やっと、泣くことができた


 

※ご注意
日記で書いた養父アル(27くらい)子菊(15くらい)パラレル妄想。1948年頃を想定しています。かなり重いです。
ある意味死にネタです(アルや菊がではありません)。そして「アル菊」は「恋愛」ではありません。
諸々、危険を感じた方はお戻り下さい。


 

 

「菊。きーく」
階下から私を呼ぶ声がきれぎれに届き、本を閉じた。とんとんと階段を下りるとドアの外からまた名を呼ばれる。
「はい、今」
ドアを開けると、大きな紙袋を両手に抱え顎で押さえている父が眼に入った。
「お帰りなさい、お父さん」
何か受け取ろうと手を伸ばすが、先方には渡そうという気配もなく、困惑しているうちに彼はさっさと中に入ってきた。ついでに足でドアを蹴り閉める。
「お行儀が悪いです」
「…そういうのは親の台詞なんだぞ」
「すみません」
僭越であるのは間違いない。私は素直に頭を下げる。と、テーブルの上に包みを置いた父が軽々と私を抱き上げ、目線を合わせてきた。国民学校を出てもう3年になるというのに、私の背はなかなか伸びず、まだこんな子ども扱いをさせてしまう。
「時にはそういう台詞で菊を叱りたいな!」
「……善処します」
父は吹き出した。
「しなくていいよ!」
片手で私の腰を支えたまま、ソファに移動する。そっと私を降ろしてから、隣に彼も腰を下ろし、肩に手を回してきた。きらきらの髪が私の髪を撫でる。かすかに、汗の匂いがする。8月が近い。
「菊はまだまだ軽すぎるよ!肉もオートミールもたくさん買ってきたからね、しっかり食べるんだぞ」
「…善処します」
農家の子ならもう立派な働き手となる年齢だ。もっとも敗戦で日本の学校制度も変わったらしく、もう少し義務教育年限が伸びたという話も聞いたが…私には関係がない。そして日本人である私にまで及ばない州の就学年限も関係がない。私は、どんな意味でも、既に働くべき年齢なのだ。早く大人になり、独り立ちしなくては。
「うん、そっちはね」
父は大きな手で私の頭を撫でた。
父、と呼んではいるけれども、もちろん、血のつながりはない。私はこの人の気まぐれで拾われ、気まぐれが続いている間、ふるさとから遠く離れたこの家にいる。

 

+++

カメラマンだった彼は、占領の記録をフィルムにおさめるために敗戦直後の焦土へ足を踏み入れた。私のふるさとでさえ既に「アメリカ人といえばチョコレート」だった子供たちは、「映画をとりたいから集まって欲しい」という言葉に素直に従った。笑顔を見せもしていた。
私がねぐらにしていた土管の前で彼らは撮影会を始めていた。私はその土管にもたれたまま、半目を開けてそれを見ていた。動かなかったのではない。腹が減りすぎて動けなかった。私は背景の半死体役のようにそこにいた。

カメラを持つ彼と眼が合った。

私はじっとレンズの先を見つめた。レンズを間に挟んで数秒私達は見つめ合い、そして、カメラが片付けられ助手も通訳も子供たちもいなくなった後もまた見つめ合った。
「君は帰らないの」
兄の勉強に付き合わせられて聞きかじった英語で私は答えた。
「…帰る家がありません」
「……そう」
彼は片膝をつき、同じ目線にたって、聞いた。
「うちに来る?」
意味が分からなくて小さく首を傾げた。
「俺に家族をくれるなら、君に家をあげるよ」

それ以来、私は彼の家に居座っている。

私より15程度しか上でなかった筈なのに、彼はことの最初から父と呼ぶことを強要した。家族ごっこをするのに「ご主人様」は興ざめなのだろうと思いはしたが、それにしても、
「せめて、おにいさん、とか」
譲歩というより明らかにその方が喜ばれる筈の提案に、彼は首を振った。
「嫌だ」
「…」
「反対意見は認めないぞ」
私は曖昧に微笑んだ。認めるもなにもない。この家の王様は彼で、私は仮寓するにすぎない。
「おとうさん?」
「うん」
「よろしくお願いいたします」
「…子どもが親にそんなこと言っちゃダメだ」
無茶を言う。
「………何と言えば?」
「そりゃあ……」
言いかけて、口をつぐむ。
「ダメだよ、菊。言わされるんじゃダメなんだ。君が自分から言ってくれないと」
本当に無茶を言う。手引きも解法も与えずに正解だけを求めるとは。
大体、今のは「息子」としての台詞じゃない。「役者」としての挨拶だ。
「とにかく、安心して、菊。俺が君を守るから」
そう言って「父」は私の頬にキスをした。

最初は鳥肌が立ったその身体接触にも、いつしか慣れた。父はことあるごとに私を抱き上げ、頬を寄せた。
「私、女の子ではないんですが」
思いあまって聞いてみたこともある。
父は、鳩が豆鉄砲を食ったようとはまさにこれ、という顔をした。
「…知ってるけど?」
「つまり……口づけをするような対象ではないと思うのですが」
「分かってるけど?」
彼が分かってる、のなら、私が分かってない、のだろう。
「……アメリカの『親』とは『息子』にそのように接するものなのですか」
わずかの時間混乱を見せて、それから父は「ああ!」と思いついたように顔を明るくした。
「口づけなんていうから、何のことかと思ったんだぞ!頬のキスなら、当たり前だよ。…いや、大人になったら今みたいにしょっちゅうはしないけどね。こうやって、『お前のことが好きだよ、大切に思ってるよ』って気持ちを伝え続けるんだ。子供が愛情不足で迷ったりしないようにね」

後で周りの家族のスキンシップをこっそり見ていたら確かにその通りだった。しかし、そうでない親子の形に慣れていた私は抗った。

「わざわざ確認しなくても雰囲気で分かることではないですか。そもそも子として育ててもらうことで既に恩を感じます。それ以上の愛を望むのは分不相応です」
父は目を丸くしてそれを聞き、しばらく黙した。
「それは…日本の教育の結果なのかな、それとも菊の性格なのかな」
「なにがでしょう」
「寂しいな、って」
そしていきなり私を抱き上げた。金色の睫に縁取られた空色の大きな瞳が私を見つめてくる。
「甘えて欲しいよ。もっと好きって言って、って、言って欲しい。そしたら、俺は、求める十倍でも言ってあげる。俺なら、迷わせたりしない―――」
私の薄い胸に顔を押しつけて、彼はしばらく固まったように動かなかった。

そのことがあって以来、私の台本には「愛情を求めること」という注意書きが書き込まれた。直後の「可能な範囲で」という但し書きのせいで、たいして演技に変化はでなかったが。

 

+++

 

「お父さん」
「なんだい」
「外が暑くて汗をかいたんでしょう。それ、洗います」
「ん?くさい?」
「いえ…そう言いたかったわけでは」
ない。ただ、洗濯をしたい。洗剤の匂いが好きなのだ。
「じゃあ、シャワー浴びようかな」
「はい」
頷いて手を出すと、父は困ったような顔をした。
「ねえ菊、分かってくれてると思うけど、俺は小間使いが欲しかったわけじゃないんだ」
「…はい」
「そうやって色々やってくれるのは嬉しいけど、もっとわがままを言ってほしいんだぞ。ほしいものはないかい?野球のグローブとか、おもちゃとか」
「…」
私をいくつだと思っているのか。父は膝に手をついた。顔をのぞきこまれる。
「俺は全く欲しくなかったけど、君が欲しいなら顕微鏡だって、数学の本だって買って来るよ」
「……いえ。特にないです」
貴方は家をくれた。父としての誠意もくれている。
それ以上ねだることなどできない。
ねだられても困るだろう、たとえば、「じゃあ今度はご近所さんをください、私をジャップと罵倒しない、蔑まないお隣を」などと言われても。

居候の身として、家事炊事は引き受けている。日本では家事などやったこともなかったがそんな経験があったとしても役に立たなかったろうというほど、アメリカの「キッチン」は近代的だったし、食材が違っていた。最初は父に教えられ(まあ、シリアルへの牛乳のかけ方とか、肉の焼き方とかだ)、次いで舌の記憶を頼りに勘で勝負を挑み(何度も惨敗したが、父はなんだか楽しそうに炭化物を食べていた)、そこそこのものが作れるようになってきた。

たくさん買ってきた、の言葉に嘘は無く、エプロンをつけた私は肉の固まりを前にしばし悩んだ。折角の一枚肉なのだからこのまま焼くべきだろうが、私の腹には絶対に収まらない大きさだ。一枚だけは魚をおろす要領で薄く削ぎ、削いだ分は煮込んで次の日に回すことにした。自分のに細工したのがばれないよう野菜ソースを上にたっぷりかける。
果たして父は機嫌良く―――最近やっと野菜を出しても文句を言われなくなった―――それを頬張った。
「切ってあげようか」
「結構です」
そんなことをしたら肉を薄くしたのがばれる。
まだスムーズではないカトラリーさばきに冷や汗をかきながら、なんとか腹に収め終えたが、父はむくれている。
「…なにか」
「『こら、頬にソースついてるぞ』、ごしごし、っていうのをやったことないなって」
「…はあ」
ソースは、つけないほうがいいのではないか?何が求められているかが分からず目を泳がせると、そんなことを言う父の袖にソースの雫が見えた。
「失礼します」
とんとんと布巾でたたいてやるとまた例の発作が起こったらしい父は私を膝の上に抱きかかえた。
「菊はいい子過ぎてつまんないな」
「…」
”つまらない”。心の内側にすっと冷たい風が通った。このばかげたお芝居はいつかははねる。彼が飽きればそこで家族ごっこは終了だ。
「もっと、困らせてくれていいのに」
「…」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をなで回される。
「困っても、叱っても、それでも俺は君が大好きだよって、言いたかったのに、な――」
無茶を言う。
困らせて、叱らせて、それでもゲームオーバーにはさせないようなさじ加減を15の子どもに求めないでほしい。
「……おとうさん」
「ん?」
「………私を好きですか」
「もちろんだよ!」
即答だった。ほとんど反射だった。頬ずりをされながら、ああ、この人はこれがしたかったのだと、やっと分かった。

 

掃除の時に見つけた一枚の写真。ものがつめこまれた引き出しが奥からぽとりと落としたそれには、ちょうど今の私の外見年齢の父と、今の父の年齢の若い男性が写っていた。幼い父は「天使とはかくあるものか」という可愛らしさで、全幅の信頼を彼を抱く男性に預けているようだった。男性は写真に緊張しているのかそれとも子どもを抱くことになれていないのか、多少ぎごちない顔をこちらに向けていた。

裏に書かれた二つの名前はファミリーネームが違っていて、親子兄弟のような単純な関係ではないことを示していた。
それ以上の情報はない、だからただの勘でしかない。でもたぶん。
父は彼に育てられたのだ。

父は彼が好きで好きで、多分私とは違いいつもそれを口にしていた。けれども彼の方は分かりやすい愛情を示してくれなかったのだ―――少なくとも、まだ幼い頃の父に分かる形では。

彼は父に顕微鏡と数学の本を与え、食事のマナーを教えた。
そんな窮屈さが父は嫌で、困らせたのだ。困らせて、叱らせて。…そしてどうなったのだろう。私は知らない、けれども、少なくともこの家にその男性の影はない。

人生などという大したものを生きてはいない。だからたかだか数年、他人のごっこ遊びに付き合わされても困りはしない。どうせ拾われなければそのまま干からびた命なのだから。
とはいえ、ここまで徹底的に父のための道具なのだとは分かっていなかった。私は、愛情が返されなかった幼いアルフレッドの代わりで、父は父自身に愛情をそそいでいたのだ。「おにいさん」だったのだろう、かのりりしい眉の男性の代わりに。

 


皿を洗い、シャワーを浴びてベッドに潜ると、父が顔を出す。なんでも、お休みのキスは絶対にしなければいけないのだという。時には子守歌を歌ってあげるなどと言ってベッドに乗ってくる。最初の頃は身体が強ばって寝るに寝られなかったものだ。寝かせ付けにきたはずの父が先に眠り込んでしまい、その身体にシーツをかけて、そのあとやっと眠りに就く、そんなこともしばしばだった。
「やあ、菊」
最初からそのつもりなのだろう、枕を抱えている。
「…お休みなさい、お父さん」
私は教えられたとおり頬に口づけ、頬を向け、キスをうける。
「良い夢を」
ぽんぽんとフトンの上から手をのせられる。

 

言ってあげたらいいんだろうか。
貴方はいいお父さんです。
野球のグローブだってなんだってせがめば買ってくれるのだろうし、マナーなど気にせずたくさん食べろと言ってくれる。
子どもにも分かる形で愛情を示してくれるし、お休みのキスもくれる。夜も早く帰ってきて、私を一人にしないでくれる。したこと、できたことへの賛辞と感謝をくれる。

貴方は本当にいいお父さんでした。
私が貴方だったなら。

 

ベッドから抜け出して、鞄の中にしまってある本を取り出す。明かりをつけては寝ている人に悪いから、月のあかりでそれを眺める。もう何度もめくって、手垢もつき、端もよれた絵本。お話の内容は全部暗記しているのに、私には一文字も読めない。

 

―――これは、昔、立派な人が悪を懲らしめてくれた話なんだぜ。絶対、悪は滅びるんだぜ。

 

ちょうど私と同じように、かつて私の実父に拾われた兄は、マンセー!と封じられたことばを小声で言いながら頁をめくった。兄は私にだけは遠慮が無く、こき使われもしたし、迷惑もかけられた。それでもたくさんのことを習った。私にだけは飾らない顔を見せた。慈善家でもあったが新興財閥の社員として数多の現地企業を買収した父を、内鮮一体と言いながら兄と私を扱い分ける周囲を、兄は心の中で「悪」と呼んでいたのだろうか。

私が日本から持ってきたものはこれだけ、兄が唯一ふるさとから隠し持ってきた、兄の母語で書かれたこの絵本だけだ。
これさえ持って行けばいい。

絵本を鞄に入れ、使うあてもないのにお小遣いとしてもらっていたコインを貯金箱ごと手に取る。じゃらり、とそれは鳴り、どきんとして振り返る。

父は、私を見ていた。

「出て行くのかい」
「……ええ」
眼鏡を外したままの顔は、極端に幼く見える。まるで、子どものようだ。
「いつそれを言い出すんだろうと思っていた」
「…そうですか」
「崖に向かっていく自動運転の車に乗っているようだったよ。どうしたら止められるんだろう、どうしたらああならずに済むんだろうって。――俺だったら、今の俺だったら止められると思ったのに」
父の頬を涙が一筋伝わった。

……ああ

そうか。父もまた、「出て行った」者なのだ。それを悔やんで悔やんで、大人になってもまだ苦しくて、だけどその時の彼にその行動は必然で。

二人がどうだったならそれを止められるんだろうと、彼はずっと考えていたのだ。

「ごめんなさい」
「嫌だよ、認めない」
「…ごめんなさい」
「嫌だ」

あの写真の男性は、そのとき、どうしたのだろう。こんな風に止めたのだろうか。子どものように涙を流して。

「私は、やっぱり誰かの代わりにはなれないです」
「なんのこと?」
「……普通に、結婚して、子どもをお作りになったらいいと思うんです。手っ取り早く私で間に合わそうとなさらずに」
「何を言ってるんだい?君が誰かの代わりなんかのはずないじゃないか。俺は菊に、ここに居てほしいんだよ!」

父は―――ジョーンズさんは、ベッドから降りて足音荒く近寄り、私の両肩を掴んだ。

「菊、君にとって俺はまだ『お父さん』じゃない?家族になれていない?」

 

私は絵本の入った鞄を抱えた。

 

「貴方は、私の家族を―――兄を、ピカで焼いた国の人、です」


「………」

占領下の写真を撮った彼は、その意味を、あの光景を知っている。

兄は学徒動員で建物疎開の作業のために爆心地近くにいた。「本当の日本人じゃない」と周囲から言われ続けた兄は、その非難を跳ね返すためにもそうした活動には人一倍真面目に行っていた。
実父の気まぐれがなければ、兄は自国で干からびていたかもしれない。けれども人の姿を業火に奪われることもなかった。
父の名代として私が親戚の法事で市外へ出向いていた、たったそれだけの偶然で、私は今、干からびもせずに、こんなところにいる。

誰がどうすれば良かったのか、全く分からない。実父も私も日本を背負って生きている訳ではない。ジョーンズさんにアメリカを背負わせるのもおかしなことなのだ。死にそうな子どもを拾おうとした手は、きっと、どちらも暖かかった。
それは分かっているのに。

 

突然腕の中に抱き込まれ、息がとまった。

 

「それでも俺は君が大好きだよ」


「……」
わかっている、原爆遺児として出会った私を、それでも、彼が養子にしてくれたこと。学校に行こうにも日光に負けてしまう気力のない私を心配し、できるだけ様子をみようとしてくれていること。痩せて青白く無愛想な私に、自分の面影など見るほうが難しいに違いない。彼が私を子として慈しんでいることくらい、分かっていた。
「君が俺を恨んでも、憎んでも、うざったいと思っても、怖いと思っても――」
「……」
この人は、鳥肌をたて、身体を硬直させる「旧敵国のアジア人」に、それでもいつも目線をあわせてくれた。身をかがめて、または抱きかかえて。

だけどその愛情を素直に認めることもできなかった。これはごっこ遊びなのだ、私は身代わりなのだと考えなければ、今私が生きていることが―――兄は死んだのに私は生き延びたことが、許されないような気がしていた。

何より、愛だと思ったものが失われるのはもうごめんだった。


「いわゆる『アメリカ少年の理想像』とはかけ離れていても、俺は他の誰でもない『君が』好きで、君の笑顔のためなら野菜だって食べるし、洗濯物だってちゃんと出すし――――なんだよ、それじゃ全然『親』じゃないじゃないか!」
笑う場面ではないはずだったが、余りにも場違いで且つ心中思った通りのことを言われ、思わず吹き出した。その拍子に、何かが目から転がり出す。

「菊」

笑えと言われ、努力したことはあった。一年余りも一緒に暮らせば自然に笑ったこともある。けれども、泣いたことはなかった。泣く資格は自分に無いと思っていた。
つられたのか、またジョーンズさんの大きな瞳からぽろぽろと雫がこぼれる。
「じょ……ず、さん……」
耐えられず、しがみついて泣いた。彼はぎゅうぎゅうと私を抱きしめて、泣いた。それは多分、子どもだけが持つはずの感情同調という心の動きで、簡単に言うなら、私につられたのだ。

もしかしたら、この人も泣かなかったのかもしれない。兄と慕ったであろう人との別れの時に。その時にためていた悲しみが今吹き出しているのかもしれない。それでもよかった。私達は国を超え人種を越え、ただ、悲しみを分かち合う者、だった。


彼の泣き声に紛れて存分に泣いた。労られたなら、ましてや慰められなどしたなら、心を閉ざすしかなかった。彼の国が私を傷つけた事実は変わらない。「加害者」にあやされるほど屈辱的なことはないだろう。

その傷は、かつて私の国が兄につけた傷だ。その意味で私は泣く資格を持たないと思っていた。

 

やっと、泣くことができた。

兄のために、父母のために、失われたふるさとのために。

 

「あ、り…がと……ござ……」
かすれがすれに言えば、わけがわからないと言った顔で首を振る、その顔は迷子の犬にも似て、私を泣き笑いさせた。

「ぎぐぅ………」

私の顔はまたきらきらの髪に埋もれる。
ずっと綺麗だと思っていた。兄が私にだけ見せてくれた笑顔のように。綺麗で、でも触ってはいけないもの。その資格が私にはないもの。ほしがってはいけないもの………そう思って諦めていたもの。


いてて、という小さな声を無視して、私はそれを両手に掴んだ。



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