※ご注意
・パラレル、サラリーマン@NY。アルは二十代前半。仲良し指数60くらい。
苦手な方はお戻り下さい。
やあニューフェイスだね、アルバイトかい?という第一声が災いしてか、アルフレッドは一ヶ月前に日本支社から来た新しい上司と良好な関係を築けずにいた。
「だってさあ、あんな童顔で三十代とか、いっそ詐欺じゃないかい?あの身長で俺より十も年上なんてさ!」
シェイクをすすりながら愚痴れば、隣の部署である広報部のマシューはまるで聞いていない様子でサンドイッチを頬張った。顔だけは俺にうり二つの、だけど似てもにつかないほどぼんやりした従兄弟がカスタマーサービス係なんて客に対する嫌がらせじゃないかと思うけど、これが案外クレーマー対策に有効らしい。まあ、確かに、毒気も戦闘意欲も削がれること甚だしい。
「すごいよねえ、日本支社から本社開発部になんて大抜擢だよ。あんまり英語得意でもないみたいだけど、それでもなんだからすご」
とろっとろの語り口に我慢できず会話のターンを奪う。
「その中学生みたいな語学力のつけはこっちに回ってんだぞ。仕事上のやりとりは全部メール、ミーティングはチャット。その場で言ってくれれば1秒で終わる書類のチェックもデジタルで朱入れてくる」
3歩歩けば肩がたたける距離にいるのに、黙々と画面に向かうなんてシュール過ぎる。ちょっとした計算ミスに『再計算願います』と馬鹿丁寧に書いてくるのもいらっとする。
腰掛けている公園のベンチをこつこつと指で叩けばまるで予想外の反応が返ってきた。
「ああ、読み書きは大丈夫なんだ」
「あ?…うん、そうだね」
当たり前だと思って考えもしなかったけど。
「君の早口がだめなんだろうと思ってたんだけど、チャットのスピードにはついていけるんだね」
「そういえば、うん」
「なあんだ、もしかしたら僕がアプローチしたらうまくいくかも、と思ってたんだけどな」
「はあ?」
かぶりついたところだったので、ドーナツをくわえたままがばっと振り返る。
牛の鼻輪みたいだよとマシューは余計なことを言って笑った。
「だって、僕は『ゆっくり話す君』なんだろ?ついでにいうと、『まだ失言をしでかしてない君』だ」
「話がさっっぱり見えないんだけど」
「君には空気も話も視線も見えないんだね?」
ほんわかした顔でざっくり斬りつけるようなことを言う。口の悪さはお互い様だと言われるけど、雰囲気とのギャップがある分マシューの方がたちが悪い。
「まあ、いつかは帰る人なんだから、それまでと思って我慢したら?」
「え」
「ごちそうさま、じゃあまたね!…あ、こんにちは!」
めずらしく機敏に立ち上がったマシューは、昼休憩から戻ってきた話題の中心人物に手を挙げた。
キク・ホンダ。
日本の大学を出て我が社の日本支社に入り(ということはそこそこの英会話力があったはずなんだけど)、赤字部門の立て直しでいくつもの実績を上げ、本社にもその名が聞こえていた。つまり彼が来たということは、統括部門によって俺のいる開発部二課はてこ入れが必要だと見なされたということだ。別に停滞してないぞ、むしろ世界的不景気の中でがんばってる。そんな思いが、彼が自己紹介した瞬間課内に漂った。そこに加えて音声言語封印の方針が伝えられたものだから、更に空気は悪くなった。
マシューのように声を掛ける他部署の人間にはそつなく応対しているようだが、課内の関係は良好とは言い難い。現実に数字は上向いているのだけど。
「ごはんですか?」
マシューがとろとろと話しかけている。昼休憩なんだからそうに決まってるじゃないか。
「ええ、そこでおむすびを食べました」
「オムスビ?」
「ライスボールですよ。こういうの。…3つ作ってきたんですけど、2つでお腹いっぱいになっちゃいました」
「わあ、きれいな三角形だ。それに、色もきれい」
「ゆかり、というんです。食べてみますか?」
「え?いいんですか?うわあ、嬉しいなあ」
立ったままぱくんと口を付けて、おいしい、ともごもご言っている。
その女子校のような会話を呆然と聞いた。あのスピードでビジネスはできない。だけど、コミュニケーションはできる。なるほどね?しかしなんだ、あのマシューの懐への忍び込みようは。なんだあの見たことないキクの笑顔は。ていうかアプローチってなんだ。
なんなんだよ、このむっとする気持ちは。
そのとき、苦笑を絵に描いたような顔でマシューが俺を呼んだ。キクの顔にわずか、緊張が走る。
「なんだよ」
「ミスタ・ホンダがジャパニーズランチをわけてくれたから、君にもお裾分けと思ってね」
まあ見てて知ってるだろうけど。余計な一言を付け加えて、マシューは俺の手に食べかけのライスボールを渡した。キクはまだ強ばっている。さっぱり分からないよ、マシュー。何がしたいのか。分からないけど……一つだけ分かる。俺は、それを食べたいと思っていた。
受け取った手を礼の代わりに小さく掲げて、口を付ける。
酸っぱいような甘いような不思議な味が舌の上に広がった。香りが鼻に抜ける。
「…美味しい」
「ね」
天真爛漫な顔で笑ってみせて、マシューはもう一度キクに礼を言った。便乗して俺も礼を言う。キクは戸惑ったような顔をしていたが、やがてガクリと首が折れたような独特の挨拶を返した。
着席したあと、ふと思いついてメッセンジャーを開く。
<Alfred:YUKARIってなんですか>
横目でうかがっていると、キクはちらりと腕時計を見て返事をよこした。
<Kiku:私語は>
そこでちょっと間が空いた。声に出さなくても私語は私語、禁止だったなと首をすくめたところで次のメッセージが来た。
<Kiku:就業時間外にお願いします>
就業時間外にメッセンジャーなんて開かないよ、とアルフレッドは頬杖を突いた。まだ何の役職もないアルフレッドは定時ぴったりに帰って自由時間を楽しむ権利を放棄したことはない。今は命令されて動く立場、だから、5時以降は完全にフリー。偉くなって人や金を自由にできるようになれば、自分を自由にできなくなる。この等価交換の原理をアルフレッドはそれなりに気に入っている。
その5時以降の時間をビジネススクールにあてるのは自分への投資だろうけれども、会社の人間と話すことが益になるとは思えない。
そうなんだけどさ。
<私語は><慎んで下さい>とくると思っていた。そう書こうとして変えた、だからあの「間」だったのかもしれない。てことは、話しかけてもいいってことなんだろうか。あれだけ拒絶の空気をにじませているのに。
5時、珍しく書類作成に手こずって、ぴったりに電源を落とせないでいるうちに、チーフの席はからになった。間の悪さにがっくりする。片付けて、帰りの挨拶をしながら隣の席に「チーフどこだろうね」と聞いたら「喫煙室じゃない?」と鼻に皺を寄せながら言った。
煙草を吸うなんて知らなかった。今日は色々吃驚する、と思いながら玄関ホール脇にある喫煙室に立ち寄れば、果たしてキクはいた。両膝についた腕で額を支え俯いている。
疲れた、と全身が言っていて、しばし躊躇う。その間に煙草を吸おうとしてかのろのろと顔を上げたキクはこちらに気づいて「あー」と言った。
「お疲れ様です」
「煙草、吸うんだね。珍しい」
管理職なのに。言外の意図を感じ取ってキクはため息をついた。
「煙草くらい吸わせて下さい」
「出世できなくならない?」
「日本ではまだ査定対象とまではなっていませんから」
「ふう、ん」
やっぱり、帰るつもりなんだ。ほんの一時期キャリアアップのためにここにいるだけで、だから誰と親しくしなくてもいいわけだ。
アルフレッドだって同僚とは挨拶以上に親しくするつもりを持たなかったくせに、なぜだか裏切られたような気になる。
「それで、YUKARIって何?」
「ああ…」
灰をとんと落として、キクは説明してくれた。しかし残念なことにそもそもシソという植物を知らない。
「残念?」
首を傾げたキクに、うんと頷く。
「美味しかったから。でもこの辺の店には売ってなさそうだ」
「はあ…」
キクは曖昧に頷いた。口を小さくあけたまま息を吸ったり吐いたりしている。日本じゃどうかしらないけど、その顔はあほに見えるぞ。
「…あのさ、俺って早口かい?」
「はい?…周りの方々と比べて、でいうなら、特にそうは感じませんが」
「君にとっては?」
「…まあ、若干」
「でも今、会話に支障ないよね」
「こういう話は多少聞きこぼしても問題ありませんが、ビジネス上の要請や稟議で『言った言わない』になるのは問題でしょう。私は、私の語学力のせいで皆さんのアイディアが埋もれるのは耐えられないんです」
「へえ…そういう理由だったんだ」
このたどたどしい英語を言うのが恥ずかしいのかと思っていた。こういう場で聞けばなんてことないけど、LとRの不分明な英語は、発言者のビジネス能力まで疑わせてしまう。
「いえまあ…ほかにも、書類のミスや会議の提案までログがとれるので、それを見直せば適材適所な仕事の割り振りができるというのもありますけど」
そういえば、最近回ってくるのは仕様固めがほとんどで概算見積もりなんかはお役ご免になっていた。いや、そんなに計算ミスばかりしていたわけじゃない…んだけど。多分。
「でも、その見直しって大変じゃない?噂ではすごく遅くまで会社にいるって聞いたけど」
「それはまあ…どうせ、アパートに戻っても何もすることありませんし。期限付きの我慢と思えば」
「…赴任期間が決まっているの?」
「ええ、一年という約束です。だからそれまでに結果を出さなきゃいけないんで胃が痛いです」
12分の1。それが既に過ぎていることに焦りにもにた苛立ちを感じた。ばつの悪さと雰囲気の悪さとで、ほとんど話したことがなかった。ほんとはずっと気になっていたのに。初めて見たときから親しくなりたいと思っていて、だから声を掛けたのに。
もっと、君と話したい。
そう言おうとして、だけれども『我慢』との言葉が響いて、その台詞が出かかっては引っ込む。言いたいことが言えない時、人はこういうアホ面になるんだと分かった。俺は、彼が『我慢』しなければいけない現実の、一部なんだ。
「じゃあ」
立ち上がると、キクはゆっくり顔をあげた。
「よい週末を」
「君もね」
その週末、タイムズスクウェアに出かけたアルフレッドは予想外のものを見た。
予想通りのものといえば、人の混雑、巨大広告、ストリートミュージシャン。そして「Free Hugs」のカードを掲げる若者。見知らぬ人でもハグし合うことで一瞬の共感が生まれる。そうして「何か」を生み出していくのがフリーハグ運動だ。笑顔で抱き合う彼らの中に、―――ぽつんと、同じカードを持つキクがいた。
見慣れない格好をした(ラフなのにお洒落で、そんな服だと余計に高校生に見える)キクの前に立つと、キクは「あ」と顔を強ばらせた。
「やあ…」
「どうも…」
またがくっと首を折る。
しばし沈黙が続いた。
「ちょっと、意外だったな。ハグとか、日本人は好きじゃないのかと思ってた」
「はあ、まあ。違和感はありまして、それで他国ほどフリーハグ運動も盛んではないのですが…」
「向こうでもやってたの?」
「いえ、知ってはいたのですが、実際には。先週からやってみているのですが、うまくいきません。あまり人様がハグしたいと思うような見目ではないようです」
何いってんだこのひと。
「顔が硬いからだよ。フリーハグは笑顔が原則だろ。眼が合ったときににこっと笑ってやればいい」
「そうですか…?」
にこ、にこ、と笑顔の練習をしている。これで三十代なんてやっぱり詐欺だと思う。
「なんでやってみようと思ったの?」
にこ、が固まった。ややあって、小さな声で返事が返る。
「できないことが多すぎて。言いたいことも言えない、したいこともできない。この国では、しなかったことは無かったことになると分かっているのに、どうしても心にストッパーがかかってしまうんです」
「仕事のこと?」
「…いえ。でも、仕事ができてないと思うから、多分その先がすすまないんです」
「できてなくないよ」
複雑な思いがあって認めてこなかったけど、確実に業績は上がっている。
聞き流してキクは続けた。
「ハグに言葉は要らないと言うから、じゃあと思ってやってみたんですが、身体言語としての英語がいるんですね。うまくコミュニケーションできない苦しさを紛らわそうとしたのに、余計に『できない』を増やしました」
「できてなくないって」
キクは笑う。あきらめの笑いだ。きっとレベルが違うんだろう。もしも言葉や文化の壁がなければこうもできるああもできると思う、そのレベルが高いんだろう。でも、それこそ仕事を離れてゆっくり話せば、いつか見たような笑顔をするのに。
「証明する」
カードを持ったままのキクを抱きすくめる。
ねえ、君は、俺に「何か」をくれる存在だよ。
ぬくもり、微かな苛立ち、認めさせてやりたいという気持ち、もっと笑顔を見たいという気持ち。どれとは言葉で言えないけど。
ハグ、にしては長すぎる時間、腕の中に閉じ込めて、やっと解放すると、キクは顔を真っ赤にしていた。
「伝わった?」
手で半分が隠されたキクの顔をのぞき込むと、更に赤みが増した。
「あのさ、もし俺に何か言いたいことがあるなら、ちゃんと聞くから、言ってよ。計算ミスが多い、でも、有給採りすぎ、でもいいから」
キクは赤い顔のままで吹き出した。思ってはいたのだろう。
「…ゆかり、の、おむすび」
「へえ?」
話が飛んで一瞬面食らう。そして気づく、禁煙室での会話、言おうとして押しとどめられた言葉の続きなのだ。
「お気にいったのなら、今度作ってきますけど」
「わお、ありがとう!すごく嬉しい」
ねえ、言いたくて言えなかった言葉が他にもあるならもっと聞かせて。
「ゆかり」を「むすぶ」という日本語の意味を教えて貰う一ヶ月前のことだった。