ジャン・コクトー「シャボン玉」(詩)/日+α

◆読書案内◆
 詳細不詳/ジャン・コクトー(堀口大学訳)『コクトー詩集』 (新潮文庫)ほか
◆引用◆
「シャボン玉の中へは
 庭は入れません
 まわりをくるくる廻っています」

※菊と一般日本人との絡みがあります。「春好き」前提。諸々、ご注意ください。


 

「中学生になったら彼女つくる!」
そんな卒業式にふさわしからぬ抱負に腕の中のぽちくんはキュワンと鳴いた。「うへえ」などとこちらも子どもらしからぬ友達のいらえを受けて、「つくるったらつくる!」と拳を握りしめる男の子……それを困ったように見つめる母親、しかし彼女も似たようなことを言っていたのを菊は知っている。

高校生になったら彼氏つくる、社会人になったら一人暮らしする。そんなことを言っていたのに彼女の大学卒業はバブル崩壊後の就職難と重なった。出て行くはずだった彼女の家には代わりに恋人の男が尋ねるようになった。婿養子ってことじゃないんですけどね、そうそう、ちょうどマスオさんみたいに家に来て貰うことになったんですよ、と落ち葉を掃きながら行ったその母親もまた家付き娘だった。

第二次ベビーブームの時期に娘を産み落とした彼女はまさに終戦がもたらした帰還兵の子、何もかもを無くした菊に、それでも明日を思わせる力強い産声の一端を担った。ものが足りない時代に育ち、それでも「明日はきっと今日よりいい日」と信じ、菊にもそう思わせてくれた。

彼女にその言葉を教えたのは、出征前に花嫁をあてがわなければと急かされるように結婚し、その通り蜜月を数ヶ月と持たずに戦場に向かった父だった。文系だったため学徒出陣の対象となったのだ。日々兵営の中で削られそうになる心を、万葉集の歌々を心の裡に思い返すことでからくもささえたのだと、のちの日に呟いていた。

五人兄弟の末子だった彼が家を継いだのは、他が全て戦場に散ったからだった。すぐ上の兄は遺骨さえ帰らず、遺品として家族に戻されたのはただその地にあったつちくれだった。菊が国であることを、隣に長く住む一家として知り、全く見目の変わらない菊をも「そのようなもの」として自然に受け入れていた隣人は、しかし、母としてそのつちくれを受け取ったとき、初めて、そして生涯ただ一度、ひとでないものを見る眼で菊を見た。

彼女が生まれたのは日英同盟が失効した頃、その彼女の父親は日清戦役の年に生まれた。積年の劣等感の反動だったのだろう、対清蔑視の空気が世に満ちる中、そして日露戦役と国際的地位の急上昇にどこか熱に浮かされたような温度の中、ただ一人しんと歩みを保ち、ただの隣人にしては敬意を込めて、しかし祖国に対するにしては素っ気なく菊と接した。

彼のその温度の低さは、或いは実父の温度の裏返しだったのかもしれない。彼は、熱烈に菊を恋うた。彼は黒船のたてた波を揺籃として育ち、勤王と佐幕の中で揺れながら思春期を迎え、迫り来る東征の軍靴の響きに惑った。そして、ただ確かなのはこの掌に感じる存在だけだと菊にすがり、菊とのくっきりとしたつながりを求めた。

幾ばくかの攻防の後、畳の上に菊を組み敷いて、熱く情を乞うた。しかしその荒い息の下でも凪いだままの菊の瞳を見、彼は絶望に顔を歪めた。
「そこもとに、我を思う心はないか」
菊は伝わるまいと思いつつ静かに言った。
「そういうことではないのです」
「なぜじゃ。それがしがまだ幼いからか。弱いからか」
そう問い詰める若者の手は強く、熱かった。人間の熱さだった。
「私は蛤の息が見せる幻のようなもの。貴方方が『ある』と思うからここにいるに過ぎず、貴方方の見たい姿を羽衣のように纏うだけです。――私は貴方方の世界には入れない」

菊を所有しようとした男はそれまでにもいた。しかし、恋われたのは初めてだった。菊は理解していた。これが来たりつつある時代が普遍的に要請する幻覚であることを。国民国家。それは次元の異なる二語の乗算……その幻覚を共にする共同体である。
もう菊の心は菊のものではない。
誰かのものであってはならず、同時に誰ものものでなければならない。
菊の中に彼らがいるのではない。彼らの心の中に菊がいる。
菊は静かな眼で見つめ返した。生まれた時から知っている、いつの間にか精悍な顔つきになった、―――もし菊のありようが違っていたなら手を預けたかもしれない青年を。
彼は菊の薄い胸に額をつけ、しばらく肩で息をしていたが、やがて身体を引いて、刀をつかむとそのまま上野へ向かった。

その激しい戦の中でも、そして転戦した函館でも命を拾った彼は、しばらくの逼塞ののち、人材不足の新政府に求められて奉職した。長い間独り身でいたが、晩年妻をめとり子をなした。花びらの散る中、祝いにと餅を持っていった菊に、彼はほころぶように微笑んだ。

「あ……」
菊は顔を上げた。
「つぼみがもう……」

時はうつり、花が開く。

「では団子の材料でも買いにいきますか」

 


 

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