※ご注意
・SSSsongs13、21(パラレル、サラリーマン@NY)の続き。先にこちら←をお読みください。仲良し指数95くらい。
苦手な方はお戻り下さい。
キクはいつも微かに森の匂いがする。
そういうと、アルフレッドさんはおひさまの匂いですね、とキクは微笑んだ。
映画を見に行って、軽く飲みにも行って、その後アパートまで送っていって、玄関でハグして、帰る。一つ付け加わったので大躍進だと思っていたら、ランチ中の二人にすごい変顔をされた。
「どこのローティーンだい…」
「なんなの?我慢大会なの?誰の?私の?」
別に暴露趣味があるわけじゃない。二人の方も、プライベートな関係の中身を問うような不作法者でもない。ただ、キクはいい匂いがするよね、という話に微妙な顔をされたから言い訳をしただけだ。そしたら逆に切れられた。
「直接の上司じゃなくなったんだし、何の障害があるっていうの?」
「…そうなんだよね」
キクが課内メンバーを引き抜いて別事業部を立ち上げたのは1ヶ月前。ビジネスとプライベートの切り分けという意味で課が離れたのはありがたかったのだけど、ビジネスマンとして残念に思う気持ちもある。「謦咳に接したい」というやつだ。(言葉を教えてくれたのはもちろんキクだけど、そこで「咳」が出てくる感覚がよくわからない。いくら尊敬する人でも咳を浴びせられたくはないんだけど)。そしてプライベート方面でも、横を向けばキクの顔が見える空間に一年たっぷり馴染んでしまったせいで、それが無いのがちょっと寂しい。
「…まさか君、ここまで来て、『そういう好きじゃなかった』とか言わないよね?」
エリザベータが眉尻をあげた。
「なに、あんたそうなの?この期に及んでそんなの許せないわよ。あたしたちのアイドルを返しなさい!」
「盗ったわけじゃないだろ!」
「奪ったようなものよー!!」
ばん、と掌をテーブルにたたき付ける、真似をする。コーヒースタンドのテーブルは小さい。そんなことをした色々被害が出てしまう。音にはならなくてもぶつけられた感情にかちんときて、思わず強い口調が出る。
「俺だって、そりゃ!……っ」
っと、っと。
またキクを”恥ずか死に”させるところだった。キクは、ことの顛末を二人が知っていると分かった時、本当に高熱を出したのではないかと心配するくらい真っ赤になった。もういやです出社しません引きこもりますとぐずるキクをなだめすかし、この手の話題をオープンにしないことを重々約束させられたのだった。
俺だって、そりゃあ、もっと色々…色々!したい。これまで女の子とやってきたような楽しいベッドの時間をキクと楽しめるなら最高だと思う。最初、男同士なんだからそれは無理なんだろうと思っていたら、エリザベータに「何ばかなこと言ってんのよ、人類7%は同性愛者だっていうのにやりようを開発しないわけないじゃないの幸福追求は合衆国憲法に謳われた権利だわよ」とまくし立てられた。その時にちょこっと「やりよう」を教えて貰った、たぶんそれもあってエリザベータはテーブルを叩く真似をしている。教え甲斐のない生徒で悪かったね。
そりゃあ色々したいけれども、キクにスイッチが入らない。親の躾と訴訟社会に生きる者の嗜みで、確実に相手から了解が得られたと判断できてからじゃないと先に進めないんだけど、ハグをして、見つめ合って、自然に顔を寄せ合って…というルートにならない。キクは本当に幸せそうに……多分眠いなか布団に包まれた時と同じくらい幸せそうに目を閉じるから、なんだか自分がすごくいい人になったような気がして、強引にことを進められない。
「…あのね。とてもプライベートなことなんだから、僕たちはこれ以上口を出さないけさ」
マシューは「出す!」とわめこうとするエリザベータの口を押さえてにっこり笑った。
「君は、自分の鈍感さを再認識した上で行動した方がいいと思うな」
相変わらず、俺に向かっては毒舌きわまりないマシューである。
「僕は、『行動力のある君』になることも、やぶさかじゃないからね?」
ね?じゃない。
なんだかんだいってマシューは応援してくれるって知ってるから笑って流せるけど、そうじゃないなら笑顔で潰すレベルの発言だ。
大体、行動力の問題じゃない。「そういう好きか」の問題は、どちらかといえばキクに聞くべきだ。
今まで通り、一緒に食事をしたり、映画をみたり。そういう時に女の子にするようにエスコートしようとすると、キクのテンションはがくんと下がる。手をつなぐのも腰を抱くのも嫌がるし、当然、人前でのキスなんてできるわけもない。
唯一接触する機会であるハグでも、スイッチオフがはっきり見て取れるin布団な表情は、そこに漂う静謐な森の匂いもあいまって、こちらの興奮メーターも下げられてしまう。
冗談に紛らわせて、聞いたこともある。日本人ってみんな実際のセックスに興味ないの?
へ?とキクは妙な音を発して、ややや!と慌てた様子で手にしていたDVDを棚に戻した。ああ、そうだ、日本のが入ってる!と(キクが)目を輝かせてゲームソフトを本屋で眺めていた時だった。
「日本はエロの国ヘンタイの国と思われてますが、ええと、否定はしませんが、皆が皆二次元で満足できるわけではなく、また二次元ばっちこいの人もリアルに未練がないわけではなく……つまり、本気で本能が壊れてるわけじゃないです」
そういう非難をしたつもりはなかったのだけど、棚に戻されたDVDは極度にデフォルメされた幼児のような女の子がパッケージに溢れているのにR18と銘打たれていて、「すごく違う」ことは逆に立証された気になった。訓練すればこういうのを「かわいい」と思うようにはなるかもしれない、でも、「だから抜ける」の境地は一生たどり着けない気がする。
「で?キクは?三次元のAVも見るの?」
「ノーコメント」
ぽ、と顔を赤らめたので、話は打ち切った。
年上で…大人で。
上司で…仕事ができて。
おとなしくて…穏やかで。
(おたくだけど)
草食系男子って言って、人気らしいよ。
社内では小動物のような可愛がられ方と切れる上司としての扱いを同時に受けているキクだけど、悪いけど、一般のアメリカ社会の中では、もてるタイプとは言い難い。女の子に受けるのははっきりしたアピールだ。積極的であること、はっきりしていること、そして肉体的な魅力を感じさせること。
もてないから安心していたのかと考えるとすごく自己嫌悪に陥るけど、正直、ずっと「そういう好き」だと自分で分かっていなかった期間が長すぎて、キクのセックスアピールについてまじめに考えたことがなかった。
ここでどうあれ、日本では、キクのようなタイプはすごく受けるんじゃないんだろうか。時々キクに借りるDVDで、日本のアクターはみんなすらっと細い。髭なんか生えなさそうに肌もつるっとしていて、…キクにちょっと似ている、気がする。
もしかして、キクには日本で女の子との経験がたくさんあって、……だから、キクのスイッチは、女の子にしか向けられていないんじゃないだろうか。
はあ。
では、今日もありがとうございました、と閉められたドアにもたれかかって、ため息をつく。
こんな風に逡巡するのは俺には似合わない。ねえ、上がってもいい?泊まってもいい?…触ってもいい?
断られるのが怖くて(というか、最初に断られたのを引きずっていて)言い出すことさえできない。どんな言葉を使えば、キクを”恥ずか死に”させず、引かせもせず、気持ちを伝えられるんだろう。
キクのアパートは狭い。
寝に帰るだけですから、と適当に探し、引っ越しが面倒でそのまま暮らしているという。玄関なのか廊下なのかキッチンなのか迷うようなスペースに、フローリングマットをしくことでキクは日本式の「靴脱ぎ」をしつらえている。ここから先は、靴を脱いで上がる場所。視覚でそう宣言されるから、デートの帰り、送って、ドアを開けて一歩だけ上がり込んでハグをする。キクはまだドアの「中」にはいないし、俺は「外」と切り離されていない。ここから先に入る許可が貰えなくて、俺は毎度ドアを閉められる度ため息をつく。
そんな悶々とした生活を送っていたところに、タイフーンがやってきた。
「友達?」
では、また、の後に続けられた言葉に、俺は首を傾げた。
「いやー、そんなご大層なもんじゃないんですけど。同僚というか、まあ、ツレですね」
キクがもといた日本支社での同僚が出張で来るという。それは構わないけど、「だもんで今週末はすみません」とあっさり言われたのには納得いかない。そのなんとかさんの来米目的は水木金のミーティングだという。それなのに、
「金曜夜、土曜昼、土曜夜、日曜昼、日曜夜。全部だめってどういうこと?」
「え、だって」
キクは目をぱちぱちさせて指を折った。
「金曜日飲むでしょう、そしたら起きるのは土曜日昼過ぎでしょう、そこから耐久でDVD見るでしょう、そしたら起きるのは日曜昼でしょう、それで空港まで送りに行って帰ってきたら、もう休むしかない、ですよ、ね」
ね、じゃない。
「なんでそのスケジュールが規定路線なの」
「帰りが日曜の便だっていうし、それが日本での定番コースでしたから。勿論その頃は日曜解散で追い出せばよかったわけですが」
追い出す。その言葉にはっとする。
「…え、それ君んちに泊まるってこと?」
「いや、そんなご大層なものではなくてですね。ホテルは経費の問題もあるからちゃんととってる筈ですよ。ただどうせうちでごろごろもするだろうと」
どういうこと。
「……俺、そういうのしたことないよね」
「そうですよねー、ほんとアルフレッドさんはいいこですよねー」
それに引き替え、という続きの方がキクの脳を占めていたらしい。でもそれは、キクの言葉で言うところの「逆鱗」だった。
「きっ……」
キクは驚いたように振り返った。
「はい?…え?」
そりゃ驚くだろう、俺自身ぎょっとした、なんだよもう、と思うけれども、少し涙声になっている。
「きくはっ…」
「アルフレッドさん…?」
「俺のこと、孫みたいに思ってない?!」
「え、え、え?」
「俺はっ、キクのこと…!」
すごく好きなんだ、と言いたかった。
キクが大人だから、子供っぽいところを見せちゃ苦笑される。甘やかされて、対等になれない。
そう思っていたから、声を荒げるようなことはしなかったし、キクが恥ずかしがるような甘い言葉は控えるようにしていた。
望まれる形をかなえること。それができなきゃ大人のキクには釣り合わないと思っていた。
思って思って、気持ちを抑え込みすぎていたせいで、言葉を選ぶことができなかった。
「口中べろでかき回して体中キスマークつけてYesYes言わせてがんがん揺さぶりたいっていう意味で好きなんだぞ!」
ホンダ・キクのプロフィールに一つ項目が付け加わった。
彼は忍者の末裔らしい。
言い終わって一秒、ぽかんとした顔を残像に残して、しゅっと彼の姿は消え、扉は閉められた。内開きの扉で、開きかけの扉の線上に俺もキクもいたはずなのに、どうして一秒で閉め出すことができたのか分からない。
分からないながら――極度に恥ずかしがりなキクの生活空間で大変に不適切なことを大声で言ってしまい、引きこもりの危険にさらしたことは分かっていた。
「……ごめん」
呟いて、アパートを去りつつ、改めて(叫んだことへの)謝罪のメールを入れる。
返事はなかった。
「死んだまぐろみたいな目」とエリザに切り捨てられ、補佐からチーフに昇格した同僚にも「いっそ有給をとれ」と言われ、それでも身体をひきずるようにして会社に行った。忍者・ホンダは気配を察して姿を隠しているらしく、彼のセクション近くを通りがかっても顔を合わせることもない。
見かねたのか、エリザベータが飲みに誘ってきた。金曜の夜。当然予定はからだけど、そんな元気があるわけはない。断ろうとしたけれども、襟首つかまれるようにして連行された。
「何がどうなってるのか知らないけど、とりあえず血糖値あげてからモノ考えなさい」
職場にほど近いこのイタリアン・バールはビールやワインもそれなりだが、何より料理が美味しくて量もある。飲みに、というよりは食べに連れてこられた感じだ。
ここに来るといつも、着席と同時にキクがシェフズサラダを注文して、一週間分の野菜を食べさせられてた。食物繊維だのベータカロテンだの、キクはうんちくを垂れる。リコピンの活性酸素消去能力はビタミンEの100倍以上ですからね…!
それを知っていたわけでもないだろうにエリザベータが注文したサラダのトマトを、もきゅもきゅ食べる。
言葉の出ない俺にため息をついて、エリザベータは横を向き、ハウスワインをくいと傾けた。
「あれ――?」
小首を傾げて。
「あれ、キクよねえ」
「え」
あれ、とエリザが指さした先には、カウンターがあった。背中しか見えないが、確かにあれはキクだ。そして、その隣に座っている黒髪の男が多分「連れ」のなんとかさんだろう。
幾晩を共にしたのか…という考え方が的外れなのは分かっているけど!……というほどキクと親しいそのなんとかさんは、キクの方に顔を向けているから、その笑顔が後ろからも見える。
そして。
なんだその手は。
最初は肘で小脇をつつき、次に内緒話をしているかのように耳元に手をあて、……更に、その手を肩に回して。
デートの時に手をつなごうとしても避けるキク。
腰を引き寄せると不機嫌になるキク。
そのキクは、慣れた様子でなんとかさんの手をあしらっている。目の前に人差し指を立てて、ちょっとだけ生真面目顔を取り繕って。
そして囁いただろう言葉が、唇の動きから読み取れた。
「だから、ここじゃだめですって」
ぷち、という音を聞いた気がした。
「あー、時々いるのよね……って、ちょっと、アル!?」
隣のエリザベータは引き留めようとしたみたいだったが、その手をすり抜けるようにして立ち上がった。
もうだめ、無理。
心臓が痛くて、目から変な汗が出てきそう。
「ちょっと」
そう言って、キクの肩にあった男の手を掴み、同時に逆側のキクの肩を掴む。振り返らされたキクは目を見張った。
「あ、アルフレッドさん??」
「偶然だから!ストークしたわけじゃないから!見たくなかったこんなの!」
「こ、こんなのって、」
「言わせる気?!」
きっとにらむと、後ろから気の抜けた声があがった。
「……いてーんだぜ……」
「君はちょっと黙っててくれ!」
あれ?
なんか変?何が?と思ったところで「はいはーい」とエリザベータの手を打つ音が聞こえた。
「外でましょう、外。初めましてのそちらのご友人も、キクの面子のこと考えて空気読んでねー」
「空気を読む国の人ではないんですが」とキクが紹介した「連れ」は、キクの隣国の国籍を持つ人だった。別言語がまじったような聞き馴染みのない英語を堂々と話す彼は、「でも面子という概念はよく理解できますんで」だそうだ。
「本田は、アメリカじゃちょー変に見られるって言うんですけど、そうなんすか」
「そうなんです」
彼の隣に座ったエリザベータは、横を向いて真面目ぶって頷く。
「握手やハグがあるせいで身体接触は欧米の方が多いと思われがちですが、親愛表現としては、肩を叩く、頭を撫でるがOKであるように、東アジア文化圏の方が接触多いんです」
「おねーさんすっげ詳しーっすね」
「任せなさい」
何をだ。
「……」
キクはもの言いたげにこちらを見上げたが、視線に気づかないふりしてコーヒーをすする。テーブルの下、隣のキクの手首は掴んだままだ。逃げられてはたまらない。
「俺、国だと、寒かったら抱き合うくらい平気っすよ。女の子同士なら街中でも腕組んで歩くし」
「その習慣をそのまま持ち込んでくる人、時々いるのよね……。いや、観光客が何をしようとどうであろうとこっちはそんなに気にしないし、――”同性愛者だと思われること”をどう考えるかというのも単純じゃないけど」
後半は気合いでこちらを向かないようにしていた感じだった。大丈夫、そんなことに気を取られてる場合じゃないから。
「本田」
小声のつもりなんだろうけど、地声が大きい。
「あ、はい」
「なんであの人あんな喧嘩腰なんだぜ?」
一瞬言葉につまったキクに、エリザベータがフォローを入れる。
「うんまあ、あれは大型犬だとでも思って」
ちらりと横を見ると吹き出すのをこらえるような顔をしている。どういうこと。エリザベータの方も、どんなフォローだ。
「えっと」
少し顔をほころばせたキクが、「連れ」に向けて口を開いた。
「この人が、さっき話してた、今おつきあいしている人、なんです」
今度は「ちらりと」とはいかなかった。身体ごと振り返ると、やっぱり少し赤い顔をして、俺の顔は見ないようにして、微笑んでいた。
建前がどうあれ、この街でも同性愛者がそれをオープンにするには覚悟がいる。建前がある分、フォビアだっている。
”恥ずかしい”というのは方便で、要するに言いたくないんだ、表にしたくないんだと思っていた。だから人前で手をつないだり、キスしたりしちゃだめなんだろうと。
デートしても、「これまで女の子とやってきたような楽しい時間をキクと楽しめ」ない。キクといること自体が楽しいんだからそれは構わないと思っていた。でもそうして楽しんでいる「街の中の二人」は限りなく友人に近くて、「(半)家の二人」は限りなく家族に近い。どっちの関係も壊したくない、でもそれだけじゃ嫌。それをうまく言葉で表現できなかった。
「ああ、例の、かっこよすぎる彼氏」
しれっと頷いた「連れ」にも驚いた。エリザベータも目をぱちぱちさせている。その表情に気づいたらしい。
「あ、俺、なんか周りにそういう人多くて、慣れてて。ていう人だと認知されてるから相談されることも多くて。でも、まさか本田に相談されるとは思わなかったんだぜ!」
「相談…?」
「わあああああ!」
キクは腰を浮かし、手を突き出した。
「ストップ!ストップです。言っちゃだめ!」
「言うわけないんだぜ、どうやってえっちに持ち込んだらいいかなんて」
「言ってるし」
キクが「ぎゃあ」と「ぐわあ」の間のような声をあげて彼の口をふさぐ、その陰でエリザがぼそっと突っ込んだ。
「しかも、なんでそんな相談?だし」
「全くだ!」
俺が強く言い切ったところで、キクはやっとこちらを向いた。
じっとその目を見ると、みるみる赤くなっていく。
「あの…」
「……俺は、君のことが」
言いかけたところで
「「あー」」
二人の声が遮る。唐突に彼はエリザベータの方へ首を向け、ポーズをとった。
「そこの綺麗なおねーさん、俺と飲みませんか」
いきなり発されたスターオーラに惑わされたわけでもないだろうが、エリザベータはにこりと受けた。
「ええ是非。色々!お話伺いたいわ」
「では意気投合できたところで」
二人はさっさと立ち上がり、最後に「俺、土日は最初から観光に行く予定だったんだぜ!」と手を振って出て行った。
「…」
「…」
「…」
「…送るよ」
「え」
テーブルに札を置いて立ち上がると、キクも戸惑いながらついてきた。外に出たところで背を屈め、目を見て断言する。
「今日、家に入るから。反対意見は認めない」
「……っ」
不興を買うかと思いきや、キクは顔を赤くして、それでも頷いた。並んで歩く。
「あの……、一度だけお断りしたのは、その日たまたま、本当に部屋を汚くしていたからで……ええと、正直に言うと、貴方言うところの『それでは抜けない』類のものが色々散らばっていたからで、これは一般人にはどん引きされるだろうと……」
「……」
しなかった自信はないので黙ったままにしておく。
「だから、その後は、デートの前には毎回時間かけて部屋をきれいにしていたんですけど、入ると言われることはもうなかったですし、……それが続くと、こう、地味に凹んでくるというか……」
「入っていけば、って言ってくれればよかったじゃないか」
「そういうことがさらっと言える性格なら、年齢イコール彼女いない年数とかやってないですよ……」
そうなんだ。びっくりして振り返ると、キクはちらりと見上げて、頬をふくらませた。
「それに比べてこの人はまー女扱いに慣れてることと言ったら……」
「え、普通だぞ!」
「普通のレベルが違うんですよ、リア充とは……。もう、デートっぽいことをする度に過去に関する妄想がちらついて、しかも妄想の詳細さについては自信があるレベルなせいで、実に、面白くなかったです」
「えーっと、それって、……俺のことが」
「そういう意味で好きだってことです」
思わず手をとった。キクは手を払わない。ぎゅっと力をこめると、小さく力を込めて握り返してくる。靴先を見たまま、キクは続けた。
「この前のあれも、――態とか表現とか違うところはいくつかあったんですが、思っていたことをずばっと見抜かれた気がして、恥ずかしくて逃げちゃったんです」
「えっ」
「……こう、もうちょっと…、せっしょく、したいな、と」
「………!!」
思わず足を止め、そのままキクを抱きしめた。人通りは少ないとはいえ、まだ路上。でもキクはあらがうことなく手を背に回してきた。
「……ふふ」
「キク……」
目を合わせてキスに持ち込もうと首をまわしたが、あてが外れた。既にキクはin布団の安らかな表情に変わって、目をつぶっている。
「あのですね」
「……うん」
「私、貴方のハグ、すごく好きなんです」
「……ええと」
刷り込み?
「英語に、『be in good hands』という成句あるでしょう。あれを実感します。これがあるから、私はここで生きていける、と思うんです」
「……」
それは、安心して任せる、という意味だ。任せられる、良い手。この手が、そんな風に感じられているなら、それはやはり嬉しい。大人で、できるキクが、象徴的な意味であってでも、頼りにしてくれる。頼れる、そう思えるような手でありたいし、なりたい。
「本当に、気持ちが安らいでしまうから……」
そう言ってキクは、深い森の匂いを漂わせた。
「雰囲気を作るときは、正面からじゃなく、横から来てください」
横からってなんだ、と思ったけど、ベッドに並んでいればつまり「横から」だ。
無理をすると血を見るとエリザベータ先生に脅されていたので、「したいんだぞ」の三分の一くらいまででチャレンジを止めておく。急ぐことはない、キクはずっとここにいる。
「そういえばおばあちゃんちでは彼みたいなタイプよく見たなあ」
いつものランチ、あの後エリザベータに呼び出され朝まで三人で飲んだというマシューはぼんやりと呟いた。
頷いて、エリザベータはこちらに目線を流してきた。
「かの人曰く、日本では『Yes』じゃないそうだから」
俺が頷くと、「もう学んでたか」と舌打ちされた。
マシューがゆるゆると聞いてくる。
「君、キクの言う『ツレ』の意味知ってた?」
「ああ、しょっちゅう一緒にいる悪友、みたいな意味だって言ってた」
「それ、キクの出身地の方言なんだって。別の地域では『連れ合い』、つまりパートナーって意味だって」
「え!?」
「本人には言わないってあたり、彼もなかなか興味深いキャラクターだよねえ」
「……どういうことだい」
「言ったら、呼び方変えられちゃうからだろうね。自制心と無遠慮さのバランスが実に面白い」
めこ、と音を立てて手の中のペットボトルが凹んだ。
気持ちを静めるために、できればキスくらいしたかったけど、社内だし時間もないし、諦める。その代わり、久しぶりにメッセンジャーを立ち上げる。休憩終了まで三分。
<Alfred:お願い、何でもいいから俺だけに言葉をくれない?>
二分待った。返信は、ある意味、期待以上だった。
<kiku:言葉以上のものを待つ4時間をあげましょう>