※ご注意
「私の、普通。」のあと。←を先にお読みください。
仲良し指数85くらいの「アル→←菊」、アルは色々分かってない感じ。
いつもはどれだけ拝み倒しても一緒に寝てくれることがない菊が、ザシキに布団を二組敷き始めたので、わーい、と心の中で叫んだ(残念ながら、実際に快哉を挙げるほどの元気はない)。ら、それを背中の目で見たかのように菊はくるりと振り返った。
「相互扶助です。私も貴方も不調なのですから、どちらかの不慮の事態にすぐ対処できるように、そばにいましょう」
「うん、わかった。君が魘されていたら助けてあげればいいんだね?」
「……ええ、お願いします」
苦笑を絵に描いたような顔で菊は笑った。看護のつもりで隣に寝るというのに、とそこに書いてある。分かっている、具合の悪さは全然『お互い様』じゃない。菊だって咳をしているけど、俺は頭を上げておくのも辛い。炬燵に埋もれるふりをして頭を天板に預けている。だから、枕元に用意してくれている替えの寝間着や新しいタオル、そして水差しは俺が使う可能性が高い。お互いそれを分かっているのに「お互いに」と言う菊は、その思いやりを俺が受けやすいようにしてくれている。
交渉なり会話なりの技術にはグローバルなものもあるけれどもそれぞれ得意なやり方もある。同じことが言い方次第・相手次第で、喜んで引き受けられたり拒絶されたりする。たとえば、菊には強く出た方が要求が通りやすいことが分かっていたから、最初の出会いから「テンション高め」を心がけている。菊は逆らしい。「助けてください」というのは俺にとって、かなり言いにくい言葉で、言われると嬉しい言葉。そのことを菊は分かっているのだと、最近気づいた。
菊の感覚とか、やり方とか、ものいいとかとは、俺のそれと違いがありすぎて、よく分からない。
たとえば、「やさしい人ね」という日本語は、だから素敵ね、を意味しないらしい。
俺が「菊はやさしいなあ」と言う度に、彼は表情を固まらせる。「どうしてだい、本気で言っているのに」と主張すれば、「ええ本気なんでしょうね」とつぶやかれる。どうやらここでいう「やさしい」は「甘い」と同義のようだ。そんな意味で言っていないのにと思うのが半分、しかし残りの半分で、その「やさしさ」を最初から計算に入れて行動している自分にも気づく。
だけど今日のはちょっと違った。分かってくれなくてもよかったんだ。ただ「やさしく」相手してくれれば。分かってると、言ってくれなくて、よかったのに。
「お休みなさい」
加湿器の明かりだけをのこして、菊はかちかちと電灯を消した。
しばらく柔らかい羊型の湯たんぽを腹の上で抱いていたが、菊の寝息が聞こえてきた頃に侵入を開始する。
ずりずりと這うようにして体を動かして、菊の布団に足先が入ったところでいつから起きていたのか、菊と目があった。
「……何してるんです」
「………粘菌のまね」
「はい?」
あっけにとられている、その隙に体を割り込ませた。
「ぺた」
手のひらを胸にくっつける。
「なんですか」
「ぺたぺた」
そのまま手を肩に回す。
「ちょっと」
「粘菌だから」
くっつくんだろ、と、額を寄せると、ぐっと顔をそらされた。
「何考えてるんですか、さっき言ったでしょう、私も貴方も不調なんですから、安静にしないと」
「うん、何もしない。脇腹くすぐったりプロレス技かけたりしないから」
「……」
深々としたため息が聞こえてきた。
「深夜に人の布団に忍び込んできて、言うにことかいて、プロレス技ですか…」
「だって、安静に、って言ったじゃないか」
「いえ、もういいです。貴方がそういう意味で私のこと好きじゃないのは分かってますから」
「何言ってんだ、大好きだぞ」
「ええ、それも分かってます」
「矛盾してるぞ!」
「うるさくしない」
夜中です。しー。菊は没論理的に抗議を封殺した。
「静かにするよ。動いたりもしない。だから、このままくっついていてもいいだろ?」
「重いんですよ貴方」
「じゃあ俺が下になればいい?」
腕を腹に回していたのを引いて、代わりに菊の首の下に腕を通す。足ものせていたのを戻して、菊の膝の下に割り込ませた。
「……そもそも、なんでくっつかないといけないんですか。風邪引いてるんですから楽な姿勢で寝た方がいいんじゃないですか」
「さっきさ、粘菌が不安を食べるって言ってただろ」
夕食の前の会話だ。唐突に話が変わることには、お互い慣れている。ぱち、と瞬きを一つして、菊は続けた。
「……漫画の、ですね。ええ、そういう設定になってます。『不安』を食べるんじゃなくて、お互いを食べ合うことでお互いの『不安』を消化する、ということなんですが」
「じゃあ、菊を食べちゃえばいいのかな」
ぎぎぎ、と体を離そうとする圧力がまた働いたので、あわてて捕まえる。
「比喩だよ」
「比喩的にまずいんですよ!」
「そうかい?」
「だいたい貴方、話聞いてましたか、食べる、じゃないんです、食べられもする、なんです」
「菊に?」
「なんで相手が私なんですか!」
変なことを言う。
「他に誰もいないじゃないか」
また菊はため息。
「…ええ、そうですね、今ここには二人しかいませんもんね」
「そうじゃなくて、そういうこと想像できるやつ他にいないぞ」
菊はしばらく黙って、「わけが分かりません」とつぶやいた。うん。言っておいてなんだけど、人に論理的に説明できる感情じゃない。いつもの自分らしくないことはよく分かっている。
「………たぶん気の迷いなんだろうけど………菊にたべられてみたい気分なんだ」
夜目にもはっきり分かるほど菊はヒいて、一瞬ののち、またため息をついた。
「……比喩でしたね」
最初から比喩だ。というか、漫画の、つまりは架空の話だ。
食べて食べられて、不安も孤独感も消えるほどとろとろに溶け合って。お互いの自我は残りつつ、だけどもう二人を隔てる線のない状態。
菌じゃない俺たちが文字通りそうすることはできない、そのはずだ。
「だってどうすればいいか分からないじゃないか。指を食べて貰うわけにもいかないし。テキサスかけてみる?」
「……いりません。ハワイさんなら養子に貰う準備ありますよ」
「あげないよ、楽園なのに」
寒いとこなら、と言いかけて、やめる。極寒の島アッツを巡って刀を交えた思い出はまだ冗談にできない。かの島に来た彼の同胞は全員死んだのだ。
普通には、食い合うとはそういうことだ。それは勝ち負けであり、残るのは傷と恨みだ。だから、なんとなく憧れる「溶け合い」を現実にしようとしても、一体なにをどうすればいいか分からない。
「…私は何となく想像がつきますけどね。長く生きてますから」
環東シナ海世界は特に初期、関に分断された日本列島内部よりも密接な結びつきをもっていて、常時王や任の暖かみを手に受けていたのだと。懐かしそうに菊が言うものだから、少しむっとして突き放したように言ってしまう。
「俺には、輪郭線はいつも明確だったよ。この線までが俺。その向こうは人のもの、またはまだ人のものになっていないもの」
菊は微笑んだ。たぶん何か思ったんだ、けども言わない。俺に伝わるのは、何かを言わなかったということだけ。
菊は、大事なことほど、言わない。
「言いおほせて何かある」と言った人がいるのですよ、と菊は言った。全部を言うのではなく、核心をつく。それが世界最短の詩型の要諦なのだと。言い尽くさずして表現された世界を理解するためには、共通の土台がいる。例の蝉の声の句にしても、そもそも蝉の声を騒音としか感じ得ない俺たちにはその感覚が今ひとつ掴めない。
「古いよね」と皮肉でいうと「大人なんだよ」と返すフランシスや、時にはアーサーでさえも、「それくらい言われなくても分かるだろう」という態度を見せることがある。そんな彼らも、世界会議の場においては、主張は主張、言葉にして示すのだ。感覚が違うもの同士が作る場なのだからそのルールは当然でしかも重要だと思う。そして、言われたことを尊重するのが現代社会のルール、それを裏返せば、言われていないことを忖度すべきではない。黙秘されている時にそれを推定して行動するのは国際社会の原則に背くのだ。
菊は自分の感情を言葉にしない。だから、「菊は言わない」という事実は知っているけれども、それ以外の事実は知らない、というより、それ以外の事実…たとえばなにがしかの感情がそこにある、とは俺には読めない。感情を読まれたくないんだろう、という、あまり面白くない想像以上にそこを推測する気も、その能力も持たない俺は、表に現れたものとしての菊の「やさしさ」しか知らない。
それでかまわないと思ってきた。
ずっとそれで上手くやってきたんだから。
それなのに……まるで言葉も要らないようにして菊の手のひらが伝えてきた「分かっていますよ」のメッセージは、目の裏を攻撃した。菊が台所に消えたことに安堵しながら、「かゆいんだ」と自分に言い訳して何度も目をこすった。こんな気持ちは、全部、菊のせいだ。
分かってくれなくて、よかったのに。
もう一度あの電流が走るような溶け合いを感じたいなんて、思わせてくれなくてよかったのに。
菊のことを分かりたい、菊に分かって欲しいなんて気持ちが心の奥底にあることなんて、いつものようにそっと見逃してくれればよかったんだ。
どうすればいいのか分からないのに、渇望だけが心に充満して、耐えきれずに抱きしめた。
うぎゅう、といううめき声に続いて、胸の中から「人の気も知らないで」という呟き声が聞こえてきた。
ねえ、だったら、それを教えてよ、菊。
肌から肌に、それを伝えて。