野ばら/独←日

◆読書案内◆
 光村図書(小六 ※S40〜45、52〜54、S61〜H3)/小川未明『野ばら―小川未明童話集』童心社、1982(他)

山の中の国境碑の、左右をそれぞれ守る二人の兵士。野ばらは老人と若者、二人の友情を象徴するように香る。

◇さわこ様リクエスト?◇

※かなりそのまま原文を引いた箇所もありますが、全然違うところもあります。(未明の話にはゲーテは関係ないです)


 

 

年寄りの夢は切ないものが多くなります。
何の機会でしたかそんな風に呟いた時、彼は小さく首を傾げました。これは若い方にはまだ覚えのない感覚でしたかと私は反省し、お忘れください、と言ったのです。
ではどなたになら肯っていただけるでしょう。王さんは、そうしたことを鼻で笑って見せる方です。本当にそんなことはないのかもしれない、けれども、もし同じことを感じたことがあるなら、それだからこそ余計に、王さんは感傷をはねのけるように笑い飛ばすでしょう。サディクさんは、ヘラクレスさんは…考えて、私は首を振りました。
生きた年数の問題ではないのかもしれません。風が海を揺らし、立てた波の先端を水蒸気に変えて攫ってしまうように、空に消えた心の一部が、そしてそれらがあった箇所の埋まらない隙間が、やるせない夢を見せるのかもしれません。


夢ではたいていの場合、自分が何物であるのか、ここがどこであるのかが分かっています。まるでト書きを読んだかのように。
気づけば、私は、国境警備の兵士でした。都からは遠く、他に人影もなく、守る意味もあるまいに、私は国境を示す石碑の右に番をしていなければならないのです。特に姿形が変わったわけではないですが、私はもう退役間近な老兵で、だからこのような危険も刺激もない閑職にあるのだと分かっています。この石碑の向こうは私の国よりも少し小さな国とされています。私は、「次はどんな人だろう」と思いながら石碑の向こうの山道を眺めていました。とすれば、隣国の国境警備は交代があったのでしょう。
やがて山道の向こうから、肩に掛けた銃の先が、やがて制帽が、そして全身が見えてきました。着任した若い兵士に挨拶を返しながら、私は笑顔の奥に小さなため息を隠しました。
「初めまして、本田菊と言います。よろしくお願い致します………ルートヴィッヒさん」
彼は「他国の兵士」に対するに適切な礼儀と緊張感を以て敬礼を返し、石碑の左に陣取りました。考えようによれば、と私は思いました。平穏なこの二国の一兵卒として二人が隣に並ぶという、現実とは幾重にも異なるこの設定は、心があげた現実への悲鳴なのでしょうが、それでもまだ、分をわきまえたものと言えるかもしれない。
世界に二人きり。
けれども、それだけ。

私と彼はそれぞれ守るべき国を持ち、だから、お互い二人の間に引かれた線を越えることはない。
なんと自制の効いた心であろうかと私は夢の製造機構を哀れんでひっそりと笑いました。



私たちはじきに笑みを交わす仲になりました。他に誰もいなかったからです。
国境を示す石碑の裏には一株の野ばらが咲いていました。初夏、美しく咲いたばらの間をミツバチが飛び交う、その羽音が二人の目覚ましでした。
私たちは朝起きてそれぞれの番小屋を掃除し身支度を整えると、石碑のところへやってきました。彼は私しか見る人がいないというのに、いつもきっちりと髪をなであげ、靴をぴかぴかに磨いています。
「おはようございます。いい天気ですね」
「本当にいい天気だ。気持ちがいい」
彼はいつか最初の固い敬語を崩していました。それはなんだかいつもの口調を思わせて好ましいものでした。とはいえ、人の姿になったからか、私が年長であることははっきりしていて、何かと気を遣い、またたててもくれたのです。
私たちは国境線の上にチェス盤を置き、勝負しました。現実の世界で、私は将棋ほどにはチェスをよくしません。やはり勝てない私に、彼はコマをいくつか落とした状態で闘ってくれたのですが、何せいつまでも続く春の日、他にすることもないのですから、私は少しずつ強くなりました。勝負が嫌いではありませんから、私は懸命に考え、必死で彼のキングを狙いました。盤の下を通る国境線を、私の手は時々越え、また彼の尖兵が私の国に侵入することもありました。やがてどちらかに勝負の女神が微笑み、私たちもまた笑みを交わすのです。
小鳥は歌を、野ばらは甘い香りをおくってくれました。
「そう言えば、君は『野ばら』という歌を知っているか」
「ええ、シューベルトですね。邦訳でなら歌えます。『童は見たり、野中のばら…』」
私が最初の一節を口ずさむと、彼は原語であわせ始めました。
声を合わせて歌うなど、高校生じゃあるまいし。私は頬を赤らめつつ、しかし歌うことをやめませんでした。彼の低い声は私の細い声を追いかけ、捕まえ、包みました。

守るべきはこの線ではなく、この時間ではないか。
そう思うほど、その生活は幸せという言葉に似ていました。

彼が私を見る眼に「色」を感じたとき、私は業の深さにいっそ哀しみました。
この人に思われたい。せめて夢でも。
だけど、そんなことを実現させてしまったら、朝の苦しさはいかばかりか。
分かっているはずなのに。
私は気づかないふりをして、彼は更にそれに気づかないふりをして、同じようにチェス盤を挟んで向き合いました。私のコマはいつもきっちりと自陣の中に配置されました。彼はそれを見て、僅かに眉を寄せ、けれども何も口には出さず、兵士を動かします。鋭く我が方に切り込んできては、キングへと迫ります。一手指すごとに私の瞳をのぞき込み、彼は、それでも注意を払い、決して手がぶつかるような局面には至らせないようにするのです。私は偽りの歓喜とそれが偽りである苦しさに翻弄されながら、ただただ平穏を保とうと、国境の線を心の心張り棒としていたのです。


その日、私の番小屋には電信が届いていました。多分私と同じ時刻に目覚め、同じ文言を読んだ筈の彼はしかし、いつものように「おはよう」と微笑みました。チェス盤を用意し、並べて――その頃にはハンディをもらわずとも対等に戦えるようになっていました――私はポーンを動かしながら言いました。
「戦争、ですね」
「そのようだな」
それでもやはり、鳥は歌を、ばらは香りを届けてきました。
「…なんだか、不思議な気がします」
「うむ」
そんな風に言いながらも彼はいつものテンポでコマを動かしていきます。それはまるで戦争などこのチェスより意味がないというかのようです。だけど私は分かっていました。もう夢を終わらせなければならないのです。だからこその「転」なのです。話を進めなければ。
「私と貴方は、今日から敵同士になりました」
「……」
彼はまたかつんとコマを進めました。私の陣地への侵入。そして私の国への侵入です。促され、私はおざなりに一手を指しました。そして、言いました。
「私はこんななりですが、将校です。私の首を持っていけば、あなたは出世ができる」
「………何を言っているんだ」
彼はあの強い眼で私をにらみました。
「殺してください。どうせなら、貴方に」
言葉は途中で遮られました。いつか彼の片手はチェス盤の上に乗りコマを散らし、もう一方の手は私の口をふさいでいました。
「Roslein, Roslein, Roslein rot……」
そのまま私は草地に倒れました。初夏の美しい空が彼の向こうに見えました。

彼はいつかの日、私に聞きました。

「…邦訳の『野ばら』は、ゲーテの詩に沿っているのか?」
「ええ。繰り返しや修辞は簡略化されていますし、主語もないですが、筋は同じですね」
「少年に、ばらはなんと答えるんだ?」

ドイツ語では当然主語が明確にされています。紅のばらを見つけるのは「少年」なのです。
少年はゲーテ自身、そしてばらは彼が若き日に愛したフリーデリーケ。
あの詩は恋人を捨てたゲーテの悔恨の歌なのだと、それこそ貴方に、教えて貰いました。

「…同じです。『手折らば手折れ、思い出ぐさに、君を刺さん』」
手折るよと囁いた少年にばらは答えます。ならば刺します。貴方がいつまでも私を忘れられないように。

「君こそ、刺すなら、刺してくれ」
そう言いながら、彼は私の上に被さりました。
「やめてください、……私のために」
私の朝をこれ以上辛くしないでください。
「すまない。けれども、けれども…」
私の言葉を口で封じて、彼は呻くように続けます。
「俺はこの後山を降りる。俺は戦わなければならない。だけど俺の敵は君ではない、決して」

彼の唇、彼の指、そして彼の重み。
全てが妄想の産物である筈なのに、どうして私はこんなにもリアルに彼を感じるのでしょう。
押し返さなければならない体にむしろすがり、背中に棘のように爪を立てて、私は気を失いました。


起きたら朝であると信じていました。
しかし、そこはまだばらの香る草地でした。
私は一人残されていました。
彼はいません。戦争に行ったのです。山の下の、だけど地続きの戦場にいるのです。今私の前にあるのは野ばらの木と囀る小鳥と、散らばったままのチェスのコマ、それだけです。爆音も、黒煙も、ABCいずれの兵器も、私の前にはないのです。こんなにも世界は穏やかで、豊かで、甘やかで、それなのに、彼はいないのです。
番小屋に戻ることもせず、私はその草地の上で日々を過ごしました。

ある日そこを旅人が通りかかり、戦争は終わったのだと告げました。彼の国は負け、その国の兵士は皆殺しになったと。
私はチェス盤の置かれていたその先、いつも彼が座っていた箇所に手を伸ばしました。地面の上では、初めてする国境侵犯でした。ここに彼がいた。
そう思っていると、いつの間に現れたのか、一列の軍隊がかなたから歩んでくるのが見えました。その先頭に立つ彼は白い軍馬にまたがり、静かに静かに列を進めていきます。
やがて彼は石碑の前にさしかかり、私へ静かに黙礼しました。そして少しだけ歩みを緩め、野ばらの一輪を手に取り、しかし手折らず、目を閉じて香りをかぎました。

私はこらえきれず、名を呼ぼうとしました。
そこで目が覚めました。

 

それは、全く夢であったのです。

 


 

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