えいごのじかん/日(+にょ日とか)

◇はなお様リクエスト◇

「中学生の頃、英語の教科書でアメリカ人と日本人の会話で「これは何ですか」「これはペンです。」みたいな会話をいつもペンすら知らんのか・・!という突っ込みを覚えつつ読んでいましたので、その辺をヘタリアで・・!と・・」というコメントを頂いて、最初にぱっと思いついたのが↓の話でした(企画時あげていたのは別の小ネタ)。主人公が菊と名付けられている、以外にはヘタリア二次っぽいところがなく、暗いし落ちもないので大変申し訳ない話です。あ、パラレルです。


 

 

「ヨロシクキョコクイッカシソンアイツタエヨクシンシュウノフメツヲシンジ、ニンオモクシテミチトオキヲオモイ、……ナンジシンミンソレヨクチンガイヲテイセヨ」
大人になった後で知ったところによると、泣いた人もいたらしい。ラジオの受信の具合かもしれないし、もしかしたら最初からその内容を予測し得た人がいたのかもしれない。少なくともその夏の日、私の目の前にいた大人達は、私たち子供同様にぽかんとしていた。船でしか本土につながれないこの島で純粋培養された子供達は、「敗戦」どころか「終戦」の一言もないこの放送で、もしかしてもっと頑張れと言われているのか?と困惑顔で大人を見、大人達はそれに応える力がないことを悟った。

全ての価値がひっくり返り、ミンシュシュギと自由の時代がやってきた。

「ほーむるーむちゅうやつぁ、よう分からんのー」
級友が草笛を吹きながら上下に揺らす。軽く頷いて、ついさっきの気詰まりな時間を思い返す。HRは民主主義教育の象徴として導入された。桜先生は一生懸命に発言を引き出そうとしていたけれども、いきなり議論が大切だの意見を出せだの言われても困ってしまう。
先月、先生の指示に従って教科書に墨を塗った。子供の側から言えば、覚えることが少なくなるのは大歓迎で、だからその作業になんの痛痒も感じない。ただ、教科書が買えず、お下がりを貰えもしなかったらしい家の子が、きっと親が書き写したのだろう手製の教科書を、口をきゅっと結んだままで塗りつぶしていたのを見たときには、菊の胸は小さく痛んだ。

まあ、とにかく、と彼は草笛を吹き捨てて腕を空に伸ばした。
「せんせーがえばらんからええのう、センゴは」
それにも苦笑して頷く。なにはともあれ。堅苦しい修身や、体力的にもしんどい芋作りの時間はなくなったのだ。桜先生は前から頭ごなしに怒鳴りつけるようなことはしなかったし、墨で塗った箇所に書いてあったことを大声で言いもしなかった。だから桜先生の言うことなら信じていいような気がするんだけど、先生も黙って空を見ている。多分、戦場からそこに行ってしまったという旦那さんを見ているんだろう。

子供に見える今の空と、大人に見える空は、違う色らしい。
敵機の影がない夏の空なんて、菊の目にはただただ青く澄んで見える。

進駐軍がやってきて、子供達の王国にはチョコレートが加わった。だから真っ先にみんなが覚えた英語は「ギブミーチョコレート」、桜先生が眉をひそめる理由も分からないからみんな口々に叫んだ。
やがて英語の授業が始まった。


「This is a pen.」
「じす いず あ ぺん」
「That isn't a pen.That is a pencil.」
「ざっと いずんと あ ぺん。ざっと いず あ ぺんしる」
桜先生が読み上げる言葉をみんな一斉に復唱する。先生は綺麗なアルファベットを黒板に書いて、文法を説明した。こんな文、どこで使えるんだろう。チョコレートを貰った時の「さんきゅー」の代わりに「じす いずんと あ でもくらしー」とでも言えというんだろうか。「a」なのか「the」なのか、それも分からない。ちょっと皮肉まじりにそんなことを考えて、菊はすぐにその考えを追い払った。これは第一文型肯定文否定文と指示代名詞の勉強でしかない。どこかでそのまま役立つ文ではない。だって、「これはペンです」なんて、誰に向かって誰が言うのだ。
桜先生は黒板を消した。新しい文を書き、「はい」と復唱を促す。
「I am an American boy.」
「あい あむ …」
周りは聞こえたまま復唱している。
桜先生でさえ、淡々と読み上げている。文法を覚えるための文。使うことを想定されていない、ただの例文。

分かっているのに。

菊は、きゅっと口を結んだまま、手元のノートをじっと見ていた。



「瀬戸内少年野球団」とのダブルパロでした。
原作者阿久悠にとっての「戦後」は底抜けに明るいものだったらしいのですが
数歳上の映画監督にとっての「敗戦」は挫折感が先にきたらしく、
その辺の感覚の差を表すために原作にはない↑のシーンを入れたのだそうです。
…という話に燃えて心のメモ帳に書いていたのですがうまく料理できなくてすみません。
なにせ原作未読

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