SSSsongs14(ルートヴィッヒ・菊・フランシス)

 

※ご注意
・パラレル、ルートヴィッヒ(義父)・菊(子)・フランシス(ルートの同僚)。
苦手な方はお戻り下さい。


 

菊は、一つの習慣と、一つの語彙を捨てたらしい。

「おはよう」
卵を焼くフライパンに体は向けたまま、首だけ振り返って笑顔と共に挨拶を返す。
「おはようございます、コーヒーお願いしますね」
「ああ」
からくり時計が定時に踊り出すように、朝決まった時間に菊は起き出して朝食と弁当の準備を、30分ほど遅れてルートヴィッヒがコーヒーを入れる。そして二人でそれぞれの挨拶「いただきます」「神に感謝を」を言って、ぴったり10分で朝食を終わらせる。歯磨きをして身支度を済ませもう一度キッチンに戻るとランチボックスが並んでいる。菊は入れ違いに洗面所に向かっているから、感謝の声と出かけの挨拶だけをかけて、ルートヴィッヒはドアをあける。

”(いってきます)
(いってらっしゃい)
額にキスを送り、頬に返される。”―――そんな習慣は捨てられた。

血の繋がらない、「お父さんの親友」/「親友の忘れ形見」という関係で、紙の上でしかない「親子関係」を自己演出しようと、お互いの気恥ずかしさをこらえて作り出した習慣だった。二人でいることが自然になったのだから、そして、菊ももう思春期なのだから「父親」との過剰なスキンシップは避けられて当然なのだ。

 

何十年日本に住んでもこれだけは慣れない、殺人兵器と呼ぶに値する満員電車から解放されて眉間の皺を伸ばしつつ改札を抜けると同僚と行き会った。
「おはよう、フランシス」
「おお、ルーイ」
「その名で呼ぶな」
「かたいこと言うなって。今日も麗しの菊ちゃんは元気だった?」

横目で睨んでやるが分厚いへらへら顔の仮面に隠れて真意は見えない。
日本に長年住みながらラテン気質を保ち続けるこの同僚とは、自分たちの入社に数年遅れて本田がこの会社に転職してくるまでは、犬猿の仲だった。「軟弱」/「堅物」とお互いにその特性だけが目立ち、敬遠しあっていた。今にして思えば日本人同僚に対しては腹蔵無く文句を言うことができない(そんなことをすれば過剰に凹ませてしまう)ストレスをお互いにぶつけあっていたのかもしれない。
そこに純日本人の、けれどもルートヴィッヒの堅さにもフランシスの柔らかさにもにこにこと対応できて、しかも二人のストレートな本音にもひるまない彼が入ることで、関係が変わった。彼は柳のようにしなやかで、しっかりとした根を持っていた。
身よりのいなかった本田が突然の交通事故で配偶者と共に死んだとき、どちらも遺された6歳児を引き取ると主張した。しかし、当時のフランシスの彼女がそれに消極的だったために――それが尾を引いて結局そちらも破綻したらしいが――母性とは縁遠そうなルートヴィッヒが菊をひきとることになった。

それから10年。
フランシスは結婚と離婚を2度ずつくり返したが、ルートヴィッヒは40を目前にその気配もない。その理由を、多分フランシスは気づいている。

軽い話ならからかいもするが、黙秘すべきところは決して漏らさない。相談には乗るが、余計な干渉はしない。
そんなフランシスの美質にルートヴィッヒは感謝さえしている。

「とはいえね」
エレベータの「閉」ボタンを押しながらフランシスは言った。
「なんだ」
「愛しの菊ちゃんが幸せになれるといいなとは心底思うわけよ」
「俺だってそう思ってる」
ちろり、と横目で見られる。
「…ま、ある意味そうなんだろうけどさ。それで、次善の策としては…」
「いきなり『次善』って、なんだ。最善を尽くすべきじゃないのか」
「いや、それ俺の台詞。ものすごく俺の台詞」
フランシスは笑ったような怒ったような顔で言った。彼の部署の前で片手をあげて通り過ぎようとしたら肘をつかまれた。
「とにかく、次善の策としては、お前が女作るってことだ。というわけで明日の合コンつきあえ」
「は?」
今は何に対する対応策を練っていたのだったか?
いやそれより
「ちょっと待て、いきなり明日なんて」
「だいじょーぶ、俺から菊ちゃんにはごめんねお父さん借りちゃうよメール入れとくから」
「何だってそう何度も合コンなんてするんだ、もういい年だっていうのに」
毎回付き合わされているルートヴィッヒは眉根を寄せた。
「あ」
フランシスは腕時計を指した。時計の針が定時を指そうとしている。
「始業時間デスヨ」
「…」
こいつにだけは言われたくなかった。ルートヴィッヒは眉間の皺を盛大に寄せた。

労働者として労基法の保護下にあった頃は、正論を振りかざして定時終業・即帰宅をもぎとっていた。有給も全部使った。父兄参観と運動会、振り向けられる自由時間は全て、まだ幼い菊のために。それでも随分寂しい思いをさせた。業務経験上のアドバンテージがあったにも関わらず昇進ペースがフランシスと同じなのはそのためだ(もっともフランシスも随分サポートしてくれた。まだ菊が包丁を握れない頃のフランシス訪問と作り置きタッパーがなかったら、菊の7割はつぶしじゃが芋で埋まっていたはずだ)。
昇進の結果、「育児」の幾分かと「時間」の幾分かを金で買うことができるようになったが、その分自由時間が減った。朝食のわずか10分程度しか顔を見られない日もある。6歳のままだったなら寝顔を見に寝室に行っただろうが、流石に高校生になった息子の私室に勝手に入ってはいけないだろうと、ルートヴィッヒはこらえている。

朝の笑顔でさえあれほどの力でルートヴィッヒの自制心を攻撃するのに、無防備な寝顔など、一瞬で心の鎖を壊してしまうに違いない。

何度もねじ伏せ、押さえつけ、封じ込めようとしたけれども、もう隠しようがないほどにこの気持ちは育っている。

ただの親であっても辛いはずの巣立ちを、この後見守らなければならないのだ。日々背が高くなり、目に知性を宿らせ、肌を輝かせていく菊が、杏のような恋をし、いつかその愛をルートヴィッヒに見せつける。そして近い将来、この家に来た時のように小さなバッグに自分の世界をパッキングして、さらりと立ち去っていくのだろう。

いってきます、のキスを「父」に送ることもなく。
―――キスの相手は、その時既に家の外に存在するのだ。

何もかもが砂の上にたっている。
6歳にしては抑制のききすぎた幼子と30そこそこの異国生まれの男は、二人、柔らかで心許ない地面に立つために、「親子」のロールプレイを慎重に果たしてきた。日本で「規格外」の家庭が子どもを育てる辛さを存分に味わいながらも、それでも菊が笑うことが、成長することがルートヴィッヒの喜びだった。

「規格外」をこれ以上菊に強いることはできない。

何より、40にもなった、しかも一応「親」として10年を過ごしてきた相手に、性質の違う愛を請われても、菊は困るだけだろう。
だからせめて、ただ偽りの関係と知りながらも、せめて「親子」として手を繋いでいたいのに。足の裏に流砂の動きが感じられる。
役割演技。そんなものを10年も続ければ息苦しいに決まっている。早く解放してあげたい。早く、仮初めでない関係をつかみとってほしい。かっこのつかない「家族」、普通の、そして、菊自身が選んだ「家族」。それに安堵してほしい。
そう思いながら、ただの習慣の喪失にさえ、絆のほどける音を聞いてしまう。

 

厳格に2杯までと決めているウィスキーを、だけどもう少し入れたくて、罪のない瓶を睨んでいると、ドアの開く音がした。
「…」
目をやると、何か言いたげな様子で菊が立っていた。
「菊。どうした、こんな遅くに」
「いえ、ちょっとトイレに」
時計を見れば深夜二時。
「早く寝なさい」
菊は苦笑した。
「そんな。特待生なんですから、これくらいは勉強しないと」
学費の心配はしなくていいと口を酸っぱくして言ったのに、菊は自力でその心配をはねのけて見せた。
「そんな無理をしなくても成績はいいじゃないか。無理したら体をこわすぞ」
菊はソファの隣に腰掛けながらため息をついた。
「……私の台詞です。無理しないで下さい」
似たような言葉を続けて聞く日だ、とルートヴィッヒは苦笑し、ついでその会話の流れを思い出した。
「そういえば、フランシスからメール来たか?」
「フランシスさん?気づきませんでした。来てたのかな」
「『ごめんねお父さん借りちゃうよメール入れとく』って言ってたんだが」
菊はぱち、と不自然な瞬きをした。
「フランシスさんがそう仰ったんですか」
「?ああ」
「…もしかして、女の人と会うんですか?」
「ああ、まあ、そうなんだが…」
フランシスのふざけたものいいのどこに『合コン』という要素が見えたのかさっぱり分からず、ルートヴィッヒも瞬きをした。菊はテーブルに視線を落としている。
「……」
「言うのが遅くなって悪かったが、明日、遅くなる」
「……今だって遅いです」
「そうだな。子どもが家にいるっていうのに、いけない親だよな…」
勢いを付けて菊は振り返り、顔の脇に垂れた横髪がふわりと舞った。
「ん?」
「……いえ。子ども扱いされちゃったな、と思って」
「あ、すまん。そういうつもりはない、というか、お前がもう大人だってことは分かってる」
菊はくしゃっと笑った。
「分かってないですよ」
「いや、分かってる」
「分かってないです。貴方は、いつも、正しいから」
あ。
最近感じる小さな痛みをまた思い出し、言葉を失った瞬間に菊は立ち上がり、「お休みなさい」と背中を見せた。

菊は、「お父さん」という語彙を棄てた。

疑似親子関係は、もう、崩れ始めているのだ。

 

 

合コンに限らず、酒の席でのフランシスは実によく気がつき、場の雰囲気をよくしてくれる。仕事上も発揮されるプロデューサーとしての能力はこんな時にも実につかえる。100軒の携帯グルメアドレス帳から厳選した店は近くのビルの屋上階で雰囲気もよく料理もすばらしかった。料理の腕前に自信はないが、舌については親友とその弟子たる菊に鍛えられているルートヴィッヒは、並べられた品々にすこぶる機嫌をよくした。計らったわけでもないだろうが、ルートヴィッヒ好みの知的ですらりとした女性が隣に座り、仕事の話で盛り上がりもした。ああ、なんていい人なんだろう、こういう人と恋ができたら、と

「…思ったんだ」

喫煙所にフランシスがいるのを見つけ、なんとなく話したくなって追いかけて出てきた。男二人、手すりにもたれて町を見下ろす。

ルートヴィッヒの素直な感想に、フランシスは下を向いて頭をかいた。

「……お前ね……」
他人の恋愛に口を挟まない、をモットーとしているフランシスは、しかし、少々酔っているらしい。
「『できたら』も何も、それを妨げる要因なんてお前の心の裡にしかないって分かってんだろ?」
恋をしたい、恋をしてもかまわない。そんな男女しか集まっていないはずなのだ。
「…ああ……そういう席だったな……」
「そうです。アプローチウェルカムな可愛い子に集まってもらったんでしょーよ」
ぷかー、と煙を吐いて、フランシスは振動する携帯を取り出した。
「…はいはい、『今日はごめんね、今度埋め合わせするから、マイハニーv』っと」
素早くキー操作するフランシスに、こちらも多少酔っていたルートヴィッヒは苦言を呈した。
「お前、そういう相手がいるならこういう席に出るのはよくないんじゃないのか」
「…」
「映画みたいな恋愛ばっかりしてないで、本気で愛せる人を見つけて、平凡な家庭を築けよ」
しばらく黙って携帯を弄っていたフランシスはぱたんとそれを閉じて、振り返った。
「お前さんは、いつも、正しいよな」
「…?」
似たような台詞を、つい最近聞いた。
「そして、顔に似合わず、やさしい」
「前半は余計だ」
ま、そうだね、とフランシスは笑って、それから顔を引き締めた。
「でも、『正しさ』は『最善』じゃないし、『普通』が『最善』でもない」
「そう、か?」

ほとんど独り言のように、フランシスは続けた。
「お前さんを見ていると、いつも思い出すうたがあるよ」

 

やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君(与謝野晶子)

 

 


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