SSSsongs25(ヘラクレス×菊)

 

※ご注意
・できている設定です。R15とするかどうか迷うところ。
・「あなたのそらを抱く」を承けています。よって、歳差運動自体の説明はしていません。
苦手な方はお戻り下さい。


 

 

気持ちいいことが好きだ、と、この人は屈託なく言う。そりゃあ、と菊は思う。私だって、気持ちいいこと、は、好きです。そして、この人に身を任せるのは、確かに気持ちいいこと。体重を預けきっても揺らがない筋肉に、情熱的な口づけ。思うさまに翻弄され、体の軸が全てこの人に支配される。間違いなく体の相性はいいのに、菊は果てた後体を拭う度に、何と名付けることもできないものがこぼれ落ちていく感覚を覚える。

たぶん。友達に求める相性と、恋人に求める相性は違うのだ。
訥々とした語り口も、唐突な振りも、友達として遇している時にはむしろ好ましかった。なにせ周辺国は利害の主張かまびすしく、説明をしようにも「YesかNoか」と迫ってくる。この人とて、好悪ははっきり出すし、要求も明確、ではあるけれども、このゆったりとした語り口と、圧迫感のない表情とが空気をまろくする。友達であればしないようなこと、を、思いもしなかった頃は、ゆるゆると、縁側でおばあさんが猫を膝に抱くような、そんな心持ちで相対することができた。

素直な人の素直な快楽への欲求は、訪日日程のほとんどを室内に閉じ込める。気持ちいい、その言葉だけに支配される時間は、菊を酔わせ、狂わせ、そして醒めた後の索漠をもたらす。

そっと寝床を抜け出し、脱ぎ捨ててあった浴衣を身にまとう。初春の空気はまだ単衣には冷たいが、菊はそのまま寒空の下、庭に出た。
この年になって――
星空を見上げながら思う。
―― 一緒に星が見たい、なんて思わない。
しかし、本能と快楽のみで時を過ごすことをよしとするには、年をとりすぎてしまった。それだけではないという安心が欲しい。揺るがない何かが欲しい。人は時々そのような確かさを国に求めるが、国である菊こそが知っている、国家ほど幻想の上に成り立つものはない。
西洋の人が確からしさを求めたガイア、菊がそれを託したお天道様。その星さえ、年月の中では変わりゆくものなのだ。

「…菊」

声に、現実に引き戻される。縁側に、いつの間に出てきたのか、ヘラクレスがいた。
「……起きたら、いなかったから……」
着るものが見あたらなかったのか、毛布を身に巻き付けている。そのまま、縁石にあった突っかけを履いて、ヘラクレスは菊の隣にたった。

「どうか、した…?」
「いえ」
答えるうちに、毛布の中に包み込まれる。その暖かさに、いつの間にかひどく冷えていたことに気づく。
「星を見ていたのです」
「ああ……でも、あんまり見えない…」
「明るい星が西の空に移ってしまってますからね。湿度もあがってきてますし…」
「それで、何、見てたの…?」
この人の吸い込まれそうな瞳に見つめられると、菊は嘘がつけなくなってしまう。
「…北極星を」
「こぐま座?…どうして?」
理由を問われたときの答えは、たいていの場合二階層がある。きっかけと、背景だ。背景の方を話さなければ、私の抱えるはしたなさは顕れまい。そう考え、菊は口を開いた。

「少し前ですが、王さんと、北極星の話をしたのです。私が生まれる前、彼が一人きりで生きていた頃――それなのに既に青銅器を持つほどの文明段階に達していた頃の、真北の、何もない空の話」
説明がいるかな、と思いきや、ヘラクレスは、「ああ」と頷いた。
「星が動くのは地球が動くから。それを認められなかった人の気持ちが分かります。聖書に書いてあるから、というより、地面が動くということ自体が認めがたかったのでしょう。地動説を主張した人は、科学法則という新しい宗教を心に抱くことができた人です。だけど、「地動説」という果実だけを囓り、科学という幹を育てなければ、今度はその「観測結果としての天」が動きうるということを忘れてしまう。いつだって、天の変化は、人の心を動揺させる…」
茫漠とした話だというのに、ヘラクレスは頷いた。
「…母さんから、聞いたことがある……。紀元前四千年頃まで、春分の日、太陽は天の川の端に出てきたって…」
「…ええと、」
王と話していた時代より更に遡ったため、菊は少し目線を浮かせて計算した。
地軸の傾きは23度強。歳差運動により、地軸の向きが一周する周期は2万6000年。よって、例えば今から6500年前なら、地軸の傾きは今とは90度違っていたことになる。となると、四季の星座は、一つずつずれる。今なら夏に見える星座が春に見えることになる。その頃の春、夜明け前の東の空に出ていたのは、十二宮で言えば双子座、そして西には射手座。なるほど、太陽の通り道は、前夜天の川が渡っていた道筋となるのだ。空に輝く天の輪。それはなんと美しい調和だったことか。
「ヘシオドスが黄金時代と呼んだのもその辺だったと母さんは言ってた…。まだ生まれたてで、覚えていないって言ってたけど」
ギリシャ神話には、鉱物になぞらえた時代区分が時々出てくる。時代が進むほど人の質は劣化していくという歴史観は古今に例が多いが、それを金、銀、銅、鉄と、彼らは呼び、実際の青銅器時代、鉄器時代という文明段階と重ねているところが興味深い。黄金のクロノスの時代、人は憂いを知らず悲しみも知らず、若々しく生きていたという。
しかし、歳差運動により、空の光景は少しずつ変化していく。春分の日に太陽が背負うのは、牡牛座になり、プレアデス星団になる。暁を予見させていた昴は、東の海に沈んでしまうのだ。
伝承の空との変化に気づいた時、人は未来を闇と感じたに違いない。
紀元前八世紀、ヘシオドスはそれを鉄の時代と称し、「正義は腕力の中にあり、羞恥心が失われる」と憂いをもらす。
その時代に「昔は良かった」と言われたら、今はいったいどうなるのか。腕力の中に……暴力の中に、正義どころか思想さえない時代ではないか。


苦笑をもらした菊をヘラクレスはじっと見下ろしていたが、やがて菊の顎をとった。
「菊」
「なんでしょう」
それには返さず、そのままじっと菊の瞳を見つめる。目をそらすこともできず、その瞳を見つめ返す。やがてその瞼が少しずつ降り、それにつれて顔が近づいてきた。


唇が、触れる。
重なる。
溶ける。
揺れて砕けて混じって乱れて。


いつか力の抜けていた菊の腰を、ヘラクレスの腕が支える。春冷えの中、その二人を毛布が包む。
「……これじゃ、足りない?」
目をとろんとさせていた菊は、その言葉に羞恥心を呼び覚まされた。と、ヘラクレスが珍しく慌てた様子でとりなす。
「違う、そういう意味じゃない。……つまり……言葉がなきゃ、安心できない……?」
「………え」
「抜くのは一人でだってできるけど、キスは一人じゃできない……。セックスは、山羊とだってできるけど……」
しません。思わず心の中で突っ込む。
「何が相手だって気持ちいいけど、キスは、好きな人とじゃないと、気持ちよくない……」
よ?とまた顔をのぞき込まれる。
その、「言葉」か。菊はまた頬を赤くした。気づかれていたのか。ただの快楽ではないという言葉をほしがっていたことに。
「思う都度言った方がいいなら……」
「結構です」
それは、いやだ。そう、直接に言われたくないのは菊の方だ。それを気遣って控えていたのだろう。


「菊も分かってると思うけど……未来は、約束できない……。でも、絶対に保証できる『今』を、気持ちよさで受け取ってくれたら、嬉しい……」
そう言って、今度は乾いた口づけを落とす。
ついでにぺろりと菊の頬を嘗めるので、くすぐったさに菊は笑った。
「やめてください、ネコ吉さん」
手に持った毛布の端で、もふもふともう片方の頬を撫でてみせて、それからヘラクレスはひとのことばで愛を囁いた。

 


猫の恋昴は天にのぼりつめ(山口誓子)


参考までにyoutubeご案内。

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