※ご注意
・歴史上の人物が登場し、その視点で話が進みます。
ヘタリア二次的に不可触領域話です。二十世紀初頭ドイツの歴史について少しでも地雷のある方はお戻りください。
ハンガリー語でシレージア、ドイツ語ではシュレジエンと呼ばれる地域は琥珀街道の一環をなす要地であり、豊富な石炭資源により古くから周辺諸国の垂涎の的となった繁華な街を形成していた。地方を貫くオーデル川はゆったりと船を運び、富を運び、人を運んできた。
中心都市ブレスラウの河川敷で花冠を作っていたフリッツはさくさくという足音に顔を上げ、見慣れない少年に気がついた。自分と同じくらいの年格好なのに輝いて見える。美しい金髪に青い瞳。半ズボンから伸びる足はすらりと細く、まだギムナジウムに通う年齢でもないだろうに身だしなみの整い方はもう青年のようだ。
「こんにちは…」
やあ、と気さくに声をかけられなかったのは、自身の内気な性格のせいだけではなく、かの少年のその綺羅綺羅しい佇まいへの気後れもある。
「こんにちは」
少年は生真面目に礼を返した。大人がするような腰を折っての礼に、フリッツもあわてて真似で返す。こんな綺麗な子、見たことがない。
「よその子?」
JaかNeinで答えられる簡単な質問のつもりだったのに、少年は眉間に皺を寄せた。
「…どうなのだろう。違う、と思う。……ここは『余所』ではない、と断言したい、気持ちはあるんだが……」
やっぱり他人から見ればあれは兄さんの無茶だろう…と少年はもそもそと呟いた。意味が分からない。けれども、その表情には覚えがある。「ここの家の子…だよね?」と客に聞かれた時の、鏡の中の顔だ。
そうだと断言したい。ここは僕の家、あの人は、確かに、僕のお父さん。言わずとも分かって貰いたいことが、他の人の中で質問になってしまうとき、多分大人でも、ちょっと泣くのを我慢するような顔になる。
自分とは何か、何に所属する存在であるか。
そんな根源的な問いを抱えてしまうのは、子供には辛い。
後で思い返せばそういう論理になることを感じ取ったのだろう、まだそれが分かる年ではなかったフリッツは、とにかく少年にやみくもな親近感を抱いた。
「僕は、フリッツ・ハーバー。君は?」
少年は長い睫をしばたかせて、こう答えた。
「ルートヴィッヒと呼んでくれ」
「うん。君、おじさんと同じ名前だ!」
声を弾ませると少年もにこりと笑った。人形のような綺麗な顔だけど、笑うとすごく優しい表情になることに気づく。と、その目がはっと見開かれた。
「…もしかして、先年日本で殉難された、あの?」
「……うん」
ルートヴィッヒ・ハーバーが在函ドイツ領事館の領事補として赴任したのは1874年、そのわずか半年後。政体が変わって間もない日本にはまだ攘夷運動の余波がくすぶっていた。よそ者がこの国を悪くしている。そう思った「愛国者」が、たまたま遭遇した「外人」を脇差しで斬りつけた。彼は宣文を手に出頭し、斬刑に処せられた。
「それは、本当に……」
なんと言っていいか分からない様子で頭を垂れたルートヴィッヒに哀悼の意を感じ、フリッツは「ありがとう」と答えた。ルートヴィッヒは眉間に皺を寄せたまま首を振った。
「何もしてあげられなくて……。問題にすることもできたんだ、戦争の口実になりうるくらいの事件なんだから。でも、」
頭を下げるルートヴィッヒに、困惑しながらフリッツは答えた。
「ごめん、何を謝られているのかよく分からないけど……僕たち一家は、賠償権は放棄したんだ。それでおじさんが帰ってくるわけじゃないんだから」
「……ありがとう。菊、助かったと思う。今、彼も大変な時期だから」
菊?また分からなくて、手に持った矢車菊の花冠を見る。ルートヴィッヒもそれに目をやり、救われたような顔で話題を変えた。
「誰かにあげるのか」
「うん。新しいお母さんに」
彼女のことを思うと声が明るくなる。ずっといなかった「お母さん」。自分の誕生と引き替えに地下の世界に行ったお母さん。だから僕を憎まずにいられないお父さん。その家の重い空気を彼女の知性は明るく吹き飛ばしてくれる。
そこまでの事情を分かったわけではないだろうに、ルートヴィッヒは、複雑な顔で、それでも微笑した。
「家族が増えて、よかったな」
「うん。お母さんっていいね」
「そうなのか」
その返事に、彼のこれまでの人生にもまた母がいなかったことを知る。
「……そろそろ兄さんとの待ち合わせの時刻だ」
そう言って、ルートヴィッヒは振り返ろうとする。フリッツは衝動のままに近寄り、手の中の花冠を彼の頭上に捧げた。
「あげる」
「え。いい、だってそれは」
「お母さんにはまた作るから」
金色の髪に青い花冠を飾った少年は、しばらく戸惑っていたが、やがてにっこりと笑った。
「……ありがとう。忘れない」
「うん。また会えるといいな」
「そうだな。君はすごく聡明で、優しい。…兄さんも喜ぶと思う」
「?」
首を傾げたフリッツに、ルートヴィッヒはにこりと笑った。
「君の名前は、兄さんの大切な人のと同じだ」
じゃあ、と手を挙げて、ルートヴィッヒは駆け去っていった。
「ルートヴィッヒ?」
自信の持てないままでの呼びかけに、しかし行きすぎようとした青年は足を止め、振り返った。二、三度瞬きをして、光明のさしたような顔になる。
「……フリッツか?」
「そうだとも!久しぶりだな……!」
手を出すと、しっかりと握り返された。覚えていた。覚えていてくれた。名前の偶然があったからとはいえ、もう二十年近く前の、一度きりの出会いにすぎなかったのに。
「お互い、変わったのにな」
それはそうだ、何せ子供から大人、もう立派な成人である。二十歳前には兵役の義務も終え、それなりに身体もできた。もっとも、対するルートヴィッヒの方は「それなり」どころではない美丈夫となっている。
髪を綺麗に後ろに撫でつけ、軍服を身につけた様は一幅の絵画のようだ。同じ年頃だと思っていたけれども、彼の方が少し年少だったのかもしれない。肌の張りが違う。いや、境遇の違いなのかもしれない。今のフリッツは少し肩が落ちている、それを自覚している。
「君はここの学生なのか?」
十六世紀に始まり、ゲーテ、ヘーゲル、シラーと錚錚たる教授陣を擁したこともある大学である。
ルートヴィッヒは知的な雰囲気を醸し出しているが、どこか学究の徒らしからぬところがある。違うだろうと思いながら聞けば、やはり首を振る。
「いや、ちょっと図書館にきただけだ。君の専攻は?」
「化学だ」
ルートヴィッヒは頷いた。
「国の礎たる産業だな。優秀な頭脳が可能性のある分野に集中し、相互に好影響を与え合うのは大いに結構だ」
「……」
苦く笑った。こんな笑みを覚えてしまった。
「……どうかしたか」
「いや。君は、僕の名前しか知らないのにそう言うのだな、と思っただけだ」
「君が優秀だということは話しているだけで分かる」
年少ではないのかもしれない、とフリッツは思いかえした。上に立つ者の言葉をルートヴィッヒは自然に使う。
いぶかしげな様子のルートヴィッヒを前に、つい本音が出た。
「大言壮語と笑ってくれて構わないが、頭脳にはそれなりの自信がある。勤勉さについても軍隊でプロイセン精神をたたき込まれた。場さえ与えられれば活躍できると思う。名前だけ、つまり属性を除いて僕を判断してくれるなら場も与えられるはずだと、ずっと、そう思ってる…」
言葉が、心臓からの圧力に耐えかねたように次から次へと押し出されてくる。
「研究室はどこも狭き門だ。特に化学は希望者が多い。優秀な人材も多いから、競争が厳しいのは分かっている。だけど、僕がいまだに職にありつけないのは、多分、間違いなく―――僕が『二級市民』だからだ」
ルートヴィッヒの眉間の皺がぐっと寄った。
「そんなことは――」
子供の頃はほとんど意識したことがなかった。ドイツ帝国を作り上げたプロイセン王とその宰相は我が民族に可能性を開いてくれていた。叔父が公職につけたのも、その数十年前に法律が改正されたからだ。ドイツ統一が最優先課題で、広く人材を求めるためにも、宗教や民族の違いを超えた国作りがなされていった。
公平で、自由なギムナジウムの空気。等しくドイツを愛する同胞たち。彼らと過ごした学生時代、そして軍隊。しかし、博士号取得後、尊敬する学者に研究室に入るのを拒まれ、学究生活からも一度去り…としていくうちに、自分が背負う属性の重みを意識せずにはいられなくなった。
「僕は、何であるより前に、『ドイツ人』なのに」
ルートヴィッヒは、針で刺されたような顔をした。
「……すまない」
思わず苦笑する。
「………君が謝ることじゃない」
愚痴のとばっちりをくらったようなものだ。悪かったな、と思う。
「俺は、君に何もしてあげられない」
「別に、何かしてほしくて言ったわけじゃない」
何かしてもらえるとも思っていない。まだプライドは残っている。何かきっかけさえあれば、力量を証明できる。自分が優秀な科学者であり、国家に益するドイツ人であることを、文句のない形で世界に示すことができる、それくらいには自分を信じている。そして、自分が面しているのは「見えない壁」でしかない。法の下、この国では、自分たちもやはり可能性があるのだ。
「兄さんだったらもっと違ったのかもしれないと思うと……」
懐かしいものが思い出されて、笑みがこぼれた。
「君は相変わらずブラコンだな!」
意味のない比較に思わず笑い出したフリッツを、ルートヴィッヒはしばらく不服顔で見ていたが、やがてつられたように口元をほころばせた。
「僕は、君の兄さんが大切な人の名前なんだったっけ」
「ああ」
「君にとっては?」
ルートヴィッヒは少し考えて、やがてにっと笑った。
「俺にとって、君の名前そのものが、大切な名前になる日が来ることを信じている」
負けず嫌いの血が騒いだ。拳を突き出せばルートヴィッヒは笑いながら腕で受ける。
「させてやるさ」
「ああ」
肩の力が抜けた。だから、穏やかな声で言うことができた。
「これから、教会に行くんだ」
「え」
「改宗する。僕は―――ユダヤの教えは捨てる」
「……」
ルートヴィッヒはまた真面目な顔に戻った。
「いいのか」
「いいんだ。もともとうちの一族はあまり熱心じゃなかった」
それに、俺には違う共同体がある。
自分とは何か、何に所属する存在であるか。
その答えは、「ドイツ」だ。
「じゃあ、またいつか会おう」
「いつか、偶然にな」
「ああ」
約束とも言えない約束を交わし、二人は手の甲をたたき合わせた。
三度目の邂逅は、偶然ではなかった。
ルートヴィッヒがフリッツの自宅を訪ねてきたのだ。そうされても不思議のない「公人」にフリッツはなっていた。カイザー・ウィルヘルム物理化学・電気化学研究所所長にしてベルリン大学教授。空中窒素固定法によるアンモニア合成研究の第一人者。そして――ドイツ軍大尉。
時の人となっていたフリッツの、しかししんと冷えた私邸の戸口に、ルートヴィッヒはひっそりと立っていた。
「――君か」
「こんな時間にすまない。人づてに聞いて」
「わざわざ来てくれたのか」
フリッツは目を緩め、室内に招いた。初夏とはいえ、部屋は静まりかえっている。深夜、確かに人を訪ねる時刻ではない。そして、旧交を温めるような状況でもない。
客人の分のグラスを取り出し、ソファに戻る。蒸留酒を手酌でつぎ、遅れて対面に座ったルートヴィッヒのグラスにも同じものを注ぐ。
「君は、………人間ではないんだな」
酔っている自覚はあった。だからこそ言えた。非科学的な存在を認めはしない、しかし、まるで青年のままの姿を目にして、もう中年の坂にあるフリッツはそう言わざるを得なかった。
「……周りには、成長が早いと言われるんだがな」
ルートヴィッヒはそう言って膝に肘をついた。
フリッツは小さく笑った。明日には訝るかもしれない、けれども、今は、これ以上面倒なことを考えたくない。とにかくこの家には自分と息子とルートヴィッヒがいて、そして、妻の死体がある。
誰から聞いたのか、ルートヴィッヒは言わない。けれども、それはルートヴィッヒが超常の存在であることと関係することははっきりしていた。昨日未明の自殺である。一般に知られている話ではない。
慰めに来てくれたにしては何も言わないルートヴィッヒと、ただ、酒を飲む。量を過ごすわけにはいかない、このことにまつわる煩瑣な手続きを手早く片付けて、また東部戦線に戻らなければ。何せ、欧州大戦は今正念場を迎えている。
長い沈黙の末、ルートヴィッヒは低い声で言った。
「君にはもちろんだが、クララにも期待していた」
どう答えるべきかを迷ってしばらくフリッツは黙った。
「――ありがとう、と言うべきなんだろうか」
「……」
「言っていいんだろうか、彼女から研究を奪った夫が」
「奪われていたわけじゃないだろう」
クララは数少ない博士号を持つ女性だった。化学者として研究所にも出入りし、講演を行うこともあった。門戸が開かれつつあるとはいえ、女性が研究職で生きていく例は少なく、業績が国家によって認められることもまた少ない。クララにはその可能性があった。夫がここまで優秀で、多忙でなければ。そして自分の研究と研究所とへの傾注をせめて何分の一かでも彼女の研究にあてる余裕があったならば。
しかし彼女を死へ走らせたのは、研究上の壁ではない。
もしそうならば、フリッツが今感じるべきは自責であってそれ以外ではない。クララは、もっと決定的に、夫にNeinをたたき付けて自らこの世を去った。
「クララと初めて会ったのは、兵役についていた時だ。彼女は17、僕は19。知性で彼女は輝いていた」
ルートヴィッヒは、そうか、と頷いた。
「大学で再会した彼女は、もっと綺麗になっていた。お伽噺の主人公になったようだったよ。研究や著述のサポートもしてくれたし、議論もできた。家庭にあってはよき妻で、優しい息子を産み、育てた。彼女は完璧だった。たった一つ、僕たちはたった一つ、食い違った」
「……」
悲痛な呻きに耐えかねたように、ルートヴィッヒは立ち上がって暖炉に向かった。そこには家族でとった写真がある。クララは、端正な面持ちの中に聡明さと潔癖さを漂わせてそこにいる。
写真立てを見つめ、フリッツには背中を向けたまま、ルートヴィッヒはぼそりと聞いてきた。
「……信念の食い違い、か」
「……観念の食い違いと言ってもいいだろう」
人道的であるべきだ、という信念に食い違いがあったわけではない。
「人道」とは何かという観念に、そして、故にどう生きるべきかの信念について、二人は決定的に食い違った。
「戦争が始まった時、僕は志願した。貴族出身じゃないから、資格は軍曹でしかない。駒の役割としてでもいい、僕は国のために戦いたかった。僕の同胞もたくさん志願従軍した。でも僕の志願は拒否された。その後軍から技術開発の依頼が来たとき、僕は本当に嬉しかった。前線で戦う志願兵の彼らと同じように、僕も立派なドイツ人であることが証明できるから」
ぼそぼそ、とルートヴィッヒは何かを呟いた。
「戦争はもう一年たつのに終わる気配が見えない。僕のアンモニア合成法で火薬の不足については補うことができたとしても、二正面作戦で持ちこたえるには、単純な兵力だけじゃ足りない。敵の戦意を喪失させて早く戦争を終わらせるのが無数の人命を救うために一番大切なことで、そのために世界に冠たるドイツの化学力を傾注すべきだ。――何度考え直しても絶対にこの結論に至る。僕は間違っていない」
その彼の揺るぎない正義をクララは自分の心臓に鉛を打ち込む揺るぎなさで否定した。
「フランスは既にブロモ酢酸エステルを使っている。ハーグ条約で定めたのは『窒息生あるいは有毒性のガスの散布を唯一の目的とする投射物の自制』で、砲弾で散布しないボンベ放射法は条約違反じゃない。僕は、間違ってない」
一言一言を噛みしめるようにフリッツは言った。
「ルートヴィッヒ」
呼びかけに、苦渋の表情のままルートヴィッヒは振り返った。彼はこの日に敢えて来た。どのような伝手でこのことを聞き、どのような思惑でフリッツの元に来たかは分からないが、少なくとも、この問いに向き合う責任があるはずだ。
「僕の毒ガス開発は間違っていない。そうだろう」
ルートヴィッヒは眉間に皺を寄せたままで黙って立っていた。
「僕は、祖国のために必死でやっている。そうだろう」
これには、ルートヴィッヒも頷いた。「分かっている、もちろん」
「ドイツこそ、平和と秩序を世界にもたらす国だと信じている。だから、勝利しなければならない。国民はそれを最優先課題と考えるべきだ。人道性とは、些末時にとらわれることなく大局的に判断すべきで、そうするならば、僕は、正義だ。そうだろう?」
「すまない」
手袋をはめた手で額を覆い、彼は俯いた。
「俺こそが、それに頷かなければならないのだと、分かっている。分かっては、いるんだ」
そう言いながら、彼はこほりと咳を漏らした。
「君の名前が俺にとって大切なのは、間違いがない。君の思いも十分分かったつもりでいる。そして、俺自身、人に問われれば同じように言うだろう。しかし、俺が言うのと、君が言うのとではその意味が違う」
「……」
かたん、と音がした。軽く持ち上げていたグラスが、指から滑り落ちてテーブルに落ちた音だった。
「それは、僕がユダヤだからか」
「いや」
反射的に答えて、一拍おき、続ける。
「いや、そうではない。けれども、君がそれを理由に、より戦わねばと思っているのなら……」
ぐしゃり。綺麗に整えられていた髪が手袋に乱される。
「より、苦しい」
「苦しい?」
「俺は君に、何もできない。何もだ。何も返せない。そういう風に生まれついたんだ。俺は、受けるだけだ。愛も、憎しみも、そして、痛みも、苦しささえも」
また彼は咳を漏らす。
「ただ君たちを、覚えておくことしかできない。君を否定したクララの正義と、それを否定する君の正義を」
首を傾げると、ふうわりと視界が揺れた。いつか、酒を過ごしていたらしい。
「……君には、断言してほしかった」
「ああ」
「君が何なのかは、俺は未だに分からないけど」
「ああ」
「俺は、初めて会った時から、君が好きだった」
「……」
河川敷の草原で会った、金髪の少年。賢そうな水色の瞳に、大人びた顔立ち。
矢車菊の花冠をかぶり、はにかんだように笑った。
オーデル川は水面に光を反射させ彼を更に輝かせていた。
身体が傾いでいくのが分かった。ああ、眠ってしまう。明日には葬儀を済ませ、また前線で指揮をしなければ。だからこんなところで眠らず、きちんとベッドに行くべきなのだが――ふわりと毛布をかけられ、フリッツは目を開ける努力を放棄した。
「おやすみ、フリッツ」
その低い静かな声は、聞いたことがないはずの父の優しい挨拶に似ているような気がした。
軍の支配下、カイザー・ウィルヘルム研究所を中心とする開発チームは、砒素化合物(嘔吐性ガス)、ジクロロジエチルスルフィド(マスタード・ガス)などを開発した。戦後、戦犯疑惑がかけられ、ようやくそれを免れたハーバーは、国際学会からの冷遇を受ける一方、アンモニア合成の功績によってノーベル化学賞を受けた。しかし天文学的な賠償責任を背負った国の中にあって彼の研究所も困窮を極めた。その窮状に救いの手をさしのべたのが星製薬の星一であり、彼は一九二四年の「毒瓦斯博士の来日」についても厚いサポートを提供し、ともにルートヴィッヒ・ハーバー遭難五十周年記念碑除幕式にも招かれている(この来日中に、ハーバーは日本陸軍に「貧者の核兵器」、そしてハーバー信じるところの「人道的兵器」についての技術指導をしたことが示唆されている)。
星基金奨学金を受けた研究者には、のちにマンハッタン計画の中心の一人となるレオ・シラードもいる。
そして、カイザー・ウィルヘルム研究所は研究成果の平和利用として害虫駆除薬の開発を進め、のちアウシュビッツ収容所で使われたことで名の知られるチクロンBを開発する。
1933年、新政権下で出された新しい公務員法により、非アーリア人の公職研究者は退職を余儀なくされ、研究室への出入りを禁止された。除外規定にあてはまっていたハーバーはしかし研究所所長の辞職願を出し、心臓の病を抱えながら居場所を求め国外を転々とした。
彼が最期を迎えたスイスのバーゼルはライン川のほとりにある。
病の床についたフリッツはしばし目を窓の外にやり、対岸に誰かの幻を捜していたようだったという。