「それは事実誤認だと思うけど」
どうして怒らないんだ怒ってみろなんて言われたんですよ、と茶飲み話ついでに菊がもらした言葉に、炬燵に額を載せていたアルフレッドは唇をとがらせた。
「フィギュア壊した、とかやってないんだろ、彼ら」
「普通、しません」
隣の辺に端座する菊は緑茶をすする。その口調、恨みがましくはないが、含むところはある。
軽く回ると思った腕が「バキ」と言った瞬間、固まった俺の横で菊が「痛っっ!」とわめいた。ついこの前のことだ。
「……だって関節くらい動くと思うじゃないか、君が作ったんなら」
「そういうのも勿論ありますけど、そうでないものもあるんです。ディスプレイ型にもモーターライズ型にもそれぞれのプロがいるんです」
プロって。まあ確かにプロなんだろうけど。国によっては成り立たない職業だ。
「なんっていうか、すっごいどうでもいいところに技術力を傾注するよね、君」
しみじみとつぶやいたアルフレッドを横目でちらりと見やって、菊は急須にお湯をつぎだした。
「いいんです、やりたいことをやって喜ばれてそれが仕事にもなるなんて、幸せじゃないですか」
「まあそうなんだけどさ」
そういえば喉が渇いたな、と顔を起こす。炬燵に入ると入りっきりのアルフレッドのために、菊が倉庫から出してきたお座敷ポットワゴンにはインスタントコーヒーもティーパックも用意されている。インスタントの抹茶ミルクスティックをマグカップに入れてお湯を注ぐと、それを見ていた菊は大きく息をついた。
「ネタじゃない、まじめな商品なんですもんね、それ…」
「なんでだい?甘くて美味しいぞ、これ」
「ええまあ、抹茶アイスの延長と考えれば受け入れられなくもないんですが」
お茶が甘いなんて…と首を振って緑茶をすする。
「西洋の方がそうして味わってらっしゃると聞いた時には驚きましたねえ。カルチャーショックと言いましょうか」
「それ。」
アルフレッドが人差し指をつきつけると、菊はきょとんとした。
「どれでしょう」
「『ありなし』じゃなくて、『違い』なんだ。菊は、怒らないんじゃなくて、怒るポイントが他と違うんだよね」
「そうでしょうか?」
至って普通ですけど、と小首を傾げる。
その穏やかな反応自体、普通じゃない。こればっかりは素直に頭を垂れるが、今だって彼には俺に怒鳴りつける権利がある。わざとではなかったし、実際俺自身が何より大変だけど、このNY発悪性感冒には彼だって辛い思いをしているはず、衛星放送で見た『トシコシ』関連ニュースでも厳しい表情が目立っていた。
「帰れ」くらい言われるかもしれないと思いながら家を訪ねたけど、「おや、いらっしゃい」との普段通りの反応に甘え、だらだらと炬燵で暖をとっている。窓の外は寒い。
「たとえばさ、イグノーベル賞の日本人受賞者って、怒らないよね」
「はあ、まあ、そうですね…?」
むしろ関連ニュースはワイドショーの格好のネタですねえ、と菊はつぶやく。
「嗤われた、という受賞より、笑わせた、という受賞の方が多いからでしょうか」
「俺の上司とかその友達は絶対授賞式でないけどな」
「ああ、例の『恋に落とす』…」
思い出した!といういい笑顔を見せた菊は空気を読んで語尾を緑茶に溶かした。
そう、あの研究も平和賞を受賞している。効果のなさについては、あのとき菊の前で自分を撃ってみて変わらなかったことで実証済みだ。あんなものに750万ドルの予算計上なんて、ほんとにもう……俺が言うのは変というか本末転倒というか、とにかく言わないけど、「バカばっか!」という台詞が頭をよぎる。
「日本人受賞者でも全員が歓迎している訳ではないと思いますよ?牛糞からバニラの香り成分を抽出した研究者は授賞式を楽しんでいるようでしたけど。去年の粘菌パズルは菌の世界では有名な話で、まじめな研究なんですが…」
言っていいのかどうか、と目をうろつかせたので促してやる。話が飛ぶのなんて平気、慣れてる。
「あれって、漫画『ナウシカ』の粘菌話を彷彿とさせるものでなんともこう…!」
拳を固めた菊は、怒濤の勢いで、その「不安や寂しさを宥めるために互いを取り込み合う粘菌」の話を始めた。「にゅーっと下から来るわけですよ、飛行船を飲み込もうとしてる、普通にはそうとしか見えないんですが、ナウシカは違うんです」。熱く語られるけど、
読んでいない漫画だから、そこだけ言われても前後のつながりがさっぱり見えない。
「彼女は聞いてしまうわけですよ、人工の命にさえも、その叫びを…!」
「あー」
際限なくオタク話が続きそうだったので、話を強引に変える。
「そういうのもあったね、日本人の受賞に」
顔の横で振っていた拳を止めて、菊はしばし考えた。
「バウリンガルのことですか。…そういえば、それが受賞したことでイグノーベル賞は日本で知られるようになった気がします」
犬の吠え声を音声分析し、いくつかの感情パターンとして表現した電子機器だ。もちろんバイリンガルにかけてある。
「種のあいだの平和と調和を促進したことに対して、だっけ?君、ぽち君との調和はしなくていいのかい?」
つけてないじゃないかと皮肉半分に聞くと、ふふん、と胸をはった。
「これだけ長く一緒にいれば、ぽち君の気持ちくらい分かります」
「じゃああの機械、要らないじゃないか」
菊は一瞬黙って、それから小さく笑った。
「人間、には、そこまでの時間は用意されてないものですから」
アルフレッドは少し冷めた抹茶ミルクを啜った。
動物との言語コミュニケーションは人を引きつけてやまない課題で、アルフレッドのところでもイルカやオウムでの研究が行われている。その一方、大多数の国民にとって「ヒト」と「ケモノ」の間の線は――少なくとも「知性ある生き物」と「それ以外」の線は――越えられないものとしてある。
菊は昆虫にさらっと敬語を使ったり、排ガスにまみれた街路樹の葉を手にとって「苦しいんですね」と言ったりする。
鳴く動物、表情のある動物なら、まだ分かるけど。
変だよ、と言うと「普通ですよ」といなされる。
「そういえば、『貝リンガル』というのもあるんですよ」
「貝?って、あの、食べる貝?」
「ええ、まあ、それにも応用できるでしょうけど、真珠養殖用のアコヤ貝ですね。92年のヘテロカプサ赤潮大発生をうけて、メーカーと大学と研究所が共同開発したんです」
20年近く前、養殖真珠の一大産地が大規模な海水汚染にみまわれて、壊滅的な被害を受けたのだという。
原理はバウリンガルと同じようなものだ。違うのは、貝は吠えないところ。二枚貝にセンサーをつけ、開閉運動の記録をとる。水質悪化の原因によって開閉の波形はことなることから、それを言葉に置き換えて地上のパソコンに送るのだという。
「水質悪化が人の目では分からない初期段階から、『助けて』と言ってもらえるようになったんです」
「…へえ」
自国民に準じ、貝を「自分たち」の線引きの中に入れていないアルフレッドはとりあえずそう返した。そんな系統樹的に遠い存在とコミュニケートしようと思うものかなあ?
首を傾げたアルフレッドのほおを、菊はのばした両手で挟んだ。まるで二枚貝のように。
「言葉にできない苦しさも、ありますよね」
「……っ」
言葉を失ったアルフレッドをよそに、菊はすっと体を離して、「今日は冷えるので鍋にしましょう」と台所に向かった。