波間の約束 |
※ご注意
薄桃色の波が風にざっと揺れた。
――ああ、アーサー。久しぶりだね。例の案件ならもうちょっと待ってくれ、ちょっと後手に回ってるんだ。 弘前。 関心のないことは一瞬たりとも記憶野に残さない男からなんとかその地名を引き出し、公衆電話の受話器を降ろしたアーサーは踵を返した。「みどりの窓口に行って行き先を言えばなんとかしてくれるものです」、その時教えられたマークが目の前にある。英語話者に日本語地名が聞き取りにくいのと同様、日本語話者にも聞き取りにくいだろう発音を繰り返して、アーサーは親切なオペレーターから切符と移動手順を書いたメモを受け取った。 東京からなら新幹線で二時間半、電車かバスに乗り換えてさらに二時間。空路とリムジンバスでもウェイティングを含めれば三時間。思わずため息が出る。よくまあこんなところまでアルフレッドも行ったものだ。
――よく分からないんだよ。姉妹校だかなんだかの記念式典がある、って話で呼び出されたんだけど、わざわざ俺とか菊とかが行くほどのものじゃなかったし。そもそも日本語だから式次第もさっぱり分かんないしね。終わった後近くの公園でピクニックしたのが唯一楽しかったくらいだ。 太平洋は広い。10時間以上の退屈を越えてはるばるやってきてそれというのはむごい。 ――うん、でもさ。 「敢えて」読まないんだよ空気なんて、と主張するアルフレッドだが、読まないのだから結果は同じだ。計算も裏工作も平気な顔でやってのける男だが、「これ」は単なる無思慮だ。 アーサーが「昔からのよい友人」の顔を作り上げて気持ちを押し殺していることも、知っても、知らなくても、アルフレッドは変わらない。 ため息をついて、新幹線のシートに身を沈める。
海上輸送、そして鉄道輸送。 アーサーがその先鞭を付けたと自負する大量輸送手段は、どちらも菊に追い越された。新幹線は速度といいサービスといいすぐれたシステムであることを認めざるを得ない。検印に来た車掌は押印した乗車券と特急券の表同士を重ねるようにして返した。黒い磁気面を上に返されて、その理由を考えたアーサーはやがて思い当たる。押印の赤いインクが服などにつくことを避けているのだ。 日本での国内移動に船を使ったことはないが、似たようなものだろうかとアーサーは思いをはせる。菊はあの戦争で商船の八割を失った。そこから世界随一の造船大国にまでのし上がっていったのだ。現在はその位置を他国に譲り、輸送も特に旅客部門は相当減ったようだが。
何の機会だったのか、菊が酔って青函連絡船の歌を歌ったことがあった。もう三十年ほど前のことだ。オイルショックに社会が混乱し、菊が増船をとめ始めた頃。地方と東京の温度差が歌われるようになった頃。
新幹線の終点、東京とは温度が違うホームに下りて、駅員に切符とメモを見せれば身振り手振りと英単語で乗り換えの方法を示してくれた。「アリガト」と言えばびっくりしたように一瞬動きを止め、それからふわっと笑った。菊とは似てもにつかないごつい親父だったのだが、その様子は菊を思いおこさせた。 衝動で来てしまった。
改めて気づいて自分でも驚いたのだが、アーサーは、菊の携帯の番号を知らなかった。 教えてくれた覚えはある、番号をかきとめた覚えも。 個人的に約束をとりつけるのは世界会議のついでか家にかけた電話でだったし、待ち合わせに互いが遅れることもなかった。アーサーは菊の「いらっしゃい」という言葉を聞くのが好きだったので家を訪ねることが多く、多少の突発事態は――多くはアルフレッドが急に押しかけたというもの――そこで吸収された。 面倒な電話が主に隣人から(時には大西洋を越えた隣人から)かかってくることが多く、携帯電話は己を縛るものだと思っていたために、菊との関係から携帯電話を除外していたに違いない、無意識に。 自分たちは、お互いを縛らなくても、お互いを「よき友人」として遇することで関係が成り立っている。約束を守ろうというそれぞれの意志で会う方が、電波で縛り付け受信者を使役するよりも特別じゃないか。 しかし虚勢をはってそう言い張っても、アルフレッドに「普通」と言われてしまうと、関係性の違いを見せつけられたようで、曰く言い難い衝動に突き動かされてしまった。
会いたい。
長い長い列車の旅がようやく終わりに近づき、アーサーはりんごのモニュメントが迎える駅に降り立った。衝動が醒めるには十分な時間だ。…会える見込みもないまま来てしまった。 とりあえず鳥頭から引っ張り出させた地名をたどるしかない。 そして車は、桜色の靄の前でとまった。 そういうことか。運賃を払いつつ、そういえば以前言っていたなと思い出す。この花の開花が帯のように日本列島を縦断していく季節、菊はそのことで頭がいっぱいになるのだと。「桜を追いかけて北へ北へと旅をする人もいるのですよ」。「桜」と言っただけで連れてこられるのだから、市内でも――いや、「弘前の桜」と言って通じるのだから、国内でも――有数のスポットに違いない。 確かに見事だ。東京ではもう散ってしまっていた桜が、ここでは盛りを誇っている。 「あ」 目も口も丸くしてしまった菊に慌て、アーサーは「ぐぐぐ偶然だな!」と声を掛けた。奇跡としか思えない巡り会いにおいてその言葉は真実だったのだが、そもそもアーサーがこの地にいることが偶然ではありえない。 「ええと…、ここが有名だって聞いて、だな」 運はいい。桜にも菊にも会えた。 「お前も、これを見に来たのか?」 頷いて、橋の欄干にもたれる。 「花見に、来たんです」
言おうか言うまいかかなりの時間アーサーは迷い、しかし結局口にしてしまった。 はっと顔を上げて、菊はアーサーを見つめた。仕方なく種を明かす。 「あー…」 歩きましょうか、と菊は先に立った。
「明治の末年、ワシントンへ桜苗木をお送りしたんです。日露戦争終結の仲介をしてくださったことへの御礼も兼ねて、3000本ほど。最初に送ったものは害虫がついていて焼却処分になったりと色々あったのですが、なんとか無事に根付いて。お返しにハナミズキをいただいたりもしました」 ふうん、と相づちをうつ。 考えを顔に出したつもりはなかったが、菊の目には苦笑が浮かんだ。 「その、最初のワシントンでの桜まつりのすぐ後にうちにいらした時に、しみじみとそれを眺めながら、やはりこの花は私に似合う、と仰って………毎年、見に来るよ、と」 応答が目に浮かぶようだ。「君んちは今暖かいかい?なら行くよ!」 愛の幾分かはエネルギーに換算できる。 そしてそれはエネルギーと違い、等価交換されるとは限らない。 「でも、今年は」 菊は苦しそうな声になった。 「その時期忙しいんだと仰って。ええ、存じてました。上司の交代だけでなく金融不安や恐慌に近い不景気。お忙しいだろうとも、その中でただ花を見るためだけにうちにいらっしゃる余裕はないだろうとも。でも」 「私には」 でも、あの方がそう思っていたかどうか。菊はゆっくりと顔を戻した。 兄弟の贔屓目も嫉妬心も、つまりプラスもマイナスも差っ引いて、冷静に判定するなら―――多分、アルフレッドは、その言葉を覚えていない。 関心がないこと、覚える価値がないと判断されたものは彼の記憶野にとどまらない。 今のアルフレッドにとって、「菊との友好の証の確認」は、「敢えて」しなければいけないもの、では、ないのだ。
――憎しみにも哀しみにも似た感情が胸の中を吹き荒れた。アルフレッドが4月に来ていたのは、桜を見るため、ではない。桜と菊とが暖かく奴を迎え入れる光景を享受するため――端的に言えば菊の暖かさに甘えるため、だ。 なんで、貴方じゃないんです。 いつか菊がもらした台詞。その主語は、自分の思う相手が、ではない。「なんで、貴方じゃないんです、彼は」。彼であること、は、変更の可能性さえないことなのだ。 どうして。 どうして、菊は波間に漂う花弁のような頼りない位置に居続けるんだろう。
「私は、この約束が、破られるのが、怖くて」 菊は顔を伏せて、手を白い首に当てた。きゅ、と力の入ったその両手はまるで首を絞めるかのようだ。 「東京の桜は、そのうち枯れ果てるかもしれません」 「え?」 言われてみれば、戦前は春の光景も少し違っていた。桜を言挙げすることは戦前にもあったから、見た目の違いを見過ごしていた。昔の桜は、…そうだ、もっと色も形も様々だった。 「実際枯れ始めているのか?」 「約束の存在基盤すら、なくなってしまう」 感情という海の中で誰をもつなぎ止めておくことはできない。だから約束という碇を降ろす。それなのに、引き上げようと鎖をたぐったその先が鉄錆に浸食されて碇がちぎれていたなら。いつのまにか大洋のただ中に流されていたなら――その想像は、恐怖だ。 「だけど一方で分かっていたんです。これが自分にしか『約束』と認識されていないことは。そして、知ってもいたんです。約束は、守られる期待をするべきものではなく、結果として守った状態に『する』ものであることも」 私はそれを知っていた。そう言って菊は遠い海を見る目をした。 「だから、『今年の花見』をしました。最初からアルフレッドさんがどう思っているかは考慮の外ですから、無理矢理口実をつけてお呼びだてして。不機嫌も覚悟の上だったのですが、許容してくださいました」
「…菊」 なんですか、と目で問う菊の顔には悲壮な覚悟がある。片思いの覚悟。熱エネルギーは等価交換なのだから、暖かさを与え続ける菊の体熱は奪われ続ける。その覚悟。 そんな無理を言い張ってまで、続けるのか、その恋を。 どうして本当に―――俺じゃだめなんだ。 俺なら、約束は守る。 だけど、菊なら頷いてくれるはずだ。なあ、俺はお前にはずっと誠実だった。 信頼が欲しいならここにあるのに。愛なら、もっと。 どうしてこんな風にベクトルは向きを違えてしまうのだろう。
桜の枝を揺らす風の音は泣けとばかりに響いた。
|