梅崎春生「猫の話」/普日 |
◆読書案内◆ 若干グロテスクな表現が含まれますので反転。 若者の部屋に猫が居着いていた。猫は部屋の蟋蟀を捕らえたり余所の家に忍び込んで腹を満たしていたようだったが、いつも痩せていた。若者は猫にカロと名付け、食堂から魚の骨を持ち帰ったりした。ある日、窓から大通りを見下ろしていると、その目の前で黒い自動車がカロをひいた。広い車道の真ん中にぼろ布のように転がるカロを見、若者は泣いた。翌朝、既に何度も自動車にひかれたらしいカロの死骸はうすっぺらく広がっていた。次の日には乾いたカロの死骸はめくれ始めていた。更に翌日、風化し始めたカロの死骸は、その上を通り抜ける自動車のタイヤに千切られ、持って行かれ、少しずつ小さくなってきていた。最後に顔の部分が残り、その最後のカロも自動車に連れ去られていった。今やカロは数百片に分割され、タイヤに付着して東京をかけめぐっている。カロは完全に死んだのだ。 ※1947普消失ネタです。上記通り、グロテスクな表現が含まれる話の変換です。苦手な方はお戻り下さい。 ◇きた様リクエスト…というか。印象に残り続けた話として挙げていただきました◇
ベネディクト・アンダーソンが「国家は想像の共同体である」と説いたとき、菊ならずとも多くの国は「何を今更」と思ったにちがいない。国は実体を持たない、そんなことは菊たちには自明のことだった。人としての姿を持ち、ものを食べもし字を書きもするが、ふとしたときに自分の姿が透けているのに気づいたりもする。では虚像なのかと言えばそうとも言えない。国民の想像の結果、国家はそこに存在を獲得する。国家は、”在るとされているから、在る”。そこに国を見る人々の意識が彼らの姿を現出させる。顔も形も、性格でさえ、自身の所有物ではなく、その地理的有り様と国民の意識が反映したものとなる。
菊より多くそうした国を見送った耀も、同じような目で酒を飲むことがあった。 高堂に置酒し 悲歌して觴(さかづき)に臨む 幼い頃兄と呼ぶ人の背を見ながらそうしたように、菊は、遠く月を見ながら蒸留酒を口に運ぶギルベルトにも声を掛けられずただじっと後ろに佇んだ。 時代という冬から逃走するように二人で駆け抜けて、しかしそれが故に、ウルトラナショナリズムとの名で二人は断罪された。 食糧にも事欠き、ただ病室の窓から世界を見るしかできない菊の前で、まるで車に小動物が撥ねられるようにあっけなく、プロイセン王国はドイツ暴走の元凶として解体されることになった。 アンダーソンが言うように、国家は”最初から在るもの”ではない。連続する時間の中で、今を呼ぶ一つの言葉が国名なのであるから、「死」は瞬間であり、遺骸さえ残さない。だからそれは菊の幻覚である、間違いなく。そうであるにも関わらず、菊は、ギルベルトの身体が、連合国の鉄槌によってぐしゃりと潰される音を、空気の振動を、飛び散るものを、ありありと感じ取った。鉄槌を振り下ろしたその手も、その感触に怯んだ、しかし、正義という言葉を思い出したかのように力を取り戻し、力強く去っていった。北西ヨーロッパの暗い冬の雲の下、ギルベルトはそこに潰れていた。 私の目の前で、彼は、死んでしまった。あの高らかに笑うギルベルトが、意地悪い目で菊を翻弄するギルベルトが、そして一人静かに杯を傾けるギルベルトが。 窓の外は次第に暗くなり、やがて雨が降り込み始めた。嵐の時代が近づいていた。冷たい戦争。そのように呼んだのは、火花を他者に押しつけた者だ。菊の目の前で火花は散り始めていた。閉じない瞳の前でいくつもの閃光が落ちては消えた。
それは菊の幻覚であり、だから菊にはどうすることもできない。かれを道路から引きはがし飛び散った内臓の欠片を手で掬って、全てを墓に埋めてやることなどできないのだ。
70年代。軍拡競争は続いていたが、次なる世界大戦の現実性を誰もが感じなくなっていた。第三世界の台頭、多極化、複層構造化する世界。それまでのフレームが役立たなくなっていき、誰もが新しい世界の軸を見定めようと眼を凝らしていた。 そうして、菊は気づく。 ギルベルトの死骸が、小さくなっている。 「………え………」 窓に駆け寄り眼を凝らすが、やはり一回り小さくなっている。 「……っ!」
人は二度死ぬという。
国に実体はない。国民の、在ると思う気持ちがそこに国を在らしめる。 新しい事態。大きな変化。そうしたものが、まるで動物の死体を踏みつけて通り過ぎるトラックのように、ギルベルトの死骸の端を千切っては飛ばしていく。 既にギルベルトは、崩れ、乾き、ただの物体と化している。それが少しずつ剥がれ、風に連れ去られていく。 「あ……う……っ」
それからは眼が離せなくなった。幻覚であるが故に人に訴えることも出来ず、しかし忘却が現実であるが故に押しとどめることもできないまま、ギルベルトは菊の目の前でぼろりぼろりと崩れては飛び散り、その本体は小さくなっていった。 あれは私を見つめた眼、あれは私を噛んだ歯。私を慰撫した唇。 「ぐ……っ、ふ……」 膝が自重に耐えられず崩れ、菊は窓にしがみついた。その菊の、目の前で、また風が吹く。
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中学歴史の教科書に、「プロイセン」はかなり唐突に出てきます。 蛇足ですが、引用詩は陸機の「短歌行」。 |