波間の約束


 

※ご注意
・アサ→菊→アル、薄っ暗く救われない感じです。「つらい恋をしている」と同じ話ですが、「浮気」ではないです。
・アル菊の聖域(春好き@ご本家)を汚してしまった気がする。
・戦前及び戦後における歴史記述があります。
・同ネタありそうです、あったらすみません。
諸々、苦手な方はお戻り下さい。


 

薄桃色の波が風にざっと揺れた。

 

 

――ああ、アーサー。久しぶりだね。例の案件ならもうちょっと待ってくれ、ちょっと後手に回ってるんだ。
そうか、まあ、まだ大丈夫だ。…ところで、菊を知らないか?
――菊?
昨日から電話を掛けているんだが、いくら掛けても出ないんだ。倒れてたりしないよな。
――着信拒否でもされてるんじゃないのかい?…ああ、もしかして家の電話にかけた?
当たり前だろう。
――いや、携帯にかけるだろう、普通。うん、それなら出なかっただろうな、ここは随分遠いから。
ここ?
――うん、俺はもう引き上げたんだけどね。なんて言ったかな、ええと……

弘前。

関心のないことは一瞬たりとも記憶野に残さない男からなんとかその地名を引き出し、公衆電話の受話器を降ろしたアーサーは踵を返した。「みどりの窓口に行って行き先を言えばなんとかしてくれるものです」、その時教えられたマークが目の前にある。英語話者に日本語地名が聞き取りにくいのと同様、日本語話者にも聞き取りにくいだろう発音を繰り返して、アーサーは親切なオペレーターから切符と移動手順を書いたメモを受け取った。

東京からなら新幹線で二時間半、電車かバスに乗り換えてさらに二時間。空路とリムジンバスでもウェイティングを含めれば三時間。思わずため息が出る。よくまあこんなところまでアルフレッドも行ったものだ。

 

――よく分からないんだよ。姉妹校だかなんだかの記念式典がある、って話で呼び出されたんだけど、わざわざ俺とか菊とかが行くほどのものじゃなかったし。そもそも日本語だから式次第もさっぱり分かんないしね。終わった後近くの公園でピクニックしたのが唯一楽しかったくらいだ。

太平洋は広い。10時間以上の退屈を越えてはるばるやってきてそれというのはむごい。

――うん、でもさ。
なんだ。
――菊がわがまま言うのが珍しくてさ。「無理ならいいんですけど、でも」って電話で三回言われたからこれはよっぽどだなあと思ってね。顔見せたらぱーっと嬉しそうな顔になって、可愛かったんだぞ。
…。

「敢えて」読まないんだよ空気なんて、と主張するアルフレッドだが、読まないのだから結果は同じだ。計算も裏工作も平気な顔でやってのける男だが、「これ」は単なる無思慮だ。
「あれは俺のだ」と牽制するのなら、もっと直接に言うだろう。それを憚る理由などアルフレッドにはない。菊の側には「色恋ではない」と言いたい理由があるらしいが、アルフレッドにはその違いすら意味がない。
彼にとって「菊が自分を好きであること」は自然・当然であって、そこになんの当為も必要がないのだ。

アーサーが「昔からのよい友人」の顔を作り上げて気持ちを押し殺していることも、知っても、知らなくても、アルフレッドは変わらない。
誰が―――アンバランスなことに、アルフレッドさえ―――誰を思おうが、「菊は俺の」であることは変わらないのだから。

ため息をついて、新幹線のシートに身を沈める。
気持ちを切り替えるために顔をあげ、電光掲示板の読めない文字の流れを眺めた。

 

 

海上輸送、そして鉄道輸送。

アーサーがその先鞭を付けたと自負する大量輸送手段は、どちらも菊に追い越された。新幹線は速度といいサービスといいすぐれたシステムであることを認めざるを得ない。検印に来た車掌は押印した乗車券と特急券の表同士を重ねるようにして返した。黒い磁気面を上に返されて、その理由を考えたアーサーはやがて思い当たる。押印の赤いインクが服などにつくことを避けているのだ。

日本での国内移動に船を使ったことはないが、似たようなものだろうかとアーサーは思いをはせる。菊はあの戦争で商船の八割を失った。そこから世界随一の造船大国にまでのし上がっていったのだ。現在はその位置を他国に譲り、輸送も特に旅客部門は相当減ったようだが。

 

何の機会だったのか、菊が酔って青函連絡船の歌を歌ったことがあった。もう三十年ほど前のことだ。オイルショックに社会が混乱し、菊が増船をとめ始めた頃。地方と東京の温度差が歌われるようになった頃。
――さよなら、あなた。私は帰ります。
もう一軒行こうと近道の公園を通っていた時だったのでアーサーはとめなかった。菊の上気した柔らかい顔をもっと見ていたかった。
――ああ、津軽海峡………
コブシ(というらしい)を回しきったところで歌を止められて、アーサーは首を傾げた。急に表情を落とした顔になって菊はぼんやりと前を見ていたが、やがてアーサーの視線に気づいたようであたふたと取り繕った。どうしたのかと聞けば別のことを答えられそうで、アーサーはその話をうやむやにした。

 


新幹線の終点、東京とは温度が違うホームに下りて、駅員に切符とメモを見せれば身振り手振りと英単語で乗り換えの方法を示してくれた。「アリガト」と言えばびっくりしたように一瞬動きを止め、それからふわっと笑った。菊とは似てもにつかないごつい親父だったのだが、その様子は菊を思いおこさせた。

衝動で来てしまった。

 

改めて気づいて自分でも驚いたのだが、アーサーは、菊の携帯の番号を知らなかった。

教えてくれた覚えはある、番号をかきとめた覚えも。
自分があまり携帯を使わない、というよりしばしば忘れて出てしまうもので、登録するよりは後で手帳に書き写そうと思って、……そのままにしてしまっていた。

個人的に約束をとりつけるのは世界会議のついでか家にかけた電話でだったし、待ち合わせに互いが遅れることもなかった。アーサーは菊の「いらっしゃい」という言葉を聞くのが好きだったので家を訪ねることが多く、多少の突発事態は――多くはアルフレッドが急に押しかけたというもの――そこで吸収された。

面倒な電話が主に隣人から(時には大西洋を越えた隣人から)かかってくることが多く、携帯電話は己を縛るものだと思っていたために、菊との関係から携帯電話を除外していたに違いない、無意識に。

自分たちは、お互いを縛らなくても、お互いを「よき友人」として遇することで関係が成り立っている。約束を守ろうというそれぞれの意志で会う方が、電波で縛り付け受信者を使役するよりも特別じゃないか。

しかし虚勢をはってそう言い張っても、アルフレッドに「普通」と言われてしまうと、関係性の違いを見せつけられたようで、曰く言い難い衝動に突き動かされてしまった。

 

会いたい。

 

長い長い列車の旅がようやく終わりに近づき、アーサーはりんごのモニュメントが迎える駅に降り立った。衝動が醒めるには十分な時間だ。…会える見込みもないまま来てしまった。

とりあえず鳥頭から引っ張り出させた地名をたどるしかない。
タクシーに乗り込み、「サクラ」と告げる。一度菊に連れられていった東京近くの博物館も同じような地名だった気がする。タクシーの運転手はちょっと首を傾げたが、アーサーが「ヒロサキのサクラ」としか言えないのを見て取ってか、やがて頷いて車を出した。

そして車は、桜色の靄の前でとまった。

そういうことか。運賃を払いつつ、そういえば以前言っていたなと思い出す。この花の開花が帯のように日本列島を縦断していく季節、菊はそのことで頭がいっぱいになるのだと。「桜を追いかけて北へ北へと旅をする人もいるのですよ」。「桜」と言っただけで連れてこられるのだから、市内でも――いや、「弘前の桜」と言って通じるのだから、国内でも――有数のスポットに違いない。

確かに見事だ。東京ではもう散ってしまっていた桜が、ここでは盛りを誇っている。
しかし――広い。人も多い。見つけられる訳がない、と絶望にかられたところで、ふっと視界の隅を特別な色が横切った。

「あ」
「あ」

目も口も丸くしてしまった菊に慌て、アーサーは「ぐぐぐ偶然だな!」と声を掛けた。奇跡としか思えない巡り会いにおいてその言葉は真実だったのだが、そもそもアーサーがこの地にいることが偶然ではありえない。

「ええと…、ここが有名だって聞いて、だな」
「…ああ…」
菊はふわーっと顔全体で微笑んだ。
「ポスターでもご覧になったんですか。ええ、東北の桜と言えば一番に名前が挙がるところなんですよ」
顔が期待していたので、思ったことをそのまま口に出す。
「確かに、とてもきれいだ」
「ありがとうございます」
そして菊は歩きながらふわふわとした口調で説明した。もともとは黄金週間(祝祭日が続く週が4月から5月にかけてあるらしい)が見頃だったのですが、温暖化のせいで一週間くらい前倒しになってしまいました。地元の観光産業としては頭の痛いところなんですが、アーサーさんは運がよかったですね。

運はいい。桜にも菊にも会えた。

「お前も、これを見に来たのか?」
「ええ」

頷いて、橋の欄干にもたれる。
堀には風に飛ばされたらしい二、三片の花弁が水の色と対照をなして浮かんでいる。

「花見に、来たんです」

 

言おうか言うまいかかなりの時間アーサーは迷い、しかし結局口にしてしまった。
「……アルフレッドと?」

はっと顔を上げて、菊はアーサーを見つめた。仕方なく種を明かす。
「さっき電話したら、あいつもここに来ていたって言うから、ちょっとびっくりして」
びっくりした、のは「行こうと思っていたところに奴が来ていた」ことではないのだが、論理上、嘘はついていない。

「あー…」
苦笑した菊の顔に浮かんだのは羞恥と自嘲だった。
こういう会話の流れで菊が見せる自嘲は、アーサーの痛みに繋がることを経験的に知っている。それでも瘡蓋をはがす手を止められないような心持ちで、アーサーは続けた。
「呼びつけたんだって?」
「ええ。無理を言ってしまいました」
「珍しいな。…あいつもそう言っていたけど」
可愛かったとも言っていた、とは言わない。

歩きましょうか、と菊は先に立った。

 

「明治の末年、ワシントンへ桜苗木をお送りしたんです。日露戦争終結の仲介をしてくださったことへの御礼も兼ねて、3000本ほど。最初に送ったものは害虫がついていて焼却処分になったりと色々あったのですが、なんとか無事に根付いて。お返しにハナミズキをいただいたりもしました」
「ワシントンの桜並木なら行ったことがあるぞ。とてもきれいだった。なんか、セレモニーもやってるんじゃなかったか?」
「ええ。1949年からでしたっけ、桜まつりをなさるようになりました。何度かお伺いしましたが、盛大なもので、私のこともアピールしてくださって」

ふうん、と相づちをうつ。
その年代は、なかなか政治的だ。
東京とワシントン、日米の首都を結ぶ桜は、緊張化する極東情勢の中での日米関係強化の証だったろう。かつての敵国、今日の占領国との友好の歴史をアピールするイベントは、つまりは、囲い込みの宣言、だ。

考えを顔に出したつもりはなかったが、菊の目には苦笑が浮かんだ。

「その、最初のワシントンでの桜まつりのすぐ後にうちにいらした時に、しみじみとそれを眺めながら、やはりこの花は私に似合う、と仰って………毎年、見に来るよ、と」
そういえば覚えがある。4月に菊の家を訪ねるとたいていあいつが居座っていた。ひまな奴だな、と自分のことを棚上げして考えていたものだ。
「とはいえ、私や貴方ほど花を愛でる方でもありませんから、桜だけを目当てに行動なさるとも思えなくて、…結局私から、毎年開花の時期が来る度に何かにこと寄せてお電話しては、『良かったら桜を見に来ませんか』と…」

応答が目に浮かぶようだ。「君んちは今暖かいかい?なら行くよ!」

愛の幾分かはエネルギーに換算できる。
列車の五時間を我慢するのも、毎年電話をかけるのも、つまりは、相手が相手だからだ。

そしてそれはエネルギーと違い、等価交換されるとは限らない。

「でも、今年は」

菊は苦しそうな声になった。

「その時期忙しいんだと仰って。ええ、存じてました。上司の交代だけでなく金融不安や恐慌に近い不景気。お忙しいだろうとも、その中でただ花を見るためだけにうちにいらっしゃる余裕はないだろうとも。でも」
「でも―――約束、だったんだろ」
菊は濡れたような黒い瞳をこちらに向けた。

「私には」

でも、あの方がそう思っていたかどうか。菊はゆっくりと顔を戻した。
そうなのだ。約束という認識さえも、互いに等しいものとならないことがある。

兄弟の贔屓目も嫉妬心も、つまりプラスもマイナスも差っ引いて、冷静に判定するなら―――多分、アルフレッドは、その言葉を覚えていない。

関心がないこと、覚える価値がないと判断されたものは彼の記憶野にとどまらない。
処理しなければいけないことが多すぎるから、無駄と思われる情報はさっさと棄てる。その判断はコンピュータの最適化のように純合理的で時に非情なものだ。

今のアルフレッドにとって、「菊との友好の証の確認」は、「敢えて」しなければいけないもの、では、ないのだ。

 

――憎しみにも哀しみにも似た感情が胸の中を吹き荒れた。アルフレッドが4月に来ていたのは、桜を見るため、ではない。桜と菊とが暖かく奴を迎え入れる光景を享受するため――端的に言えば菊の暖かさに甘えるため、だ。
それができると彼は思っている――ではない。できると、知っている。

なんで、貴方じゃないんです。

いつか菊がもらした台詞。その主語は、自分の思う相手が、ではない。「なんで、貴方じゃないんです、彼は」。彼であること、は、変更の可能性さえないことなのだ。

どうして。

どうして、菊は波間に漂う花弁のような頼りない位置に居続けるんだろう。

 

「私は、この約束が、破られるのが、怖くて」

菊は顔を伏せて、手を白い首に当てた。きゅ、と力の入ったその両手はまるで首を絞めるかのようだ。

「東京の桜は、そのうち枯れ果てるかもしれません」

「え?」
「現在うちの桜の8割を占めるソメイヨシノは接ぎ木しやすく育ちがいいということで、戦後急速に全国に広まったんです。何せ――それまでの街路樹は空襲でほとんど焼けてしまいましたから。見た目を取り繕い、かつ心を和ませるものとしてソメイヨシノは最適でした。それまでは気候にあわせて種類の違う桜が各地を彩っていたんですが、戦後復興とあわせて一気に桜の光景が書き換えられたんです。でも、ソメイヨシノは病気になりやすい。排気ガスに晒されている東京では寿命60年説がささやかれたりもしています。もう、その年回りなんです」

言われてみれば、戦前は春の光景も少し違っていた。桜を言挙げすることは戦前にもあったから、見た目の違いを見過ごしていた。昔の桜は、…そうだ、もっと色も形も様々だった。

「実際枯れ始めているのか?」
「幾本かは既に。危機感をもって調査をしているところですが、このままだと、8割の木に、倒木の危険性があるんだそうで」
「それは…なかなか厳しい数字だな」

「約束の存在基盤すら、なくなってしまう」

感情という海の中で誰をもつなぎ止めておくことはできない。だから約束という碇を降ろす。それなのに、引き上げようと鎖をたぐったその先が鉄錆に浸食されて碇がちぎれていたなら。いつのまにか大洋のただ中に流されていたなら――その想像は、恐怖だ。

「だけど一方で分かっていたんです。これが自分にしか『約束』と認識されていないことは。そして、知ってもいたんです。約束は、守られる期待をするべきものではなく、結果として守った状態に『する』ものであることも」

私はそれを知っていた。そう言って菊は遠い海を見る目をした。

「だから、『今年の花見』をしました。最初からアルフレッドさんがどう思っているかは考慮の外ですから、無理矢理口実をつけてお呼びだてして。不機嫌も覚悟の上だったのですが、許容してくださいました」
花弁がひとひら、俺たちの間を斜め上から下へと横切った。


「――少し遅れはしましたが、約束は、守られた、んです」

「…菊」

なんですか、と目で問う菊の顔には悲壮な覚悟がある。片思いの覚悟。熱エネルギーは等価交換なのだから、暖かさを与え続ける菊の体熱は奪われ続ける。その覚悟。

そんな無理を言い張ってまで、続けるのか、その恋を。

どうして本当に―――俺じゃだめなんだ。

俺なら、約束は守る。
そう言えば、隣人なら失笑するだろう。菊とこの公共放送でさえ世界史講座で俺の黒歴史を非難していた。

だけど、菊なら頷いてくれるはずだ。なあ、俺はお前にはずっと誠実だった。
ただの友人と思っていてさえお前も俺に誠実だった。

信頼が欲しいならここにあるのに。愛なら、もっと。

どうしてこんな風にベクトルは向きを違えてしまうのだろう。

 

 

桜の枝を揺らす風の音は泣けとばかりに響いた。

 

 

 

「津軽海峡・冬景色」が歌われた1977年、領海法が制定され、それまでの3海里から12海里へと領域が広まった。しかし、核搭載米艦の通行のため、津軽海峡始め5海峡は3海里のままの特定海域とされている。「核兵器を持ち込ませない」という約束は「守られている」。



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