今西祐行「一つの花」/普日

◆読書案内◆
 東京書籍(小4)/今西祐行『一つの花』 (ポプラポケット文庫)ほか/大きな声で言えませんがぐぐると出てきます。
◆あらすじ◆
まだ戦争の激しかったころ。いつもお腹を空かせていたゆみ子は「一つだけちょうだい」が口癖になった。やがてゆみ子のお父さんが出征することになり、ゆみ子はお母さんと一緒に駅に見送りに行く。ところが、ゆみ子は「おじぎり、一つだけちょうだい」とぐずりだしてしまう。

※1947年消失ネタです。明るくはないのでご注意ください。


 

一度だけお願いします。

それが菊の決まり文句だった。
実際、ギルベルトも暇ではなかった。まだ幼いルートヴィッヒの養育に、それを快く思わない諸邦との折衝。いくら賓客扱いだからといって、地球の裏に近い小さな島国の留学につきあえる時間はそう多くない。邪魔すんなと部下に釘を刺している講義時間さえ、突発事には削られる。「許せ」と片手で謝ると菊はいつも落胆を押し隠して「とんでもない」と微笑む。それがいじらしくて、今度は部下に「1分待て」だの「あと1頁だけ」だのと両手を合わせる。そんなことが重なるうちに、菊がその言葉を言うようになった。

もう一度だけ説明して下さい。
一つだけ、質問してもいいですか。

知りたいことはたくさんあるはずだった。政治学、法律学、軍事学…それだけではない、衣食住の全てが、もっと言えば、彼を包む世界の全てが「学ぶべきこと」であり、しかも同時に「即席に学んでも身につくはずのないこと」だった。ノイローゼになってもおかしくないような重責をその肩に受け止めて、菊はその吸収欲を先鋭化させた。
いくら腹を空かせていても、食べ物がないなら欲しがることもできまい。あると分かっているから欲しくなる。しかし、簡単には与えられないことも知ってしまっている。だから、彼は言う。「ひとつだけ」と。

ひとつだけちょうだい。

無邪気に「全部をくれ」と言わない、その分別が、痛々しかった。一つだけ。一つだけ。そうやって喜びも楽しみも一つだけ欲しがっていくのだろうかと思うと胸がつまり、髪に手をつっこんでぐしゃぐしゃにかきまわした。

 

ひとつだけ、ひとつだけ、…でも、その欲望は無限に続いて。
―――そして、走り続けた菊は、やがて業火に焼かれた。

 

「よう」
病室を見舞えば、菊は薄く目をあけた。そして、寝たままという無精を詫びるように目礼した。
丸椅子に腰掛けると、菊はぎこちない動きで身体の向きを変えた。
「ギルベルトさん…」
「おう」
布団の上に投げ出されていた手に、手を重ねる。骨と、皮と、筋。刀どころか箸さえ落としてしまいそうな、手。それがゆるゆると動き、指を絡めてきた。ギルベルトの手も一回りは小さくなった。そして、儚くなった。

 

解体指令が、出た。
プロイセン王国は名実共に消滅する。

 

肉によるクッションのない菊の指は、ほとんど刺すようにギルベルトの手を掴んだ。

菊の乾いた唇が、小さく開いた。

「ひとつだけ、ください」
「何をだよ」
国としての何もかもがギルベルトには不要になる。だが、やれるものなど何もない。軍力も資本も全て連合軍の管理下にある。

「約束を」
「……」

菊はひたりとこちらを見つめた。
指の力が強まった。

「また逢おうって、言ってください。一度だけで、いいから」
「……」

嘘でもいいから。
気休めでもいいから。

その目はそう言っていた。
菊は変わらない。
ギルベルトの何もかもが欲しいくせに、そうは言えず、一つだけ、一つだけと……

 

そのくせ、どうしてもやれないものを言うんじゃねーよばーか。

 

ギルベルトは、指をほどいて立ち上がった。崩れた顔を見られたくなかった。しばらくトイレで唸り、顔を洗って出たところで売店が目に入った。
「…それ」
「はい、お見舞いですか?」
気立ての良さそうな少女が花の入ったバケツを並べていた。花屋を兼ねているらしい。
「1本くれ」
「…1本、ですか?」
「ああ、1本でいい。それ、***号室の本田ってやつに届けてくれ」
「はあ…」
花束を作るつもりだったろう彼女は、花鋏を脇に置き、伝票を取り出した。
「ヤグルマギク、1本。と。カードはどうなさいますか」
「いやいらな……いが、1つだけだから大事にしろって伝えてくれ」
「はい、分かりました。―――あ、じゃあ、お客さん。鉢にします?」
「……鉢……」
「普通は縁起が悪いのでお薦めしないんですけど。大事にしろって言うんなら、すぐ枯れちゃう切り花よりいいかなって」
「ああ、……じゃあ、頼む」

まるで形見のようなそれを、菊はどう思うだろう。けれども、あの頃、「あと1分」という言葉から汲み取ってくれたように、理解はする筈だ。与えたい気持ちはあるのだということを。


ヤグルマギクは育てやすい花だ。もしかしたらこぼれ種が次の花を咲かせるかもしれない。

 

花は、続いていく。一年一年、世代を繰り返して――

 

いつかお前が俺を忘れる、そんな日にも、お前の庭をこの花が彩ればいい。

 


 

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