さあ、ともに修羅の途を


 

※ご注意
アサ菊またはアサ→菊←王またはアサアルまたはアサ王。アーサーさんがひどい人のようなかわいそうなような。
舞台設定としては日英通商航海条約・日清戦争の数年前。19世紀の歴史に触れます。割と黒いです。


 

 

 

 

 

 

「あへん」
振り向かずとも、この名で自分を呼ぶ者など一人しかいない。あの戦争から50年。このまま一生この男は俺をその名で呼ぶだろう。卑怯者、と。
銀行支店を作るために訪ねていた上海共同租界。顔を合わせれば嫌みの一つも言われるだろうと覚悟はしつつ、しかし宮廷内部のごたごたに振り回されている王と会わないまま帰れるかと期待もしていたのだが。
ため息をついて体半分だけ王に向き直ると、背の低さをものともせず顎をあげた王に見下す目線をくらわされた。
「なんだ」
「菊に近寄んじゃねーある」

はっ、とアーサーは鼻で笑った。
「アジアに手を出すなってか。お生憎様だな、もう時代は後戻りしない。海でつながっている以上、どこもかしこも草刈り場だ、弱ければな」
「お前らだけの価値観で世界を見んなある。そういう食い合いが実りを持たないことくらい我は三千年前から知っている」
「カビの生えた歴史なんか知らねえな。お前がこの地域の盟主でいられた時代はもうとっくに終わってんだよ。安南国のように、ぽろぽろとお前の手から零れていく」
王はきゅっと口を引き結んだ。
機を見るに敏なフランシスは弱体化した王をはねつけ、仏領インドシナ連邦を作り上げた。王に朝貢し保護される東アジア体制はもう存在しないも同然だ。

「お前の可愛い菊もフランシスの味方をして参戦する気になってたらしいじゃないか。いい加減現実を見た方がいいぜ」
保護意識など捨てろと囁けば、意外にも、今度は王が笑った。
「――あれは、最初からそういう奴ある」
「ほう」
「菊が食われる心配をしてるわけじゃねーある。肉の薄い菊を食い殺すより杭州の方がうまみがあるくらいにはお前は計算してる筈。そうでなくて、あの暴走体質の菊を手懐けてアジアを混乱させんなと言ってるあるよ」
「なるほど?」

アーサーはにやりと笑った。
なんて複雑な牽制だ。
杭州云々は、いわゆる擬傷か。母鳥が巣から外敵を引き離そうと弱ったふりをするように、市場として価値の高い揚子江沿岸部をちらつかせ、一方菊をわざと貶めて目をそらそうと言うわけだ。

実際、日本の政策と国民性はこれまでの植民地型経済を狙うのに向いていないとアーサーは思い始めていた。
インドのような広大な耕地もマレー地域のような鉱産資源も持たない菊から、やらずぶったくりで銀を吸い上げるより、対等な相手と見なしてwin-win関係を築いていった方が得るものが多いかもしれない。あの国には法の概念さえないと嗤っていた上司もいたが、やっと菊は憲法も議会もこしらえた。菊はアジアの最先端を走る自負を持っている。
野蛮人か下流階級のものかと思っていた色のついた肌、悪魔のものと言われる真っ黒い瞳。それなのに、あの目でじっと見られ、控えめに微笑まれる時、アーサーは曰く言い難い高揚を感じていた。
いつか手を組めるかもしれない、アーサーはそう思っている。もしかしたら――その手を取り、甲に口づける日も来るかもしれない。

既に菊は中華体制の切り崩しに入っている。朝鮮政局への介入はつまり東アジアにおけるヘゲモニー争いなのだ。「近代化」という宝玉の魅力で王から自分へと磁場を変えさせようとしている。百鬼夜行の欧州から見れば余りにも拙い政治的暗躍と必然的な惨敗はアーサーとしても失笑せざるを得ないけれども、菊が目指しているものが何かは理解できる――しかも、それは多分自分の世界戦略に有利に働く。
菊の心配ではないといいながら、そして実際王の権威権益の問題であるけれども、結局王は変わりたくない、兄弟の関係を手放せないでいるだけじゃないかと可笑しくなってアーサーはうっかり隙を見せた。

「弟に裏切られるのが怖い訳か」

王はばっさりと言った。
「お前と一緒にすんなある」

「…」

二秒後、アーサーは顔の氷結を解いて、ゆっくりと口角をつりあげた。
なるほど。それを口に出すのなら、俺も本気で剣を抜こう。

「俺の見るところ、もうお前は菊の視界に存在しないがな」
「……お前を見ているとでも言うつもりあるか?」
まさか、と、王は鼻で笑った。
何を根拠に笑い飛ばすのか。菊の目が欧米に向いているのは事実、そうであるならパックスブリタニカと呼ばれるこの時代、どんな国でも第一に意識するのは大英帝国だろう。

――アーサーさん。
少し低めの、落ち着いた声で呼びかける声。
――貴方の隣に並べる存在になりたいのです。
その真剣な響きに嘘は無かった。

「菊の『脱亜』論を、そのまま素直に受け取ったあるか」
「…違うとでも?」
「本気で捨てられるもののことは気にもならない。最初から口にしないあるよ」
むっとした。
菊が自分を裏切るはずはないという絶対の自信。菊の乏しい軍備と予算を見切り、戦略的にも今のタイミングでの離反などできるわけがないと見て取って、しかし万が一の可能性を潰そうと、アーサーに牽制を掛けているつもりなのだ。

「ずいぶんな自信だな。お前が言ったんだぜ?菊は最初からお前に冷淡だった、と。千五百年ずっと仲良しこよしで来たわけでもねえだろ」
王は何かを振り払うように首を振った。
「もちろん、あのくそ生意気な菊は我のいうことを素直に聞くばっかりではなかったある。だが、あの子が我を忘れることは絶対にない。あの国号を名乗る限り」

国号?

何のことかと返答が遅れたその隙に、王は身を翻して上海の靄の先に消えていった。

 

特に予定があった訳ではないのだが、アーサーはそのまま足を伸ばして菊を訪ねた。
驚いたらしい菊はそれでもアーサー来訪時にはいつもそうするように、国家随一の西洋料理店である精養軒へと案内した。家に招かれるほど親しくはないし、こうして西洋文化を受容しつつあることを必死にアピールする姿はいじらしいとアーサーはそれを納得している。王は菊の家に入ったことがあるだろうかとちらりと思い、それを打ち消す。千年以上のつきあいなのだ。それが過去にあったからといってなんだろう。歴史は一本の線でしかない。前にしか進まないものなのだ。
菊も付き合うというので、夕食をとりながら近況報告を兼ねて政治談義をする。やはりこうして話してみれば、王の自信は砂上の楼閣に思えてくる。菊は俺たちの仲間入りをしたがっている。

「ところで、お前の国号は、どういう意味なんだ?」
「は?『日本』ということばの意味でしょうか」
「ああ」
「そのままですよ。日のもと、日が出るところという意味です」
「なんでそういう名前にしたんだ?」
「に………王さんが、ずっと私を呼ぶのに嫌な漢字を当てていて。矮小とかそういう意味のですね。それが嫌で嫌で、あるとき上司が『日出づる処』と自称し――返す刀で王さんを『日没する処』と呼んだもので、大変に怒らせてしまったんですが――それを何代か後の上司が使って、これからは『日本』と呼んでください、とお願いしたんです」

アーサーは危うくナイフを取り落とすところだった。

なんだ、それは。

「……お前が、その名前を選択したのか。これからもそれを名乗るんだな?」

菊は質問の意図が分からない、というようにわずかに髪を揺らした。
「ええ。怒らせた、と言いましたが、それも覚悟の上だったんです。私は、他の周辺諸国とは違う一個の帝国であると言い切るための改称要請だったのですから」

気づいて―――ないのか。

アーサーはカトラリーをおいてワインを手に取った。その紅い液体を喉に流し込むと、冷えていた体幹を炎が焦がしながら落ちていくのが分かった。

 

日が出る処、それは誰から見て――?

地理上、それは絶対にアーサーでもアルフレッドでもない、のみならず、日本自身でもないのだ。「日の出るねもと」はそれを見る者の足下ではありえない。つまり。自分を「日の出るねもと」と呼ぶ菊は、自分を西から見る存在を、最初から前提しているのだ。


菊の名の中に、名前という存在の根幹そのものに、王の視線が刻まれている。

 

アーサーは体の中で嵐が吹き荒れるのを感じた。
憎い。そのように思われる王が憎い。自信に満ちた王が憎い。…悔しい。苦しい。このままにしてはおけない。

なるほど、それは、自信もつくだろう。いくら口で脱亜を唱えようとも脱しきれるわけがないと思うに違いない。そして実際、周辺諸国とは違うと言いながら他国と同様朝貢という形式を何度も採ってきた菊は、心の奥底で長幼の意識を捨て切れていない。

捨てない。このままでは。

近代は論理学が支配する世界だ。慣性の法則は教える。
静止している質点は、力を加えられない限り、静止を続ける。

であるなら。

小さな力が運動に変わるとも『プリンキピア』は言うのだから。

 

「アーサーさん?」
「……話はまた変わるが……、立憲体制にも慣れてきたな?」
「はい…?」
唐突な話題転換に菊は目をぱちぱちとさせた。
「法体系が整備されてきたから、例の件、そろそろ上司たちも了解するかもしれない」
菊は息をのんだ。
開国以来の菊の悲願、条約改正。何度も交渉がなされ、5年ほど前の海難事故で大きく世論も盛り上がったが、それでもここまでなされなかった治外法権の撤廃。
「まだ約束はできねえぞ。だけど――イヴァンのこともあるし、お前の動き方次第では、俺は、お前につく」
菊がナイフを握る手に力を込めたのが分かった。
緊張する朝鮮半島情勢。
何かのきっかけで起こるかもしれない火花を、炎に育てるためには、後顧の憂いをのぞくことだ。
大丈夫だ、王の側には回らない――― そう安心させてやれば、きっと菊は王を斬る。俺の小さな頷きだけで。

切り捨てろ。

「もう兄弟ではない」と宣言しろ。

ナイフをおき右手をテーブルの向こうへとさしのべて、聞く。

「菊、屍を踏み越えて進む覚悟はあるか」
俺の隣とは、「一等国」とは、羅刹の世界だ。足の下に感じる肉体の柔らかさに怯むようでは前が開けない。

菊はきりと唇を結び、頷いた。さっとのばされた手は、しかし動揺を隠し切れていない。力を込めて握れば、ようやくしっかりと握りかえしてきた。

 

ようこそ、憎悪と謀略と食い合いの世界へ。

可愛い菊。可哀想な菊。お前には愛しあい護りあう途だってあったのに。

 

 

そして王―――冷たい雨にうたれて、お前も一人、その傷を抱きしめるがいい。


 


やさしいいまを、未来を、過去を」に続くような続かないような。

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