※ご注意
「やっと、泣くことができた」の続きです。そちらを先にお読みください。
養父アル(30くらい)子菊(18くらい)パラレル妄想。1951年頃を想定しています。かなり重いです。
死にネタです。
法月綸太カ氏のある小説のぱくりというかオマージュというか裏返しです(言い訳は最後に)。ベタに展開します。
以上、危険を感じた方はお戻り下さい。
もう一度念押しに。死にネタです。
泣き叫べばあのときのように引き留められるというのなら、体中の水分を全て出し尽くしてもかまわなかった。
その立場になってみて初めてわかる―――なんて言い方は嫌いだと、かつて知り合いは言った。
「それって要するに、違う立場の人のことを真剣に考えたことないってことだろ。何のためにことばがあるんだっつうの」。
兄の友人がそれを言ったとき、なにを想定していたかはしらない。俺は年齢以上に子供だったし、彼は年齢相応に大人だった。今も兄が暮らし彼もいるだろう町とこことは面する大洋さえ違うから、今更それを尋ねることもできない。
ともあれ、違う立場の人にも伝えられることがあるはずだという彼の言葉は心の奥に沁み入り、紆余曲折の末、ジャーナリズムの道に俺を進ませた。言葉で伝えられるほど賢くはないから、ただ、撮る。フィルムも回すが専門はカメラ。「君は本当にテクニックを使わないね」と失礼なことをほわほわ言いながらそれでも仕事を回してくれる雑誌編集者のつてで、六年前、日本に行った。
そこには、カメラには入りきらない絶望があった。
俺は「その日」を知らない。
菊は知っている。滅多に「その日」のことを語らない菊の、ぽつりぽつりと漏らされた言葉をつなぎあわせて想像すれば―――
菊はその日の昼過ぎには市内に引き返し、彼の家があった場所を訪ね、そこで出来ることはないと知って(「だって、なにもなかったんです」)、建物疎開の作業をしていたはずの兄を捜しに出かけた。そして「かつて兄であったなにか」を見つけだした。触れることも出来ず(「もうありえないのに、どこを触っても『痛い』と怒られそうで」)ただ座り込んでいたら、―――雨が降ってきたのだという。
ぼと、ぼとと兄を汚す雨を、拭うことも出来ず避けることも出来ずせめて傘になれないかと覆い被さって、だけど私の小さな体はやはり大したことができなくて…
菊が度を超した洗濯好きなのはそのコールタールのようだったという雨の記憶によるのだろうと思っている。
「…で、どうすんの?」
マシューはルートビアをすすりながら聞いた。
「うーん」
「行く気がないわけじゃないんだよね?」
「………うん」
帰国以降、報道写真家としては半引退状態だった俺にも声をかけてくれるのは、文句なしにありがたい。町の写真館の手伝いとか絵はがきの写真とか、そうした仕事だけをここ数年続けてきたから、正直、収入もささやかだし、刺激も少ない。現場、それも大きな動きのあった場所でシャッターを切りたいという思いは強い。
「でも、太平洋は、広すぎるよ……」
渡るだけで10日以上かかる。そこまでして行ったのなら数ヶ月は滞在したい。そんなに長い間菊と離れているなんて。
「もう子供じゃないんだろ?」
「年齢はね。……中身はそれ以上に大人だけど」
かけてもいい、俺以外には礼儀正しいマシューでも予備知識なしで菊にあったら「君はいくつかな?」と子供を相手にするように言うだろう。もっとも極力人には会いたくないらしい菊のために誰も招待したことがないからそんな想定は意味がないけど。だから菊は、もしかしたら俺に友達がいないと思っているかもしれない。
「そうなんだろうね、君の話を聞いていると、まるで彼がお母さんみたいだもんね」
「いや、さすがにそこまでは」
ないと思うんだけど。どうだろう。自信がなくなってきた。
「お母さんなら、息子ががんばっていい仕事してくるのを待っててくれるんじゃない?」
「…だから、15近く年下なんだってば」
ぶすくれて言ったが相手にしてくれない。結論は最初から出ている。これからの人生を報道写真家として生きていきたいなら、このチャンスを逃すわけにはいかない。
「戦線は北緯38度あたりで膠着状態らしいから、君に行ってもらうあたりはそんなに危険じゃないと思うよ。あ、フィルムは潤沢に使ってね、君の写真は使えないのがけっこうな割合を占めるから」
失礼な。と思うけれども、事実らしいので、黙る。この前の頼まれ仕事も、編集長判断で随分没にされたらしい。
「A picture is worth a thousand words.……なんだよねぇ……」
マシューはストローの口を押さえて少し引っ張り上げ水面以上に茶色い液体を引き上げた後、すとんとそれを落とした。
「……いつか、今の旋風がすぎて、君の写真集が出せたらいいなと思っているよ」
「ただいま」
キッチンにはいると洗い物をしていた菊は振り返ってにこりとわらった。
「お帰りなさい、遅かったですね」
「うん、ごめんね。ちょっと…仕事の話で」
「お疲れさまです。もうお食事もすませました?」
「まさか!菊のご飯を食べないなんて一日の楽しみの半分を捨てるようなものだよ。今日はなに?」
「暑くなってきましたからさっぱりと、蒸し鶏のマリネ風サラダと野菜のトマト煮です……そんな顔しない」
ほんとに”おかあさん”みたいだ。苦笑して、冷蔵庫に向き直った菊を後ろから抱きすくめる。相変わらずちっちゃい。背は少しは伸びたけど、細い、細すぎる。
”おかあさん”がいたことがないから、”おかあさん”に抱きついたことがない。実感では分からないから、よく本で見る言葉で判断するなら、きっとこれは”おかあさん”に感じる気持ちとおなじだ。この上ない安堵と幸福。
「菊、大好きだよ」
菊は少し顔を赤らめてこちらを見返してくれる。
「ええ」
その言葉に「私も」という意味が含まれているのを知っている(別にしてくれていいのに!)。
ねえ、だから”おかあさん”、待っててくれる?
「それ」は小さな疑惑の形で始まった。
たとえば、もともと好きではあった掃除洗濯への、異常な熱のいれかた。
たとえば、家からでたがらない菊が、それなのに町を歩いていたという噂。
…と隣のおやじに聞いたんだけど?と言えば、なんのことでしょう?とはぐらかされた。
秘密を持つのは成長の証で、「親」なら黙ってそれを受け入れるしかない。引きとどめようと拘束したら余計に反発される―――してしまう。
三年前とは違う。あのころ菊は本当にまだ子供だった。あんな状態で家を飛び出させるなんて認められるわけがなかった。ものすごい偶然や幸運が(俺みたいな)重ならなければ子供が一人だけで生きるなんて無理ってもんだ。―――ああそうだフランシスだ、フランシスごめん、俺はやっぱり、その立場になるまでいろいろ分からなかったらしいよ。子供の家出を認められる保護者なんているわけがない。
だから思う、もしかして、俺もあと3年待っていたら、穏やかに自立することができたんだろうか。多少の喧嘩はあったかもしれないけど、こんな風に完全に断絶するのではなくて、ちゃんと連絡先も渡して手を振りながら家を出て、大人になっても時には電話なんかもして、やっぱりあれこれ干渉されて、「本当にうるさいよ君は!」なんてがちゃんと電話を切っては菊にたしなめられて。
そんな未来も作り得たのかもしれない。俺と彼との両方が、もう少し、気持ちを伝えられる言葉を持っていたなら。
二月ほど前からの疑惑は一向にへることはなかった。
買った覚えのない郵便切手と明らかに量の減ったインク壷。そこには「家の外」のにおいがあった。揺り椅子の脇に置いてある本の、栞の位置が動かないことにさえ、外出の可能性を思う。全ての買い物は俺が引き受けていて、それ以外のものは家にないはずなのに、買ってきた以上の漂白剤のストックがあったりする。
菊が家から出ないのを―――菊を萎縮させる視線が町に満ちているのを―――つらく思っていたはずなのに。
どこに行ったんだい、誰と会ったんだい。
そんな過干渉なせりふが喉元までこみあげる。
掃除が好きだから、と菊はしょっちゅう家を磨きたてるが、それだって、家の中に入り込んだ「外」の痕跡を消そうとしているようにかんぐってしまう。
誰かが菊に誘いをかけている。
誰かが菊を奪おうとしている。
それはただの妄想にすぎないのにひどく俺を苦しめた。
思い始めればなんだって疑惑に結びつく。
ここ最近、菊はだかれるのをいやがるようになった。菊を膝に抱え上げ頬にキスをするのが俺はすごく好きだった。さすがに身長が伸びてきたから膝に抱えれば見上げる形になったけれども、それでも背伸びをして頬をあわせ、手を伸ばして髪をすく。絹糸のような黒い髪はさらさらと指の間を流れる。自分からは愛情表現を示すことのほとんどない菊は、それをうっとりと楽しんでいるようだったのに。
何かと理由を付けて髪に触らせなくなった。
親子の親愛表現と言い張るには度が過ぎる。それはわかっている。子供の頃ならともかく、菊はもう18になろうとしているのだ。
そうだけれども、あの頬を、あの髪を、あの手触りを誰かに奪われるなど考えるだけで意味のない音を叫びそうになる。
もっとも、秘密というならこちらにもある。渡航準備は少しずつ進めている。戦地に行くわけだから、万が一のことを考えて遺書も作ったし、生命保険もかけて菊が一生困らないようにした。絶対俺は菊の元へ帰るつもりだけど―――そんなの、古今東西全ての兵士が決心していたことのはずだ。
そろそろ公的書類を準備しなければならないとなって、俺は夕食時に切り出した。
「あの…明日から2日くらい、留守にするよ」
煩雑な手続きと面倒な書類が必要で、隣のシティまで行かなければならない。
「え」
菊はナイフを置いた。
「どこかへ行かれるのですか」
「うん、ちょっと、頼まれ仕事でね」
「…そうですか」
菊は小さく呟いて、皿をおしやった。もう食べないらしい。
「まだ残ってるぞ」
「もういいです」
最近「夏ばてです…」と菊はうなっていて、あまり食が進まない。夕方帰ると涼しい居間でぐったりしていることもある。「夏ばて」の経験がなくてどんな状態なのかよく分からない俺はむやみに心配してしまい、菊になだめられている。
何か考え込んでいる菊に、できるだけ軽く聞こえるように冗談めかして言った。
「なんだい、俺がいないと寂しいかい?」
黒い目がじっとこちらを見つめる。
しばらく黙った後、「…いえ」と菊は言った。
「ゆっくりしてらしてください」
とくん、と心臓が鳴った。
「…何かあるの?」
「いえ」
なにも。念を押すように付け加えられたその言葉に、言いようのない予感が走った。
「誰か、くるの?」
「いえ?」
真っ黒の目は静かにこちらをみる。それがふいと揺らいだのが分かった。
「誰が、くるの?」
「いえ」
誰が菊を奪いにくるの。
頭が煮えていることは自覚していたから、珍しくお休みのキスの後は部屋に戻った。
もう成人と言っていい年齢なのにいつまでもミニマムな菊に甘えて、ずっと菊のベッドにもぐりこんでいた。さすがにこれはマシューに言ったら絶対ひかれる。
言い訳だと分かっているけど、菊は時々ひどく寝汗をかくのだ。胸の上のふとんをぎゅうと握りしめ、ただはあはあと息をつく。枕カバーがわりのタオルで顔を拭ってやればやがて息が落ち着いてくる。きっと菊の中では、俺の知らない、俺には伝えようもない、伝わらない「その日」が蘇っているのだ。「その日」を知らない俺に出来ることは、それを抱え持った菊をじっと抱きしめることだけだと思う。
多分常識ある大人なら別の形で菊を支えるんだろう。だけど、愛も恋も定義なんて分からない俺には、菊の命そのものが愛おしく、片時もそれから離れたくない。自分から振り払った手はもうカウントできない、だから、俺にとって家族とは菊一人きりだ。「親」「子」とロールを固定して始まった家族関係の筈なのに、そんな枠を越えて、菊がいとおしい。
生きていることにどうしようもなく罪悪感があったんです、とかつて菊は言った。そんなこと言わないで、そんなの逆だよ死ぬ方が罪だよ、ずっと生きていてよ。菊の発想自体が悲しくて思わず涙をこぼしながら言ったら、菊はめずらしく自分から膝の上に乗ってきて、俺が落ち着くまで頭を抱きしめてありがとうとごめんなさいを交互にささやいた。
では、貴方のために生きます。
貴方が私の命の全てです。
菊は確かにそう言ったのに。
俺以外の人と菊が作り上げる人生を、そして作り出す新しい命を、「親」として見守るなんて、きっとできない。
俺は、自分があれほど求めた自由を菊から奪い、あれほどいやがった束縛をしようとしている。
フランシス―――いや、アーサー、助けてよ。俺をあのときの君にしないで。
私立探偵のまねごとをする日が来るとは思わなかった。いったん雑誌社へマシューを訪ね準備遅延を謝り倒した後、自宅に引き返して植え込みの陰に隠れた。
晴れた日は必ず干すはずの洗濯物がまだ干されていない。
それをさておいてでもしたいことがあったんだろうか。俺がいない間に電話で連絡を取り合ったのかもしれない。菊は否定したというのに、俺は「誰かが菊を奪いにくる」という妄想から離れることができなかった。
太陽が南天しても菊はポーチに姿を現さなかった。休日にしか見たことはないけれども、小さな体で大きなシーツをばさっと広げる菊はとても気持ちが良さそうで、その笑顔をみるのが好きだった。あの顔を見られたら、そのまま出ていって”おかあさん”にするように告白と謝罪をできそうな気さえするのに。疑ってごめん。縛ろうとしてごめん。ただ、君にずっといてほしいだけなんだ。
家は静まりかえっている。
何事もなかったように、家はただ静かにたっている。
菊が来る前もこの家はこんな風だったはずだ。
でもそれが思い出せないほど、家の隅々にまで菊の気配がしみとおっている。
家は静まり返っている。
と、電話が鳴った。おもわず手を握りしめる。これが、誰かの呼び声なんだろうか。いよいよ、なんだろうか。
ベルは、3回、4回。6回、7回。
緊張に堅く結んでいた手を、開く。
電話に応える菊を想像して苦しくなっていたけれども。なぜ応えない?
9回、10回。
菊?
15回まで数えたところで、たまらず植え込みから立ち上がった。
20回目に、電話はとぎれた。
「菊?」
玄関のドアを開けながら尋ねる。
どうしたんですか、なんでこんな時間に?
目を丸くしながら菊はひょいとでてくるはずだ。いや、今日は暑いからまた居間でぐったりしているのかもしれない。もしかしたら、この前のように床に転がっているかも。帰宅後いきなりその姿を見つけて絶叫したら、日本ではエンガワという板張りの上に寝転がることもあるのだと言い訳のように言われた。
なんでもいいよ、菊。
もう、怒られたって怒らせたっていい。何度も言ったように、”それでも君を好きなんだからね”。
つんとする異臭に鼻が反応した。漂白剤のにおいだ。洗剤のにおいは好きだと言っていたけど、こんなにしょっちゅう(ボトルのストックをふやすほど!)しなくてもいいだろうに。そう思いながら、あまりにも強すぎるそのにおいをたどるようにしてシャワールームに行った。
しろとあかとくろ が目に入った。
漂白剤はこぼれて床をぬらしていた。それをせき止めるかのように横たわる菊の体は、その頭付近が、口からこぼれたらしい大量の血でふちどられていた。菊の足元におちたシーツにも点々と赤い飛沫が散っていた。
「・・・きく?」
口は小さくあいていたが、目は静かに閉じていた。眉もしかめられてはいなかった。
ただ、シャワールームに充満する強烈なにおいが、この構図がつくられたのはかなり前であることを示していた。
「きく?」
尋ねても返事はない。そのままときがたった。
どんな偉大な役者でもこんなに長い間ぴくりとも動かずにいられるはずはない。生きているなら。
分かってはいたけれども、脳がその理解を拒絶した。
だって、おかしい。
これは、なに?
足の力が抜けて、そのままへたりこんだ。ジーンズの裾を床が濡らす。
菊は動かない。
「きく」
動かない。
何十回呼びかけても、菊は返事をしなかった。
頭の片隅でドアベルの響きを聞いた。「ミスタ・ジョーンズ?」という遠くの声も。しばらくしてその二つが遠慮がちに繰り返され、やがて開け放していたドアから入ってきたのだろう、足音と呼ばう声が近づいてきた。寝ていたわけではなかったけれども、気がつくと視界がうっすらと暗くなっていた。夕方が近い。
「ミスタ・ジョーンズ?…キク?」
あれ、今菊の名前が呼ばれた。誰だろう。菊の名前を知る人なんてこの町にはいないんじゃなかったっけ。のろのろと考える。それにしても菊はなぜ返事をしないんだろう。確かに人嫌いで家に引きこもってはいたけど、郵便なんかは受け取っていたはずなのに。そして、郵便配達夫にしてもなぜこの声はこんなに焦っているのだろう。
あちこちをさまよった足音はやがて近づき、「失礼」と断って勢いよくシャワールームのドアを開けた。
「キク!………アルフレッド………」
名前を呼ばれたので振り返る。
「あれ、アーサー?」
一生会わないと吐き捨てて背中を向けた相手だった。
今はもうあのときの、いろんな感情を詰め込みすぎて発酵し爆発したような心はないけれども、それでも顔を合わせたら平静ではいられないだろうと想像していた、義兄だった。
なぜ心が波立たないのだろうと考える。ああ、さっきから頭がまわらない。まるで手回しオルガンの最初の重たいひとまわしみたいだ。
俺の顔を見て一瞬ひるんだアーサーは、次の瞬間視線を奥にやって、目を見開いた。
「ちょ……おい、この子が”キク”か?」
「うん。そのはずなんだけど、おかしいんだ」
「おか…しいだろう、それは!なんでお前座り込んでんだ、ドクターは?!」
「なんべん呼んでも応えないんだ。動かないんだよ」
「……も、う、……息がないのか?」
「そんなはずはないんだ」
だって菊は、俺のために生きると言った。
ゆっくりと首を振る俺を数秒見つめ、アーサーは立ち上がり踵を返した。
それから後は、脳が半分に割れたようだった。
事態の推移は頭の半分で理解していた。役に立たない俺の代わりに、アーサーが全てを処理してくれた。俺はただ聞かれたことに―――書類の在処だの菊の出自だの―――に機械的に答え、与えられるままに黒い服を着て教会に行った。
菊が手紙を出していたのはアーサーにだったのだと、遅まきながら気づいた。履歴書その他を見てあちこちに問い合わせもして、やっと捜し当てたと手紙に書いてあったという。
いくら家族でも踏み込んではいけない部分だと知りながら………だから絶対に怒られると分かっていましたが、それでもどうしても貴方に辿り着きたかったのです。怒っても叱っても、最後には”それでも好きだよ”と言ってくれることを信じて家捜しをしました、と。
菊は知っていたのだ。
朝鮮戦争を撮るために長期間家を空けることを。
それで急いだ。
その前にアーサーとの関係を修復させようと試み、彼をよびつけた。
なぜなら、菊には、俺の帰りを待てる自信がなかったのだ。
「死ぬつもりがあるわけではないのです」
と、アーサーが見せた菊からの手紙にはあった。
「私は絶対に『お帰りなさい』と笑って言うつもりです。だって、生きることではなく死ぬことが罪だと―――それほどのことばで『生きていて欲しい』と、言ってもらったのですから。だけど、私のふるさとにいた幾万幾千のひとは誰もがそう思っていたでしょうし、そんな風に言ってくれる誰かを持っていたでしょう。私の”つもり”はともかく、症状から判断するに、私も彼らを追いかけるとしか思えません。」
「親に対する言葉ではないと叱られるでしょうが、わたしはあの人を一人にすることがどうしてもできないのです。
私はあなた方の間に何があったのか知りません。あなたの中に許すまじきという思いがあるのかもと思います。
だけど、諸々のことをまげて、私を安心させてくださらないでしょうか。」
葬儀は小糠雨の中で行われた。操り人形のようにそこにいるだけの俺の代わりにアーサーが種々の手配をしてくれた。参列者は俺の知り合いだけで、それだって「俺の」ならともかく「菊の」葬儀に来る人は少ない。マシューは最初から最後まで付き合ってくれた。
あまりよく憶えていないけど、棺に土をかけることがどうしてもできなくて、棒のように立ちすくんでいたから、その辺りの世話もしてくれたのだと思う。
泣き叫ぶどころか口を開きもしない俺を心配してくれたんだろう、三人で俺の家へ戻った。リビングのソファに腰掛けて、二人はぽつぽつと会話していた。
「…それにしても」
「ん?」
独り言に近いその小さな呟きに二人ともこちらを向いた。
「ほんとに、友達が居ないと思われてたんだな。『一人にする』、なんて」
「いや」
返事は異口同音に返ってきた。
どうぞ、いや、と発言の譲り合いをして、マシューが口を開いた。
「菊は、僕を訪ねて来たことがあるよ」
「え?」
「1ヶ月くらい前、かな。電車を乗り継いできたからちょっと疲れた、と言っていたけど――こんなに病状が深刻だとは思ってなかった」
「な…なんで、君を?」
「君の写真が見たいって」
フィルムは手元にあるが、現像したものは家にはない。全部マシューに渡してある。
「日本では記録映画が主だったから写真はそんなにないよって―――別に気を遣った訳じゃなくて事実そうだったから、言ったんだけど、そうじゃなくて、君の仕事をできるだけたくさん見たいって。その頃暇だったから、資料室に二人でこもって、見せながら色々話をした。来たのは秘密にしてくださいって言ってたから黙っていたんだけど」
これはネヴァダだね。こっちはボストンかな。言いながら写真を見せるマシューに、菊は聞いたという。
こういうのも、雑誌に掲載できたのですか。
聞き覚えのあるフレーズだと頭の半分で思っていると、マシューは苦笑した。
「『いや、半分は使えなかったよ』って答えた。『そうでしょうね』って彼は言った。『あまりにもまっすぐです』」
「どういうことだ?」
首を傾げたアーサーに顔を向けてマシューは言葉を継いだ。
「普通、写真家は、うつしたいものをうつします。見たくないものがあったら自然にそれをフレームの外に出す。だから、『それを写したい』と思っている写真家は別にして、読者が見たくないものは、無意識のうちに、写さないよう角度を変えてしまうものなんです。でもアルフレッドは見たままを切り取る。アメリカの醜い部分までリアルに写しだしてしまっているので、……赤狩りにひっかかるんじゃないかと危惧していて、だから現時点で掲載できるのは撮ってくるのの5割以下なんです」
「…」
こちらに向き直り、マシューは言った。
「『あの空色の目は、こんなに多様の色を写しながら、それでも澄んでいるのですね』って」
菊の真っ黒い瞳こそ。頭の半分で思い返す。全ての色を飲み込んで、それでも濁っていなかった。
レンズ越しに目と目を合わせた、あの日から、まだ6年。俺は俺で、菊は菊で「生きること」自体に迷っていて、やっと、お互いの中に今ここにいる意味を見つけ出したのに。
「『だから、きっと、アメリカの未来にも、あのことを伝えてくれますね』―――って」
マシューは噛みしめるように言った。菊は『きっと』と言ったという。千の言葉の代わりに、ただあの菊の目の色を伝えられたら、立場の違うこの国の人にも伝わるんじゃないか。―――そう思っては、いたんだけど。
菊のふるさとを撮ったフィルムは軍に没収された。日本でも「その日」に対する言葉には検閲がかけられているという。ましてこの国で、絶望を溢れさせたあのフィルムはいつか公開できる日が来るんだろうか。いつか伝えられるだろうか。そこに正義などなかったことを。
「そろそろ帰るね」
大丈夫?とマシューが聞くので、小さく頷く。
アーサーも一旦引き上げるという。本当に世話になってしまった。ちゃんと礼を言って、菊が望む「関係修復」をしなければ、そう思うけれども、何せ頭が回らない。
「また来る」との言葉に小さく頷くのが精一杯だった。
ベッドで寝ることができず、そのままソファで寝転がった。
アーサーが菊の身体を持ち上げたとき、シャワールームには菊の髪が散らばっていた。それは拾い集め、棺の中にいれてくれたという。血は洗い流したと言っていた。頭の半分で、あのアーサーがそうした汚れ仕事までしてくれることに感謝しなければと思いながら、「片付けられていく」ことがなんともやるせなかった。
家は静まりかえっている。
もともと菊の持ち物は少ない。ものを欲しがる子じゃなかった。愛情を求めることもめったになかったけど、ベッドで横になって、眼鏡を外したその奥の睫をうっとりと触ることが何度かあった。細い指で俺の髪をさらさらとすいて、同じことを俺がすれば、くすぐったそうに笑った。
もしそれをしていたら、俺の指には抜けた髪の毛が絡まるようになっていたのだろう。
もし漂白剤がなかったら、シーツについた吐血の跡が隠せなかったのだろう。
病気が分かったからと言って俺に何が出来たわけでもない。何せ原因は史上例を見ない新型兵器で、たくさんの人が医療の限界を超えて死んでいった。
だけど。
隠して誤魔化して、何でもないように振る舞って、その瞬間に耐えられないだろうと慮って引き留めもせず、菊は、俺の目と鼻の先で、塩素と血の匂いの中で、彼の兄のもとへと行ってしまった。
誰かに菊が奪われるという予感は正しかったのだ。
朝鮮半島についたら。できるだけ美しい風景を探したいと思っていた。それは菊の言う『まっすぐさ』ではないのだろうけど、菊自身は行ったことがないという彼の兄のふるさとの美しさを菊に見せたいと思っていた。菊が生きていることを、君も喜んでくれないか。そんなことを風景に語りかけるだろうと思っていた。
俺の国の最重要都市の中心地区、その名を冠した計画によって、菊の兄は「かつて彼であったなにか」にされた。
菊の鞄にあった手紙と、アーサーが持ってきた手紙をソファの上でくり返し読んだ。その中でアーサーは、子どもに対する態度ではなく真摯に菊と向き合った上で、言葉を選びながらも、「君のその行為は代償行為ではないのか」と問うていた。「そうかもしれません」と菊は書いていた。「でも、貴方が『弟』を許して下さることで私の屈託が昇華されるのではないのです(ですから、貴方のお心のままになさってください)。そうではなく、言えないままだった『兄』への言葉を代わりに言っては貰えないだろうかと思っているのです」
「同封した写真は無理を言ってご友人に譲っていただいた写真です。推測ですが、これは貴方がいらっしゃる町ではありませんか?この写真に溢れる光から、回路さえ繋がれば送られるだろう言葉を想像していただけませんか?そして貴方が兄としてはぐくもうとされただろう美質が彼の中に今もあることを認めていただけませんか?」
ずっと、泣くことができませんでした、と菊は言っていた。泣いてはいけないのだと思っていました。
そんな風に思うわけじゃないけど、涙が出ない。まだ感情がついてこない。
眠れもしないまま朝を迎えた。
家は静まりかえっていた。
一眼レフを取り出して、菊のいないリビングを写した。
菊のいない庭。菊がシーツをひろげないポーチ。
とんとんと階段を上る。菊のいない子ども部屋。菊のいないベッド。
小さな家を見て回る。そこかしこに菊の記憶があるのに、今、菊はいない。
写しても写しても、菊は写らない。写真にはかつて彼がいたことも、もういないことも写らない。
階下に降り、あれ以来一度も入ったことの無かったシャワールームに足を踏み入れた。
息をのんだ。
多分、アーサーが必死で掃除をしてくれたはずの床に、だから血の色はとれた床に、それでも大量にぶちまけられた漂白剤が、床の色を奪い取って、模様を作っていた。
身体でせき止められその枠を縁取った漂白剤は、白と灰のコントラストでそこに菊がいたことを―――同時にそのときもう「ここ」にいなかったことを示していた。
頭の全部、身体の全部に、その空白が押し寄せてきて、俺は初めて泣いた。