射干玉の夢・1912


※ご注意
・単体で読めると思いますが、「薬指に血の指輪・1889」に始まる連作の番外編です。
・戦前における歴史記述があります。明るくはないです。
・英→日→普 の英視点です。
・[Hextbook]企画、rimi様リクエスト「陰翳礼讃」ネタでもあります。

苦手な方はお戻り下さい。


 

長い儀式になります、と菊は気遣うように言った。大丈夫だ、慣れてる。そう答えると少し目許を和らげ、周りの連中にも軽く頭を下げて菊は去っていった。並み居る国々の中で自分にだけ声を掛けたのはその代表と見なされただけかもしれない、けれども、特別扱いを感じ取りアーサーは少しだけ気分を上向きにした。調子に乗るな、と自分を戒める。斜め後ろを振り返ろうとするな。多分ギルベルトは、何でもないような顔で前を向いている。何でもない、それは実際その通りで、だから結局自分が惨めになる。調子に乗るな。
「もう疲れてきたよ」
隣でアルフレッドがぼそっと呟く。
「我慢しろ。一つの時代をおくる儀式だ」
「俺にはその感覚分かんないよ」
アルフレッドは肩をすくめ、それでも姿勢を直した。今度は自制できず、横目でそっと列の端を見る。まさか来るまいと思っていた王は、これもまた無表情でそこに立っている。
今年元旦、「中華民国」の建国が宣言された。彼は、アジアで初めての共和国となったのだ。王は十四世紀から、菊は維新以来、「一世一元の制」を採用している。皇帝の顔がそのまま時代の顔となる、その意識を共有していた筈の王は、しかし、玉座そのものを捨てた。
今世紀に入ってからの中国市場は列強の草刈り場となりはてた。この状況下での革命など分割の理由を与えるようなものだが、人心離反甚だしかった王朝を捨てるのは起死回生の策となるかもしれない。王も生き残る道を模索している。泰然自若としてた彼を走らせているのは菊がつけた背中の傷で、―――にもかかわらず国内の大混乱をさておいてこの場にいる。

号砲がなった。午後八時、今、明治先帝の遺骸を載せた霊轜が皇居を出発したのだ。

文字通り牛歩の歩みの霊轜を囲む葬送行列は、後で聞けば十キロに及んだという。神門のそばに整列する俺たちの前を、モノトーンの喪装をなした文武百官が、そしてその中にまじった菊が、まるで能面のような顔で通り過ぎて行った。
到着の後、誄歌が奏され、大正天皇が玉串を捧げた。その後それぞれが拝礼、遺骸が埋葬の地京都桃山へと向かい儀式が終わったのは深夜二時だった。
青山練兵場から内幸町のホテルに引き上げ、早々に襟を緩めた。日本の九月はまだ暑い。「王朝の儀式」の長々しさには慣れていないのに最後まで黙って立っていたというだけでもアルフレッドを褒めてやりたくなる。酒に誘ったが「今日はもう無理。また今度」と欠伸しながら部屋へ去っていった。息をついてフランシスの方を振り返ったが既に悪友達と付設のバーに向かうところだった。フランシスの向こうの銀髪を目で追い、また一つ息をついて、部屋に引き上げた。

汚いことなど、平気でやってきた。自分と国王のためなら他国を出し抜くことなど厭わない。「自分たち」の間でだけ紳士的であればいいのだ。そう割切っているはずなのに、今の自分には忸怩たるものがある。
今あいつもこのホテルにいる。俺と同じに。―――菊の家には行っていない。それに、ほっとしている。
行くはずがない。彼らの間には小さな罅が入って、そのままだ。「一番近しい友人」としてもう十年話を聞いているのだから、それは分かっている。誤解が混じっていることも知っている。……それを黙っている。

紳士でいられないなら「イギリス」を名乗る資格はない。そう思っているのに、「今」を手放せない。

天井では扇風機がゆるく空気をかき混ぜている。そんなものでこの蒸された空気が冷やされるわけもない。浅い眠りを繰り返し、やっと白んだ窓の外を見て、何度目になるだろう、ため息をついた。

 

去年結んだ第三次日英同盟協約に係わって所用あり、数日とどまることになっていた。当日は流石に無理ですが、アーサーさんさえ宜しければ、その後はうちにお泊まりになりますか。そんな菊の言葉に甘えることになっている。早々に荷物をまとめてロビーに出ると、同じくチェックアウトをしようとしていたのだろう黒い頭が振り返り、盛大に眉をひそめた。
「朝の爽やかな気分が台無しある」
「こっちの台詞だ」
「さっさと国に帰れあへん」
「おあいにく様だな。俺はこの後菊の家に行くんだ」
これ以上はと思っていたのに、更に不愉快そうな顔をし、王は唸るように言った。
「お前等洋人と付き合うようになって菊は変わったある」
「開国以前からお前との公的な関係は切れてたじゃねえか」
ふん、と鼻を鳴らし、背けた顔の横で手を振る。
「お前達はあの子が背筋を伸ばしているところしか見てないあるね」
「あ…?」
「本当の菊は食い意地の張った、寝汚い、だらっだらした格好で、わけわかんねー趣味にふける子あるよ」
「はあ?」
何の冗談だ、と言い返そうと思ったら、その前に王が手を下ろした。
「生意気で、小さいくせに無理ばかりして…」
おろした手をそのまま腰にあて、皮肉気な表情に戻る。
「お前、協約はどうする気あるか。あれは『我』ではなく『清』あてのことだから無効と言うか。それとも第四次を結ぶか。第二次の時のように」
「……」
「何もかも自分の思うように操れるなんて思うなあへん」
目を細めてそう言い捨て、王は踵を返し、歩み去った。

そんなことを思う筈がない。自分の心すら思い通りにならないのに。

「いらっしゃい…」
ま、の形で口はとまった。門の前を掃き清めていた菊は、小さく眉を寄せる。
「寝不足でらっしゃるようですね」
「ああ…一目で分かるか」
「ええ、お疲れが顔に出ています」
手早く箒とちりとりを片付けて、菊はついと先に立った。靴を脱いでいる間にトランクをとられ、客間の隅に配置される。そのまま襖を開けて糊のきいた浴衣を取り出した。目線を受けて、頷く。
「それだったら、着方は分かる」
「ではお部屋の方を用意してきます。一眠りなさった方がよいでしょう」
すたすたと菊は出て行ったので、「え」という言葉は届かなかった。この客間は前に泊まった部屋だ。庭に面していて景色もいいから、よい部屋なのだと思う。ここに布団を敷くのではないのか。
やがて菊は戻ってきて、廊下の奥へと案内した。
「私室で恐縮なのですけど、日が差さず、でも風は入りますのでこちらがよいのではないかと」
「…お前の部屋なのか」
「ええ、狭いところで申し訳ありません」
「いや、そういうことでは…」
ないのだが。菊がすらりと襖を開けた部屋はおそらく北向きで、電灯も引いていないようで洋燈がかかっている。微かに漂うのは虫除けの線香か。布団の上には畳のようなシーツが掛かっている。断って寝転がると、なるほど涼しい。熱が布に籠もることがないようにするためのシーツなのだろう。菊は「失礼します」といいながら窓側の壁に掛かっていた網を布団の上をまたがせるようにして戸口側の壁にかけた。夏に泊まるときは大抵この蚊帳という虫除けを釣ってくれる。客間の方が一回り大きいから、大きさが調整できるんだなと思いながら、緑の靄がかかった天井を見ていたら、すうと風が吹き抜けて、思わず心地よさに目を閉じた、そのまま、眠りに落ちた。

考えてみれば旅疲れもあったのだろう、薄く目を開けるともう夕方に近いけだるい光が部屋に満ちていた。角を失った天井はただの板目もなにか不思議な模様のように思わせる。風鈴が鳴りもしないのに緩い風を頬に感じてそちらを向くと、菊が団扇を片手に端座していた。
「……ずっと扇いでいてくれたのか」
起き上がり、軽く頭を振ると菊はいいえ、と答えた。
「昼前に一度、昼下がりに一度、というくらいです」
菊はゆっくりとした動きで風を送りながら聞いた。
「ゆっくりお休みになれましたか」
「ああ…うん。夢も見なかった」

嘘だった。菊の家に泊めてもらうのはもう何度目だろうか、そのたびに、口には出せない夢を見た。いかがわしいものではない、ただ……ただ、現実ではない、というだけだ。

「洋燈をつけましょうか」
立ち上がりそうな気配に、「いや」と制止の声を上げた。思いがけず鋭い声になり、反省して和らげたつもりの声は、「もう少し、このままにしてくれ」、自分を叱りとばしたくなるほど感傷的なものだった。
菊のほほえむ気配がした。
「薄暮を愛するのは東洋的感性なのかと思っていました」
「……多分、今だから、ここだから、いいんだ」
一人で暗闇の中いるのは好きじゃない。半身を起こし、緑色の靄の向こうの闇を見る。
つられたように窓の外を見て、菊は独り言のようにつぶやいた。
「初夏ならよかったんですがね。蛍を虫籠の中に入れて、その冷たい光だけで夜を過ごすと、何か気持ちが闇の中に戻るような気がしますよ」

少しずつ菊の輪郭さえ闇に溶け始めている。夏用なのだろう淡いグレイの着物からほの白く浮かびあがり、ゆるゆると規則的に動く手は催眠術師の手技のように酩酊へと心を誘う。
「…きれいだ」
口がほどけるようにつぶやいて、一瞬後、ぎょっとする。
「何がでしょう」
当然のその問いに見合うものを探して、眼だけをさまよわせる。と、飾り棚にしつらえられた文箱が目に入った。ああよかった、とそれを指さすと、菊はうれしそうにほほえんだ。
「蒔絵ですか。―――さすが、お目が高い」
「何言ってるんだ、漆器芸術はヨーロッパ連中の賞賛の的だぞ。ローデリヒのとこの『漆の間』見てないのか?」
「ありがとうございます。……いえでも……ああ、そうですね、シェーンブルク宮殿の中ならまた話が違いましょうか……」
「何がだ」
ただの謙遜ではないようだった。何かその鑑賞について思うところがあるらしい。
しばらく躊躇っていたが、しのびよる闇が気を軽くしてくれたらしい。菊は口を開いた。
「…あのようなきらびやかで眩しい箇所に置かれるなら、かえって蒔絵の金や螺鈿くらいが似つかわしいのかもしれません。しかし、建具の少ない日本家屋の中で、あのような装飾は浮いてしまうのですよ」
「そう、か?」
「ええ、少なくとも『かるみ』がありません」
さらりとした感じのことだと菊は補足した。
「だけれども」
そういって、とろりとした眼をその箱に向ける。
「このような薄闇の中で蒔絵ものをみると、沈金の美しさはまるでこの世のものとは思えないほど華麗にみえます。そして、その闇の中でも更に濃く、更に艶やかな漆黒が、まるでその肌ざわりを思わせるほどに迫ってくる気がしませんか」
「……ふうん」
頷くことが自分の心の裡を明かすことのように思えて、わざと捻ったものいいをした。
「薄闇の中で映える文化、か」
菊はこくりと頷いた。こんな色合いの中だからだろうか、春に見た内裏雛のように見える。
菊の肌は国民に比して白いほうだと思うが、やはり西洋人の白とは違う。それは磁器と陶器の違いのように異質なもので、世界会議で王と菊ははっきりと他と違って見える。誤解を恐れずにいえば、透明感が違う。

だからどうした、と言った。俺の隣にいる、それだけでお前の価値は証明されている。そう言い切れば、菊はくしゃりと笑った。……そんな風に思えたら良かったんですよね。
何を思っての過去形なのかは分かっている。
紳士としての矜恃で、奴の誹謗だけはすまいと誓っている。だから、こんな風に言った。……そう思って欲しかっただろうと思うぜ。
奥歯を噛んだような顔で見上げた菊の肩を軽く叩く。
強くなれ。時代にもハンディにも負けるな。それが何よりお前がやるべきことで、―――だけどせめてもと心が付け加えてしまう―――俺は、それを手伝ってやれる。その言葉を漏らしてしまった自分への懲らしめに、更に一言付け加える。友人、だろ。
菊は、今度は口をきりと結んで、黙礼した。

「家の作り方や財力など色々理由はあるのでしょうが、明かりの乏しい家の中で、玻璃や宝石で輝きを増幅させる方向にはあまり向かなかったのですね。以前、それこそローデリヒさんに宝物殿を見せていただいたとき、目疲れをしてしまったほどです」
「別に宝石はヨーロッパの専売特許じゃないと思うけどな」
南アジアでも西アジアでも王族はその身を石で飾る。東アジアの盟主だった王も、金や紅を好むし、実際似合う。しかしそう言われてみれば、菊と宝飾はあまり似合わないような気がする。

「やせ我慢の説を承知で言えば、この国は赤黄橙緑青藍紫、どんな色でも自然の中にありますから、家の基調色は単純なものでよかったのです。ただ草木を飾るだけで色彩を楽しむことはできますから。だからこそ―――その容れ物である皿は白く、椀は黒く」
「その白い皿に醤油をのせるわけだな」
菊はわが意を得たりというように頷いた。菊がこよなく愛する黒い調味液は、しかし確かに単純な黒ではなく、光の加減で、またかけられたものによって美しい照りを見せる。味は未だに慣れないが、菊の熱弁を聞いているうちにその色を美しいと思うようになってきた。

ただの黒を、または土色の陶器を美しいと思う。それは美的感覚なのだろうか。間違いなくその色は、菊の髪や肌のイメージをともなっている。あの文箱の黒い艶、その上に施された緻密な細工。これ以上に菊らしいものもない。ただ分かるのは、あれに触れたいという焦がれるような思いがこの身を去った後でも、「漆黒」という色を美しいと感じるだろうということだけだ。
見つめているのが分かったのだろうか、菊が苦笑して言った。
「あれはもう使い古しですが、宜しければ同じものを、アーサーさんへもお贈りしましょうか」
「ん―――」
小さく笑う。も、か。
「なあ」
よっと、と体を起こすと菊も立ち上がった。暗い廊下を座敷の方に向かいながら、からかう調子で言ってやる。
「あいつ、銀粉のやつ欲しがっただろ」
「え。―――ええ、そうだったんですけど。…なぜお分かりで?」
図星か。思わず笑う。黒の上に散る銀。―――えろくさい妄想しやがって。
「お前ほんっとあいつのこと過大評価してるけどな。あいつ、中学生みたいなところあるんだぞ」
これは誹謗ではない。事実だ。
「はあ……」
菊はまるっきり信じていない、しかし曖昧にその場をやり過ごそうとするような返事をした。

そこで思い出した。

座敷に入り、菊は白熱電球のつまみを捻った。
闇は追い出され、「現代」が二人の上に戻ってくる。
強くあれ、そのためには繋がりさえ切り捨てろ。そういう時代。

「お前の『兄』、来てたな」
座卓の一辺に腰を下ろすと、冷茶をコップにもって来た菊も遅れて正面に座った。
「え…?」
「俺等の列に並んでいたろ。見なかったか」
「……そんなはずはありません」
菊は浅く俯いた。
「彼には……行列に加わってもらいましたから」
「ん?」
「もう彼は、『大日本帝国』の一部です」
そこで勘違いに気がついた。

王が言っていた皮肉だ。
一九〇二年の日英同盟には「両条約国ハ相互ニ清国及韓国ノ独立ヲ承認シタルヲ以テ該二国孰レニ於テモ全然侵略的趨向ニ制セラルルコトナキヲ声明ス」との文言があった。類似の文は一九〇五年の第二次協約にも差し込まれたが、「韓国」の文字は消えた。

「ヨンス……いたか?」
菊は「あれ?」というような顔で頷いた。
「私のいくらか後ろにいたはずですが。真っ白い、彼の民族衣装を着て…」
「ああ…」
菊が通り過ぎた後、顔を正面に戻さずしばらくその珍しい姿を見送っていた。そういえばその後正面に直った時、視界を白いものがよぎった気がしていたが…。
「そういえば、彼はなんであんな格好だったんだ」
菊は少し顔をしかめた。
「来てもらうだけでも心が重かったんです。まして、彼なりの礼を尽くしてくれたわけですから、服まで私のものを着ろとは…」
でも、この後はそういうわけにもいかなくなるでしょうか、と菊はまた俯いた。また誤解が挟まっている気がして、いや、と言葉を挟んだ。
「なんで白いの着てたんだ、って聞いたんだが」
「え」
菊は顔を上げ、瞬きをした。
「私たちの喪服は、ずっと白でしたよ」
「え。だって、お前は黒っぽい…の着てたじゃないか」
黒っぽい着物、とも言えなくて、言葉を濁した。初めて見る格好だった。
「私は、袍も表袴も喪主に準じたものを着るよう言われましたので。今回は色々初めてのことがあったので、上司も不安だったのでしょう」
「あ?よく分からない」
「すみません」
菊は苦笑して茶を一口含んだ。緑というべきか黄というべきか、鮮やかな色がコップの中で揺れる。
「昨日着ていたのは、平安時代くらいに成立した、公家社会の…まあ、特定の階級にのみ伝わっている民族衣装です。それより以前から、うちはずっと白喪服だったのですが、平安時代中期に鈍色の素服が喪服として使われるようになりました。でも、皇室でのそれは濃い墨染めや黒橡色とされていまして、昨日私が身につけていたのも墨染めです。ですから、天皇家にだけは黒を喪の色とする感覚があったのですが、一般人は白がそうなんですね。これは東アジアに共通です」
「でも、洋装の一般人は大抵黒の喪章をつけたり黒ネクタイをつけたりしていたぞ」
「そのような規定を作ったのですよ。前の皇太后の大葬のとき、服喪期間の庶民の格好についても規範を示して欲しいとの世論をうけて――――西洋にあわせて、黒をシンボルカラーとしたのです」
「……ああ、そういうことか」
ヨンスの白い服も、菊の黒い服も、それぞれに主張なのだろう。伝統を固守すること、西洋の感覚に従うこと。
「脱亜入欧」。いつだって言葉は一人歩きする。そして、現実を引っ張っていく。

そのとき、突然電気が消えた。一面闇に包まれる。
「停電のようですね。…いろいろ、至りませんで」
「いや、うちでもよくある、気にするな」
「洋燈をお持ちします」
「いや――そのうち回復するだろう。それまで、少しくらいお前の言う陰翳を楽しんでもいい」
コップのお茶を啜ると、座卓の上をすべるように団扇が届けられた。向こうでも静かな音がするから、自分の分も取り出したのだろう。

菊はぽつりと言った。
「アルフレッドさんとは、随分仲良くおなりですね?」
「ああ……まあ、な」
今回は断られたが、随分酒に付き合ってくれている。その代償というわけではないが、仲裁条約によりアルフレッドは、日英同盟の定める、「状況により交戦対象国となる国」から外された。
菊は、それが自分の首を絞めるとうすうす気づいていながら、俺とアルフレッドの仲を取り持とうとする。

闇の中で、菊はそっと囁いた。
「アーサーさん」
「なんだ」
「貴方たちのように、いつか、私たちもと夢を見ることは、許されるでしょうか」
「……」
「貴方とアルフレッドさんが、そして貴方とフランシスさんが、様々な経緯を乗り越えて手を結んだ。貴方がたのその手が、更に東にも差し出されるというのは、夢でしかないのでしょうか」
フランシスの東。手をつなぎあい、つながっていく世界。そんなものは、……現実ではない。

だけれども。

多分手を伸ばせば触れることができる距離の菊に、声だけをかける。
「………夢を制することは誰にもできない」
「……」
「光が戻るまで、自分に夢を許したっていいんじゃないか」
なあ、それくらい、それまでの間くらい、この闇の中に二人包まれることを許してくれないか。光が戻ったら、「戦友」に戻るから。

今だけ、この闇の中でだけ、「二人」にさせてくれないか。

そう思った瞬間、ちり、と音をたてて電気が回復した。
思わず瞑目する。

そして、目を開くと、菊もまたゆっくりと瞼を開くところだった。

「本田」
「はい」
「現実を見据える覚悟はあるな」
「……はい」

地図は、今や冒険の道しるべではなく、世界を俯瞰し線を引くためのものだ。インドを守るための3Cの三角形、そこに切り込んでこようとする3Bのライン。既に英仏協商はなった。もはや俺とルートヴィッヒの対立は時間の問題になっている。そして、その場合背面から支える形になるだろう菊の攻撃は独海外権益、即ち王からの租借地となる。「清帝国ノ独立及領土保全」、そんな言葉にどんな意味を持たせるかは時代の勝者次第だ。
菊は今から、いくつもの繋がりを切っていくことになる。

「私は、開国以来ずっと、白夜の中にいるようなものです」
それで初めて気がついた。
「もしかして、お前の軍服……」
菊は仏像のような微笑みを浮かべた。
「はい。私はずっと、喪に服しているのです」

 

 


 

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