やさしいいまを、未来を、過去を

 

※ご注意
アサ菊(+仲良し亜細亜兄弟)。クスリネタというか記憶喪失ネタというか。描写はありませんが性的関係前提。
わずかですが史実記述あり。


 

 

小さな瓶に、丸薬が二つほど。
そんなものがベッドサイドに置いてあれば気になるのは当然。
手を伸ばすと薬は瓶にぶつかって小さな音をたてた。寒気にさらした裸の腕が震えたのですぐに布団の中に戻る。
「どうしたんだ、これ」
「……ああ、それ……にぃ……」
微睡んでいたらしい菊はぼんやりとした口調で話し始め、しばらく黙って、今度はしっかりした声で言葉を継いだ。
「王さんがくれたんです。アーサーさんとおつきあいすることになったとご報告したら」
「え」
なぜそれを報告するんだ、という疑問と、なぜ報告したら変な薬を寄越すんだという疑問がアーサーの胸に渦巻く。
それを察したのか、菊はふわっと笑って、その腕を胸にのせた。首の下に腕を差し込めば素直に頭の重みを預けてくる。
「言わないでいて後でばれる方がやっかいですから。話を通しておけば見守って下さる方ですよ」
とてもそうとは思えないが、王と菊の関係の話だから口を挟むことはできない。しかし、そうなのか。王は、あの過保護で過干渉な亜細亜の大老は知ってしまったのか。彼が過剰な愛情を注ぐ末弟が――そして「兄ではない」などと言っている菊の方も心の奥で兄と慕っているのだ――150年以上恨んでいる男、つまり俺と、また、付き合いだしたということを。
ますます瓶の中身が怖い。
「…王はなんて言ってたんだ?」
「しばらく絶句されてしまいました」
菊は微苦笑した。
「――実は、困ったら盛れ、と別の薬も頂いたのですが――」
「困ったら、とは?」
「その、私が疲れすぎるようだったら、ということらしくて――多分、お飲みにならない方がよいかと思います。漢方を侮ってはいけません」
最初ぽかんと口をあけて聞いていたが、意味が分かってぎゅっと閉じた。それは、飲めない。間違いなく精巣が死滅する。
「こちらは、私に、と。中身がよく分からないのです。ここに置いてあるのは、昨日、寝る前になんだろうなあと考えながら見ていたからで、明日にはしまいます」
「『お前に』寄越したんなら、変なものじゃないだろうが」
「ええ」
自分で言ったことながら、当然のように頷かれて、ちょっとむかつく。
「……『食の安全』がどうとか言っていたくせに」
「まあ、あれは確かに困ったんですけど。ただ、もともとあちらでは使っていなかった農薬を使うよう指示したのはうちの商社で、そういうものを輸入したかった理由は消費者の皆様が規格品的な農産物を好むからで――単純には言えないです」
それに主食たる米の汚染は王さんところのではないですし。
淡々と菊は言ったが、アーサーの胸はざわついた。そこまでかばうか。
「それで?王はどんな時にそれを飲めと言ったんだ?」
菊はすっと手を心臓あたりにあてた。
「……『この辺が、きり、としたら』と」
「はあ?」
「日本語では状態を擬態語で表すことが多いのですが…外国の方に不評なんですよね。きりきり、とか、がんがん、とか、ずきずき、とか…全部痛みの表現なんですが」
「分かんねえ」
「ですよね」
「…」
アーサーは菊を見つめた。空気を読むことに長けていると自称しているくせにそれはなんだ、と言おうとして、同時に気づいてしまう。
気づかないほど、自然なのだ。
日本語話者ではないアーサーには分からない言葉を、同じく日本語話者ではない王が使ったことが。そんな風にお互いがお互いを知り合う状況があまりにも自然すぎて、アーサーがその結びつきに嫉妬してしまうなど思いもよらないらしい。いや、違うか。アーサーがただの兄弟仲にさえ嫉妬してしまう狭量な男だとまだ骨身にしみて分かっていないのだろう。
「それで、貰ったわけか」
心が痛むことが、この先あるだろうと思って?
やっとスキルを発動させたらしい菊が目をぱちぱちとさせた。
「あー…。別に、アーサーさんがどうということでは…」
「ないのか?」
「ええ、アーサーさんが私を傷つけるようなことをなさるとは思わないです」
信頼100%の発言に目をのぞき込んだが、その目も同じ気持ちを映していた。
「き…傷つけないと約束はできないが、離さないとは約束できる」
「ええ、ですから」
ふ、と目尻をゆるめる。
抱き込むと素直に従って髪を揺らす。

お前は分かっていない。そこは順接じゃない。「離さない、から、傷つけない」のではない。傷つけ、ても、離せない。

日本には言ったことが本当になるという思想があるという。だから言わない。本当になるからじゃない、なるのは分かっている、それに菊が気づく瞬間を少しでも未来に回したいだけだ。
髪をかき上げてやると嬉しそうに目を閉じる。可哀想な菊。もうこの腕の檻から抜け出せないことを……彼を守るものだった兄の腕とは違い、ただ彼を束縛するための檻であることを彼は分かっていない。
分かっているのは自分の妄執とその結果を知っているアーサーだけだ。
もう二度と、自分たちの手で自分たちを引きはがしたりしない。

「想像なのですが――忘れ薬なのではないかと」
菊はするりとアーサーの手から瓶を抜き取り、中身を掌にあけた。独特の匂いが鼻を突く。
「忘れ薬」
「辛い記憶を消してくれるものです。昔そういうものを服んでらっしゃいました。――お前の未来に、これが不要であればよい、と仰りながら」
悪かったな、王。お前が未だに恨み言にする麻薬を、菊はお前に求め続けることになるかもしれない。
そんなことを思ったアーサーの前で、菊はその掌をぽんと口にあてた。こくり、と喉が動く。
「おいっ――」
「飲んじゃいました」
ころん、とまた仰向けになって頭を腕にのせる。
「そ、それ、いつ頃効いてくるんだ」
「どうでしょう、うーん…ちょっと、ぼおっとしてきた、かな?」
天井を向いたまま菊はささやくように言った。
「ねえ、アーサーさん。貴方が私を縛る未来を、私は恐れたりしません。離ればなれになるくらいならいっそそれぐらい強く繋がれていたい。貴方の臆病なほどの思いやりは嬉しいですが、私の幸せを疑わないでください」
そんなことを迂闊に言うな。アーサーは枕にされている腕の拳を固めた。菊の右手がそれに重なる。さすられ、なだめられ、指を絡め取られる。力を入れて握れば、菊はちらりとこちらを見て微笑んでアーサーの手首に唇をつけた。
「貴方とこういう関係になったことを忘れるわけはありませんが、億万が一、忘れてしまったとしたら、どきどきするでしょうね。目覚めたら裸で抱き合っているなんて。だって私」
手が背中に回る。

「ずっと、貴方を好きでしたから」

アーサーは無言で菊を抱きしめた。

――効いたのか。

「ずっとか」
「ええ」
「会ってから、ずっと」
「ええ」
うっとりと顔をあげる。


「ずっと、私たち、愛し合ってましたよね」

王が念頭におき、菊が暗黙のうちに理解した「辛い記憶」。アーサーと菊が、憎み合い、傷つけ合った日々。


「かたときも離れませんでしたよね」

アーサー、では、なくなった。アジアの侵略者・白人、として睨まれた。
菊、では、なくなった。弟を欧州戦争に引き込むためのコマと見た。

いや………見ようとした。自分から離れるという菊が許せなくて、憎くて、それこそ、きりきりと、痛くて。

菊が傷つくことを分かっていた、だけじゃない。願っていた。傷つけようとした。

自分の中の妄執が容易く相手を焼く炎に変わるのだと自覚した。

 


―――そんな、記憶が。
王とアーサーの言葉が重なる。
お前の現在(いま)を苦しめるなら。


「――ああ」

 

言ったことが本当になればいい。

 

「ずっとだ」

 

菊は泣く寸前の顔を見せ、手を首に回して表情を隠した。

 


「――やさしいひとたち。」

 


菊の掌がアーサーの首の後ろで開き、何かが転がり落ちて床で小さな音をたてた。

 



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