字を習った。
            絹を貰った。
 	      そして、忠孝を教えられた。
          
 	      あなたは、仁そのものだった。
 	      
 	       
 	       
 	       
 	                 
 	      星を見に行くと言ったら、まばたきされてしまった。
 	      「そんなもの、ちょっとこう、背中を倒せば…」
 	        言いかけて、彼我の体格の差に思い至ったらしい。上海、厦門、香港と沿岸部の絢爛たる様子は我が太平洋ベルトにも引けをとらないが、内陸部にはまだ送電線の届かないむらとてあるという。星を楽しめる暗闇や(彼こそが愛していたはずの)深山幽谷の貴重さを噛みしめるには、彼は…大きすぎるのだろう。
 	      丘を上りつつ日本は小さく笑った。
 	        足元で踏みしだかれた若草が香る。
 	      「『星の王子様』にありましたね。夕焼けが見たいから椅子を引くっていうエピソード」
 	        王子様の星は大変小さかったので、少し後ろに下がればまた夕焼けを見ることができたのでした。――相対的に日本より地球を小さく感じるはずの中国は、やろうと思えば三時間、同じ夕焼けを見ることができる。
 	        「…我は寂しかった訳ではないあるよ」
 	        「そんなこと言ってません、というより、思いつきもしませんでしたよ」
 	        いつでも見られると思うことと、いつまでも見ていたいと思うことは全然違う。まして、他人が見たがる星空と、見ずにはいられない夕焼けとでは。
 	        だいたい、寂しい筈がないではないか。華夷秩序の中心点だった彼、世界最大人口を抱える彼が。
 	      「ああ、宙(そら)があきましたね」
 	        のぼりつめて、日本は空を仰いだ。
 	        視界を邪魔した送電線は随分地下に埋めた。それでもなお、子どもの頃見たような、視界に空しかない光景は減少の一途をたどっている。
 	        川沿いのここも、視線を落とせば、高速道路の高架と鉄道によって直線的に区切られている。
 	      ブラックイルミネーション。どちらかといえばCO2削減のために始まったライトダウンキャンペーンである。
 	        この夜の8時から10時まで、2時間だけは、電気を消す。
 	        賛同する民間企業も加え、全国6万施設が照明を落とすという。
 	        そうやって、クリスマスキャンドルのように大事に包まねば、星の光は日本人に届かない。
 	        湿度の高いこの季節、星を見るには適切ではないのだが、せっかくだからと文字通り空を削る摩天楼も見えないここまで足をのばした。
 	        
 	        頼んだ訳でもないのに保護者顔で着いてきた中国は、何も視界を遮らない空を一瞥した。
 	        「…これが欲しいなら西域の砂漠をやるあるよ。九州と交換にまけてやる」
 	        「ちょ、引き合いませんよ」
 	        思わず口をついたさもしい言葉に、中国はしかし、「そら見たことか」とは言わなかった。
 	        ただそうして経済観念から自由になれない自分達へ送るかのように透徹した眼差しをむけた。
          
 	      …ああ。
          
 	      いつまでも、どこまでも、この人は。
 	        この人には。
 	      つい、と先に立った中国の背中を追いかける。
 	        二千年、追いかけて、追い越そうとして、追いつかない。
          
 	      沢山のことを習った。人と人の対しかたも。
 	        彼はいつも鷹揚に私を教え諭し、壇上から睥睨した。
 	        いつも、いつまでも垂直関係の私たち。
 	      私の苦しさは、あるいは喪われた水平性にあるのかもしれない。
          
 	      私はあなたの愛し方を習わなかった。あなたとの関係を変えたくて、だけど、追い越す以外のありかたが分からなかった。
          
 	      「ああ、でも確かに、天井が高いあるね」
 	        あなたは北極星を頭上に輝かせて振り返る。周りの星星を従えて。
 	      「まさに天帝ですね」
 	        「ん?」
 	        「あなたのところの思想家でしょう、孔子は」
 	        「んー?」
 	      こめかみに指をつきつけた中国にため息半分で講釈を垂れる。まさに釈迦に説法だ。
 	      
 	      子曰く、政を為すに徳を以てするは、譬へば北辰の其の所に居て、衆星の之に共するが如し。
 	        
 	        北極星が一つ所にいて多くの星がそれを中心に仰ぎ抱くようにしている、そのように、君主が道徳で政治を行えば人心はそれに帰服するのだ。
 	      
 	      このヴィジュアルイメージに従って、北辰、つまり北の星の中心、すなわち北極星は、天子のたとえとして用いられる。
 	      「ああ!」
 	        「思い出しました?」
 	        小さな揶揄を、中国は笑い飛ばした。
 	        「あれは、お前たちの勘違いあるよ!」
 	        「…はあ?だって、北辰って北極星でしょう」
 	        「違うある。何故なら、仲尼が生きてた頃、真北の空には何もなかったあるね」
 	        「…え」
 	      絶句した日本に中国は説明した。数年前に「おまえのところの学者が」(と彼は口角をあげた)解説してくれたという。
 	        ちょうど倒れる前のコマがそうするように、地軸は宇宙にむけた線で円を描いていること。
 	        その動きにより、「真北」は位置を変えていること。
          
 	      「我の記憶違いだったかと思っていたある。朱熹に言われて久しぶりに見てみたら確かに真ん中に星があるし。他にあの空の『見覚えがある』やつはいねーあるし」
 	        でも。
 	        「あのそらは、ずっと見てたあるから」
 	        さらりと継がれた言葉に、しかし日本は息を止めた。
 	      寂しかった訳ではないと彼は言った。殊更に。打ち消すように。
 	      その彼は、ひとりで、なにもない空を見つめ続けてきたのだ。私や次兄が生まれるはるかまえから。
          
 	      闇を真ん中において、こぐま座アルファ星をも含めた周りの星々が回転運動をすることを天の秩序と孔子が呼んだのなら、そしてそれをこの人が受け入れていたのなら、なるほど勘違いしたのは私の方だ。
 	        習わなかったのではない、気づけなかったのだ。
 	      この人の愛の出所にも。
          
 	      「日本」
 	        中国はそっと両手を前に開いた。向かい合う二人の間の空間を柔らかく示す。
 	      「誰もが虚(そら)を抱いて回り続けるものあるよ。我とてお前とて同じ」
          
 	      みな等しく衆星の一つ。
          
 	      日本は中国が片側を抱く虚空を抱きしめるために、その手に指を伸ばした。