※ご注意
		  ・兄弟パラレルです。二人とも高校生。
		  苦手な方はお戻り下さい。
 	      
 	      
           
        この前転校してきた2年A組の本田と1年F組のアルフレッドは兄弟だって。
            そう聞いた者は誰もが一瞬ぽかんとし、ついで、ああ、と納得する。「連れ子同士の再婚か」。骨格から何から見た目が違うのだからその反応は理にかなっている。
          数ヶ月もすればその「ねえねえ知ってる?」は性格の面でも「ああ」を引き出すようになった。スポーツ万能で何にでも積極的に関わっていくアルフレッドと、騒がず目立たずをモットーとするオタクの菊。それぞれの親がどうして引かれ合ったのだろうという次なる疑問を生みつつも、二人が血の繋がらない兄弟であるという理解はゆらぐことがなかった。
          「また聞かれちゃったよ。兄弟って本当?って」
            「またですか」
            何の感慨も乗せず菊は返事をした。目線は漫画から離さないままだ。二人の部屋は線対称のように家具が配置されているが、本棚についてだけはアルフレッドの領域を侵略しつつある。
          「ねえねえ」を聞いた誰もが想像するのとは違い、二人の父は同一である。母は違う。父の海外支社赴任に伴ってアメリカ入りした菊の母はその産褥の中、現地の病院で亡くなった。その喪も開けぬうちにアルフレッドの母は菊の家に出入りするようになり、やがてアルフレッドを生んだ。産み月足らずなのだと説明されたが誰がどう見ても、「妻の臨月中の浮気の子」だ。
            そうした経緯を後から聞けばなにがしかのことを思わないでもないが、自意識どころか意識も定かでない時期のこと、菊は後妻の彼女を母と思って育ってきたし、特に仲が悪いとも思わない。これだけ無愛想な子どもを虐待するでもネグレクトするでもなかったのだから出来た人だと思いさえする。
            自分に対するより数倍の関心が弟に振り向けられたことも当然だろうと受け入れた。愛くるしく活発で誰もが望む「アメリカの少年」なのだから。
            母と弟、その二人と自分との間にはきっかりと線がある。見た目からして違う。中身も違う。同じ水を受けながら違う花を咲かせるのは種が違うからだとしか思えない。自分は「日本人」なのだ。
            だから、その菊の理解の枠組みを壊す勢いで弟が懐いてきたのには、正直困惑しか感じなかった。文字を読んでいれば幸せという超インドア派の菊は弟に引っ張り回され運動もさせられ、眉間の皺がデフォルトとなった。兄弟であるだけに容赦ない衝突が繰り返され二人はやっと手打ちできる距離をみつけた。菊が集中しているときは邪魔しない、ただし邪魔さえしなければ何をしてもいい。
           
          「だからさ、いつも一緒に帰ってればそういう質問されないだろ」
            「意味が分かりません。他人の家庭に容喙する無礼者のためになぜ行動を制限されなければならないんです」
            「妖怪…って言うほどじゃないだろ」
            菊はため息をつきながら頭を振った。
            「貴方と私は帰りの時間が違うじゃないですか。貴方の予定なんて読めないですし、私だって遅くなる日もあります」
            「それは、ほら、図書館で時間調整して待ち合わせればさ…」
            はっ、と菊は笑った。貴方が?図書館?似合わない!口を歪めたまま本の最終頁までめくり、菊は本を置いた。振り返り、アルフレッドと眼を合わせる。
            「私、そろそろ寝ます」
            「うん」
            「だから離してください」
            「うん…」
           菊の腹にはシートベルトのようにアルフレッドの腕が巻き付いている。背中はぴったりとアルフレッドの腹にくっつけられているし、足は彼の両足の間に入っている。昔はおんぶおばけだったのにいつの間にか人間座椅子になった、と菊はため息をつく。がっしりとした腕、厚い胸板、大きな身体。学校でもヒーローだと言って憚らない、それだけの活躍もしている、それなのに。この部屋の中では、まるでライナスが毛布を手離さないように菊を離さない。
          「このまま寝ようよ」
            「嫌です、狭いです苦しいです、…危険です」
            「うん……」
            別に何をするわけでもない。ただくっついているだけだ。菊からすればしがみつかれているだけ。それでも親に――特に母親に見られたら面倒なことになりそうだから、それには気をつけている。夫婦の寝室を確保したせいで子ども部屋が別々にならなかった、都心とはいえそのくらいの部屋数のマンションしか用意できなかった父の甲斐性の程度に、アルフレッドは感謝さえしている。カーテンで仕切ることができる二人の部屋は、それが引かれたことはほとんどない。
            「菊……」
            「……」
            はあ、とため息をつき、明日に回そうと思っていた次巻に手を伸ばす。それを読む時間分の接触を許されたアルフレッドは嬉しそうに頬ずりを寄越した。
           
        狭い家だけにガールフレンドを連れてきたことなど数えるほどしかないが、初体験だってとうに済ませていそうな弟がどうしてこうもべたべたと肌を寄せるのか。
            ――彼はアメリカ人だから。
            ――アメリカ人とはスキンシップ過多なものだから。
            アルフレッドに説明をする気はなさそうだから、その接触過剰のわけは皆目分からないけれども、とにかく菊の側には「理由」が要る。だから色んな説明を探す。
          こういうケースにしばしば与えられる説明は、
          ――子どもの頃に与えられるべき愛情を受け取れなかったから。
          どうにも首肯できない説だった。母の溺愛ぶりは紛れもなかった。多忙だった父とは確かに接触が少なかっただろうが、とりたてて問題があったとも思えない。原因など無いと思える、それなのに現象だけがある。
          幼少期のトラウマが原因かもと考えれば、彼の幼少期の「環境」であった菊はその責任をとらなければならないような気になる。だから、どれだけ邪魔であろうとアルフレッドの好きにさせている。しかし、――愛情は量ではかれるものではなく、故に計算の対象ではないと分かっているが、受けたものと与えるものの足し算・引き算には思わず口を尖らせたくもなる。
          菊はそうした感情に蓋をして二次元に浸る術を身につけている。どれだけアルフレッドが密着してこようと、集中力の9割は目の前の本に振り向けることができる。
            残りの1割で考える。なぜ、彼は。こんなふうに。
          多分、一つには。
            不安なのだろう、と菊は思う。
            彼にとっては生まれた時から四人だった家族の形が変わるのが。
            ―――今も夫婦の寝室では離婚に向けての話し合いがされているはずだ。
           
          父は転勤の多い仕事だった。単身赴任という選択も何度か採られたが、そのたびに女性問題を引き起こしたため以来家族全員で引っ越しを繰り返してきた。小学校高学年からはずっと日本、それからも転校・転入は3度ほど経験した。環境の変化が母に与えたストレスは大きいに違いない。だから、国に帰ると主張する母を止める気は家族の誰にもあまりないのだが、帰る先が実家ではなさそうな――別の男がアメリカで待っていそうな気配が話をこじらせている。どっちもどっちだ。そう醒めた眼で菊は二人を見ているが、アルフレッドにとってはこの事態そのものがストレスらしい。
        もともとくっつきたがる弟だったが、こんな風に何時間も抱きしめてだけいるようになったのは亀裂が決定的になってからだ。
          私を抱いていたからといって、現実がつなぎ止められるわけでもないのに。
          そう思って菊は嘆息する。
            アルフレッドは母に連れられてこの家を去るだろう。想定通り、髪の色眼の色でこの家族は二人と二人に分かれるのだ。
           
          「あなたがたはアメリカ人、私達は日本人ですからね」
            ほろりと零れた呟きに、アルフレッドは抗議のつもりか腕の力を強めた。
          「国籍で言うなら、パパは日本人、ママはアメリカ人、俺と菊は『両国籍』だ」
            アメリカで生まれた菊も、日本人の父をもつアルフレッドも、両国籍の選択権を持つ。成人時に選択することになるが、それを一つの枠と考えれば、確かに「アルフレッドと菊」が同じくくりとなる。
          「はたちまででしょう」
            いずれ国籍を選択する、その時には、当然「環境において有利な方」を選ぶことになる。母がアルフレッドを連れて帰国する以上、二人が別の国籍となる将来は半ば確定している。
          そんなことよりも。
            菊とアルフレッドの間に線を引く、決定的な基準がある。見た目だ。
            劣性遺伝のはずの金髪碧眼。
            日本人と交わったとしてもそれを完璧に引き継ぐことが、無いわけではない。しかし余りにも典型的な「アメリカ人」たるその容姿は、疑念を生ませ続ける。
            ……母の不貞もまた、今に始まったことではないのではないか。
           ねえ、俺は菊の弟だよね?
            求められている答えの核心は血のつながりだと知りながら、菊は出生届上のこととして答える。
              ええ、もちろん。
              そうだよね。
            明朗快活、何事にもアクティブなこの弟は、しかし、二人きりの場では何度もその質問を菊にぶつけるほど、自分の根に迷いを持っているのだ。
           
          「アメリカ人っていう人種はないんだよ」
            「まあ、そうですね」
            日本だって単一民族国家ではない。ましてアメリカは移民の国。典型的「アメリカ人」というのは本当は正しくない。典型的「アメリカンマジョリティ」と言うべきか。
          「アジア系だって星条旗に忠誠を誓った市民はアメリカ人だ」
            「…私は何に対しても忠誠を誓う気はあまりないですけどね」
            忠誠とは、それを上回る価値をもてないということだ。菊にとって二次元以上のものは、そうそう無い。
          「別に、君にアメリカ人になれって言ってるんじゃないよ」
            「あ、そうでしたか」
            「別々」が嫌なのかと思っていた菊は思わず振り返った。思いがけず真剣な眼に見返され、どきりとする。
           
          「俺はここにいる。そして、菊も、ここにいる、よね?」
            「…ええ」
           
          聞かれていることがそれではないと知りながら、菊は現時点での物理的な存在について答えた。
          ぱたり、と菊は本を閉じ傍らに置いた。許されたと了解して、アルフレッドは腹に巻き付けていた腕を菊の肩に回した。全身をすっぽりと拘束され、菊は他に何もできず眼を閉じた。
                      ああ、神様。この迷える魂を。
            全知全能の貴方は、これを見ていて、しかし救わない。
           
          「どこで区切るか、なんだよ。線は、あるんじゃないんだ。誰かが引いてるんだ」
          菊の肩に顔を埋めたままそう呟いて、しばらくしてアルフレッドは腕の拘束を解き、「おやすみ」と自分のベッドに戻っていった。枕元のリモコンで電気を消し、菊も「お休みなさい」と返す。
            簡単に十字を切り眼をつむる。
            アメリカで育った菊にとってキリスト教は空気のようになじんだものだ。信仰あついとはとても言えない兄弟だが、食事時と就寝時は神に祈りを捧げる。
            だけど―――
           神は どこに いる?
        「神の遍在」は簡単に「偏在」と書き誤ることができる。
            神は本当に私達を見守っているのか、導くのか。
            それとも、単に見下ろしているのか。
            全ての試練が神の思し召しだというのなら、どう応えればいい?
            「兄弟」というくくりの中に居続けることを求めるアルフレッドに。
        あれだけ密着しているのだから、向こうの状態は分かる。アルフレッドは、まさにライナスの毛布として菊を求めている。そこに疚しい昂ぶりはない。
          菊も、ここにいる、よね?
            英語文化圏で育ったアルフレッドはそう表現する。だけど、含意は、「兄さんも、ここにいる、よね?」なのだろう。
            早晩DNA鑑定をすることになり、私と彼は「兄弟」ではないことが明らかになるだろう。それでもアルフレッドは抵抗するに違いない。「血」で区切らなくていいんだ。「繋がり」で区切るなら、俺と菊は手を取り合ってきた兄弟なんだ。同じ括りの中なんだ、反対意見は認めない!
          
          神は どこに いる?
          GODISNOWHERE.
          どこで区切るか。
          既にいる、そして同時に、どこにもいない。
          
          兄などいない、そう暴いてしまうのは、まよえる彼の魂に対する暴力だろう。そう思うから、菊はただ黙っている。兄を求めてすがりつくアルフレッドの腕の中にいるのは、実は、その腕のたくましさや美しい瞳に劣情を催す存在なのだと、…そんなことが言えよう筈はない。体勢から、アルフレッドの平静さは菊に伝わり、菊の熾火のような熱は隠匿される。
           
          私と彼の間には、そういう意味でも、明確に線がある。
           
          私はここにいる。けれども、貴方が求める私は、どこにもいない。
          私を求める貴方はここにいる。けれども、本当の私を求めてくれる貴方はどこにもいない。
          
          
          星が見えなくてもそこにあるように神もやはりいるのなら、二人を隔てる線を越える橋もあるのだろうか。
          自分こそがそれを求めているのに、同時にそのアガペーに似たものを叩き壊したいとも思い、菊は暗闇の中、ただ眼を閉じた。