※ご注意
・兄弟パラレル、SSSongs18の続きです。←こちらを先にお読み下さい。SSSsongs19とは別の世界です。
・私がさいてーです。
苦手な方はお戻り下さい。
「ホームとアウェイ」、そんな言葉を母は時々使った。
高校時代はチアリーダー、卒業してメッセンジャーガールとして会社に入り、週末には男友達と旅行やドライブ。きっとこの中の誰かと結婚してアップルパイでも焼いて暮らすんだわ、そう思っていた頃に、菊の母が会社に転任してきたのだという。キャリアとノンキャリアの間に線どころか溝が掘られていたその会社で、一分の隙もなく高そうなスーツを着こなしクイーンズイングリッシュで部下に指示する彼女は、社内メール便を届けるだけの母にとって、全く別の世界の人であり、だからこそ無邪気に憧れる相手だったという。人種の違いは、「別世界」を強調こそすれ、憧れを削いだりはしなかった。母は、とにもかくにも雰囲気に弱い人で、簡単に人に惚れる、ほだされる。写真でしか見たことのない菊の母の雰囲気など分からないが、母には無い特性が顔に表れていた。すなわち、とても頭が良さそうだった。
父は彼女を迎えによく会社近くに来ていたという。たまたま鉢合わせた時に紹介され、キャリアである彼女に顔を覚えて貰っていたことにいささか感動した母は、年の離れた姉夫婦に懐くようにして父とも顔なじみになったという。そして、菊の母親が不幸な死を迎えた後、残された男と乳児のためには女手が無ければと家に乗り込んだ。まあ、ちょっと、その頃悩んでいたこともあってね―――母は口を濁した。いずれにしても、ほだされやすい彼女はその分そういう人の良さがあった。
だから、「菊の母」には望んでなったようなものだったわけだが、彼女は菊に一線を引き続けた。子どもの目から見てもそれはあからさまな不正義であり、そのくせどう見ても菊を嫌っている目ではなかったから、それは不合理でもあった。俺は何度となく菊のいないところでそれを非難したが、彼女は言を左右にしてその態度を保ち続けた。今になってみれば分かる。彼女は、自分のばかが菊にうつるんじゃないかと思って怖かったんだ(そして俺のことは「どうせあたしの子」くらいにおもっていたわけだ)。菊には彼女が憧れたその母の美質が受け継がれていることを見抜き、一方、受け継がれていないもの―――物怖じせずアウェイ社会で互角に渡っていく胆力がないことも母には直感で分かっていた。だから彼女は、父の転勤に伴って、菊にとっては初めて踏む土地である日本へ行くことを同意した。それが菊のホームだから。
俺にとってはアウェイじゃないか。そう言うと、彼女は笑った。何言ってるの、アメリカ イズ ザ ワールドよ。どこに行ったってそこがあんたのホームだわ。
無茶苦茶を言う。ただし、それが無茶苦茶だとわかったのは日本に来て違う世界を知ったからで、アメリカにいた頃はそうか、そうなのかと素直に頷いた。間違いなく母のばかは俺にうつったのだ。そしてもう一つ母から受け継いだものがある。理由のつけようもない菊への憧れだ。違う世界をホームとしていることを理解しながらも、惹かれてやまない。
来日後、言葉と文化の壁にもがいたのもわずか、水を得た魚という言葉さながらに生き生きとおたく活動に邁進し始めた菊を、母は理解しがたいという顔で見ていたが、「何はともあれ、人にはホームがあるってことなのよ」と言った。
皮肉なことに、それと反比例するように母のアウェイ感は強まった。周囲に傲慢な無邪気さを愛して貰うには母はおとなすぎた。少しずつヒステリックになっていく母と、だから余計に帰ってこない父―――俺の「ホーム」は狭まり続け、それはほとんど菊と同義となっていた。菊が俺の兄であり、それが俺を受け入れてくれること。それさえあれば、どんなアウェイ戦にでも打って出られる。だって俺は、ヒーローだから。
ヒーローとは、スーパーマンじゃないんだよ。母には実の姉というのもちゃんといて、その姉夫婦とは一家ぐるみで付き合いがあった。中古車を扱っていたその家にとって父は大切な顧客で、父にとっては留守がちの家庭を託せる数少ない知り合いだった。だから月に一度はその家に行って舌に馴染んだ味のチェリーパイを食べた。子どもに恵まれなかった姉の夫はアメリカの父親を演じるいい機会と見たのか、俺にしょっちゅう話かけた。
「人は、超人にはなれない。だけど、誰かの英雄にはなれるんだ」
「うん」
俺はばかだったからそんな他愛もない訓話にもなるほどと思い、素直に頷いた。
「アルフレッドはいい子だな!」
子どもながらに、菊は違うみたいな言い方はやめてほしいと思ったが、叔母の家にも本を持っていって黙って読んでいる菊と、こんな時だけ菊のそばにいる母は二人とも俺たちの方を見もしなかった。
叔父は野球が得意で、子どもとのキャッチボールで肩を痛めるジャパニーズビジネスマンの父とは較べようもなくかっこよかった。家にいない父に代わって、俺に徳目を説いた。
嘘をつくな。正義を旨とせよ。神を裏切るな。
―――その叔父に、年々似てきた。
鏡を見るのが怖い。大人になるのも怖い。
子どもの頃はただ目が大きく可愛いと言われたが、少しずつ輪郭がはっきりし、眉の形や鼻筋の通り方、口元のイメージが定まってくる。それは記憶と写真の中の叔父のものと同じだ。
気のせいだと何度も思おうとした。実際、そうと言われなければ気づかないのだろう、菊の目にその疑いを見たことはない。でも、父は気づいている。
母の言に依れば菊の母を裏切ったことはないそうなのだから―――それは信じられる―――俺は本当に、共通の愛する人を失った悲しみを父と母とで慰め合った結果、月足らずで生まれたのかもしれない。違うかもしれない。
父は俺の顔を見たがらなくなった。俺の「ホーム」はますます菊に凝縮する。
誰が何と言おうと、菊は俺の兄なのだ。
DNA鑑定など、絶対にさせない。そんなことをしたら、壊れてしまう。父母の仲だけでなく、少年の日の記憶も、そして俺の支柱となってきた正義も。
ただの妄想に違いない、だって菊は俺を疎まない。それを証明したくてしがみついていて、ある日偶然に、それに気づいた。
菊は、俺に欲情している。
背筋を冷たいものが通り過ぎていった。最初嫌悪かと思ったそれは、恐怖だった。
菊は俺のことを兄弟だと思っていない。家庭崩壊の寸前にある今、兄としての感情を捨てるということは、離ればなれになる未来を肯んじることに等しい。
俺は、ホームを失ってしまう。
待って。待って菊。俺を置いて行かないで。
お願い、手を、離さないで。
毎晩ぎゅうぎゅうに抱きしめたまま考えて、何かを得る為には何かを捨てなければいけないという人生の鉄則に行き着いた俺は、自問自答した。
男と恋が出来るか。そんな問いに、こんな風に答えた漫画が菊の本棚にあった。曰く、咥えられるかどうかじゃねえの。
―――できる。
菊の、熱をごまかした吐息を、愛おしいと思う。それが自分に向けられていることも嬉しく、「弟の為に」隠そうと思ってくれている優しさも胸に染みる。
17年間紡いできた気持ちを愛だと言い換える事なんてごくごく簡単で、俺の下で乱れるならその姿を美しいと思う自信さえある。全身舐め回したって、きっと甘く感じる。
そこまで思うのに。
「菊」
「…なんですか」
無邪気を装って肩口に唇をつけると、菊が小さく身じろぎをする。ああ、今愛されている、そう感じて脳髄がしびれる。
このひとを、全て自分のものにできる、踏み出しさえすれば。その甘い誘惑は、同時に俺を叩きのめす。
「愛してる」
言葉でなら、「弟」も捨てられる。神だって。
それなのに。
俺の身体は、菊と、菊を求める俺とを拒否し続ける。菊と「兄弟」で無くなることは、俺が不義の子だと認めることだ。あの少年の日がくそみたいな欺瞞だと認めることだ。その吐き気が、本能さえ封じ込める。
役に立たないその器官をすりつけるように身を寄せれば、菊はまた熱を紛らす吐息を漏らした。