乾杯した。
しばらくいつもの馬鹿話を繰り広げたあと、少し顔を赤くした菊は今度こそ拗ねた表情を見せた。
「別に、アーサーさんにお友達ができたからどうこう、って言うんじゃないんですよ。そりゃ、いいことですよね。ただ、私が、24日が空いちゃって、ちぇーって思ってるだけなんです」
「ああ、悪かったな」
「そうですよ。日本のクリスマスって独り身には厳しいんですよ?今年は免れたと思っていたのに―――ここぞとばかりに美味しいもの食べてやろうと思っていたのに」
「クリスマスはご馳走を食べる日、じゃねえだろ」
「日本ではそうなんです!24日でピザ屋とチキン屋がどれだけ稼ぐと思ってるんです」
「意味わかんねえ」
どちらもファーストフードの類じゃないのか。
「アーサーさんが私を捨てて若い子に走るー」
よよ、と泣くふりをする。お前なあ。心の中で呟く。お前が無自覚にばっさり俺を捨てたんじゃないか。
「最近、パーソナルスペースが広くなったし」
かた、と置こうとしていたグラスが過剰な音を立てた。気づかれないように気をつけていたのに。「友達」のラベルを捨てたいわけじゃない。避けられてるなんて思われたくない。だけれども、あの匂いと柔らかさは、余りにも心臓に痛い。
「気のせいだ」
「最近、何か、上の空だし」
手の中のグラスを回し、空気を含ませている。明らかにやりすぎだ。
上の空なんじゃない。ただ、ちょいちょい重しをどけて頭をもたげる「それ」との闘いが水面下で続けられているだけだ。
「べっつに、いいんですよ?アーサーさんに同世代のお友達ができようが、恋人ができようが」
ちり、と心の端が痛んだ。
別に、いいのか。そうだろうとも。
「あーあ、私にも出会いが降ってこないですかね」
「え」
「そしたら、アーサーさんなんてほっといて、その子と、心もほっこりクリスマスですけどね!」
「…」
昔からそうだけれども、恋人がほしい、というようなテンプレートの台詞を口にするとき、菊は9割冗談で、9分自棄で……だけど、1分には本音らしい表情をする。恋愛体質じゃない、と言っていた。まあ、「出会いが降ってこないか」なんて発想は、いかにも恋愛慣れしていないからこそと思える。このまま恋愛らしい恋愛をしもしないだろう、そんな風に自分を諦めながら、だけどほんのわずか諦めきれない。恋愛という果実に手を伸ばしてみたい。そんなところだろうか。
夢見る臆病者。
そんな彼が、だけれどもまったく望まない恋愛の芽が、ここにある。どれだけ除草剤をまいても枯れてくれない。
「わたしんち、おこたしかないですけど」
「俺んちには集中管理の熱すぎるラジエーターしかないぞ」
「でもコンロは二つあるんできちんとした料理振る舞えます」
「共用スペースなんてコンロ4つあるぞ。ギリシャ人が煮込み料理でよく独占してるけどな」
「茶々入れない!」
相づちが求められていないことは分かっていたが、それでも口を挟む。
妄想力豊かなこの東洋人は、今頭の中で誰かを招き、もてなしている。かわいい、女の子を。この残酷な夢想につきあえるほどのマゾ気はない。
「………出ようぜ」
「もーう、アーサーさん、付き合い悪いっ」
それに、つきあってられっか。お前が俺に、つきあえないのと同じだ。
酔えもしなかったワインをあけて、会計にたつと、菊がゆらゆらしながらやってきて、ま、ま、と俺の財布を押しとどめた。毎回割り勘でやってきたが、おごろうということらしい。そうしてもらう必然性はない。強引に札を置いて先に店を出てしまう。思わぬ寒気に立ちすくんでいると、清算をすませた菊が出てきた。
「うお、さむ。はい、アーサーさん、お釣りです」
「いい」
「お釣りです」
手を差し出したまま動かないから、仕方なく受け取る。このままでは氷像になってしまう。
「あああ、寒いですね」
さっきまで酒気と暖気に緩んでいたから余計にそう感じるのだろう、眉間に皺を寄せて身をすくめている。今日はそのまま帰るというから、駅の方に向かった。寮とは反対方向だが、そう遠くもない。大学の前の、人通りの少ない歩道を並んで歩く。
「あ!」
いきなり、いいことを思いついたというように、菊はぱちんと手をあわせた。
「私、賭に勝ったんでしたよね」
「あ?……ああ、まあな」
旅行の時の話だ。賭だといいはした。勝ちだ、と胸を張ってもいた。しかし賞品のことを何も言い出さないから、どうするのだろうと思ってはいた。
「何かほしいものでもあるのか?クリスマスプレゼントでもするか?」
「アーサーさんにかまってほしいです」
「………まだ酔ってるのか」
苛々に似た気分がよみがえってきた。そういう意味でかまっていいならかまい倒す。だけど、それは「あり得ない」くせに、とても似ている別のものだけをほしがる菊。
「もともと約束でしたし」
「…なんか俺、約束したか」
「はい。なので………サプライズをください」
「は?」
「どんなのでもいいです。予想外のプレゼントでもいいし、企画でもいいし。一番いいのは、アーサーさんが極上のミステリを書いてくださることですけど」
「無茶言うな。…『驚き』だけあってもダメだろう。それが嬉しくないと」
ちちち。指を左右に振って。
「ミステリマニアをなめちゃいけません。サプライズであるというだけで、美味しいんです」
「あー……」
ちらり、と何かが首をもたげた。悪魔の芽だ。
ぶんぶん、と首を振る。
そりゃあ、驚きはするだろう。驚愕するだろう。そして………それで終わり、だ。
「ね、驚かせてください」
「あー…」
胡乱な返事をした俺に、菊は、くっと何かを飲み込んだような顔をした。
「………私のためには、灰色の脳細胞を使うのも、面倒ですか」
「そんなことは言ってない」
「……私、アーサーさんのこと、本当に大切なお友達だと思ってい、て……」

どん。草の芽は、とうとう重しをその頭から払い落とした。もう、知るか。驚かせてやる。さんざん驚いて、知ればいい。「大切なお友達」が何を考えているかを。

白いもこもこのセーターがそれでも撚れるほど強く抱きしめた。
細い菊の体は圧力に負けて少し反った。

毒を食らわば。
「好きだ」
返事はない。よかった。…聞きたくない。

あり得ないという意味でのサプライズでさえ美味しく思えるほど、現実を捨ててはいないだろう。気持ちが悪いだろう、困惑もしているだろう。早く解放してあげなければ、そう思うのに、はなせない。心臓に悪いあの匂いが、鼻腔から侵入し脳の全域をその色に染め上げていく。だめだ、いとおしすぎる。

「………もう、ずっと、好きなんだ」
「………」

菊の賢明な沈黙に、少しだけ落ち着きを取り戻した。もう、「お友達」には戻れない。「センセイと生徒」にだって。最後に、と腕に力を込めて、そのまま耳元にささやいた。

「悪かった。もう会わない。学生課には俺から言っておくから」

そして腕の力を抜くやいなや、きびすを返してその場を去った。
菊の顔を見る勇気も、この顔を見せる勇気もなかった。

 


日本のオヤクショシゴトを甘く見ていた。チューターの途中解任などできないという。
「貴方にというか、彼に、一年分の予算がついている訳です。このあと3ヶ月分の残りを宙に浮かせる訳にはいかないの」
「でも、俺のための制度だろう。その俺がもういいって言ってんだから」
何回かこのやりとりを繰り返したあと、堪忍袋の緒を切ったらしい事務員は、「ちょっと」と指でしゃくり、事務室の隅に呼ぶと、低い声でしゃべり始めた。
「勘違いしないでほしいんだけど、貴方のための予算ではなく、留学生のための予算なのね。予算は最後1円の単位まで消化しなければ、残余が出る予算項目については次年度配分が減るわけ。ああそんなにお金いらないんだねって思われちゃうのよ。文部省は金を出さないし、本部は成果の見えやすいところにだけお金を配りたがる。そんな中で学生のために予算をもぎ取るためにたくさんの人が努力してきて、年度末は鉛筆買ってまで帳尻あわせしてんのに、あんたの個人的な事情で来年の留学生を困らせんじゃないわよ」
そんなフラットに過ぎる説明はさすがに周りの事務員に対してまずかったのだろう、英語でつらつらと文句を言った彼女は最後に「分かってくれましたか」とにっこり笑った。目だけ据わっているその笑顔に頷くことしかできず、すごすごと学生課を後にした。
チューターは一ヶ月単位かで作業終了の書類を出して振り込みを受ける筈だ。俺と会わなくてもやったことにして書類を出してくれたら、万事うまくいく。しかし、それをどうやって菊に要求すればいいか分からない。そもそも待ち合わせなければ会うこともない院生に。菊は電話も(最近出回り始めた携帯電話とやらも)持っていない。連絡先は研究室になっている。どうしたらいいのかただ悶々と考えている間に、クリスマスイブが来た。

日本にはクリスマス休暇はない。23日が祝日だから、自主休校にして帰省してしまう学生が多く、だったら仕方ないと休講にしてしまう教員も多いが、学事暦にそって冬休みである25日になるまではきっちりと講義を行う教員もいる。ボスがそのタイプであったために出席していたら、授業の後、いきなり名前を呼ばれた。顔を上げれば、梅姐さんが手招きしている。
「……なんですか」
「本田君から伝言。おなか壊したので今日行けないって」
「え」
「それだけ」
妙に平板な声でそう告げた彼女は、出席票のとりまとめ作業に取りかかった。おなか壊したって、なんでですか、……ストレス性ですか、今日行けないって、来るつもりなんですか、そして、――――なんで彼は、それを貴女に言ったんですか。聞きたいことは山ほどあったが、口は開かなかった。彼女の無表情にはそうしたことを聞かせない力があった。

行かないと言われた、だから、いつもの時間にラウンジに行った。
今日彼は来ない。

いつもならコートを脱いでノートやらを取り出すところを、そのまま腰掛け、ポケットに手を突っ込んだままで中空を見た。

もともと、研究のために来た国で、来る前から特に惹かれたところがあったわけでもなかった。それなのに、春の桜、夏の緑と、思い出は美しい色に満ちている。
もともと、人付き合いが得意な方じゃなかった。付き合った経験はそれなりにあるけど、友人は本国でも少なかった。それなのに。

人前で見せられない顔になりそうで、慌てて顔面を引き締める。

アーサーさん。

その呼び声を思い出すだけで、胸が苦しい。

日本式クリスマスを堪能しているらしいフランス人と、アメリカ式クリスマスを強行しているらしいアメリカ人と。どちらにも真顔で「大丈夫かい?」と聞かれるくらいには、ここ数日、心が弱っていた。その俺に、今日のラウンジで、菊のいない一時間は最後の一藁だったのかもしれない。もう、部屋から出たくない。幸いに、25からは学校にも行かなくていい。だからとばかりに、25日は一日部屋の中でふて寝して過ごした。暖房運転時間は暖かすぎて、とまると寒すぎる部屋のベッドに寝転がり、目が覚めたら酒を飲む。つれづれに、その辺に落ちていた本をぱらぱらとめくってもみたが、すぐにやめてしまった。ミステリはいくつかの視点で分類できるが、どこにポイントがあるかでWhodunit,Howdunit,Whydunitなどとも分けられる。誰がやったのか、どうやって、なぜ。そのなぜに、恋愛が絡みすぎる。殺人にまで人を駆り立てるものとして古今の人間が普遍的に思いつくのが、愛情だというのは、なんという皮肉だろう。

やっぱり、鉄の意志でもって封じ込めておくべきだった。それこそ、学生課の彼女ではないが、年度が終わるまでは。

そんなことを考えて、懺悔にふさわしい聖なる日は過ぎていった。
翌日も自堕落生活を決め込むつもりだったが、トイレに立った際に鏡を見て、あまりのひどさに方向転換することにした。なんだこの薄汚い男は。そのままシャワーを頭からかぶり、頭を洗って髭を剃る。がしがしとタオルで拭いて、よどんだ空気を抜くべく窓を開け……たら、窓から顔を出してたばこを吸っていたフランシスと目が合い、「なんて格好してんの、坊ちゃん!」と叫ばれた。
「お前が言うな」
「違う、冬に何も着ないなんて、風邪引くでしょうよ!」
「あー」
「十秒以内に窓閉めないと、お兄さん頭乾かしに突撃するよ!」
それは要らない。9秒で窓を閉め、さすがに体が冷えてもいたのでセーターにジーンズと、手早く服を着る。頭は放置だ。フランシスにはやいやい言われるが、はねようがぼさぼさだろうが気にならない。それより、あからさまにほっとした顔のフランシスに苦笑が漏れる。そんなに酷かったか、俺。
簡単に部屋を片付け、紅茶でもいれようと思い立ち、湯を沸かし始めたところで、ノックの音がした。
「俺−」
ち、と舌打ちをする。本当に、髪なんてどうでもいいのに。
「間に合ってる」
言いながら開けると、によ、とフランシスは笑い、すっとサイドステップでずれた。その陰にすっぽりと隠れていた人物が姿を現す。
それに向けて、「じゃ、これで」と手を振り、すっと隣室に消える。
残されたのは、俺と、菊と、沈黙。

「…」
「…」

チューターなのだから、当然俺の連絡先も住所も知っている、それでも訪ねてくるなんて思いもしなかった。

少し硬い顔をしていた菊は、きっと顔を上げて、こう言った。
「ブランデー」
「………は?」
「一番いいブランデー、出してください」
「え、あ、……うん」
アルコールをというからには飲むのだろう、受け取るだけにしても、廊下に居続けさせることもあるまい。部屋に招き入れると、菊は「お邪魔します」と頭を下げて部屋に進みかけ、足を止めた。
「もしかして、どなたかおいでになる予定ですか」
「いや?……ああ、紅茶は自分用に用意していただけだ。………飲むなら、淹れる」
「ああ、そうですか……じゃあ、お願いします」
ほっとした顔。底意が見えない。ともかく、紅茶を入れる時は真剣勝負なのだから、菊を机に座らせ、精神力を振り絞ってこちらに意識を傾注した。
「Please」
カップを差し出すと、菊は目を閉じて香りを堪能し、一口含んで小さな感嘆の声をあげた。
「さすが」
「……どうも」
気恥ずかしくなり、キッチンスペースに引き返して、要望の品を探す。紅茶に垂らすということなのか?なんであれ、ここでけちる意味はない。とっておきのものをもって引き返す。ベッドに腰掛けて紅茶をすすっていたら、しばらくして菊が口を開いた。
「梅姐さんは、純粋にミステリが好きでもあるんですが、探偵と助手の関係にときめきを覚えるタイプの女性でもありまして」
「…………は?」
「あれを、目撃したんだそうです。それ以来、私の前では顔が崩れっぱなしで。伝言頼んだ時も『がんばって顔引き締めとく』って言ってました」
何がなんだかさっぱり分からないが……ともかく、見られた、らしい。研究室の人間に、なんて、やばすぎる。日本でも同性愛はスキャンダラスな扱いを受ける筈だ。
「わ、悪かった…!」
真剣に菊の社会的立場を心配したのだが、
「そうですよ。もう、あの日以来ずーっと私、混乱しているんです」
思わず、瞬きをしてしまう。
「え」
菊は手に提げてきた布包みを机の上に置いて、それを広げ始めた。
「恋愛は体質に合わないし、経験値も少ないっていうのに、手をつなぐとか交換日記とかすっとばして、あんな…!」
いつもの癖で「交換日記ってなんだよ」と突っ込みたくなったが、我慢する。ほとんど見えない話の筋道が余計に見えなくなる。
「それこそミステリにだって、男同士の恋愛はサプライズとして出てきたりしますけどね、まるっきり『他人事』だったんです。あり得ない、そう思っていたのに、あのサプライズが嬉しいってどういうことですか。論理的に説明してください」
「……菊」
「意味分かんない、そう思いながら、気がついたらレシピを調べて、作っていたんです」
出てきたのは、クリスマス・プティングだった。
菊は机の上のブランデーを小皿に開け、持ち込んできたアルコールランプの上で軽く熱して、さっとプティングに回しかけて、ライターで火をつけた。青白い炎がドーム型のそれの上を舞う。
「当然ですが、数週間の熟成期間とかないですよ。今日蒸したものです。実は、数日前に作ったんですが、味見したらおなか壊したんです。あの砂糖と牛脂の量は日本人の腸には攻撃的でした。あれは立派に、プロバビリティーの犯罪を構成できますよ」
「……菊」
「はい」
なんですか、と無表情でこちらを見る。
「これ、俺のために作ってくれたのか」
「貴方のためじゃないですよ。私のためです。……はい、これ」
す、と菊はカードを滑らせてきた。開くと、「プラム・プティングには決して手をつけないこと。あなたのためを思っている者より」と滑らかな筆記体で書いてあった。
「………クリスティは、訳書で読んだんじゃなかったのか」
「クリスティなら原書だって簡単に図書館で参照できます」
それは、その名も「クリスマス・プティングの冒険」なる掌編の中で、名探偵ポアロにこっそりと出された謎の手紙だった。
混乱していると言いながら、菊は、骨の髄までミステリマニアだ。
「……で?この中には何が入っているんだ。指輪か?ボタンか?ルビーの首飾りか?………それとも、毒か?」
苦笑して菊の顔をのぞき込むと、菊はすこぶるまじめな顔で言った。
「責任です」
「え」
「責任、とってください。私、こんなの初めてなんです」
「…き、く」
「こんな、誰かのことばっかり半年考え続けるのも、一週間どきどきしっぱなしなのも。でも、年長者としては、『そんなの気の迷いですよ、気にしません』って言ってあげるべきだと思いもするんです。だから、これ」
そっとカードの上に手を置く。
震えそうになりながら、その上に手を重ねると、菊もやっぱり滑らかではない微笑みを見せた。緊張、しているのだ。

「それでも、これ、食べます?」

責任、とってくれます?

椅子とベッドという高低差のために、俺の方が目の位置が低い。菊の手をとり甲に口づけ、それから頷いて、言った。

「誓います、一日遅れだけど、聖なる日に」


◇Hextbookさわこ様リクエスト:「日本の勤勉すぎる鉄道事情に呆れる欧米の誰か」でした。◇
参考文献:三戸祐子『定刻発車』(新潮文庫)

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