三輪裕子「緑色の休み時間」/英+日

◆読書案内◆
 三輪裕子『緑色の休み時間−広太のイギリス旅行−』講談社、1988

「風に緑のにおいのするイギリスの夏。広い広い農場で、広太は青い目の少年に出会った。ことばは通じなくても、ふたりはいっしょに山に登り、自転車をのりまわし、わすれられない夏をすごした…」(表紙見返し)

◇さわこ様リクエスト◇

※教科書ではなくて、課題図書です。健全な本にあわせて、健全に。お友達指数をあげたい菊さんのお話。↑の話とは部分的にしか重なりません。


 

 

そうは言っても、ということが、長い人生の中にはいくつもある。
世に知られたこの詩もそうだと、菊は背伸びにつれてぽきぽきとなった関節を撫でながら思った。

曰く―――年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

一般論としてはその通りだと思う。実際、今の国民には年齢を聞いて「え」と思うような人が多い。一昔前は四十で初老と呼ばれたものだが、今は六十五定年制を無茶だと思う人は少ない。女性の肌もスキンケアである程度瑞々しさを保ち得るようになったし、医療の発達が平均寿命を延ばしもした。端的に言えば、アンチエイジングにコストを掛けられる程度には豊かな社会になったのだ――まだその程度にはそうでもあるのだ。
人生五十年、そう言われた時代には、還暦を迎えたらあとは文字通り余生と言われたものでしたが。
十干十二支など何周したか分からない菊だが、流石にそんな安穏なことは言っていられない。国である以上、常に「現役」でなくては。そうだけれども――確実に、内部にたまるものはある。

失っていく、と表現する人は多い。筋力を、柔軟性を、そして情熱を。
積もっていく、と表現する人もいる。痛みが、病巣が、そして失望が。

菊は、淀んでいく、と思う。まるで湖面のように表面は澄んでいる、猛々しい征服欲は澱のように沈むから。一緒に沈む精気や冒険心は、しかし、嵐に際しては湖底の塵芥が水の中を舞うように、菊の心の底にやはりある。あるのだが、取り出せない。

―――もし子供の姿に戻れたら何をしたい?

こんなことを思うのも、変なことを聞かれたせいだ。
たまたま二国間の協議があり、来日していたアーサーにだ。空港に見送った際、ラウンジでもてなした。丁寧に入れられた紅茶をアーサーは小さく頷いて口に含んだ、その穏やかな談笑の時、彼は不意に聞いたのだ。
―――そうですね……

答えを探して菊は目を泳がせた。子供の体を得た自分は何をしたいか。それを思いつかないほどに、「子供」が菊から遠かった。
何歳までを子供と呼ぶかの基準も違うけれども。私がそう呼ばれる姿だったのは、平安の頃でしょうか。その頃の私は、ああ、そうだ、今より人外のものと親しかった。あの頃の私なら……

―――その姿で、アーサーさんにお会いしてみたいです。

一瞬目を見張り、それからアーサーはゆっくり笑った。そして最後の一口を綺麗に干して、カップを置いて立ち上がり、また来る、と手をあげた。
お辞儀で返礼して、アーサーの背中をしばらく菊は見送っていたが、やがて椅子に腰を下ろした。
アルフレッドには強く、頑強に!反論されるが、菊の目に映るアーサーは完璧な紳士だ。もちろん、その……あまり正道とは言えない外交手腕や歴史の暗部のことは知識として知っている。しかし、国家としてどうあれ、アーサーとしては、紳士としての型枠を外さない。同じく自分を律するタイプの菊には昔から憧れの相手だ。
縁あって同盟を組み、運あって敵対もしたが、現在彼とは良好な友人関係が結ばれている。それこそ、とても紳士的なおつきあいが。
それで満足できない、もっと周辺国のような気の置けない間柄になりたい、というのは、菊のわがままだ。そして、それこそそんな子供のような気持ちが確かにあるくせに、それを告げる勇気は、心の底に深く沈んで、なかなか表面には出て来ないのだ。

 

数日後、児童向け小説を読みながら床につきそのまま眠り込んでいた菊は、妙な違和感を感じて目を開けた。と、中空に、いつぞや見たことのある破廉恥な……もとい、奇天烈な……もとい、……成人男性としては多少違和感のある、天使みたような格好をしたアーサーが浮かんでいた。絶句したままそれを見上げていると、いきなり彼は星のついたステッキを振り下ろし、「ほあた☆」と唱えた。

菊の目の前にはドライアイスを大量に撒かれたような白い煙がたった。そして、気がつくと、深い深い森の中に、菊は倒れていた。

菊のアーサーへの(ある意味)色眼鏡は年季の入ったものなので、それくらいで動じはしない。しかし、例えばあのイマジナリー・フレンドたち……というか率直に言うなら、妄想には、ついていけないとも感じている。ついていけないから―――もっと心の若い頃の自分なら、と思うわけだ。
そして、以前彼が「ちっちゃい隣国」という奇跡を起こしたことも、非日常的な(破廉恥な…もとい、以下略)映像が脳に衝撃を起こしたが故の共同幻想だろうと思っている。

であれば、これは夢だ。

入眠にしてはダイナミックな……。菊は起き上がりながらその世界を見渡した。フィトンチッドが濃く感じられる。素敵な森だ。ここ最近の東京ではお目にかかれない。そう思いながら首をぐるりと回そうとして――するんと回ったそれに菊は目をまたたかせた。関節が、痛くない。思わず肘を掴んだ、その手が、小さい。
「わ」
服まで変わっている。Tシャツに短パン、動きやすくはあるだろうが膝小僧を晒すなどあまりにも若ぶった所行に見えて菊は顔を赤くした。そのまま足をさすり、視界の端に湖を見つけ、湖面に顔を写した菊は、ローティーンと化した自分の姿をはっきりと認識した。姿形としてはまさに平安中期くらいだろう。しかし衣服のせいでまるっきり現代の小学生と化している。
―――夢に見るほど若返りたいなどと思っていたのでしょうか、私は……。
大人は大人でいいものでしたけどねえ、などと思いながら、それでも、子供特有のわくわく感が腹の底からわいてくるのを感じた。
今ならフェリシアーノ君のように、フレンドリーに振る舞えるかもしれない。突然そう思い、口調を真似して「菊だよー」と言ってみる。
「…何やってんでしょう」
素に返ればやはり恥ずかしい。とはいえ、その程度も随分軽い。心まで子供がえりしてしまったようだ。
今なら木々の合間に物の怪を見ることもできるような気がする。森や山など自分の一部、暗闇さえ怖がることを忘れた菊だが、何と無しに心細い。森を一人さまよう幼子のような心持ちを感じながら歩いていくと、少し開けた場所に出た。
「うわあ……!」
空間の先に、灰色の岩肌でそそり立つ山があった。ごつごつとしたその偉容は、富士のなだらかな稜線とは全く違う迫力で菊を引きつけた。
「登ってみたい…!」
思わず呟いて、その言葉を耳から脳に届かせて、菊はぎょっとした。山に登りたいと思うなど。確かに、リタイア世代の趣味として登山やハイキングはよくある類のものだけれども。引きこもり気質でおたく万歳の自分が、そんな子供じみた征服欲を表に出すなど、あるはずのないこと。かぶりをふるが、いやしかし、自分の中の湖は確かに底からの吹き上げを起こしている、それは「わくわく」という擬音語を発している。

少し、気を静めよう。そう思って、菊は森の中に引き返した。すると、さっと動く何かの気配を感じた。先ほど、まるで何かがいそうだと思った木々の間に。確かに、いる。
足を止め、息をも止めて気配を探ると、向こうも息を潜めている。しかし歩き出せば菊の歩みにつれて、木から木へと姿を隠しながら並行するのだ。
「こんにちは」
とうとう菊は声を掛けた。返事はない。気配すら薄くなった。しかし菊は感じた。いる。
「ねえ、姿を見せてください」
ちら、とマントのような布が揺れた。踏み出すと、しかしさっとそれは翻り、距離は保たれる。猫のようだ、と菊は思った。警戒心の強い、俊敏な――野良の子猫。
子猫と思ったのは、身の丈が、子供サイズである自分と変わらなく見えたからだ。だからこそ、近づきたい、と思った。今なら人外のものともつきあえるのではといっても、追儺の鬼のような姿の者と向かい合うのは、今の心臓の大きさにはなかなかつらい。
「私は菊といいます。あなたはどなたですか」
その呼びかけに、その何物かはちらりと顔をのぞかせた。ほんの一瞬だったが、菊には十分だった。
「……アーサーさん……!」
その言葉に、彼はまたちらりと顔を出した。その特徴あるはねた金髪に、グリーンアイ。
「私、菊です。本田菊。アーサーさんですよね!」
嬉しさに思わずかけよったが、なんと、彼は後ずさって距離を保った。それに気づき、菊は慌てて止まる。彼はもはや気配を隠しはしていない。ほぼ半身を見せ、けれども、その瞳には不審が溢れている。
なんだろう。分かってもらっていない。ことばも通じてない。この姿で彼に会ったことはなかったから、すぐには分からないかもしれないと思ったけれども―――私にはすぐ分かったのに。ああ、フランシスさんなどから聞いて想像していた通りの、おかわいらしい童形のアーサーさん。折角私も子供のなりだというのに……と考えて、菊ははたと思い当たった。
自分は、これが夢だと知っているから、彼がアーサーであると分かっている。そして自分と同様に、「今の彼」の「姿」だけが幼くなったものと思っている。しかし、そうではないのだとしたら?本当に「その姿の頃の彼」なのだとしたら?
それなら、ことばも通じまい。国同士の間で成立する特殊言語はまだ彼の中にない可能性がある。そして、その存在を知る筈がない菊という名前に反応しないのも道理である。
小さな姿をマントに包んだアーサーは、菊の姿を検分しているようである。もし本当に「その姿の頃の彼」なら、今の格好はどう見えているだろう。「変な形の下着で出歩いているやつ」と思われている可能性に思い至って、菊は顔を赤らめた。
と、目の前のマントがひらりと動いた。あれ、と思う間もなく、するすると、彼はその身を隠していた木によじ登っていく。一番下の大きな枝のところでとまり、腰掛けて、菊を見下ろす。その眼に、菊は挑戦的なものを感じ取った。
……ばかにしないでいただきたい。
子供らしく、菊はかちんときて、その木の下まで歩み寄った。手に唾をふきかけ、幹にしがみつく。一瞬腰のことを心配したが、まったくきしみも感じられない。体の軽さに感じ入りながら、菊は体を上に運んでいった。と、それをじっと見下ろしていた彼は、もう少しというところで更に高い枝まで登っていった。
うわ。
ほとんどてっぺんに近いところに腰掛け、「どうだ」と言わんばかりにによによとこちらを見下ろす緑色の眼に、菊は更に枝を伝って近づいていった。
た、高い。
こんな高いところまで登るなんて、このなりの時でもあまり経験がないような。腰の辺りがひけるようなむずむずする感触に襲われながら、菊はようやっと彼の座っている枝の一つ下までたどり着いた。腰掛けるのは流石に怖くて、枝にまたがり、彼を見る。どうです。実のところ、彼のような平気そうな顔はとてもできず、まして下を見下ろすことなどできないのだが、平気そうな顔を取り繕う。今の私はまるっきり子供だと、菊は心の片隅で思う。
さあ、どうです。来ましたよ、アーサーさん。
そんな顔で見上げると、彼は、にっと笑った。
やるな、お前。
言葉ではなく、そんな「男の子の共通言語」で語りかけられた気がした。思わず笑い返すと、彼はするすると木をおりはじめた。内心ほっとして、菊も後に続く。
地面で待っていた彼は、もう姿を隠さなかった。掌の汗を拭いながら、菊はその顔かたちをまじまじと見る。ああ、本当におかわいらしい。
いかにも手入れなどされていない金髪はあちこちはねて、透き通るほど白い肌をかたどっている。左右対称に整った顔には、翡翠のような美しい瞳。その口元には少しだけ親しげな笑みが浮かんでいる。
間違いない、と菊はちらりと思った。もとの自分なら、「萌え!」と叫んでのたうちまわっていたに違いない。そう思うそばから、今の自分を支配する感情は「萌え」とは違うなと考える。そのように対象物を愛でる目線ではなく、もっとフラットに、近づきたい。
わたし、あなたと友達になりたいです。今みたいに木登りしたり、竹馬したり、あ、そうです、あの山に登ったり。ああ、言いたいことはシンプルなのに、ことばが通じないなんて。
せめて名前は分かってもらおうと、胸に手を当てて、「菊」と言った。彼は頷く。顔を見て――指をさしても無礼にあたらないかどうかが分からない――「アーサー」とも言ってみる。「は?」という顔をされた。発音が悪いらしい。thはだめなんですよねえ、そう思って、早々に諦める。自分だけが分かっていればいい。
そうだ、と菊は思い当たり、手頃な枝を拾ってきて、地面に長方形を書いた。簡単な一筆書きで五大陸を描き、日本列島を書き込んで、「ミー」と言う。首を傾げられた。
あ、と菊は思う。そりゃあ、そうです。今のこの人は、アルフレッドさんの存在を知らない。メルカトル図法世界地図なんて、それが何を表すか伝わるわけがない。
そこで菊は一度中身を全部消して、ヨーロッパの辺りから描きはじめた。
「フランシスさん……アントーニョさん……フェリ……くんはまだいないんでしたっけ……」
それでも今度は何を書きたいか分かったらしい。ふんふんと頷きながら見入っている彼に、大ブリテン島をくるっと囲んで、「ユー」と言ってみる。
彼は眼をぱちぱちとさせた。
そしてようやく、さきほどの「ミー」の含意が分かったような顔で、ぽんと手を打つ。なるほど、なるほど。そういうことか。
そして、「You?」と尋ねてくる。もう一度書けと言っているのだと理解し、そのヨーロッパから広げていく形でユーラシア大陸を書いていった。そして、その隣に日本列島を書き込む。
「これです」
大ブリテン島とフランスの間に親指と人差し指を置いて尺をとっていた彼は、その指を交互に軸足を変えて動かしながら日本までたどり着いた。そしてその倍数の大きさに呆然としたような顔で菊を見つめる。あの、すみません、距離が正確かどうかは自信がないのですが。
彼は、腕を大きく広げた。「遠い」。そう言いたいのだろうと菊は解釈した。確かに、遠い。飛行機でも十数時間、この時代なら船と陸路をついで何年かかるだろう。
間にそびえる山脈と大洋。彼我を隔てる文化の壁。
ですけど。そうですけど。

アーサーさん。
菊は、一歩近寄り、その開いた彼の両手をつかんで、前に戻させた。


ねえ、こうしてつなぐなら、私と貴方の間の距離は、ただ手の長さだけではないですか。

 

―――ああ。
また頭の片隅で菊は思う。
この子供の蛮勇とも言うべき勇気が、今の私にもあるなら。

驚いたように見張られていた瞳は、やがて露を受けた新緑のように輝き、和らいだ。

―――私でも、年老いた、淀みのたまった私でも、この瞳に会えるのでしょうか。

年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

それがもし、この友誼の感情であるならば。私に必要なのは、妄想の世界を見る眼ではない。ただ手を伸ばす勇気だけだ。

もちろん、いきなりその手に触れることなどできはしまいが。菊はこっそりと笑う。心の小部屋をノックくらいしてみてもよいのではないでしょうか。

 

 

朝。
首を捻りながらアーサーは目を覚ました。渾身の魔法だったというのに、菊は夢の中に現れなかった。効いた手応えはあったのだから、菊はやはり幼い姿となって誰かの夢を訪問した筈だ。
―――あーあ。
紳士としてあるべき姿の型枠と、いろいろな歴史的経緯が重なって、どうにも言えていない言葉がある。無邪気な子供に戻れば言えるのではないかと考えたアーサーは、自分のツンデレが筋金入りだということを認識していない。
―――そんなものに頼るなってことかな。
それにしても、一体何が、夢の通い路の道筋を変えさせたのだろう。頭をかきながらベッドをおりたら、執事が持ってきていたらしい封書が眼に入った。レターナイフを取り出していると携帯電話がなる。菊からだ。作業を続けながら携帯を肩に挟んで応答する。
行儀の良い挨拶と先の外交に関する事務連絡とをいくつか交わし、その他としばらく躊躇った様子の末に、菊は言った。
「あのう、アーサーさんのところに、ウロイドバ……スノードン山という山がありますよね」
「ああ、国立公園だな」
「宜しければ、今度お伺いしても宜しいでしょうか」
げ。
その音を飲み込めたのは、我ながら上出来だったと思う。あの空気を読みすぎる日本人は、訪問に対する感想と受け止めるに違いない。
そうではない。
アーサーの喉に蛙を踏みつぶしたような音をもたらしたのは、切った封筒から滑り落ちた紙の、いっそ懐かしいとも言える「呪」の文字だった。今まさに菊が訪ねたいと言った兄の筆跡は、しかし、あの頃のようなまがまがしいものではなく、冗談めかしたような――しかしどこかに本気を滲ませたようなものとなっている。
手紙には続けて、「本田菊の連絡先を教えろ」と書いてあった。
「ああ……」
今度の音は止めようがなかった。全てを、つまり昨日菊が誰の元を訪ねたのかを把握したアーサーは、その残念な「昨夜」と、自業自得と言えば言える三角関係の出現に頭を抱えた。

 


ウェールズのお話なんです>本

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