花山院の出家(大鏡)/英日米

◆読書案内◆
 三省堂(『高等学校 古典』他)/小学館『新編日本古典文学全集 34』1996(他)

朕をば謀るなりけり――平安中期、在位二年でその位を捨てた天皇の、狂気じみた愛と悲劇。

※ご注意:↑通り、後味の悪い話です。地雷ある方にはお勧めしません。
 時代考証もへったくれもない平安パロです。人種とか言語とか気にする人には向きません。
 登場人物を少なくするために複数人を兼ねさせているので史実を大切にする人にも向きません。
「菊」はにょたでも女体化でもお好きに読んで頂いて構いませんが、本人は男の妊娠ばっちこいのやおい脳で書いてます。
「菊」以外は固有名詞ではなく下記普通名詞等で呼んでいます。脳内変換をお願いします。

 アーサー = 御門 (= 花山天皇)

 アルフレッド = 公卿 (= 藤原兼家の子藤原道兼/藤原惟成)

 菊 (= 命婦馬内侍/弘徽殿女御・し(※)子 ※りっしんべんに氏)


 

 

彼は新帝となるための儀式を迎えようとしていた。
延喜・天暦の治と称されたような英明な御門による親政とそれを支える貴顕紳士という構図は既に天暦の世に崩れ始めており、摂関家の権力独占は既に誰の目にもあらわであった。
父王だったひとは心に病を持ち二年で退位、その跡を叔父が継いだ。外戚たる摂関家に支えられた叔父の時代は十五年にわたり、満でいうなら一歳にも届かず春宮となっていた彼はしかし数えで十七となるまでその鬱屈の座にあった。外祖父は太政大臣であったが即位の時には既に鬼籍に入っており、後ろ盾を持たないまま彼は高御座に座ることになった。

彼はひとりだった。

即位の儀式は、人であった春宮が神である天皇となるためのものである。変化の触媒となるのは三種の神器、玉座に巡らされた帳が聖なる空間を形作る。そこに籠もって神器から霊力を承けるべき場所で、しかし彼は、まったき人としての心を強く揺すぶられてしまった。
そこにいたのは、儀式の最後に帳をあける係の者だった。取り立てて眉目秀麗であったわけではない、しかしその黒目がちな瞳を簾のような睫の奥に見た瞬間、彼の心はそれだけにとらわれ、場も何も忘れてしまった。
「名は」
手を掴み、意識せず万葉の時代の求婚を送った彼は、しかし答えを待たず、強くひいた。係官は動揺を隠しきれず、囁くというよりもはや掠れた声で答えた。
「菊と申します。それより今は、」
「言うな」
長い足踏みの時を経て、自分は今玉座にある。誰が自分をとめられようか。
強い意志を込めて手を引くと、腕の中で揺れていた黒い瞳は、やがて小さく緩んだ。小さく首を振り自分を戒めるかのようだったその瞳は、しかしやがておずおずと彼にあわされた。彼には人の目を逸らさせない力があった。そして見る人を酔わせる美丈夫でもあった。
薄い布の向こうには文武百官が控え新帝の登場を待っている。その前で彼は手の中の者をほしいままにした。小さな、形ばかりの抵抗により帯の玉飾りが揺れて鈴のような音をたてた。その音をお出ましの合図と聞き間違えた公卿が叙位の申し文を持ち帳の中に入った。

「……何をしているんだい」
衣を乱れるままに任せていた菊はひっと小さな声をもらし、袖で顔を隠した。新帝は面倒そうに顔をあげ、体でかばいながら闖入者に手を振る。
「うるせえ、出て行け」
「そういうわけにはいかないよ。君が変態なのは知っていたけど、さすがにこりゃないだろ」
二人きりの時には互いに許している雑駁な口ぶりで公卿は肩をすくめた。そのまま目線を流し、「………菊?」。菊はまた喉の奥に悲鳴を封じ、いっそう身を縮めた。
「知り合いなのか」
「君よりは自由な分、知り合いは多いさ。……菊、君もさ、嫌なことは嫌、だめなものはだめって言いなよ。それともまさか、”こういうの”が好きだったのかい?」
その指示語に何が含まれているにせよ、頷くわけにはいかず、菊はただ体を小さくした。その様子をじっと見つめていた公卿は「……ふうん」と呟いた。
「とにかく出てけ」
「叙位は?」
「勝手にしろ」
言うなり背を向けた新帝に、公卿はしばらく目をやっていたが、やがて「じゃあ、勝手にするよ」と後ろ手に手を振って去った。叙位の儀式の間、鈴のような音は断続的に続いた。

新帝の菊を寵愛することひとかたならず、官位を持つ身であった菊を弘徽殿に住まわせ、女御としての格を与えた。御門たるもの、妃たちへの渡りは平等に、遍く行われなければならないのに、彼は弘徽殿にのみ通い詰めた。行けば朝まで彼を抱いてすごした。女房達は十重二十重に几帳を巡らし漏れ聞こえる房事の声で顔が赤らむのを避けようと努力した。
細い菊の体は抱く腕の力にほとんど折れそうであったが、激しく長い営みは菊をさらに細くした。それほどに愛されれば当然の結果であろうが、菊は早々に懐妊した。宮中は血穢を忌むため、出産に際しては里下がりが必然である。悪阻が重く、また周囲の白眼視も強かった菊はすぐにでも宮中を辞す方が身のためであったが、新帝は彼を離したがらなかった。近習の公卿以外には親しい者も少なく政治の上でも孤立しがちであった御門にとって、菊の里下がりは闇の中で掴んだ灯明を手放すことと等しかったのかもしれない。彼はぐずぐずと菊を引きとどめた。
御簾の向こう側に立つ公卿からはさんざんに忠告された。出産は母体を危うくする難事である。執着心があだになって恋する人を失いかねないと。御曹子として天下に憚ることなき公卿は弘徽殿にもわたり、しかしもちろんこちらも御簾の向こうから、菊を諭した。「君が嫌って言わなきゃだめなんだよ」。
菊は今上の引き留めにも公卿の忠告にも苦笑を返すしかできなかった。この状態が、自分の身体のみならず御門の地位をも危うくしていることを、菊も分かっていた。自分が突き放すべきなのだ。公卿は正しい。

手を、振り払わなければならない。この孤独な王の。
正しいことだけを行えるなら、人はどんなに心安らかに生きていけるだろう。

人でない今上帝も、自分の行いが誤っていることを分かってはいた。妊娠五ヶ月、未だに床から離れない菊を、彼はしぶしぶ退出させた。普通ならばもう肥え始める頃だというのに蜜柑一つものどを通らず菊はやせ細っていた。御門は祈祷を命じ、そのために国庫の財宝を放出した。菊の元へと矢継ぎ早に贈り物をし、様子を尋ねさせて、近侍の者達を閉口させた。それでも半身をもがれたような苦しさに耐えきれず、前代未聞の措置をとった。すなわち、懐妊中参内の催促である。
周りの誰もが反対する中、ただ菊は床の中でわずかに苦笑して要請に諾を返した。回復祈願の修法を口実とした参内は、その移動だけで菊を弱らせたが、更に愛情とどめることを知らぬ新帝は二、三日のはずの滞在を大幅に延ばさせ、しかもその間寝食を忘れて菊を抱いた。抱けば抱くだけ、菊は衰弱していった。分かっているのに、触れずにはいられない。命がこぼれ落ちるのを掌全体で感じながら、それでも、いやそれだからこそなお、この世にとどめようと体をつないだ。目がくぼみ、頬も落ちた菊は、それでも御門の愛情に応え、全てを許した。公卿に強く促された親が菊を強引に引き取るまで、御門は寝所に詰め、そして片翼を引きはがされた痛みに苦しんだ。

 

「分かってるだろう」
久しぶりに聞く公卿の声は冷たかった。菊の再度の里下がりの直後、虫の音さえ止んだ夜だった。
「君が殺したんだよ、菊を」
はっとして見やる御簾の向こうで、座す公卿の目は冷たく底光りしていた。
「こ、ろ……」
「論理的に考えさえすればこの結末はみえていたはずだ。それなのに君は自分を抑えることができなかった」
「し、……ん……」
「そうだよ。君が愛したせいで、菊は消えてしまった」
「……き、」
「………そして、俺もそれを止めることができなかった……!」
だん、と強い音がした。
「おまえ……」
「………」
もう一度、強い音がした。

日本紀略によればその死は寛和元年文月のことである。
新千載和歌集には追悼の御製歌が載せられている。

なべて世の人よりものを思へばや 雁の涙の袖に露けき

山が高ければ谷もまた深い。十八歳の御門は悲しみの淵に沈んだ。
当時浄土信仰が広まりつつあった。死は末法の世からの離脱、極楽往生こそ人々に残された微かな望み。そうした教えが広まる中、菊の死に様に関して、悪意のまぶされたような噂が囁かれ始めた。身ごもったまま、つまりは穢れの中死んだ菊は往生できない。その魂は落ち着きどころ無くさまようしかない。

力を全てその手に掴んだと思っていた頃の御門なら、あるいは招魂を考えたかもしれない。
しかし、現世のそれさえ自分の手にはないことを認めざるをえない状況下で、仏教に傾倒し始めていた御門は、自分にできることはただ供養だけだと悟り、元慶寺の阿闍梨をたびたび招いて説教を聞いた。次第に彼は自分自身でかの者を弔いたいと思うようになる。

そして、寛和二年丙戌水無月二十二日。

その夜、有明の月は明るく大路を照らしていた。藤壺の上の御局の小戸が小さくあき、そしてささやき声。
「これじゃ丸見えだ。どうする」
彼は、「あさましくさぶらひしこと」を決行しようとしていたのである。神ながらの身でありながら、仏の門をくぐる。いくら神仏習合が進んだ世とはいえ、天皇の出家はやはり許されることではなかった。にもかかわらず、彼の背を押したのは、かの公卿である。彼は、自分も後に続くことを約束していた。理由を口にはしなかったが、あの日強く床を殴りつけた表情を見ていた御門は何も聞くことはなかった。
「そんなこと言ったって、やめるわけにはいかないだろ。神璽も宝剣ももう春宮のもとへ渡っているんだぞ。君はもう『その地位』にはいないんだ」
第三者のように言うが、御門がそれを命じる前に段取りをつけたのは公卿である。
月光のさやけさに逡巡しているうちに、群雲が出て辺りは少しかげった。
「これならいける。出家は成就する…!」
ああ、かの者へ、かの者の魂へ近づける。そう思って一歩を進め、しかし、とまった。
「どうしたんだい」
苛つきを隠しきれない声が後ろから飛ぶ。
「手紙を忘れた」
「手紙?……菊からのかい」
「ああ。大半は、見ているのも辛くて破いてしまったんだが、いくつか、どうしても捨てきれず、肌身離さず持っていた。それなのに、こんな時に置いてきてしまった……!」
引き返そうとするのを見て、公卿は小さくしかし鋭く「ほんっとに馬鹿だな君は!」と怒鳴った。
「何を考えてるんだい。この時を逃したらもう宮中脱出なんてできないかもしれないじゃないか。そうしたら…」
彼は片手で目を覆った。
「……あの哀れな菊に、誰が弥陀の手をさしのべさせてやるんだ……」
「……」

そうして二人は土御門大路をひた走った。途中、安倍晴明の邸宅を通り過ぎたとき、その中で変事を察知した陰陽師が掌決の呪法を行う音が聞こえ、二人はさらに足を速めた。身をすくめながらやっと元慶寺に駆け込み、御門は髪を下ろした。剃髪が終わったところで、公卿は言った。
「ちょっと身内に挨拶してくるよ。説明して、また戻ってくるからさ」
そう言って公卿はすらりと身を翻した。

落雷のように、一つの理解が今誕生した僧の中を駆け抜けた。摂関家の御曹子である公卿の、右大臣である父は、在位の二年間一貫して彼を冷遇した。血縁関係が薄いからである。彼が退位すれば自分の孫たる春宮の世となる。思えば宮中から元慶寺まで二十里もある大路で犬にも夜盗にも行きあわなかったのも偶然ではなく、この出家を、いや退位を無事終わらせんとする摂関家のはからいに違いない。全てが明るみに出た今、もはや気配をあらわにした護衛の武者は一尺ほどの刀に手をかけ、滞りない幕引きを強要している。
「騙したんだな…!」
知らず、彼の頬を涙が流れた。公卿は足を止め、顔だけで振り返り冷たく笑った。
「俺はね、君の奔放さや強さに憧れていた。だけど、あの鈴の音がその気持ちを微塵に砕いた」
「…っ」
「初恋を壊してくれたお礼に、絶望をあげるよ。菊は生きてる。……欲しいものは、力尽くで奪うことにしたんだ、君に倣って。そして、君と違って、俺は彼を守り抜く」

このようにして彼の出家は成就し、叡哲欽明と称えられた次なる天皇とその外戚・御堂関白の時代を迎えるのである。

 


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