※ご注意
 
			・2周年記念蒼佳様、10/2 03:01様リクエスト「SSSSongs14、SSSSongs15の続き」。←を先にお読み下さい。
			  ・パラレル、疑似家族ルー菊+ルートの同僚+菊の同級生。
		苦手な方はお戻り下さい。
 	      
 	      
           
          菊には、一見不釣り合いだと思えるほど開放的で行動的な親友がいる。同じマンションの二階下、転入してきたのは中学時代で、今は一緒に同じ高校に通っている。最初、菊は彼に振り回されているように見え、穿った見方をすればパシリ扱いなのではと心配していたが、「大丈夫ですよ」と菊は笑った。「大丈夫ですよ、お父さん」――その頃、菊は「お父さん」という言葉を使っていた。
           
          深夜までの仕事が続いたので半休をとった。菊の方はまだ冬休みに入っていないから、同じスケジュールで朝を始める。少し厚めのベーコンと卵、サラダにパン、そしてコーヒー。今日は購買でパンでも買いますと、菊は弁当作りを休んでゆったりしている。
            「風邪が流行ったりしてないか」
            「隣のクラスではノロウィルスが出たようです。みんな用心はしていますよ、受験生ですから」
            「うむ」
            早いものだ。あと数ヶ月で、菊は。その先、もっと先を考えると、胸が痛くなる。
            「これも食べろ」
            サラダのトマトを菊の皿に移すと、菊はふふと笑みをこぼした。
            「トマト、食べさせられましたね」
            数年前、そういう健康法が流行ったのだ。トマトを炒めてパセリを散らし、一食で二個三個と食べる。買い込んだトマトを二人でもっもっと4箱消費して、気持ちを込めて目線を交わし、しかし菊は「……お父さんが、健康のためというなら」と言った。「うむ、健康のためだ」と頷いた二人の頭を後ろからすぱんと叩いたのはフランシスだった。「本末転倒っていうんだよ、そういうのは!」
          「…悪かった、どうも俺は0か1かの極端に走りやすいらしい」
            菊はふっと笑って口を開いた。不自然ではないタイミングなのに、それは言葉をごまかすための間に見えた。
            「そういう気性なのに、日本社会でやってこられたというのが、むしろすごいと思います」
            「ああ…、昔はしょっちゅう帰国したいと思ったな」
            数年の滞在のつもりだった。国に戻って経験を活かした仕事ができればと思っていたのに、気づけば15年。フランシスがいなければ、本田がいなければ、キれて退社していたかもしれない。そして、菊がいなければ。
            気づけば、菊はコーヒーを飲みながらじっとこちらを見ていた。その目に、前にフランシスにどつかれたことを思い出す。「菊ちゃんの『こうかもああかも』の憶測を防ぐには、お前の言葉は足りないんだよ!」
            「……お前とここで暮らしてこられて本当に幸せだったと、今は思ってる」
            「……ありがとうございます」
            そこで礼を言ってしまう菊が、言われてしまう自分が、悲しい。二人でいることが「当たり前」でないのが、悲しい。
                      「時間、大丈夫か?」
            菊ははっと腕時計に目を落とした。
            「いけない、ゆっくりしちゃいました。『どうして五分前に起こしてくれなかったんだ』ってぶーぶー言われちゃいます」
            思わず眉根が寄る。
            「自己管理のできない奴の面倒をお前がみてやる必要はない」
            菊はちょっと笑った。一瞬で、これまで繰り返したフォローの言葉のどれを採用するか検討したようで、結局おきまりの台詞だけを言った。
            「アルはいい子ですよ」
            「……そうなんだろうが……」
            「もちろん、欠点もありますけどね。それはみんな同じです」
            じゃあ行ってきます。そう言って、菊は立ち上がった。
            コーヒーを持ってベランダに出ると、それから数分して、エントランスから二人が走っていくのが見えた。ゆっくりしてしまったと言っても始業にはまだ十分、そう焦る必要もあるまいに、アルフレッドは多分面白がって走っている。体力自慢の彼に菊が数歩遅れてついていく。と、アルフレッドは振り返り、菊の手首を掴んでまた走り出した。
            ど、と耳の後ろで血管がなった。
            見たくないものを見てしまった。
            ゆっくりと部屋に入り、慎重にカップを置く。
          アルフレッドが「いい子」であるのは知っている。彼ともその保護者ともそりがあわないが、菊を大切に扱ってくれていることはわかっている。そして、その優しさに裏表がないことも。自分のような、邪な、あるべきでない心は、彼の中にはない。
            だからこそあけっぴろげに示される菊への好意や親愛の行為は、将来の可能性の中にある菊の恋人のそれを想起させて心を焼く。
           
                                   **********
           
          高校生になって初めてのクリスマス、アルフレッドは、臨海公園のウィンターイルミネーションを見にいこうと菊を誘った。
            休日出勤だった前日、外回りの途中で寄ったファーストフード店の壁の向こうに二人が来たらしく、アルフレッドの大きな声は、こちらに罪悪感を抱かせないほどの音量で飛び込んできた。
            「彼女といくもんでしょう、そういうのは」
            「〜〜っ、ひどいよ菊!別れたって知ってるくせに!」
            「あー、まだ次できてなかったんでしたっけ……」
            「ちょっと!人をたらしみたいに言わないでくれるかい!?」
            「言ってませんよ、ただコノリアジュウメとは言ってます」
            ずず、とシェイクをすする音が聞こえた。
            「そんなの、告白してくる子にOKを出せば済む話じゃないか」
            これは確かに、こいつめ!と言いたくなるだろうと内心苦笑していたら、アルフレッドは続けた。
            「なんで片っ端から断るのさ」
            思わず耳がそばだつ。菊の話だったのか。片っ端、という言葉で表現できるほど、もてていたのか。日本の女子高生は思ったより目が高い、と感じ入ったところで、なぜか心が重いのに気がついた。
            おかしな話だ。
            娘ならともかく、息子に人気があって嫌な気になる父親はいまい。実際に彼女ができたら、そして母親なら、息子を盗られたような気になるのかもしれないが…。
            考えている間にも話は続いていたらしく、アルフレッドの「なんでさ!!」という声が響いた。
            「いや、うちだって、去年までは家族で祝ってたよ?でも、もう大人だし、日本でのクリスマスは違うんだからって自由行動認めてくれたのに」
            「うちはうち、です。異国に住む人のありようとして、身についた文化を大事にするのも、いまいる地域の文化に合わせるのも、どちらもアリでしょう」
            ただの贔屓目なのだろうが、菊の言うことには同年代の子供たちから頭一つ分抜け出たような大人びた部分がある。しばらく黙っていたアルフレッドは「ふん」と鼻を鳴らした。
            「あのさ」
            「はい」
            「イルミネーション、最初に見たいって言ったの、菊だよね」
            「そうでしたね」
            「俺と行くのが嫌なんじゃないよね」
            「もちろん」
            「でも、オトーサンとの約束を優先するんだね?」
            「はい」
            約束、を、した覚えはない。毎年、当たり前のように、一緒に過ごしてきた。今年も当然そうなのだと思って、何を食べたいか、何が欲しいかをちょくちょく話していた。当たり前だと思っていた。このまま一緒に過ごすのが。
            「………ねえ、俺、滅多にわがまま言わないけど」
            「えっ」
            「『えっ』?」
            お互いに何を言われたか分からない、という妙な空気が漂ったあと、アルフレッドは「とにかく」と言った。
            「わがまま、言うよ。オトーサンに断って、一緒に行こうよ。代わりに譲歩もする、点灯だけ見たらすぐ戻る。それなら、二時間ディナーを遅らせるだけですむ」
            日本語が流暢なアルフレッドが、オトーサン、と、わざと平板に言っているのがその時初めて分かった。義理の親子であることを当て擦られているのかと思ったが、そういう陰に籠もったことをする性格でないのは知っているし、大体彼も保護者とは血が繋がっていないはずだ。
          「きくー」
            その残念そうな声音に菊が首を振ったことを知る。
            ほ、と息をつき、それまで自分がそれを止めていたことに気づいた。
            公平であれ、と自分に言い聞かせる。公平に考えて、アルフレッドの言い分は随分譲歩したものだ。いつものクリスマスディナーの時間から二時間遅らせても、それは菊の門限より随分前だ。公園まではたかだか数駅、悪所に行こうというのでもない。親として大人として、眉を顰めるようなところは全くない。にも係わらず、その時、とんでもない、と感じていた。わずか数時間であっても、二人の時間を奪おうとするのが許せなかった。
          菊が見たいといったものを、自分ではなく他の誰かが菊に見せる。
            電飾に彩られた夜の空気を、自分ではない他の誰かが菊に贈る。
            そして、その菊を見る。
            全ての想像がちりちりと心を焼く。
            何より、自分より誰かを優先する菊、それを思うと眉間の皺が深くなる。
          「めったにしない、親友のお願い、だよ?」
            黙れ、と思った。どす黒い波が胸の中で渦を巻いていた。一方で、冷静な自分が、首を振る。その感情は、間違っている。あるべきではない。
            「多分、『いつものディナー』がお父さんの願いですから」
            菊が静かに言い、その言葉に言いようのない歓喜を味わって、――もう認めざるを得なかった。これは、親が子供に持っていい感情ではない。
            誰よりも、友人よりも恋人よりも、自分を見てほしい。優先してほしい。そして、ずっと傍にいてほしい。
            菊がよく言うように、アルフレッドは「いい子」だと思う。多分菊も、先の会話によれば彼女はいないのだから、一番大切にしているのが親友の彼だろう。それよりも上、別格として扱われていることに、たまらない愉悦を覚える。
          と、菊が続けた。
            「中学生の時でしたか、貴方、先生に反論したことがあるでしょう」
            「どれのこと?」
            「『鉄1トンと綿1トンはどちらが重いか』という話の時です」
            「ああ…。だっておかしいじゃないか、浮力がある分、持つ人にとっては明らかに綿1トンが『軽い』だろ」
            「先生は、『感じられる』話をしていない、純粋論理の話をしているんだ、と答えて、貴方が」
            「『つまり机上の空論ってこと?』って言ったね」
            しばらく間をあけて、アルフレッドは静かに言った。
            「論理だけで割り切れる世界で俺たちは生きてないよ、と言いたい心境だったんだ、あの頃」
            菊の方も少し黙り、やがて言葉を継いだ。
            「論理だけでない世界の中で、綿1トンと硝子1トンを、貴方はどう扱いますか」
            「………」
            二人はしばらく黙った。やがて、残り少なくなったシェイクをすする音がして、それさえ途絶え、アルフレッドの声がぽつりと落ちた。
            「本当は、硝子にしているのは君の臆病だと思うけどね」
          立ち上がれなかった。
            菊が、世界の何よりも俺を優先している、それは間違いがない。しかしそれは、「硝子だから」なのだ。
          壊れやすいものだから。
          あるべくしてある、確固とした、揺るぎないもの、――じゃないから。
            なぜなら、自分たちは「規格外」だから。
          顔を覆う。
          もしかして菊は、自分がここにいること、生きてることさえ、当たり前とは思えないでいるのじゃないか。
            俺の温情とか義務感とか、そうしたものの上に生存が成り立っているから、だから。
        
          菊。心の中でだけ呼ぶ。
          世界から奪ってしまいたい。自分だけに縛り付け、自分だけを見ろと言いたい。
            一方で、
            世界を与えたい。根無し草のように生きていくのではなく、帰れる場所を心に持たせて世界に送り出したい。離れていても迎えてくれる場所がある、その安心を贈りたい。それは多分、家族しか与えられない宝物だ。
            今となっては唯一自分だけがあげることができるものがある。そうであるなら、とるべき方策はただ一つだ。今気づいたこの感情は、そのまま冷凍庫の奥に放り込んで忘れてしまえ。
           
                                   **********
           
          「フローエ・ ヴァイナハテン!」
            最初は学校などで混乱しないようにと「メリー・クリスマス」と唱和したが、いつからだったか、「お父さんの言葉で」となった。「郷に従え」で未成年の菊に飲酒は禁止としているが、この日のシャンパンだけはアルコールの入ったものを二人であける。
            作り置きのアイスバインにゆでたブルスト、温野菜のサラダにトマトとモッツァレラのスライス。ブッシュドノエルは毎年フランシスの差し入れで、それ以外は菊が腕をふるう。受験生だから見えない手抜きをしましたと笑うが、口に入れてさえまったく分からない。言わなければその差はないも同然だろうにと、生真面目さに笑う。
            「順調か?」
            そうだと確信していなければ聞けない台詞を口に乗せる。
            「おそらく。…インフルエンザで倒れたりしなければ、ですが」
            半年前、菊は防大行きを真剣に検討していた。もし「国防をやりたい、一生やるつもり」というならむしろ勧めるが、と前置きをして、その突然の進路転換について、長いこと話し合った。
            学費がかからない。手当が出る。就職さえ保障される。
            それが選択の核心だということは分かっていて、けれどもそのことを口に出すのさえしのびなくて、ただ適性と志向のことでだけ話をした。よっぽどの根性がないと続かないという学校生活の厳しさに、菊は耐えきってしまうだろうと思ったから、余計に辛かった。
            結果、子供の頃からの希望通り、地元国立の教育学部に願書を出すことになった。突発事態がなければ受かるだろうし、そうしたら家から通える。変わるものもあるだろうが、続くものもある。少なくとも来年はまだこうしてクリスマスが楽しめるだろう。防大行きを婉曲に反対したのは、要するに自分が菊を離したくなかったのだと、心の底では気づいていた。
            「じゃあ、しっかり食べろ。あと、机にかじりついてばかりいないで、適度に運動するように。90分に5分程度の小休止を入れて筋肉をほぐすこと。それから…」
            ぷ、と菊は吹き出した。そして、びっと敬礼の真似をして「Ja、隊長!」などと言う。ふざけるな、と額を小突いて、シャンパンをあけた。
                      クリスマスプレゼントには、少し上等のコートを買った。服のセンスに自信がないので、毎年プレゼントの買い物にはフランシスを付き合わせている。彼は「基本は放置」というスタンスに忠実に、店に入るとそのまま自分の買い物に去っていき、けれども二着に絞り込んだ頃にふらりと現れ、二、三言アドバイスしてはまた売り場に去っていく。そしてレジで出会って見れば、選んだ方にぴったり合う小物、マフラーだの帽子だのを「俺からの分」と言って買っている。
            そうやって毎年付き合ってくれた、そして、常に俺をたててくれたのだな、と菊の喜ぶ顔を見ながらしみじみ思う。
            ロングコートを袋からだし、着てみてもいいですか、と菊がはしゃいだ声を出すので、鷹揚に頷く。フランシスが少し驚いた顔を見せながらも絶対似合うと太鼓判を押した、しなやかな手触りの細身のコートだ。
            「…どうですか」
            「すごくいい。よく似合ってる」
            心の底で回避していた、大人っぽい服――もう大人であることを認めざるを得ないその格好を見て、やっとの思いで微笑を顔に乗せる。なんて――なんて美しい青年なのだろう。
            巣立ちは、近い。
          ケーキのクリームなんかで汚しては大変だからと、菊はコートを脱いで丁寧に畳んだ。
            菊からのプレゼントは毎年、同じブランドの(しかし多分少しずつランクがあがっている)ビジネス手帳だ。手帳にしては高いその値段に二の足を踏んでいたら小遣いをためて買ってくれた。12月切り替えのそれを毎年クリスマスに貰って、大晦日に紅白を見ながらアドレス帳その他書き写すのが恒例だった。
            毎年、そうしてきた。
            「――菊、もう一つ、クリスマスプレゼントを強請ってもいいだろうか」
            「なんでしょう」
            きょとんとした目で菊が聞き返す。
           
          言葉にするのには、一口のアルコールがくれる勇気が必要だった。
            「また、お父さんと、よんでくれないか」
           
          いつの間にか菊がそう呼ばなくなったことを、話題にしたのは初めてだった。そう呼ばれていないと認めるのが苦痛だった。
            目線を落とし、手帳の白い頁をめくる。
            1月、センター試験。2月、本入試に卒業式。4月、5月。来年の12月。そして次の新しい手帳。いつになっても、どんな光溢れる世界に進んでも、必ず戻ってくる――よしんば帰ることがなくても戻ることができると思える、そんな繋がり。
            硝子のように脆いというなら、だからこそ、言葉にして確かめたい。呼ぶことで強めたい。
          長い沈黙が重すぎて、顔を上げると、菊は深い色の瞳の奥に感情を潜めて、じっとこちらを見ていた。
            やがて菊の唇が動く。
           
          「――貴方がそれを望むなら」
           
          一転、にこりと。何事もなかったように表情を変えて、菊は笑った。
            「なんなんですか、お父さん」
          ほ、と息をついた。呼称の違和に気づいて一年あまり、その間の軋むような空気はなんだったのかと思うほど、あっけらかんとした口調だった。まるでそう呼ばなかった時期などないかのような。
            「改まって言うから、何かと思いましたよ」
            そうして、テーブルの上に身を乗り出し、うろうろと手をさまよわせて、モッツァレラの乗ったトマトを摘んだ。と、目測を誤ったのか、口の端からつうと汁が垂れた。おっと、と指で拭い、それを舐めとる。
            その小さな舌の動きを凝視していたら、また不審そうに菊が聞いた。
            「どうかしましたか、お父さん」
            「いやっ」
            シャンパンに代えていたワインを干して、ソファにもたれる。
            「なんでもない」
            「?」
            「なんでもないんだ」
            なんでもない、ことにしなければならない。こんな邪な感情は「お父さん」は持つべきでない。こんな、氷漬けにした筈の薄汚い欲望は。
            菊は曖昧に受け流したようで、そういえば、と言った。
            「トマト、久しぶりに箱で買っちゃいました」
            「余らないか?」
            「余ったら冷凍すればいいんですよ。まるままラップに包んでジップロック、使うときは凍ったまますり下ろし、です」
            「ほう…」
            水気の多い野菜は冷凍できないと思っていたので少々驚く。
            「しかし、栄養素は減るんじゃないのか」
            「生のまま保存するよりはキープできますよ。グルタミン酸なんかはむしろ増えるらしいです」
            しじみのオルニチンは4倍になるそうですよと、とくとくと説明し始めた菊の変わらない様子に少し安堵し、少し苦笑する。気質の問題なのだろうが、そこまでマニアックな知識を持たなくてもいいだろうに。
            「菊。来年からは、そんなにきっちり家事しなくていい」
            「え」
            言われた意味が分からないように、菊は瞬きをした。
            「大学は勉強も忙しいだろう。俺だって外食して帰ればいいんだから、もっと自由に時間を使え。バイトは二年生になるまで待って、それまで普通の大学生がやるようなことをたくさん経験しなさい」
            「バイトは普通の一年生もやると思いますけど…」
            「余裕ができてからでいいだろう。一年生の間は、友達と旅行をしたり、本の山に埋もれたり、いろんなサークルをのぞいたりしろ」
            うーん、と返事を濁す菊を見ながら、ワインを煽る。
            一杯分の勇気をもらって、そして、言った。
          「それから、恋を」
            菊は顔を上げた。
            神よ、力を。落ち着いた声を出す喉の力を。
           
          「恋を、しなさい」
           
          菊はじっと目を見つめてきた。
            深い黒は彼の気持ちの何をも示さなかった。
        やがて菊は目を合わせたまま、小さく唇を開いた。
          
          
          「―――お父さんが、それを望むなら」
          
          少し含んだアルコールのせいか、唇は罪のような薄桃色をしていた。