※ご注意
 	     アサ→菊→アル、薄っ暗く救われない感じです。本田さんが辛口。アル出てきません。
 	       
 	       
 	      「私が、貴方の教育で唯一残念に思うのは」
 	      菊は掌を被せたグラスを振った。手の影になって見えない球形の氷はことんと重い音を響かせる。
 	        造山帯が海に突き出て形成されているような地形だから、日本は大体どこでも夜景が楽しめる。その中でも五本の指に数えられるというこの街は、日本一の高層ビルから見下ろせば遠く京葉工業地域まで続く光の帯に見える。
 	        地震大国のこの国でよくもこれだけの高さを望もうと思ったものだ。案内された際に入り口でそう言えば、耐震性高層建築の未来を作ろうと思ったのです、と菊は常になく誇らしげな表情を見せた。
 	      菊とは時々こうして旧交を温める。同盟を組み、別れ、敵対し、また同じ「側」になった。冷戦、雪解け、そしておのおのの経済危機に、対テロ闘争。弟の絶大な軍事力の傘の下、菊とは気のおけない間柄でいられる。酒の肴もたいていはそのAKYな弟のことだ。
 	      「貴方の三枚舌を伝授しなかったことですね」
 	      少々、気を置かなさすぎる発言も、飛び出すようになった。もっとも、それくらいの「刺し合い」は欧州なら日常茶飯事、可愛らしいものだ。
 	      「んなことできるか」
 	        「そうですよね、貴方は彼の前では実に模範的なお兄さんでしたものね」
 	        「見てきたように言うもんだな」
 	        「見てはいませんけど、風説書で聞いてはいましたよ。いいんです、誰も好きこのんで自分の汚いところを好きな人に見せようとは思いません」
 	        「好き、とか言うな」
 	        あいつは弟で、それ以上の感情はない。あるのは――菊の方だろう?
 	        「まさか、私があの人を?――そんなこと」
 	        そんなこと、どうなんだ、最後まで言ってみろ。ウィスキーと一緒にその言葉を飲み込む。
 	      「ねえ、アーサーさん。貴方に、付き合っている人がいるとします。――現実はどうでもいいんです、仮定の話を進めさせてください。貴方はその人を大切に思っている。だけど、何か、一瞬の気の迷いで――ああ、そうですね、お酒に飲まれて、でもいい」
 	        菊はからりとグラスを振る。
 	        「誰かと――私でもいいですよ、私と、間違いをおかしたとする。貴方は少し動揺する。――してください?」
 	        くすり。
 	        「恋人を切り捨てる気は全くない。だけど、私とのことを気の迷いとして切り捨てるほど貴方は冷酷でもない……として」
 	        からん。
 	        頬にかかった髪をかき上げる。
 	        「誠実であるために、恋人に私とのことを告白したりなんかします?」
 	        「――するわけないだろう」
 	        「で、しょう!?」
 	        少々酔いの回った菊は手を肩に伸ばしてくる。とん、と船頭が竿で岩を突くように押して。
 	        「正直と誠実は全然違う。そんなの、大人の常識じゃないですか。――どうしてそれを教えておいてくれなかったんです」
 	        「浮気、されたのか?」
 	        菊はきょとんとした目で瞬いた。
 	        「誰に――って、アルフレッドさんにですか?……まさか。そもそも、浮気って、本命だけが使える言葉でしょう」
 	        「そうか?言葉の定義は知らないが、裏切られていると思う気持ちは本命だろうがそうでなかろうが同じだと思うが」
 	        ふふ、と菊は薄く笑った。
 	        「色恋の話ではないのですが――そういえば、貴方が本妻で私が愛人と、世間では言われているようですね」
 	        「やめろってば」
 	        本気で眉をしかめると、すみません、と眉根を撫でてくる。酔った指先はほの赤く染まり、体温を伝える。
 	        指はやがてはなれ、右手と組まれて菊の顎を支えた。
 	      「……だまし続けてくれれば、それでいいのに」
            「騙されて、それでいいのか」
            「だって、知ってますから。全部嘘だってことくらい。分かった上で、だけど信じているふりをしているだけなんです」
            「あいつは何て言ってるんだ」
            「しないよ、って。もちろん、って。なのに、――首筋から、匂いがする」
            「ち」
            詰めが甘いんだよ、あいつはいつも。
            いつも大きく腕を拡げて、明るく笑って。その拡げた指の間から抜け落ちるものなど些末事だと、体の大きさにものを言わせて笑い飛ばす。
          そのこぼれ落ちたもののなかに、俺や菊の痛みがあるのを分かっているのか、いないのか。
 	      組んだ手の甲に頬を預け、目を覆うようにかぶさっている髪をもそのままに、菊はささやく。
 	      「ねえ、アーサーさん」
 	        「なんだ」
 	        「なんであの人には貴方ほどの狡さがないんです。なんで、貴方の鉄面皮がないんです」
 	        「ひでえ言われ様だな」
 	        「なんで貴方のように大人じゃないんです」
 	        「子供だからな、あいつは」
 	                  「なんで―――貴方じゃないんです」
 	                  俺が聞きてえよ。手に取ったグラスの氷は既に溶け始め、琥珀色を薄くしている。
 	                  「貴方なら、騙し通してくれるのに」
            「ああ、ちらとも疑わせず、全身全霊愛されていると心の底から信じさせてやるさ」
 	      ね。と菊は泣きそうな顔で笑う。
 	                  お前だって大人じゃない、信じさせることができるのは、真実、全身全霊愛するからだと、どうして読み解けない。
            目がくらんでいるからだ。否定し続けるその恋に。
 	      「私はあの人にとって都合のいい者に過ぎないのに、どうして、私はあの人をこんなに信じたがっているんです」
 	      だから、俺が聞きてえっつうのに。
 	       
 	      菊が見やる眼下の光は、横浜から横須賀へ、そして太平洋へと続いていく。
 	       
 	      つらい恋をしている。そのことばだけを、世界で二人きり分かち合う。